夜の始まり、宵のうち。穏やかな潮風は、変わらず静かに吹いていた。
薄暗くなった空の下、まばらに人影が立っている。
「この度は、娘がお世話になりました。ありがとうございます。ごきげんよう、奥方様」
淑女の礼をして、辞去の挨拶をする女性。彼女は娘さんの手を引いている。
「お気になさらず。その為の、キエッリーニですわ」
アウグスタも同じく礼を返した。
今は、誰の手も引いていない。もう、引く必要もなかった。
「奥方様ー! ルカ様によろしくねー! あと、ビーさんにもっ! チャーオー!」
元気な高い声。
綺麗な淑女の礼を見せたかと思えば、ブンブンと手を振る少女がいた。
「ええ、次は始業式ね。ルカを、よろしくね」
安息日が明ければ、長かった子供達の夏季休暇も終わる。新学期の、始まりだった。
「あったりまえー!」
「コラ、阿呆娘。調子に乗るんじゃないよっ!」
彼女の頭に、お説教と共に拳骨を落とす母親。
「おーぼー! どくおやー!」
「生意気言うんじゃないよ!」
アウグスタの唇から、笑みが零れてしまう。
二人が手を離さないからだ。
僅かに影を作る宵の空の下。
二つの影は寄り添う様に、キエッリーニ子爵邸から離れていった。
アウグスタは思わず小さく吹き出した。背後から、小さく息を吐く音がする。
「せからしかねぇ」
「何? 婆やも寂しいんじゃなくって?」
オルトとルカと共に帰ってくれば、婆やは彼女達の遊び相手となっていた。
「あんぽんたんがよぉ」
酷い言い草だが、叱りつけ、追い回し、それでも、とても楽しそうにしているかの様に見えた。
留守を任せたにも関わらず、暢気なものだった。
「ふふっ、良いじゃない。戻りましょうか」
あの子が、最後の避難者である。もうここに、避難民はいない。
「何ば、言いよっと」
その避難民達もアウグスタ不在の間、何一つ諍いや揉め事を起こさなかったそうである。
そのおかげで、子守りが大変だったとも愚痴られてしまっていたのだが。
「おまっ! フィオナっ! それ、俺の……」
「あ、ご馳走様。頂いてるわね、冷えたエール。報酬よ、報酬。アンタは蜂蜜でも舐めてれば良いじゃない」
小熊の咆哮と、女の高笑いが響いた。
オルトが、風呂から上がったのだろう。
あの子は、毎回風呂上がりとなると冷えたエールを飲んでいた。
「さ、急ぎましょう。暑いからかしら? 喉も、乾いてきたわね」
水分補給の為、だそうである。
だがそれは単なる方便で、単に好きだからだとアウグスタは知っていた。
単なる水分補給であるのなら、冷たいお水で充分であるからだ。
——とすると、今はルカとリナかしら。
特別な理由がなければ、キエッリーニでの風呂は年齢順となる。
だが、年長者である二人は避難民の送り出しの為、まだ湯浴みを済ませていない。
「二人があがったら、奥方様も湯浴みばい」
世話焼きのリナが、ルカと一緒に入浴するのは珍しい事でなかった。
ならば、同じく世話焼きの婆やの場合は?
「じゃ、婆やも一緒にね」
当然のことである。
少しだけ歩調を速めたアウグスタに、婆やは黙って歩調を合わせた。
また一つ、風が吹く。
「只今、戻りました」
男の声が聴こえた。聞き慣れたものだった。
足を止めたアウグスタは振り返る。
そして裾を摘み上げ、腰を落とした。
「あら、お帰りなさいアントニオ」
身に染み付いた淑女の礼。
跪いて騎士礼を取る男に見せてやる。
「ご報告を」
「後で、良いわ。急いで戻った所、悪いんだけどね」
珍しく埃に塗れた男へ視線を落とした。
「はっ、しかし……」
融通の利かない男だ。アウグスタはそう思う。
一刻を争う情報ならば、すぐに語るだろうにとも。
「遠路、ご苦労でした。既に湯は張っています。我が剣よ、旅の錆を落としなさい」
労いを込めての命令だ。これから夕食となるのに、汚れたままでいられたら、少し困るからである。
「は、はぁ……」
気のない返事の男であった。
「でも、貴方は最後よ。大人しく、待ってなさい」
首を傾げるアントニオ。何も、わかっていない顔である。
——ルカ達もまだだし、あまり待たせても可哀想だから、私達がお邪魔しようかしらね?
浴場は狭くない。四人どころか十人であっても、余裕があった。騎士へと、背を向ける。
「さっさと行かんね」
婆やに背中を押され、アウグスタは再び足取りも軽く、屋敷へと歩き出した。
湯浴みを終えたアウグスタ達は卓に着いていた。
リナがルカの髪を梳き終え椅子に座れば、空いた席はただ一つしかない。
「なんか、久しぶりね」
フィオナが、思わずといった風に零す。
「最近、お前も忙しそうだったしな。偶には、良いだろ?」
最初に反応したのはオルトであった。
言い出しっぺであるので、わからなくもない。
息子が、「いただきます」は、皆が揃ってからにしようと言い出している。
「ルカ様もいますし、お父様と一緒がね?」
皆とは、ルカとリナに、フィオナとオルト。それに加えて、アウグスタ、そしてアントニオの事だった。
その意見を最も強硬に支持したのはリナであり、彼女に押し切られる形で、こうして全員が揃うまで、食事の開始を待つ事となっていた。
「別に。いなくても構わない」
当の娘からは、こんな具合だが。
「こら、ルカ。そう言わないの。明日は騎士団の交代日ですからね。暫く、またお預けなんですから」
叱るアウグスタであるのだが、それもまた、彼女自身による都合であった。
実の所、アントニオの後添い探しを一刻も早く再開したいのは、アウグスタの方であるからだ。
「またまたー。いつも、今日はまだ? って聞いてくるじゃないですか。楽しみなんでしょ?」
冷やかすリナに、ルカの耳は真っ赤となっていた。
「オルトの為に、待ってあげてるだけ」
素直でない、聞き分けの良い子を褒めてやる。
「そう、ルカは良い子ね。——皆、そろそろ頼むわ」
慌ただしく、侍女達が動き始めた。
テーブルの上に、皿が並べられてゆく。
それぞれに、配られてゆく小皿。
「夏といえば、やっぱりトマトだよね」
リナがウンウンと頷いて褒めるのは、完熟トマトと砕いたアーモンドを和えた冷たいパスタであった。
シンプルな味付けながら、飽きのこない、定番の味である。
「いやトマトって、いつでも食えるだろ」
「いつもと旬を、一緒にしないでください!」
失礼なオルトに、怒鳴り返すリナ。彼女の育った孤児院では、家庭菜園が盛んであった。
暑い夏の陽射しの下、お裾分けと言いいながら、採れたてのトマトを差し出して来た幼いリナの笑顔を。
「夏のナスも、負けてない」
「オレンジ入りだからって、贔屓してんじゃねーよ。ナスとか野菜なんて、何も味しねーじゃねーか」
ルカの視線は、共に並べられた焼きナスと柑橘のサラタを追っている。爽やかな酸味と強い甘みを兼ね備えた一品は、彼女の好物でもあった。
義姉も、オレンジが好きだった。知るはずもないのに、よく似たものである。
アウグスタは姪の顔を見て、頬を綻ばせた。
「オルト。アンタ、冒険者なのに夏野菜の凄さがわからないの?」
更に置かれていくのは澄み渡ったスープ。
テーブルに置かれ微かに小波を立てたそれは、魚介と共に煮込まれた冬瓜を冷製仕立てにしたもの。
「野菜じゃん。筋肉になんねーよ」
呆れた風に、息を吐いたフィオナがいる。
「たっぷりと、魚介の旨味が染み込んでるね。身体を作るのにも、涼を取るのにも、ぴったりなんだけど」
ウンウンと頷くルカとリナ。
アウグスタも、同じく頷いてしまう。食事は筋肉を作る為にだけ、あるものではなかった。
「俺は冷えたエールでいいや。しっかし、フィオナも酒飲みな癖に、よく汁物なんて食えるよな。酒が入らなくなって、もったいねー」
とんだ暴論を吐く息子だが、アウグスタは許す事とする。何も、偏食なだけの子ではないと知っていた。
「ほう、若。そりゃ、俺達の作った料理よりも、酒が美味いって話かい?」
そんなオルトに掛けられた太い声。カツン、カツンと、床が鳴っていた。
「俺は残した事ねーだろが、料理長」
「まぁな。じゃ、お待ちかねの主菜だぜ」
どかりと、大皿が置かれる。
大皿に盛られたのは、港で上がったばかりの厚切りマグロと夏野菜の香草焼き。ニンニクとオリーブオイルの香ばしい匂いが、鼻腔を容赦なくくすぐった。
「最高だぜ! 料理長!」
歓声を上げたオルトは、もう涎を垂らしている。どころか、料理へ手を伸ばし掛けていた。
もう少し、威厳というものを見せてはくれないものかと思ってしまう母である。そこへ——。
「確かに、最高だな。いつも、ありがたい。料理長」
響いたのは、男の声だった。
「へっ、よく間に合ったな色男。悪くないぜ」
鼻を鳴らしたのは、かつて騎士だった料理人。
黙礼するのは騎士であり、アウグスタの剣である。
「遅く、なりました。報告を……」
一声は当主代行へと告げられた。苦笑する、屋敷の女主人。
「後で良いと言ったじゃない。さ、掛けなさい。アントニオ」
主君は空席であった左側を指し示す。
「おう、さっさと座ってくれ兄貴。早く飯にしようぜ。喉もカラカラだぜ」
立ち上がったオルトが椅子を引いていた。
彼にとっては右隣であり、アントニオの娘、ルカとは向かい合う席となっている。
「さっさと座る。父上は遅刻。オルトが正しい」
「では、失礼」
辛辣な娘の言葉に微笑んで、彼は座った。
パシュンという、栓を抜く軽い音。
「……気の利かない男。グラスくらい、出しなさいよ」
「はっ」
アウグスタがエール瓶を差し出せば、アントニオもグラスを差し出した。
「
「愛嬌みたいなものですよ」
ルカとリナは、オレンジジュースが注がれたグラスを手にしている。オルトとフィオナが握るのは、エール瓶そのものだった。
傾いたエール瓶。トクトクと音が鳴る。
注がれてゆく、澄んだ琥珀色の液体。
粒立った気泡が浮き上がり、やがてシュワりと盛り上がる白い泡。
余ったエールを自身のグラスへ注ぎ、立ち上がる。
「皆、グラスを持ったわね。日々の恵みに感謝を。今日も一日、お疲れ様でした。乾杯」
ありきたりな言葉。当たり前の日常への感謝。
「乾杯、いただきます」
女主人が音頭を取れば、何も特別ではない言葉が五つ、賑やかに重なった。
薄暗い灯りの下、目の前で積まれてゆく札束に柳のジーノは目を剥いていた。
空気調整が効き、良い調度品の備えられたこの部屋は、当然彼の寝ぐらではない。
「……これは、前金であるぞ」
言いながら机に額を擦り付け、薄くなり始めた白髪頭を晒す男に、鼻白んでもいた。
——何を、吹き込まれたのやら。
元々マトモとは言い難い老人であるが、昼に避難民に紛れ領主の館へ入り込んだあの煽動者——。
アイツと何事かを相談してからは、明らかにおかしくなっていた。
「旦那、正気かよ……」
やけに、暑い。空調の故障を疑う程に。
この客室は、トラーパニ行政府より王国財務省監査官へ用意されたもの。
「頼むっ! この通りだ!」
公人の、むしろ男の誇りさえをもかなぐり捨てて、叫ぶ老人がいる。その息は、荒かった。
——狂ってやがる。
そう切って捨ててもよかった無頼だが、目の前に積まれたモノに、喉を鳴らしてしまう。見た事もない、大金だった。
これだけで、二、三年は遊んで暮らせる。
「連れて来てくれれば、この倍を払うぞ! 儂には、もう時間がないのだ!」
——ああ。
内心でも、嘆息しか漏れないでいる。
残るは二日。それで仕事は終わる。監査官も、そしてジーノも。
「最後に、せめて、あのお方を……」
感情どころか、自律神経さえも制御可能な武術家崩れの、動悸が止まらなかった。
ジーノは、札束から視線を上げる。口元の涎も拭かず、締まりなく笑う赤ら顔が見えた。
「幾つか、質問と条件がある」
この「依頼」だけならば、そう難しいものでない。そう彼は判断している。
恐れるのは剣だけであるが、明日ならばアレはいなかった。
そして、王都まで逃げ切れば何とでもなる。
「おおっ! 構わん! 何でも聞いてくれ!」
喜悦に溢れた声が、やけに遠く響いた。
ジーノには、この男、監査官の要求は微塵も理解出来ない。
出来ないながらも、目の前の札束から視線を外せずにいる。
——金さえあれば、どうとでもなる。
やけに、あの男の声が頭に響いていた。
お読みいただきありがとうございます。