「いつも、愚息がお世話になっております」
アウグスタは言うと、頭を下げる。淑女の礼ではない、卓に着いたままなので、略礼であった。
「……ああ。いや、こちらこそ、世話になってます」
向き合うのは柳のジーノ。ここ最近、オルトの鍛錬に付き合ってくれている冒険者もまた、頭を下げた。
「こんな陰気な男でも、お役に立てればなんのその」
「監査官殿も、誓いの儀にご協力頂き、ありがとうございます」
アウグスタは、豪快に笑う監査官にも頭を下げる。
彼女には、もうすっかり慣れてしまったことだった。愛想笑いを浮かべる事に、全く抵抗がない。
「ふおっ、ふぉう。いえいえ、奥方様のお為ならば、この程度……」
彼女は、彼の視線に居心地の悪さを感じている。
流石に、その意味がわからぬ程、鈍感ではない未亡人だった。
「ご厚意に、何もお返し出来ない事が心苦しくあります。申し訳、というものでもございませんが、監査官殿がこの地を立つ日には、心ばかりの土産をトラーパニより進ぜたいと考えておりますの」
支配欲や肉欲とも言い切れず、敬意や好意ともまた違う。けれども、露骨な執着。
「いえいえ、奥方様。拙者に、そんな期待は……」
寡婦とて、察するものだ。
「良いのですよ。監査官殿に、この街を好きになって頂けたならば、見返りは大きいのですから。打算に、ございます。幻滅、しなさったでしょう?」
舌を出し、悪戯に微笑んで魅せるアウグスタ。
若い娘さん達、フィオナやリナが見せてくれる仕草でもある。少々、はしたないとは思うものの、効果はあった。
「あいや! あいや……。その……」
若者にはよくあるもの。慕情だとか、恋心だとか。
監査官からは、そういった感情を向けられているのだと理解をしている。
ならば、当主代行が利用しない手はなかった。
「監査官殿に王都との橋渡し役となって貰えるのならば、これほど心強い話はありませんもの。良き関係を築くための、賄賂みたいなものですわ」
言葉も態度も、魅力的な提案と映る様に心掛けている。この十四年間、磨いて来た手管でもあった。
「おっほん!」
婆やが咳払いをして突いてくるも、構ってはいられない。腐っても王都の官僚。中央との関係改善に役立つかもしれないと、アウグスタは期待もしていた。
「ご承知の様に、残念ながら本日アントニは不在ですので、ご退屈かもしれませんけども」
アントニオにはシシリア島領主、辺境伯家への報告に向かって貰っている。
誓いの儀、あの日に捕らえた王都登録冒険者達の処遇を、決定するために。
「州都までだったか? ご苦労なこった」
「あの子には軽いお使いです。夕刻には戻って来ますので、それ程の苦労はありませんよ。すぐに、また出てしまいますけど」
これまでは頑なにアントニオとの同席を拒んでいた柳のジーノであるが、今日はいる。
オルトへの稽古はなかった。息子は姪を連れ、浜で行われる自警団の訓練に参加している。
「英雄殿を使い走りとは、なんとも豪気ですな!」
というよりも、直線距離ならば王都までとそう変わらないのが州都までだった。
面倒な手続きや会談やらを含めれば、日帰りで任せられるのは彼しかいない。
「嫌だねぇ、化物ってのは」
実に言葉通りの顔付きを見せる王都の冒険者であるが、アウグスタは笑みを深める。
「我が家、自慢の剣ですの」
こうやって武力の示唆をしていれば、牽制ともなった。戦わずして勝つ。その為の、理と利による統治。
「そういえば、後添い戦争も決着しておりませんな」
「はい?」
監査官の口から飛び出した胡乱な言葉に、つい首を傾げてしまうアウグスタであった。
「ペントラ卿の後妻探しを、そう呼ぶ者がおりましてな。奥方様のお耳にも、届いておらんかったか」
難航する催しの主催者としては、そんな物騒な異名となっていたのかと、苦笑を浮かべるしかない。
確かに、最初こそアントニオがご婦人方を容赦なく切って捨てることがあったものの、今では和やかな夜会となっている。
尤も、ここ数日は中断をしているのだが。
「しかし、エーリチェ男爵殿と、最後にお会いできぬのは実に残念じゃわい」
肩を落とした監査官。彼の言う通り、こうした機会も今日が最後となるだろう。
監査期限の終わる明後日、監査官は港を発つ予定となっていた。
「最終便でお帰りになられるのでしたら、帰って来ておりますよ。お見送りに、連れて行きますので」
明日、明後日は騎士達の入れ替え日に当たる。アントニオは三日続けてトラーパニには不在となった。
喜色を浮かべる男と、うんざりとした顔付きの男。
そこでふと、アウグスタは思い出す。
「そういえば、『あの方』とのご関係は、どうなされるのです? 監査官殿」
「「あー……」」
好色婦人と呼ばれる女性のことだ。
彼の左手薬指に刻まれた刻印を見ながら尋ねてみれば、男二人が息を吐く。
「それがよ、奥方様。このおっさん、情けねーことに振られてやんの」
「バカモン! 大人の関係を終わらせただけだ」
笑いを堪えきれないジーノと、怒りを抑えられない監査官。
対照的な二人に呆然としながらも、アウグスタは窓の外、海と空とを眺めた。
——ああ。
と、どこか心地よい風が、胸を吹き抜けてゆく。
海は陽光を受けて輝き、空は抜ける様に青い。
いつまでも、変わらない景色。
「それは、それは。お寂しいことでしょう」
白い雲を縫う、空を駆ける海鳥達の影が見えた。
言葉より、息が弾んでしまう理由もわからない。
群れをなし、飛び立ってゆく海鳥の姿に、彼女と似た自由な心を見たのかもしれない。
「強いお方。残念でしたわね、監査官殿。逃した魚はきっと、大きゅうござい——」
風向きが変わり、冷たい。
その瞬間、上空を舞っていた海鳥たちが散り散りとなった。
空へ、無数の黒い罅が走る。風が止んだ。
——え?
言葉を、言い切ることが出来ない。
耳に痛いほどの静寂——。
立ち上がろうとした瞬間に、足元の感覚が不確かなものとなっていた。背中に走る痛み。
覆い被さるものがある。押し倒されていた。婆やの、枯れ木の様に細い身体に。
揺れている。大きく、背中で感じるもの。
客人を見る事も出来ない。顔を上げる事が出来ないでいた。しっかりと、頭を抱えられている。
「ばぁ—–」
呼びかけたアウグスタの声は飲まれる。
地鳴りが、轟いた。
「で、でかいぞ! じ、地震かっ!? ——グェッ」
蛙の鳴き声にも似た声は、狼狽えた監査官のもの。
「おい。危ねーから、勝手に駆け出すんじゃねーよ」
叫び声に返されたのは、柳のジーノの平坦な声だった。
落ちるポプリの飾り棚。バタバタと、書棚から落ちて行く蔵書達。
割れる硝子細工や花瓶の音に、部屋の外から家人達の悲鳴が入り混じる。
「確かに、結構でけーな」
だが彼の呟きは、抑揚のない静かなものである。
そして遠く映る空は、翳りを見せていた。
けたたましく警報が鳴り響く。
同時に流れるのは、この港町では聞き慣れた言葉。
行政府による、避難勧告。警戒放送であった。
アウグスタの唇から、血の気が引いてゆく。
——海が来る。
思い至るのは、当然の予測。前回の被害から、港は復興し切れていない。まだ防波堤の復旧も、七割程度であった。
「婆やっ! 退きなさい!」
だからこそ、気が焦る。身体を捩り叱責をするも、離しては貰えない。
大地は不気味に、震えたままでいる。
「ならんっ!」
婆やに押さえつけられたまま、アウグスタはもがいた。だが、起き上がれはしない。
「ぐっ」
「離れなさい!」
椅子が婆やの背を打った。割れた茶器も、その背へと降り注ぐ。嗄れた呻き声に思わず叫んだ。
調度品の倒壊や破損に巻き込まれぬ様、婆やが身体を張って守ってくれている。
「そうはいかん。まだ、危なかけんね」
まだ、揺れは収まらない。
だが、海沿いにおいて恐るべきは、地震そのものだけではないのだ。
「お願い。港へ、行かせて」
その後にやってくる、恐るべきものも大きな脅威であった。なのに、婆やは首を振る。
浜には、港には、あの子達がいるのに。
訓練に出ているオルトとルカも、商会の事業に出ているフィオナも、彼女に着いていったリナも。
だけでなく、トラーパニの子らの多くは、常に港や海の側にあった。
大人も子供も区別なく、愛しき同胞達である。
「地震の後に、津波が来るわ」
「まだ、危なか」
強く、押さえつけられたままだ。
海辺の民に備わる経験則が、アウグスタを焦らしていた。彼女は波を治め、海を鎮める術式こそを、拠り所としている。
「地震じゃ、ねぇな」
ぽつりと漏れたジーノの呟き。
だが、それはアウグスタの耳には入らない。彼女は婆やの腕から逃れようと、身を捩っている。
揺れが、徐々に収まっていった。
「奥方様っ! ご無事ですか!?」
「怪我は、ありませんか!?」
乱暴に扉が開かれる。自室を兼ねた執務室に飛び込んで来たのは、何人もの侍女達の姿であった。
家人であり、引き取って、育ててきた孤児達が成長してなお共にある、娘達。
「っ! 奥方様! 婆や!」
慌てふためき、こちらへ突っ込んで来ようとする娘達の姿に、冷静さが戻る。
——何をしているアウグスタ。為すべき事をせず、怯えたままでいるのは、あの日に止めただろう。
己に語りかける。危機が迫るのならば、冷静に対処しなければならないものだ。
そうして生き延びて来た女は、領主代行の仮面を取り戻した。
「婆や、大義です。ですが、離しなさい。私は無事です。一人で、立てますよ」
冷たい、当主代行としての言葉に、娘達が背を伸ばす。遠くから、こちらへ向かってくる幾つもの足音も聞こえてきていた。
婆やの身体が離れてゆく。自由を取り戻したアウグスタは、己の足で立ち上がった。
「火元の確認は?」
「全て、消し落としております。確認済みです」
立ち止まる侍女達。
「怪我人はおりますか?」
「まだ、確認してはおりません」
そして、優雅な淑女の礼を見せてくれる娘達。
「ならば、急ぎなさい。軽いものならば私が診ます。もしも重傷者がいるならば、リナの帰りを待つ事になるでしょう。応急処置などは、任せましたよ」
反転する侍女達だった。指示が明確であるならば、彼女達は誤らない。
「奥方様! 婆や! 無事かっ!?」
雇いの家人達も続々と集まって来るのだが。
「邪魔です。退きなさい」
「ぶべらっ!」
体格の良い男性達でさえ、跳ね飛ばされてゆく。
オルトを吹っ飛ばすリナでさえ、容易く抑える「お姉様達」だ。頼もしくも不安にもなった。
「僭越ながら、奥方様」
よく出来た、子達の言葉。
「騎士達は、義務を果たしていますね?」
「スィ・ミア・シニョーラ」
瀟洒な侍女達も、起き上がらんとする使用人達も。
同じ言葉を唱和する。
「一隊は、下の屋敷の、火消しへと向かいました。二から四隊までは、市中での救命です。予備隊は、屋敷に常駐しております」
実に、満足出来る返礼である。アウグスタは、「ご苦労」と微笑んだ。
窓から見える煙。知っている。今は昼時で、煮炊きをしている時間帯となる。窓の外からは、天へと立ち昇る黒煙が見えていた。
「ならば、手隙の者は消防に励みなさい。煤も、素敵な化粧でしてよ?」
息子はともかく、ルカもフィオナもリナも、賢い娘達である。無謀な真似はしないだろう。
そう考えれば、アウグスタにも余裕が持てた。
大体——。
「監査官殿に、護衛の柳のジーノ殿? 事態が収束するまでは、自由を制限させて頂きますが、よろしくて?」
今は来客中である。彼等に不安を与える様ならば、キエッリーニの、トラーパニの沽券に関わった。
「逞しいねぇ。海辺の女ってのは、そうなのかい?」
顎を撫でたジーノへ、アウグスタは片目を瞑った。
どうぞご自由に、望む通りに見てみなさいと。
「ははっ! 豪気でありますな、奥方様。某も、この状況で危険を冒すつもりはござらん。代行殿の、お手並み拝見とさせて頂きましょう」
震えながらも、大笑する監査官殿だ。大概に、逞しい男性でもあった。
だが、都合の良い事だ。余計な事をする無能な働き者の方が、余程始末に負えない。どうしようもない小物であっても、頭が足りない訳ではなかった。
「我等が故郷には、慣れた事ですので」
「ふおっ! ふぉう!」
余裕たっぷりに胸を叩けば、監査官殿の首が上下に揺れる。視線に恥じらいを感じるが、それを表に出しはしない。
「キエッリーニの娘達。最善を、尽くしなさい」
号令をしたアウグスタは、優雅に微笑む。
——奥方様、津波が来ます。ちょっと、街の皆と抑えとくから、復興予算の確保をお願いしますね。
フィオナからの、交信が入るまでは。そして——。
——ルカです。
「はい?」
ルカからの交信には、声が漏れてしまう。
「ちょっ! ルカ! 待ちなさい!」
——今、津波なんて起こされたら困るので。
海鳴りが低く唸り、遠くで水平線が震えた。
再び海面が揺れるのが見える。
アウグスタは息を呑み、ルカへと呼びかけた。
最悪の予感が、胸を締め付ける。
手を、伸ばしてしまったのは何故か。
それは宙空に留まり、何物にも届かない。
——無事で。
今日も無事に、子供たちが過ごせますように——。
ただそれだけの祈りが、彼女の思考を支配する。
「いつまでも、子供じゃなか」
婆やの呟きが聞こえた。
風が止まり、潮が凍る。
世界の呼吸が、一瞬だけ止まっている。
その瞬間、港の光が反転した。
顕現の光が、全てを呑み込んでゆく。
世界を光が包み、再び大波がうねり、港が震えた。
遠き沖からは、霊獣の咆哮が天地を裂くように響き渡った。
お読みいただき、ありがとうございます。