眩しい朝焼けに、ヌラヌラと黒光りする巨体。
真水を浴び、よく磨かれて鈍い輝きを放つ霊獣の名を、海雷獣と呼んだ。
「ムォーン」
「こらこら、擽ったいわ」
体高はアウグスタの背丈よりも高く、全長では小型船舶に匹敵する獣である。
その霊獣が彼女の豊かな胸元に鼻面を埋めている。
この個体の鼻面には、大きな傷があった。
「ムゥフォーン」
喉を鳴らしながらグイグイと押してくる。
小柄で華奢な彼女の体躯でも、揺るぐ事はない。
背筋を伸ばし、まん丸な優しい目をした海陸両棲霊獣の首筋を、優しく撫でていた。
「気ぃつけんかね」
婆やからお小言を貰うが、アウグスタの手は離れないでいる。
「よしよし、甘えん坊さんね」
身体は大きく、気性が大人しいとは言えない霊獣であるも、賢い子達であった。
彼等は力の加減を誤る事がない。守るべきには優しく、抗うべきには苛烈に。そんな習性を持っている。
トラーパニからエーリチェ沿岸にて多数棲息する海雷獣達は、古来より海辺の民の友人となっていた。
特に、アントニオの騎獣であるこの個体はアウグスタとも縁深く、嫁入り時分からの付き合いがある。
その頭が彼女の胸の中で、天を仰いだ。
「ムォーン!」
大きな吠え声が鳴り響く。身体が音に震える。
一つでなく、無数の咆哮が重なってゆく。大地の揺れにも似た、現象が産まれた。
それは、鞍を付け、その背に騎士を載せた百を超える海雷の群れ。
彼等による一斉の嘶きだった。
「もう。そんなにエリーチェが恋しいのかしら?」
アウグスタも、騎士達も驚かない。
それが友を迎える声だと知っているからだ。彼等も一斉に、手綱を引いた。
ここに、シンと静まったキエッリーニの丘がある。
「お待たせしました」
まだ熱を孕む前の浜風に、男の声が響いた。
落ち着いた、静かな声だ。
「別に、待ってないわよ。ね、傷鼻?」
返す女は明るく言うが、傷鼻は頭を上げてしまう。そして首を振り、背中の空鞍を見ていた。
「あら、残念。振られちゃったわ」
肩を竦め、アウグスタは振り返る。
見えるのは、朝焼けに照らされたよく知る男の顔。
「長年の相棒ですのでな。——わかった、わかった」
アントニオが苦笑しながら騎獣の頭を撫でれば、その頭は低く垂れていた。
身を翻した騎士がその背に飛び乗り鐙へ立ち、もう一度海雷獣は嘶いた。
「二十年来の相棒ですものね」
手綱の手応えに満足したのか、再びアウグスタの胸へ顔を埋めようと首を伸ばした傷鼻。
だが、それも手綱捌きによって制される。
霊獣は、クゥーンと鳴いていた。
「左様。貴女様から初めての、オルディネでしたな」
ドウドウと、首を撫でるアントニオ。
「その節は、無茶を言いまして」
舌を出し、微笑んでやるアウグスタ。あの頃の、癖だった。
先日と、その少し前にもあった大海蛇顕現も、昔はよくある話であった。
「なんの。お陰様で良い相棒が、ですな」
この十二年程の間はあまりなかったが、アウグスタの嫁入り頃からルカの産まれたその頃までは、決して珍しい災害ではなかった事を覚えている。
当時、夫が打ち破っていた大海蛇の多くは歳経たものであり、その災害規模も、先月のものとそう変わりがない。
高波が丘の上を浚っていく事も珍しくなかった。
そんな折、丘まで打ち上げられていた海雷獣。その瀕死の幼体。
アウグスタが見つけ、治療を施した個体がこうして今や、アントニオの相棒、傷鼻となっている。
「傷鼻、アントニオをよろしくね」
鼻の傷を撫でた。
あの頃の、十五であったアウグスタの治癒では、こんなにも深い傷を癒すことなど出来ないでいた。
今だって、出来ないでいる。
「逆ですぞ。この私めに傷鼻をお任せくだされ」
憮然として言った、かつての愛し子だ。
身重で夫の帰りを待っていたアウグスタは、まだ十一でしかなかったアントニオに、この傷鼻の世話を任せてしまっていた。
不器用で、無愛想で無口な子供でも、優しい子だと知っていたからだ。それ以来の仲となっている。
アントニオが鞍上で剣を抜く。
そして、百を超える騎士達も、また剣を抜いた。
白く眩く輝いた銀光。彼と、彼等こそがキエッリーニの、そしてトラーパニの剣。
「では、行って参ります。明日、夕刻までにはなんとしても戻ります故。どうか、ご自愛下さい」
アウグスタはつい、吹き出しかけてしまう。相変わらず、不器用な男だと思っていた。
婚活の名の元にアントニオを呼んだ後、気付いた事がある。
「本当、不器用な男ねぇ。偶には気の利いた台詞も言えないの?」
いつも、同じ事ばかり言うのだ。とてもわかり難いが心配そうに、不安そうに。
アウグスタも良い歳で、迂闊な女でないとの自負がある。
「ご安心なさい。貴方がいつ帰って来ても良い様に、白の家にていつでも私は待っておりますわ」
微笑を浮かべ、淑女の礼を見せた女主人。
彼女もまた、いつも同じ台詞を言っていた。
「では、行ってらっしゃいませ。お帰りを、首を長くしてお待ちしておりますわ。私の騎士」
そんな、言葉を。
朝、騎士達を見送ろうとも領主代行の仕事というのは、普段と変わらない。
情報を受け取り帳簿を付け、決裁をするだけだ。
その数も十年前と比べれば、随分と減っていた。
多くを、今や行政府に委任しているからだ。
当主代行でもある彼女には、やらなければならない事が多かった。
だからこそ、強引であっても市行政を議会制へと切り替えている。
「奥方様、陳情です。道路復旧予算の承認を」
「持って来なさい。すぐ、あちらへ返してあげて」
その成果は実を結び、今や領主家と市議会という、珍しい二頭政治が出来上がっていた。
「ミリオッツイ三百名の日当を請求されて、行政府は泣きを入れています!」
「立て替えておいたわよ。ただ、今月中に用意しておく事。そう伝えておいて」
目まぐるしく、行き交う娘達。
彼女達はキエッリーニの侍女であり、同時に領主代行の官僚団でもあった。
「奥方様! 銃規制法案の打診が来ております」
「私は、私達キエッリーニは中立よ。領主が口を挟む議題ではありません。議会でよく話し合い、落とし所を見つけなさい。そう伝えておいて」
こうして、偶に思想が絡む陳情も来るのだが。
概ねは機能していると、アウグスタは考えている。
緊急のものを領主が請け負い、市そのものの未来に関わる問題を議会へと投げた。
徴税権も行政権も委任している以上、当然予算は家からの持ち出しであった。
「奥方様ー。暫くは陶器を多めに扱いたいのですが」
「了承」
その予算の為に、キエッリーニは商売にも余念がない。ミリオッツイと共に商品、商材、金融資産を右から左へ流し、あるいは留め、利益を得ていた。
既に十年、いや十四年もだ。手法は完成している。
「そろそろ、休憩としようかしら。今日のお茶係は誰になりますか?」
だからこそ、彼女は目の前に居並ぶ娘達、ではなくキエッリーニの侍女達へ笑いかける余裕もあった。
「はいはーい! 私でっす! むしろ、私達です!」
最年少のリナだった。問題はないだろう。ここ半年で、随分と板についていた。だが何故か、やけに小さな子を連れている。
細い身体を侍女服に包み、頭を下げていた。
顎辺りまでの短い髪で、青みがかった銀色。
「うん。頑張る」
顔を上げた侍女は、ルカだった。どうやら、紛れこんでいたらしい。下手人は、言うまでもなかった。
「そうそう。以前から伝えていますが。安息日明けからは夜会を再開しますからね。また忙しくもなりますが、それぞれが、義務を果たす事を期待します」
茶会の終わり際、アウグスタがそう宣言をすれば、歓声と悲鳴があがる。歓声は多く、悲鳴は少ない。
「流石、奥方様。話がわかるぅ〜」
「気合い、入るわね」
それもその筈、アントニオの後添い探しを目的とした夜会は、一部で「婚活戦争」などと呼ばれ、出会いの場としても期待された催しであった。
実際に、何組もの新たな夫婦が成立していた。
既婚者にとっても他人の恋愛や結婚は中々の娯楽であって、主催であるアウグスタ自身も楽しんでいた。
尤も、本願であるアントニオの後添い探しは難航しているが。
「そんなっ! つまんないっ!」
「そうよっ! 仕事が増えるだけだしっ!」
幼さの残る声が、次々とあがる。数は多くないのだが、案外に切実なものだった。
夜会参加資格は、十八歳以上の独身に限られる。まだ社会へ出る前の種子達に、参加資格はない。
「私も、かっこいい騎士とかとのラブロマンスがしたいです!」
「出会いほしー」
だから、不満なのだろう。
ましてや話に聞くだけなら華やかで煌びやかな夢のある催しだ。
その気持ちは、アウグスタも理解する。
「貴方達ね。恋愛はともかく、結婚というものは家同士の結び付き、社会参加そのものよ。まだ、早いわ」
恋や愛などという、綺麗事だけでは済まない。自らの、そして家族の人生を預ける事となるのが結婚だ。
婚姻が可能でも、政治参加資格を持たない十八未満の娘をその戦場へ上げるつもりはない。
「アンタ達が参加したら、アタシ達が売れ残っちゃうかもでしょ。引っ込んでおきなさいよ」
「そうよ。お姉様が道を拓くから、貴女達は指を咥えて見ていることねっ!」
切実な、事情もあった。結婚を夢見る女は少なくない。そして出会いの機会は多くもないのだ。
婚活戦争とは言い得て妙で、この夜会、女達の、大人達の戦場でもあった。
「では、解散。休憩後も、それぞれの仕事がありますからね。いつも通りに、励むように」
改めて、アウグスタは告げた。
そろそろ、良い時間ともなっている。
そうして、休憩は終わった。
「ふぅ……」
漏れた吐息。
茶の味については、何も言うまい。それもまた必要なもの。ルカには、まだまだ経験が必要だった。
「さて、と……」
既に茶器を片付け終えた侍女達は、アウグスタの執務室から去っていた。リナと、ルカもであった。
彼女達は今日も治療院に出ているし、侍女達もそれぞれの仕事がある。
なのでここからは、アウグスタは簡単な作業を行いながら、思考することとなる。
それもまた領主代行の大事な仕事であった。
「監督ば、どうすると?」
彼女一人きりという訳でなく、婆やと共に。
今、手を付けているのは臨時の復旧計画だった。
そう大規模なものでない。だが、後に回すものでもなかった。
「我が家からは、オルトを出します」
「よか」
嫌と言わせるつもりはない。あの子にも、まだまだ経験を積ませる必要があった。
現場の状況、要望を言語化し、利害調整者へ正しく届ける。そろそろ、そういった事もやって貰わねばならない。
「……随員に、日によってルカを付けます。人員でなく、お手伝いね。混乱がなきよう、明記しておいて」
「よかよ」
十二での誓いの儀を済ませ、自らの立ち位置を社会へ表明したルカであるのだが、やはり仮成人となる十五までには壁があった。
冒険者登録者を除き、義務教育期間における労働は認められていない。あくまでも社会勉強のため、労働の現場に送られるのがお手伝いであった。
「あの子達には、私達のトラーパニを、あの子達の故郷でもある港町を、長く支えていって貰わねばなりませんからね」
アウグスタの胸に、遥か昔に抱き抱えていたオルトの軽さや、背中におぶったルカの儚さが蘇る。
大凡、十年ほど前までの記憶だ。
息子の身体が大きくなり始め、背丈が追い越され、抱えられなくなってしまう前である。
お転婆なルカも、「高い、高い、にーに、にーに」と、オルトの背中を好んだ。
少しだけ、寂しい記憶であった。
今更ながら思い出し、息子にはもっと苦労をさせようと、悪戯心まで浮かぶ。
「母親らしか、顔んなりおって」
皺くちゃな顔で、婆やが笑う。厳しく、意地悪に。
それもまた、母親の顔だった。
「ふふ、今更ね。私が街の人々に、何と呼ばれているか知らないの?」
もう母の胸に恐怖はない。
抱き抱え、背負う為の未来ではなく、託すべき未来の姿が見えている。
「ア牛グスタとね?」
「違うわよ!」
叫んだアウグスタを尻目に、婆やはカラカラと笑った。不名誉な二つ名を訂正しようと口を開きかけたアウグスタであるが、訪を聴く。
「奥方様ー。フィオナ、帰って来ましたよっと」
少しだけはしたなく、扉を開いたのは娘。
いつも通りに飄々とした、十四年前に母親を亡くしてしまった女の子。
「早かったじゃない。暇なのかしら? 商人なのに」
「違いますって。思ったよりも順調で」
フィオナには今日、監査官の開いた武器商店に行って貰っていた。
先日から監査官本人に、事業を引き取って貰いたいと頼み込まれていたからだ。
「在庫も、かなりあったのでなくて?」
頭の痛い話だが、新型武器の売り上げが好調であったので、大量に仕入れていたそうだった。
その一部はアウグスタと仲介により、行政府が買い取っていた。
「割の良い商売ではありますし、数もこの島なら、なんとでもなりますから」
フィオナはホクホク顔である。
元手要らずの事業が転がり込んで来たのだから、仕方がないのかもしれない。
ビタロサの商法には財政健全法があり、起業して三年の間は非課税となった。
だが、その間に黒字化されぬ場合、また途中での廃業や一定期間の休業がある場合には、国家により責任者の財産と共に、事業は接収される事となる。
「道具に罪はなし。なんて、割り切れるの?」
接収を回避する手段が、身売りであった。
事業譲渡により黒字化したならば、廃業にも休業にも当たらない。
ただし、買い手企業は事業開始に遡り、納税の義務が発生するのだが。
「割り切りますよ。商人ですし」
彼女には、それでも確かな理と利が見えているのだろう。飄々とした態度で笑った。
監査官が事業として流通させた銃器によって、港の平和は脅かされている。
十七の少年による、街中での銃乱射事件であった。
幸いに死者は出なかったものの、被害は多数出ている。フィオナの父も、その一人であった。
「なら、いいわ。確か、この間から空いた倉庫を使ってたのでしょう? 在庫確認だけでも、相当でしょ」
一時期に増えた霊核の密輸業者や、拡散型先物取引に手を出していた商家が、使っていたものだった。
倉庫もまた商売であり、遊ばせておく余裕はない。
「ええ。おまけに買掛も大量に。の割には帳簿もちゃんとしていましたし、ほら、あの女性」
好色婦人、そう呼ばれるあの方か。アウグスタは思い至った。
フィオナの苦笑は、そう不快そうでもなかった。
——なんだかんだで、甘い方よねぇ。
監査官殿には奥様もいれば、家族もいる。彼女も王都まで追う気はないだろうと考えてもいた。
最後の一日まで、愛した男の側にいたい。その気持ちは、理解が出来た。
「最後の一日まで一緒にいるつもりなのね。案外に健気じゃない」
少しだけ、羨ましい気もする。アウグスタには苦しみのある女である事を、楽しんでいる人に思えた。
「いやー、そういうんじゃないと思いますよ」
「何よ、可愛くないわね。女の純情じゃない」
否定するフィオナにムキになりかけたアウグスタであった。
「ウチの従業員、もう五十になりますけど。多分、彼とお付き合いしてるんでしょうね。イチャついてましたよ。彼も独り身なんで、私達がとやかく言う事じゃありませんけど」
その従業員が、今回から買い取った事業の責任者となるらしい。
どうやら彼女は、アウグスタが羨んだ事とは別の意味で、女として人生を謳歌している様だった。
「まぁ……」
「ゴホン」
思わず呆けてしまったアウグスタであるが、後ろで婆やが咳払い。
「それでよく、円滑に進んだわね。思い詰めてたりはしませんでしたか?」
道ならぬ恋とはいえ、恋人に去られ、目の前で新たな恋の姿を見せつけられる。
その哀れさや惨めさくらいは、アウグスタにだって理解出来るつもりであった。
「いや、アイツはいませんでしたよ。ほら、いつぞやの演説男が代わりに」
「ああ、あの子ですか……」
ルカが大怪我をした翌朝に、暴動寸前の騒ぎを主導していた男。王都へ戻ると言っていた彼であるが、またこの港町に戻って来ていた。
それ以前から、彼を知っている。
孤児院の出という不利があるにも関わらず、優秀な学業により王都に迎えられた少年。
「良いんですか? アレ」
それからは、各所で弁舌を振るっているらしい。
騎士達を監視に付けているものの、言論の自由を奪う事など出来やしない。
そもそも、柳のジーノが護衛についている以上、諍いは危険でしかなかった。
アウグスタは首を横に振るしかない。
「さしもの監査官殿も気落ちしているでしょうし、明日のお見送りくらいは明るく送ってあげましょう」
「「はぁ!?」」
ごく当たり前の話をした筈なのに、婆やとフィオナの口からは、凄い声が漏れていた。
「奥方様。見送りなっど、行きなさるっとか?」
先日、大海蛇顕現の日に、話していた事だった。婆やも同席していた筈だ。
「あら? 伝えていませんでしたか? アントニオも一緒ですよ。勿論、婆やにも着いてきて貰います」
人格に問題があろうとも、王都よりの来賓である。代行とはいえ領有貴族が見送りもしないなら、外聞が悪かった。
そうでなくとも、アウグスタは監査官の今後の働きについて、ある種の期待をしている。
「危なかよ」
「あんなの、送るだけ時間の無駄ですって」
随分な嫌われようである。その気持ちはわからぬでもないが、礼節を果たさぬ訳にもいかなかった。
「フィオナ。商人なら感情を切り分けて、理と利で考えなさいな。現在のトラーパニは議会と領有貴族による、多重統治の状況にあります」
多頭政治体制の弱点は、分断にある。
いらぬ憶測を呼ぶよりも、見える事実を提示する。
領主家と議会が一枚岩であると示すには、それが何より雄弁だった。
「あん小物が、大人しくとる筈なか」
「婆や」
人を、蔑んではならない。
そう教えてくれたのも婆やであった。
そして、みくびってはならぬもの。
「それに大人しくしていないならば、トラーパニとしては好都合でしょうに」
だからこそ、アウグスタは不敵に微笑む。
婆やは苦虫を噛み潰した様な顔をし、フィオナは息を吐き出した。
「まぁ、たった一日で何が出来るとも思いませんが、それでもヤケクソとか、破れかぶれはありますよ」
フィオナの心配は、監査官という官僚を低く見たものだ。
「腐っても、王へ忠誠を誓う官僚です。王国の威信を傷付ける真似が、彼に出来るでしょうか?」
そう嗜めてやれば、合点した様に手を打った。
「まぁ、アレだけやりましたからね」
既に辞任しているが、霊核輸出事業の責任者を任せていただけの事はある。
この事業を始めた際、相場予測の資料として必要資料の他に、トラーパニ市、並びにキエッリーニ子爵家の財務諸表を公開していた。
「読む、識る者ばかりじゃなか」
「それでも、財務省なら理解しますわ。他の誰も、知らないわけじゃないもの」
王国財務省最大派閥、赤い獅子。
強大であるが、一派閥に過ぎない。反対派もあれば、対抗派閥もあった。
もしもこの盤面において彼等の尻尾、監査官が政治的、暴力的な手段を用いるのならば、絶好の叩き所となる。そしてそれを許すほど、彼等は甘くない。
「……小物であるからこそ、か。流石に、そこまでバカじゃないだろうし」
監査自体も特に何もしなければ、多少の指摘事項があったとして、概ね問題なしとして処理される。
監査官自らが火種となる理由はないし、彼がその器でないとも見切ってもいた。
「それなりに賢い方ですもの。何度か会談もしておりますし、それなりの好意は頂いていると、自負しておりますわ」
アウグスタが、少しだけ胸を張る。フィオナの視線は何故か、上下していた。
「まぁ、こんな凶悪なモノを見せられてればね……」
その呟きは小さなもので。
「何か、言いましたか?」
聞き取れず、思わず問い返してしまうアウグスタ。
彼女にとって、監査官は懐柔可能な官僚だった。
「ばってん、手練がおるばい」
「そちらは、大丈夫じゃありませんか?」
婆やの一言は、フィオナによって返された。
そう。確かに監査官は柳のジーノという駒を持つ。
たが彼は職業冒険者であり、無頼であった。騎士や家臣の論理によっての暴走もないだろう。
そうアウグスタは踏んでいる。
「金ば積んで動く男たい。わからん」
倫理観や価値観が、古老である婆やとは異なった。
「積む理由が、監査官殿にもありませんよ」
アウグスタは心配性な婆へ微笑んだ。その視線が柱時計へ流れる。既に正午を回っていた。
「ロウムは一日にして成らずよ。私達も、地道に積み重ねていきましょうか」
古来より有名な格言を引き合いに出し、領主代行は切り替える。
午後は行政府へ赴き、今後の相談をしなければならない。復興も、一日にして成らぬもの。
だからこそ、彼女は一つずつ積み上げる。
「それに、何かあっても婆やが守ってくれるわね?」
母に甘える娘の様に。
信頼し、見守ってきてくれた人へ応える様に。
「しょんなかね」
老婆の苦々しげな呟きに、若い娘の笑い声が重なった。
お読みいただきありがとうございます。