——オルト、ルカ。どうか、無茶はしないで。
「侍女達は避難民への対応を。騎士達は、市中の安全を確保しなさい」
キエッリーニの後家、領主代行アウグスタ。
その口調は事務的な、冷たいものであった。
「伝令! 霊獣、
執務室にて指揮を執る彼女へ、行政府よりの伝令が届いた。
彼女の眉は跳ねる。だが、声は平坦に疑問を返していた。
「ご苦労様です。市中の混乱、その収容などはいかがでしょうか」
視線は遠く、沖合を見ている。遠くには、罅割れた紫色の空があった。それは、異界の扉が見せるもの。
「遺憾ながら、十全とは言えません」
地震は脅威だが、最も恐るべきは二次被害にある。
倒壊、火災、混乱。天災が、人災を呼んだ。
「でしょうね」
人命救助、火災の鎮圧、道路の復旧。
こういった場合に、戦力となるのは民間有志による護衛団である。のだが、委託関係にある行政府に直接の指揮権はない。
「なにせ、手が回りませんので」
あまり足並みが、揃わないでいた。
緊急時における対応としては、あまり良くはない事である。
だからこそ、アウグスタのキエッリーニが、間を取り持っていた。
「我が家からも騎士を出しております。協力し、被害を抑える様、お伝え下さい」
そうやって、これまでは騙し騙しで乗り越えて来ていた。
伝令は踵を返す。
彼もまた、災害救助へ向かう事となるのだろう。窓からは、立ち昇る黒煙が見えた。
「奥方様。騎士達が火事場での物盗りを捕縛しておりますが、処遇はどうしましょう?」
想定内である。煮炊きをするこの時間、火災がそれなりに起きている。
災害に乗じて物盗りを企む者も、少なからずいた。
「拘束したまま、屋敷に収容しなさい」
指示は簡潔なもの。出来の良い娘は、頭を下げる。
なのに、アウグスタの視線は沖合へと向かってしまう。浜に、港へと意識が揺れていた。
「ただ、皆にも報復などさせぬ様、気を付けてね」
それでも、釘を刺す事を忘れない。
推定犯罪者の行政府への引き渡しも、すぐにとはいかないものだ。
牢など持たないキエッリーニ邸では、それくらいの対処しか出来やしなかった。
「奥方様。避難民へ、お声掛けください」
戻ってきていた侍女の一人に請われ、アウグスタは立ち上がる。婆やは扉の方へと向かった。
「ええ。……監査官殿、少々席を外させていただきますわ」
微笑を浮かべ、客人達を見る。思ったよりも、彼等は大人しくしている。
「ま、好きにしな」
応えたのは、柳のジーノ。返事は短いもので、監査官殿はまだ、どこか呆然としたままでいた。
それで良い。余計な事をされるより、余程マシである。これ以上、心配の種はいらない。
「ときに、ジーノ殿? ご協力は、仰げますか?」
「雇い主、次第だな。今は雇われなんでね」
安心とは言えないが、最低限の言質は取れた。
アウグスタは頷いて、彼の横を抜ける。
執務室に客人達を残し、彼女は庭へと向かった。
赤子の泣き声が聞こえる。
「うるせぇ! ガキを黙らせやがれっ!」
心ない罵声も。若い、青年だった。
焦燥か、不安によるものか。あまり避難民の顔色は良くない。
一月前には大禍に見舞われ、また続く経済不安や政情不穏。そこに、地震である。民心が、穏やかならぬのも無理はなかった。
「アンタこそ、うるさいねっ! 子供に当たり散らかしてんじゃないよっ! みっともない!」
だが、怒鳴り返された声は明るい。
「ちょっと前までピーピー泣いてたガキが、一丁前面かい!? 海の男なら、でっかく構えてなっ!」
そんな中でも普段と何一つ変わりなく、日常を営む者がいる。
最初に怒鳴った若者も、言葉を失い黙り込む。
「だっせーな」
「うっせ」
そんな彼を揶揄うのは、友人か。
抑えきれぬ想いがありながら、喧騒の中で己を見失わないでいる、逞しい人達。
粗野であっても、誇り高き海辺の住人達。
そんな優しき民達の心を纏めあげ、何処へ向かうかを指し示すのも、領主代行の務めであった。
「皆、よくぞ無事でありました」
だからこそ、アウグスタは歩きながら声を張る。
背中に婆やを従えて。
「体調の悪い者や、怪我をした者があれば、屋敷へ入りなさい。応急手当てくらいなら、ほら……」
彼女は先程怒鳴っていた青年の腕を取る。
怪我をしていた。火傷だろう。そう重度のものではなくとも、痛みは心を苛んだ。
「こうして、出来ますからね。貴重な働き手には、この先も頑張って貰わねばなりません」
青年の腕を取り、掲げて見せれば、若々しい肌が輝いた。
火傷はもうない。簡単な治癒であった。
得意でなくとも、軽い負傷であるならば、アウグスタでも癒せた。
その手を離し、両手を拡げる。
もう充分に、視線も意識も集められている。
「奥方様からの、お言葉ばい」
訛りのキツイ婆やが告げれば、皆背筋を伸ばした。
赤子をあやす若い母親も、ふざけていた青年達も。
快活な女性達も、厳しい男性達も。
「さて。此度の大禍についてでありますが……」
静かに頷く者に、顔色を変える者。
その割合は、凡そ半々といった所であった。
だが、誰も憶測を語らぬし、流言も飛ばさない。
空の罅に、海の色。
誰もが、単純な地震などではないと察していたにも関わらず、混乱はなかった。
婆やが睨みを利かせているからだけでなく、情報は誰もが求めるものであるからだ。
「お察しの様に、霊獣
一瞬の、どよめき。
「おいおい、またかよ。勘弁してくれよ」
「まだ、保険下りてねーんだよな……」
落ち着きこそ取り戻したが、前回の被害から立ち直りきった訳ではない。感慨は、尤もなものだった。
「ごほん」
だがそれも、老婆の咳一つで治る。
海を見る男性に、子供を抱き直す女性。仕草は様々なものの、気持ちに碇を降ろした様にも見えた。
「夕刻まで?」
だが、当然の問いが返される。
炎と毒を吐き、硬い鱗に覆われて、強靭な生命力を持つ大海蛇。
のみならず、巨体により津波までをも引き起こす。
「ええ、遅くとも」
種別としては中型に位置する霊獣であるが、時として山程の大きさまでにも育った。
「結構、長いねぇ。なんとか、ならないのですか?」
今回の個体はまだ若く、そこまでの大きさではないにせよ、長時間の顕現ともなれば、被害は決して無視出来るものではない。
「残念ながら。州都へ向かったペントラ卿の帰還が、それくらいとなりますので」
アウグスタは言葉に、力強く信頼を込めて言った。
それまでは、持ち堪えるしかない。
これまでも、そうして来ていた。
「なら、仕方ないか。あまり暴れないでいてくれると助かるんだけどさ」
それを知る港の住民達は、再び海を見る。
遠く沖合で、首をもたげる蛇身。
大型輸送船よりも、巨体であった。
「それまでは、防衛隊の無事を信じましょう」
あの大きさともなれば、銃や砲を用いても、決定打とはならない。
化学兵器ならば通用するだろうが、海に棲む霊獣相手に使えはしないものである。
海を汚し、街を蝕むのならば、それはもう、防衛とは呼ばなかった。
腰を下ろす者、屋敷へと向かう者、会話に興じる者達。それぞれに、好きな事を始め出した避難民の姿。
「とーうちゃーく!」
「ここが、ルカ様とビーさんのハウスね」
「何を今更、何度も来てるじゃないの」
そこへ、姦しい声が響いた。
「なんね、ガキども。親ばどぎゃんしたと?」
婆やが素早く向かい、声を掛ける。
子供だけの四人組。ルカの、同級生達だった。
——そういえば、ルカの初訓練。友達が観に来るって、張り切っていたわね。
ルカからの交信を思い出すが、ただの冗談だろうと蓋をする。周りには、大人達がいる。オルトだっていて、あの子なら止めてくれると、母は考えていた。
「おっす、おっす。婆ちゃん」
「多分適当に避難してるから、心配はいらないよー」
物怖じしない子達であった。あの婆やに纏わりつきながら、元気にはしゃいでいる。
「せからしかねぇ……」
婆やは呆れ顔であるし、周囲の大人達も、クスクスと笑っていた。
「お世話になります。奥方様」
「おっす、おっす、奥方様」
そんな事を言いながら、スカートの裾を摘み上げ、頭を下げる四人組。一人はあの赤い屋根の家、その娘さんであった。
「ええ、おっす、おっすよ。特に何もない所だけど、ゆっくりしていってね。お菓子くらいならあるから」
婆やに着いて来ていれば、自然アウグスタの側まで来る事になる。彼女も視線を子供達に合わせ、挨拶を返した。
「さっすが、ルカママ。話がわかるぅ」
「ビーママでしょー。おかーちゃーんだよ」
どうやらオルトはこの子達の中で、小熊のビーさんとして定着してしまっているらしい。
浜の方へと視線が向かう。きっと、あの子は護衛団に混じり、防災に励むのだろう。
「はいはい。ママとでも、お母ちゃんとでも、好きに呼びなさいな。ルカは? 一緒じゃないのかしら?」
ともあれ、元気なのは良い事だった。とはいえ、子供達だけでここまで来るとは思わない。
いずれも、丘の上に住む娘達。
あの一帯では火災もなかったし、恐らくはルカに連れられて来たのだろうと尋ねてみれば——。
「ルカ様? 一緒じゃないよ」
「避難してって、指示されたもん。かっこよかったです!」
不思議そうな顔をされてしまう。
責任感の強いあの子の事だ。ちゃんとした手続きの後に、護衛団を離れるつもりなのだろう。
「そうなの。貴女達も、怪我とかはないわね?」
アウグスタは子供達の身体に触れて、確かめる。
走ってきたのだろう。体温は高いが、どこかを悪くした様子もなかった。
「らくしょー! 元気いっぱいでっす!」
「そう。陽射しは強いし暑いから、良かったら屋敷でルカを待ってなさい」
遠く沖合でまた一つ、津波が起こる。
緊急避難で、一刻を争う時だ。まず、級友達を逃したのだろうと合理的に考える領主代行であった。
子連れの女性達にも、屋敷へと入って貰っている。
「奥方様。平和な街に見えて、不埒者は存外に多いものなのですな」
精悍な声。騎士が一人、戻って来ていた。両手に拘束した「不埒者達」を抱えている。片手ずつで、二名であった。
「ご苦労様。……見た事のない顔ね」
「まぁ、そういう事なのでしょう」
街へ放った騎士達は、火事場泥棒などをこうして連れ帰って来ていた。そろそろ結構な数になる。
そういった連中を納屋や物置きに入れて拘束しているのだが、庭にも溢れ出ていた。
女の子達の視線は、その連中と騎士達の姿を行き来していた。
「騎士って、カッコいいよねー」
「イケメン多いし、女騎士になるのも良いよねー」
諍いとならぬ様、数名の騎士達を残していた。その中には、女性もいる。
「無理無理、訓練とか戦闘とか、厳しいんだから」
姦しい少女達による、微笑ましいやり取り。
そこにまた一つ、津波が起こった。
隆起する海を、アウグスタは目で追ってしまう。
「でもちょっと、憧れちゃうよね」
嬉しそうな声に、意識はこの場に引き戻された。
少女達は恐れでない、眩しげな視線を向けている。
武とは本来、暴力そのものでしかない。
だがこうして共に過ごしていられるならば、心強い味方であり、親しき隣人ともなった。
「ルカ様の方が、カッコいいもん! 『婦女を守りし、剣なれば(キリッ)』」
ルカが人気者で、アウグスタも嬉しい。こういった子達に囲まれているのなら、殺伐としなくても済むだろうとも思えた。
結構、あの子は危なっかしい子でもあるので。
「ビーさんだって、負けてないかんね。結構イケメンだし。熊だけど。『死なせねえ(ドヤァ)』」
息子にはもう少し、あの人やアントニオの様な威厳が欲しかった。母親としての欲である。
「顔ば、緩んどるばい」
嗄れた声は、聞こえない。聞いて、なるものか。アウグスタは少女達へと微笑みかけた。
「さ、行きましょうか」
口喧しい婆やは無視をして、アウグスタは立ち上がる。子供達の友人を、屋敷へ迎え入れるために。
「そだね。二人がクネクネやっつけてくるのを、待ってよー!」
「津波、何回でぶっ殺すのかな?」
あまりにも無邪気で、残酷な一言。
「は?」
中腰のまま、アウグスタの動きが凍りついた。
視線がゆっくりと、少女達から遥か沖合の海原へと移ってゆく。
「わかんないけど、きっと一撃必殺だよっ!」
真昼の空は罅割れて、曙とも暁ともつかぬ、不気味な輝きを放っていた。大異界——海。
——何を言ってるの。霊獣なのよ。津波なのよ。
沖合に、再びの津波が見えた。アウグスタの足元が揺れている。
「どったの、奥方様? ねっちゅーしょー?」
何度も不規則に、津波の動きとは関わりもなく。
すぐ側の声が、やけに遠く聞こえていた。
「まー、街の皆もいるし? 余裕だよね、私達の英雄二人ならさ」
明るくて、不安など微塵も持たない声が。
——何を言ってるの? あの子達はまだ子供で、経験不足で、英雄なんかじゃ——。
「え?」
母は、喉元まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。
声は、たった一つ漏れたもの。
空が、晴れている。
「おおっ!」
どよめきが、聴こえた。
見えるのは——。
抜ける様に蒼い空に、漂う白い雲。
陽光に煌めき、静かに形を変える果てなき紺碧。
海が、静かに凪いでいる。
「なん、で……」
何が起こったのか、何が起こっているのか、領主代行には、わからない。ただ、息を喘がせる。
ジリジリとした陽射しに、額から雫が落ちた。
その瞬間、幾つもの慌ただしい足音。思わず、顔が上がった。
「市中の火災、食い止め申した」
「あからさまな連中は、こうして捕らえております」
戻って来ていた騎士達がいる。煤に汚れ、手に縄を持ったアントニオの騎士達が。
「ご苦労様。海の様子はいかがです?」
期待した顔ではなかった。だが、平静を装い問い返す。必要な事だ。良きにつけ、悪しきにつけ、状況の確認は必要なものだった。
横へ振られた首。
「……いえ、すみません。息を入れておきなさい。貴方達にはまた、励んで貰わねばなりませんからね」
アウグスタは労いの言葉を続ける。
彼等に命じたのは市中の警護であり、その様子を見れば、そう余裕があったとも思えない。
縄に繋がれた者達が、また多数いた。両手の指には余る人数の、赤布を巻いた男達が。
「おおっ!」
「お神輿っ!」
アウグスタの思考とは無関係に響く声。少女達のものである。
彼女達はまだ、なんとなくアウグスタの腰周りに纏わりついていた。大喜びをしている。
「輿ば、用意させたけん、行ってきなっせ」
目を輝かせる子供達の前で、婆やが言い放った。
目に映るのは、四名の侍女により担がれた女輿。
「お乗り下さい、奥方様」
侍女の一人が口にする。
復興期、肉体的な術式の不得手なアウグスタが、機動性を確保するために用いた移動手段であった。
「状況を確認する為、海へ参ります。婆や、この場は任せましたよ」
輿へと入る前、彼女は告げる。
「御意」
短い返事が返った。
領主代行は、被害状況を確かめねばならない。
情報は伝聞よりも、見るに限る。その為に、現場へと向かうのだった。
——どうか、あの子達が無事であります様に。
ささやかな祈りを、胸の奥で呟いて。
母の視線は、凪いだ海へと注がれたままだった。
「出なさい」
一声で命ずる。
「行きます! 出発進行!」
侍女達による掛け声。そして、大きな揺れが。
地震ではない。急発進によるものだった。
「奥方様、いってらっしゃーい!」
「ルカ様とビーさんのお迎え、いてら」
そんな無邪気な子供達の声のみならず、多くの声援を背中に受けて、女輿は走り出した。
輿が、揺れている。急かした所為でもあるのだが、随分と荒く、乗り心地は悪かった。
それでも、アウグスタは膝を揃えて座っていた。
その上で、硬く握りしめられる白い指。
——空は、晴れた。ならば、討伐がされている。
輿からは、外の様子は見えない。隙間から僅かに差し込む光が、青い空を見せている。
だが、侍女達の掛け声と、時折り響く物音が地震による惨状を物語ってもいた。
——損害も、決して無視出来るものではない。被害状況は? 生存者は?
形となることのない数字だけが、頭の中で滑っていた。考えるべき事は数多い。なのに——。
——死なせねぇ。
頭に響くのは、幻聴だった。あの人の言葉。
この十四年、耳を離れる事のない呟きが、あの子の、あの子達の声にも重なった。
「私に構う必要はありません。一刻を争います。急ぎなさい」
命令を、重ねていた。領主代行らしく。統治者らしく、冷徹に。
だが、彼女の指示は無視される。
強い衝撃が身体を抜けた気がする。
前へと、つんのめるアウグスタの身体。
それは激突によるものではない。慣性によるものだ。アウグスタは、吊るされた紐を掴んでいた。
「何が、ありましたか」
声が出る。確認の為である。輿は、その進みを止めていた。やけに、虫の音が響く。
ジー、ジー、ジー。
輿の中は、暑い。誰からも返事はなかった。
アウグスタは御簾を上げる。
「——あ」
漏れたのは、声一つ。
見えてしまう。そして、理解してしまった。
丘の下、浜辺から登って来る二つの人影。
大きなものと、小さなものが並んでいる。
「さっさと歩く」
「歩いてんじゃねーか」
キラキラとした陽光を受け、坂を登って来る二人。
「早くしないと、後ろがつかえる」
「へーへー」
その背中に、沢山の人々を引き連れて。
護衛団の面々に港の職員、それと船乗り達。
最後まで海辺に残った、残らざるを得なかった人々だ。
「まーた若様が尻に敷かれてやがらぁ」
「そんなんで母ちゃんに、報告出来んのかぁ!?」
笑い騒ぎながら、丘を登って来ていた。
「出来るに決まってんだろうが! あと、ルカのちっこい尻なんかに敷かれるかよ!」
叫ぶオルトに、
「オルトは失礼」
呟くルカ。
二人とも、びしょ濡れだ。
なのに、潮風に身を委ね、陽光に照らされて煌めく姿が眩い。
一声も出せぬアウグスタの視線は、その光景に惹き込まれていった。
二人が、髪を掻き上げる。
「真似すんなよ」
「真似っこはオルト」
同じ仕草をした二人と、パチリと視線が合ってしまう。
その口角が、自信ありげに上がっているのまで見えた。
アウグスタからは声が出ない。
今、何を言えば——。
「ただいま、母ちゃん」
「只今戻りました。奥方様」
けれど、そんな簡単な挨拶だけで何かが解けた。
「お帰りなさい、二人とも。海遊びは、楽しかったかしら?」
歓声が上がる。
「おう、安心しろよ。みんな、無事だぜ」
力こぶを見せて、笑う息子。
「船とかは、無事じゃないけどね。——報告をいたします、奥方様。オルトの手により大禍、
淑女の礼を見せてくれる姪。
「おまっ! ルカっ! ずりーぞ! 俺が報告するってよっ!」
叫び、ルカを捕まえようとするオルトであった。
「オルトは鈍間」
身を躱したルカの声に、笑い声が重なる。
「あっ、母ちゃん。フィオナとリナも、もうちっとしたら戻って来るからよ。冷てーもんでもなんか、用意しといてくれよ」
——ああ、もう。この子達は。
オルトもルカも、フィオナもリナも。そして街の、港の人々の誰もが。
——いつからだったのだろう。手を伸ばさなければならないと思っていた場所には、もうその背中があった。
陽射しは強く、潮風は熱いままでいる。
空を駆ける海鳥達は、大きく羽ばたいていた。
「屋敷へ帰りますよ。皆、待っていますからね」
目元を拭った指先が、微かに濡れていた。
それだけは、誰にも見せずに。
お読みいただきありがとうございます。