変わらぬ眩い陽射しの下、サラサラと揺れるは緑の葉。
瑠璃の石畳。美しき、白の港街。
日傘を差した淑女が歩んだ。背中に老婆を従えて。
彼女が纏うは黒。服喪を示す寡婦の色。
淑女の習いとして、踵を鳴らして歩む。
「危なか」
よろめいた身体。だが転ぶ事はない。
「ありがとう」
立ち止まった淑女は老婆により支えられ、一言の礼を告げた。
道が、悪い。瑠璃色の石畳には亀裂が走り、所々が陥没している。黒雲煤けた焦げ跡も残されていた。
高い踵で歩くには少々厳しいものがあり、先日の地震――霊獣顕現による爪痕を物語っていた。
「ほーれ! 気張らんとね!」
「ウーノ! ドゥエ! トレ!」
威勢の良い声がする。
トラーパニ市領主代行であり、キエッリーニの後家であるアウグスタ・ビアンカ=キエッリーニは、その掛け声の出所を目で追った。
人々が、大きな瓦礫を運んでいる。
焼け跡を片付けたらしき、空き地へ向けて。
力仕事に励むのは、何も逞しい若者だけでない。
肥えた中年や痩せた老人だって声を張り、汗を流している。
「ガキどもに、負けられるっとか!」
「老い先短い爺が、無理すんじゃねーよ! ポックリ行くぞ!」
矍鑠とした嗄れ声が笑いを誘い、荒々しい声が応える。誰もが声を掛け合って、力を出していた。
「ほうれ! もう一丁!」
「ウーノ! ドゥエ! トレ!」
嗄れた掛け声に、甲高い子供達の声。
彼等も小さな瓦礫や、ゴミとなってしまった物を元気に運んでいる。
「ひぃ、ひぃ、ひぃ……」
それでも体力自慢ばかりはなくて、へばってしまう者もいた。肉付きの良い若者が、膝をついている。
「休み休みでよか。一歩ずつ、少しずつで充分ばい」
彼は、手を差し伸べようとしゃがんだ老人の手を振り払ってしまう。
「爺になんて、負けてられっかよ!」
男の子には、意地がある。
息子を持つアウグスタも、それをよく知っていた。
「ふはっ! 元気がよかね。ばってん……」
皺だらけで、痩せこけて、髪も白い。
けれども真っ黒に肌の焼けた老人は、カラカラと陽気に笑う。
「そろそろ一服しなよ! アンタたち!」
大樽を抱えた女性がやって来る。
「待ってました!」
またもや、歓声が響き渡った。
「休憩の時間ばい」
その顔は悪戯小僧の様でもあって、再び若者へ手を差し伸べる。
「負けねーからな」
若者は小さな老爺に手を引かれ、立ち上がった。
「こんな暑い日にゃ、こいつがうってつけだよ!」
大樽を下ろした女性。彼女が栓を開けば、瑞々しい香りが漂う。
樽の中身が冷たいセルツだと、アウグスタにはそれだけでわかった。
「儂ゃ、グラッパがよか」
「俺ぁ、エールがいいぜ」
とぼけた事を言う男性陣の声に、苦笑してしまう。こんな暑い日の労働中に、お酒なんて――。
「ボケてんじゃないよっ! ぶっ倒れるよ!」
こうやって、怒られるしかないのだから。
「クスッ」
やはり、楽しくなってしまう。
祭りの夜と同じ様な感触が、胸の奥に響いた。
「お館様も、こげん時はよう来なさったのう」
お祖父様。その騎士だったのだろう誰かの声が聞こえてくる。
「キエッリーニの男衆は、よう働きおるわ。若も朝から……」
朝から出ていたオルトも、皆と同じ様に汗を流しているのかもしれない。
アウグスタは空を仰ぎ見る。晴れ渡った青空に、白く眩く輝く真円。お日様だ。
「俺は先代と荷車を運んだぜ!」
夫か、義父か。懐かしき日々を知る声も。
港には夫がいて、先代夫婦がいて。両親や兄達と笑いあっていて。
「アタシだって、お館様にはお前は気が利くんだなって、褒められたよっ!」
あの人かもしれないし。祖父なのかもしれない。
「ふふっ……」
屋敷では、義姉と祖父がアントニオと共にいて。
一緒に、皆の帰りを待っていた幸せなあの日々が胸に過った。
「そういや朝は若と一緒に、倒木を引っこ抜いたな」
あの子はもう、抱かれて眠る子供じゃない。
「アタシも、ルカ様と一緒にゴミ捨てした!」
眩いものに、目を細めていた。
キエッリーニの男衆達が、大好きだった街。
ルカは、女の子だけれども。
「うふっ」
もう失われたもの。過ぎ去ってしまった残照。
賑やかな笑い声が、荒れ果てた瓦礫の中で響いた。
陽は照り返し、潮風は強く吹く。
彼等は立ち上がる。
例え炎に巻かれようとも、津波に浚われようとも。
——私達は、前を向く。
怒りに身を焦がそうとも、悲しみに沈もうとも。
「ウーノ! ドゥエ! トレ!」
再び響き渡った、威勢の良い号令。
一つ、二つ、三つ。
単調な旋律が、そこかしこで重なった。
その逞しさ、陽気さこそが、トラーパニ。 白い海辺の港街。
かつては夫が、そして家族が。そして彼女自身が。
今も変わらず愛する、故郷であった。
「足ば、止まっとーよ」
「あら、失礼」
クスクスと笑ってしまったアウグスタ。婆やが水筒を取り出した。
「よか。飲みなっせ」
炎天下での水分補給に、こうして用意してくれたものだった。
渡されたグラスへ、口付ける喪服の淑女であった。
崩落した道路や塀、倒壊や、焼けた建物。そんな荒れ果てた周囲で、誰もが笑い合っている。
口の中に広がる刺激と酸味。そして、ほんのりと甘く薫るもの。
夏のシシリアには欠かせない飲料。セルツをコクリと飲み下す。喉元を過ぎる刺激と微かな柑橘の香り。
「はい、婆やもどうぞ」
アウグスタも「収納」の術式から取り出したグラスへ、持参していたセルツを注いだ。
「ふん……」
鼻を鳴らした婆やだが、素直に受け取った。
「さて。私達も自分の仕事を片付けないとね」
行政府へと向かうのは、復興の為である。
度重なる津波の被害から、一刻も早く立ち直らなくてはならない。
霊核市場の混乱、不均衡な取引の跋扈。
強大な武具の流通に、市民の暴発。
まだまだこれからも、取り組むべき課題があった。
「行きますよ、婆や。私達らしく、一つずつ、少しずつ。積み重ねていきましょう」
この十四年間、続けてきた事である。
理と利によって。
今更、止める理由はない。
アウグスタは再び踵を鳴らし、トラーパニ行政府へと向かった。
「どうぞ、奥方様」
案内の行政職員に導かれ、婆やを伴ったアウグスタは、傍聴席の端へ腰掛ける。
空調の効いた広い室内は、ざわめいている。
——トラーパニ行政府、本会議場。
ざわめきは小さなものでなく、荘厳に彫られた長椅子に座を定めた議員達の討論は、白熱していた。
「異議ありっ! この短期間での二度に渡る大禍。その被害額は、決して無視出来るものではない!」
恰幅の良い、押し出しの効く男性。彼は確か、倉庫業派閥に属している。
「だからこそだ! その場凌ぎの補償では、労働者の生活などすぐに立ち行かなくなるぞ!」
反論するのは、人材斡旋業者の派閥。彼は痩せていて、眼鏡を拭いながらも叫んだ。
天井の大窓の下、光差す「劇場」に、議員達の声が響く。それぞれの主張、それぞれの意見。
己が正義をぶつけあい、議会という意思決定機関において、主導を握らんとする議員達。
彼等は選挙により選ばれし者。
支持者に支持団体、支持組織。
良縁奇縁の区別なく、市民という、様々な土台の上に立っている。
彼等は一面において、利益代表者でもあった。
そして議会は、利害調整の舞台でもある。
あちらを立てれば、こちらが立たず。
意思決定というものは、とかく難しい。
「見舞いとしての一時金支給からの、公共工事などが無難な落とし所かと存じますが」
挙手をして、立ち上がったスラリとした女性。以前夜会にも来ていた、双翼派の若手議員であった。
髪は結えているものの、化粧は以前の地味なものでなく、人目を惹くものとなっている。
眼鏡もやめていた。
「財源はどうする!? また寄付金に頼るのか? 今は富商達の多くも『特別事例における、利益の遡及的回収』により、余裕がありはせんぞ!」
挙手をして立ち上がるのもまた、若手議員。彼は確か、幾つかの商社が支持基盤になっている。
彼等の状況を思えば、当然の主張であった。
議会は紛糾していた。
これではアウグスタが先程提出した復旧計画案も、どれ程の助けとなるかもわからない。
アウグスタ起案の計画において、財源の多くは行政府に移管したばかりである「霊核輸出事業」の清算が前提となっていた。
「お隣、失礼しても良ろしいですかな。シニョーラ」
舞台を眺める観客となったアウグスタへ、頭上から声が掛けられる。
顔を上げれば、年老いた紳士がいた。高齢な婆やよりも、更に深い皺が刻まれている。
「どうぞ、シニョーレ。こんな小娘の隣でよければ」
背は高い。けれど身体は萎びていて枯れている。
だが瞳は強く輝いて、生気が溢れていた。
それはまるで、最晩年の祖父の貌にも似ていて。
「いつもの事ながら、紛糾しておりますな」
落ち着いた口調へ、アウグスタは頷いた。お互いに視線を向ける事はない。共に舞台を観劇している。
「一時的に助力を仰いで……」
やはり問題となるのは財源だった。国からの資金援助もすぐにとはいかず、今、回せる資金も限られる。
「これ以上、借りを作っては堪らん」
「ふざけんな! 甘い事言ってると抑えきれんぞ!」
利害と感情は乖離されぬもの。だからこそ時に、理よりも情が優先された。
「商人が離れては、トラーパニに未来はない」
「かといって、優遇をしても不満が溜まるぞ」
そして利と欲も、離れられるものでない。
「私達に、今出来る事を探しましょう」
「災害支援の名目で、市外からも資金を募るか」
情報の拡散には時間が掛かった。
交信という手段はあれど、その場の状況を広く伝えるのには時間も手間も必要となる。
「金がないから、何も出来ぬでは商人とは呼べん」
「なんとかなりますよ。私達は、これまでもそうしてきたのですし」
段々と落とし所、それぞれが痛みを飲み込んで、それでも手を取り合う道を模索していく。
アウグスタはその姿を静かに見守った。
「……正しさは、一つじゃなか」
小さく呟かれた言葉。絞り出された様な声。
領主代行は、その出所を探さない。
ただ僅かに、顎を上げる。
「紅き炎に魅せられた、後悔はない」
言葉は強いものだった。
だがその内側から漏れ出すのは、告解にも似た弱いもの。それは何も知らずとも、感じ取れるもの。
——きっと彼は。
アウグスタは立ち上がる。
「ごきげんよう、シニョーリ。いずれ、また」
淑女の礼を、生き残った古老へと贈った。
「ああ。それぞれの道が、いずれ交わる事を祈って」
喪服の領主代行はトラーパニ大会議場を後にする。
隣の老婆へ微笑んで。
「ねぇ、婆や。昨日、あの子達にね、美味しい焼き菓子のお店を教えて貰ったの。場所は入り組んでいるけど、確か……」
賑やかな女の子達は力強い。きっとルカを探して、今日も遊んでいるのだろう。
トラーパニの母だって、ささやかな欲望はあった。
「……しょんなかね」
彼女は乳母からの了承に、唇を綻ばせている。
橙に染まる街並み。潮風はもう、熱を失っていた。
行政府からの帰り道。
四番通りの外れを歩くアウグスタの腕には、大きな包みがある。
可愛らしい包み紙越しにも香ばしい匂いが伝わってきていて、思わず頬が緩んだ。
「年甲斐もなく、浮かれとるばい」
「良いじゃない。リナもルカも、喜ぶわ」
婆やの呆れ声にも、気にせず言い返す。
首を振った際、通りに残る傷跡が見えた。
決して小さくはない、窪みに焦げ跡。
「貸しなっせ」
「嫌よ。たまには、良いじゃない」
繰り返される災害や、社会不安。日々解決すべき問題は残されてゆく。それでも——。
「今日も、良い一日だったわね」
積み重ねてきた、いつもの一日。
路地を曲がる。茜差す、静かな白の道。
——ドサ。
軽い音がする。
「婆や?」
潮風が、止まった。
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