風呂上がりのオルトは、いつもの様に筋肉を鍛えていた。庭で。
暑いので、既に汗でびっしょりだ。婆やには、また風呂へ入れと叱られそうなものである。
姿勢良く前を見据え、腕は揃えて前へ。その姿勢のまま、深く腰を落としてゆく。
尻が地面と平行になると動きを止めて、膝を伸ばした。
背筋や大腿筋、大臀筋に太腿の裏側。
単純な動きにも、応えてくれる頼もしき相棒達。
オルトには、太い筋肉の束達が、歓喜の涙を流しているのがわかった。
自重によるもので、何はなくとも鍛錬となる。なんとも効率的な、理と利に適ったものか。
この型を残してくれた先達に、彼は敬意を表している。
繰り返した回数は、百を超えている。三百までが、区切りもよかった。
流した汗は、嘘をつかない。
筋肉は、いつだって真実だった。
いつもなら、「恥ずかしいから止めなさい」とか難癖を付けてくる母ちゃんの声もない。
どうせいつもの様に引きこもりか、たまにしかしない外出でもしているのだろう。
そう思えば、益々鍛錬が捗った。
「俺はっ! 自由だっ!」
汗臭いとか、暑苦しいとか、酷い虐待を受けなくても済むのである。
「どこまでも、行こうぜ! 筋肉達!」
筋肉は、大事なものなのだ。筋肉仲間達の為にも、それを証明し続けなければならない。
——下半身を終えたら、上半身をやろう。
逆立ち腕立て伏せの期待に咽ぶ、僧帽筋、上腕筋、三角筋、そして大胸筋の声が、彼には聴こえている。
幻聴に過ぎないが。
「オルト」
澄んだ声が聴こえた。
——次は、どんな鍛錬にしようか、いや、一旦休憩を入れて、超回復を待とうか。
などと真摯に筋肉と向き合っていたオルトだが、その声は、筋肉のものではなかった。
「水、飲みなよ」
青みかかった銀の髪は、顎の辺りの長さまで。
背は低い、痩せている。というよりも華奢である。
茜差し始めた陽を受けて、照らされた白い肌。
いや、僅かに上気している。湯上がりか。
真っ白なサマードレスが似合う、繊細な美——。
そこまで考えかけて、オルトは首を振る。
潮風に髪を靡かせて、笑い掛けてきたのはルカだった。
「取ってきてくれ」
「そう思って、はい」
スッと寄って来たルカに、グラスを渡される。
名前は知らないが、花の匂いがした。
「あんがとよ。……臭うか?」
一息で飲み干して、尋ねる。
「何が? ああ……」
気を遣ってみたものの、いつものルカだった。
「暑苦しくて、汗臭いのなんて、いつもの事。オルトは脳筋」
「お前さぁ……」
女の子らしい格好をしていても、生意気で毒舌な。
「そういや、湯上がりか? 母ちゃんと?」
少し前。ルカが女だとか男だとかなど、まったく考えた事のなかった頃は、疑問であった事。
二人で一緒に寝たり、風呂へ入ったりするのには、不安を抱えた事もある。
「リナと。……奥方様は、お昼からお出掛けされている、みたい。婆やと」
「なんだ。通りで、婆やが五月蝿くない訳だ」
オルトも悩んでいたのだ。母ちゃんは、変わった趣味を持つ、危ない大人なのではないか。などと。
それは杞憂であったのだろうが、今でもやや釈然としないものがある。
「汗、流して来るわ。後で、頼む」
「わかった」
最近のオルトは、少しだけ学問にも挑戦している。
苦手だし、向いていないと思っていた事だって、少しずつ積み上げていこうと考えるようになっていた。
「今日は数学をやる。課題は終わってる?」
計算を五十解くだけの課題だが、まだ終わってはいなかった。
「……やってない。……行って来る」
「そ。なら、明日の鍛錬は頭のだね」
ヒラヒラと手を振りながら屋敷へ向かおうとしたオルトに、非情な宣告が下された。
チクタクと時計の針が響く中、オルトは頭を抱えていた。
目の前に、白い紙と文字一杯の紙がある。結構立派な造りの机に乗っているのは、数学の問題集だった。
ルカの夏季休暇の宿題と同じものらしい。
苦手であっても所詮は義務教育での宿題。
仮にも大人である自分なら、余裕であろうとたかを括っていたのだが——。
「わっかんねー!」
かなり、厳しいものだった。
とある一瞬を分け、その変化の傾きを捉えたり、バラバラだった変化を集めて全体像を推し量る計算問題である。
「戦闘も政治も変わらない。領主になるなら、やる」
一通りのやり方は教えられている。どころか、学んでいた筈の学問だった。
だが覚えてもいないし、数字や記号を見ていると頭の中がこんがらがる。
それでも、やるしかないものだった。
「これも領主になるためだ! やってやるぜ!」
これが、何の役に立つかはわからない。わからないながらもオルトは、今の自分に足りないものだと感じている。
母ちゃんは、弱かった。
身体能力は同じ女性でも、武術の心得のあるルカやフィオナはおろか、活発なリナや元気が取り柄の街のメスガキ達にさえ及ばない。それでも——。
母ちゃんは、強かった。
今も、昔も。父ちゃん達が死んじまってからの十四年間、ずっと背筋を伸ばして胸を張り、キエッリーニの家を、トラーパニの港を支え続けている。
「オルトが短慮なままだと、奥方様も安心できない」
オルトが幼い頃、自分が寝た後で、母が学問に励む姿を見ていた。寝たフリを、していたからだ。
意味がないと、思っていた。疲れているのだから、早く寝ればいいのにとさえ、思ってもいた。
でも今は、そうして培ってきたものの意味が、わかりかけていた。人は、一人きりではいられない。
「わーってるよ」
後三年。たったそれだけなのだ。
家を継いだら母ちゃんの、背負っている荷物を幾らかだけでも肩代わりをしてやれる。そう思っていた。
その為に身体を鍛え、闘う術を得た。
そうすれば、父ちゃんみたいに母ちゃんを、明るく笑わせてやれる。そうも考えてもいた。
「私達は、まだまだ弱い」
その通り。そんな事はわかっている。
力でさえ、中級上位の冒険者、柳のジーノにすら敵わない。上を見れば、果てがなかった。
それでも、守る事は出来る。だからこそ、学ばねばならない。
「だから俺達は、まだまだ強くなれる」
一問目の解答が閃いた。書き込んでゆく。
「正解。次のもサクサク解いてゆく。その調子を期待する」
ルカに言われるまでもなく、オルトは唸りながらも根気よく、ルカの宿題である計算問題を、解いてゆくのであった。
それから、暫しの時が過ぎた。
日は既に落ちている。
だがオルトの手は、四問目までで止まっていた。
「ぐぬぬ……」
ちょっと厄介な問題だった。複雑な条件が幾つか組まれてもいる。
とにかく数字と記号が多く、頭に入らない。不慣れなオルトにとって、かなりの難問であった。
「……遅い」
「しゃーねーだろ! 頭良くねーんだからよ」
ルカの一言に、心が折れ掛ける。
反射的に言葉が出ているが、そんな態度はあんまりではないかと、オルトだって思うのだ。
「違う。オルトには期待していない。寧ろ、脳筋な割には良くやってる。遅いのは、奥方様達」
ああ、そっちね。と、思う脳筋であった。
「そういや、今日は母ちゃんが飯作る日だったよな」
今日、明日と、夜会という名の婚活会場は閉じている。
尤も、ここ最近はルカ達の前倒し
ただずっと、この休養日を使い料理人や侍女、家人達には暇を出していた。休ませる、暇がないからだそうである。
なので、食事の用意は嫌に張り切った母ちゃんがしてくれているのだが——。
「まさか……」
オルトは思わず呟いた。猛烈に、嫌な予感が過ったからである。
この時間から、用意をしては遅くなる。まだ、帰って来てもいない、それでは、腹を空かせたままの時間が、どうしても伸びた。
「何か、思い当たる話でも?」
ルカも、真剣な表情をしている。育ち盛りのコイツも、もしや思い至ったのかもしれないと、オルトは戦慄していた。
時間に煩い母ちゃんが、帰ってこないでいる。
それが家事放棄からなら納得も出来るが、母ちゃんはそんな母親ではなかった。
寧ろ、やりたくて仕方がないのを普段は我慢しているのだと、息子からは見えていた。
そうすると、考えられる可能性は——。
これまでになく、オルトの脳は回転している。
嫌な予感、不安と共に導かれる予測。
理と利に照らし合わせれば、予感があった。
「……まさか、男か?」
苦渋に満ちた顔付きで、跡取り息子は従姉妹へと尋ねる。ルカは立ち上がった。
彼女の拳が、オルトのコメカミへめり込んでいく。
「おい! 暴力はよくないぞ!」
思わず怒鳴ったオルトを、ルカは冷たく見下ろしている。
視線の位置は変わりがないのだが、明らかに低俗な者を見る目であった。
「変な冗談は失礼」
「冗談じゃねーって!」
根拠のない話などではないと、オルト自身は思っている。母親に対して言うのもどうかと思うが、最近はやけに綺麗になっている気がしていた。
「最近は、なんか妙に肌艶も良い気がするし、やけに態度も柔らかくなってる気がするし……」
いつも真っ暗な喪服姿の母ちゃんだ。屋敷に引き篭もりがちなせいか、肌も白い。
友人達に、幽霊みたいだよな、お前の母ちゃん。美人なのに勿体ない、などと揶揄われたのを思い出す。
子供の軽口ではあるが、もっと華やかな装いをすれば良いのにと、当時は考えないでもなかった。
「奥方様は、元々とても綺麗」
そりゃ、ルカ達には甘い顔をするからだろうと息子は思う。だから、勿体ないというのには賛成だった。
「いっつも怖い顔してよ。溜息なんか吐いてて不景気だし、それに、あの視線。冷た過ぎるだろ」
偽りなき、息子からの評価である。
彼からしてみれば、母親は大抵は何かを考えているんだろうな、みたいな澄まし顔をしているし、たまに怒ると視線も冷たい。
「それは、オルトが悪い。わざとなの?」
実に心外であった。酒場で管を巻く連中と違い、オルトには冷たい視線で躾られたいなどという、変わった趣味はないのである。
「なわけねーだろ。あの、変なおっさんでもあるまいし。……まさか、アレが?」
最悪の想像だった。ジーノの雇い主だという男。王都から来た監査官だというが、仕事もせずによく遊びに来ている。もしも、アイツが母ちゃんの男なら?
「変な想像させんなよ。気持ち悪ぃ」
「それ、勝手に変な想像しただけだよね」
なんとなく、止まってしまう二人。何故だか、同時に息を吐く。
「それにしても、おせ……」
「たっだいまー!」
遅いな。と言い切る前に、賑やかな帰宅の挨拶が響いた。こんな声を出すのは、リナしかいない。
確か、アイツは今日は。そう考えたオルトの耳に、もう一つの声が届く。
「フィオナも帰ってきましたよっと」
アイツらなら、何か聞いているかもな。立ち上がるオルト。
「休憩しようぜ」
キエッリーニの次期当主はそう言うと、玄関口に向け、「おかえり!」と怒鳴り返した。
いつも聞こえる「おかえりなさい」が聞こえない。
「なんのつもり? 自分で歩ける」
「ま、いーじゃねーか」
彼は従姉妹を抱え上げると、肩に担いで扉へ向かった。かなり良い時間なのに、母ちゃんはまだ帰って来ないのかと、飯は、どうするのかと思いながら。
「何も、聞いてないけど? 今も、繋がらないわね」
一息にエール瓶を煽ったフィオナの言葉に、ルカが明らかに気落ちをしている。
「婆やも一緒なのに、何かあったのかな?」
真剣な表情をするリナであるが、菓子を貪り食っていた。住み込みの侍女達が用意してくれたものだ。
「行政府行きは午後過ぎ。特にそれ以外の所用は伺っておりません」
彼女達も居間に集い、やや途方に暮れている。食事の用意をしておくべきか、判断がつかないのだろう。
「悪い。すまないが、夕食の用意を頼めないか? 母ちゃんが帰って来ても、腹減ってるだろうし」
オルトは次期当主として、判断を下している。ピンと背筋を伸ばす侍女達。
侍女の癖に、リナは立ち上がらなかった。
「かしこまりました」
一斉に瀟洒な礼が返るも、一人だけ返事がない。
それは菓子を貪るリナであるが、ルカを膝に乗せている。
構わないのだが、コイツに侍女の自覚はあるのだろうか。
「ルカ様は? 奥方様からの交信とかないの?」
そのルカの表情へ浮かぶのは、焦燥。
「ない。呼んでも返事がない。届いてるかも、わからない」
オルトもそれを感じていた。何かが、おかしい。
今更になって、そう感じ始めている。
「ちっと、情報と状況を整理しようぜ。フィオナ、行政府職員に問い合わせは出来るか?」
もうすっかり日は暮れていた。
こんな時間に帰って来ていない事なんて、オルトの今までの記憶にはない。
ましてや、足取りが掴めないなんて事も。
「議会の傍聴。閉会前にはお戻りに。ね……」
「それなら、そう遅い時間じゃねーな」
呟いて、考え込むフィオナ。
「ちょっと、他にも聞いてみるわ」
交信の術式には、高い集中力が必要とされる。らしい。だから、フィオナへの声掛けを控える。
使えないオルトにはわからぬが、そうそう都合良く使えるものでもないそうだ。
オルトは、顎を撫でていた。
「……ない」
ぽつりと漏らされたのは、ルカの一言だった。
さっきから、交信を試みているのだろう。
いつも冷静なルカとは思えない、落ち着きのない顔をしていた。
「大丈夫。婆やと一緒なんだから」
「う、うん」
ドライフルーツをルカの唇に押し付けながら、リナが言う。ルカを抱えたまま、手元に「荒縄くん二号」を用意して。
「足取りが、掴めれば良いが」
言葉が漏れてしまうのは、共有したいからだった。
本議会がどれだけ紛糾したとして、終わらない会議とはならない。遅くとも日中で切り上げられた。
ましてや、その前に退席している。多少の寄り道があったとしても——。
「何人かから、目撃証言。四番街へ婆やと向かったみたいね」
フィオナがまた、エール瓶を傾ける。
行政府へ繋がる白き道。その一角にある繁華街であり、商店街の事だった。
オルトの頭に嫌な記憶が蘇る。
以前、リナと共に巻き込まれた四番通り商店街での銃乱射事件。
「あの辺りは入り組んでいるよね。人通りは多い方だと思うけど……」
その傷跡はまだ癒えず、けれど人々はその上で日常を送っている。死者が出ていない事だけが、せめてもの慰めだった。
「ふぅ……」
息を吐き出すオルト。
あまり得意でない頭を使っていた。
だが、ここで落ち着いていなければならないのが、男の意地だった。
キエッリーニは女所帯である。最も年長な兄としては、妹分達に不安を与えるつもりもない。
「あまり悪い予想をしたくはないが、事件、事故の可能性も、頭に入れておいてくれ」
けれど、覚悟を持って貰わねばならなかった。
ルカとリナの身が竦むのを感じられた。
まだ子供の二人には、酷であろうとも。
「いや別に、悪い事が起こったと決まったわけじゃねーからな? お前らが、飛び出してくのが、俺は心配で……」
どうしても、締まらない言い訳が出てしまう。
格好をつけるなど、柄ではないのだ。
けれども——。
「ふふっ。アンタも、言う様になったじゃない」
「流石、お兄様だろ?」
それが、母からの教え。
「流石ね、弟様」
「俺の方が歳上な」
理と利による赦しに必要なものだと息子は、そして娘達も理解しているのだから。
柔らかく微笑むフィオナの声に、ルカとリナ、二人の肩から力が抜けてゆく。
その表情も声音も醸し出す空気感も、どこかの誰かによく似ていた。
「あっは。でも、多分どちらもないわね。だからこそ妙なんだけど。もしかして、エリーチェで何か?」
フィオナの言う事はわからない。わからないながらもオルトは、神妙に頷いておく事にする。
「どういう事?」
疑問を口にしたのはリナだった。ルカも視線でフィオナを追っている。
彼女は喋れない。また新たなドライフルーツ、大きめな林檎を、口に放り込まれたせいだった。
「アントニオ様から聞いているのだけど、彼が不在の時には奥方様に、護衛がつけられてるのよ」
フィオナは、ゆっくりと語る。
「はぁ?」
疑問を漏らしたのは、自分であった。オルトはそんな話、一度も聞いた事がない。どころか——。
「あー、アンタ達と、アタシも含めてだけど、一緒の時にはいないわよ。リナと婆やだけだと、付けてるんだっけね? 騎士三名」
なんで、そんな回りくどい真似を? そう考えてしまう。護衛を付けるなら、いつだって付ければ良い筈なのに、何故? そう思ってしまう。
「はぁ?」
だからこそ、鸚鵡返しにもなった。
「護衛も監視も大差ないし、そんな事をされてるなんて、気分は良くないでしょ? 気遣いよ。多分」
よくわからない話であった。ぐぬぬと唸っていたのは、やはりオルト自身であった。
「なんで、俺達がいると付けてねーんだよ?」
その意図がわからない。
「当たり前じゃない? アンタ達、どうせ気付いて揉めるじゃないの。受け入れて、慢心されても経験にならないし。まぁ、私の時にも付けないのは、納得出来ないけど」
まさに正論だった。出掛ける前に騎士達と揉める事など、目に見えていた。
オルトはいつだって、護衛のつもり、守るつもりでいる。恐らくは、フィオナの予測が正しい。
「という意図だと思うけど、結局はアントニオ様も、奥方様が心配なのよね」
呆れた様に肩を竦める妹分に、オルトは返せる言葉がなかった。
「なんで、婆やと私だと?」
リナが首を傾げる。
「んなん、気付かねーだろお前じゃ。婆やは護衛なら大歓迎だろうし。ああ、だからか……」
リナに言ってやる事で、オルトにも小さな気付きがあった。
多分母ちゃんなら、そんな人員配備は不要だと言う。オルトだって言うし、ルカだって言うだろう。
「騎士三名は、魔銀からだし。過保護よね」
魔銀と言われ、思い出すのはあの男の顔だった。
柳のジーノ。二つ名の通り飄々として、捉えどこのない無頼。
「なら、安心かもですねー」
気の抜けた様な、リナの声が響く。再びの咀嚼音。菓子のものだった。
だが、オルトは考える。
魔銀であれば、手練である事に違いない。
意外にあのおっさんはマトモだし、腕は立つ。
ここ暫く稽古を付けて貰っているが、未だ勝ち筋が見出せなかった。
「魔銀って言っても、ピンキリだよなぁ……」
ジーノとは、戦闘にもならない。大抵ボコボコにされている。だが、騎士達とは加減があろうと戦闘の体裁が保てた。
同じ位階の中でも、力量に差があった。
「どったの? 若様」
再びのリナの声。菓子を一つ、奪ってやった。
サクサクとした焼き菓子を、口に放り込む。
「はんへもへーほ」
口の中が渇いた。エールが一杯欲しくなる。
「だから、秘密の護衛。奥方様ってば、自分の価値を低く見積もっている所あるし。アントニオ様も、気苦労が絶えないわよねー」
そんなオルトの願望とは裏腹に、フィオナは楽しげに話していた。ルカへ向けて。
「父上は、不器用」
ルカもまた、訳知り顔で頷いている。何故だか、少し得意そうだった。焼き菓子を咀嚼する。
「まぁ、母ちゃんってば自分の事を政治の駒として見てるところあるからな。危なっかしいんだわ」
だからこそ、父ちゃんがいないなら、俺が守ってやりたいと考えた。遠い昔の事である。
「奥方様も、不器用。不器用同士。私の友達だって、そう言っている」
何故か、ドヤ顔を晒す従姉妹であった。
「まぁ、護衛が魔銀なら、滅多な事もねーか」
トラーパニの港は混乱もあり、決して治安が良いとはいえない。胡散臭い連中や破落戸なんかもいた。
「そうだねー。じゃ、護衛の人がいるなら聞きに行こうか」
立ち上がったリナが、もう待てないとばかりにルカの身体を抱き上げる。
「ま、副長なら何か聞いてるかもね」
そういう事か。そう納得すれば、オルトも立ち上がるしかない。
——珍しくルカのヤツ、嬉しそうにしやがって。
「飯の前に、副長に聞きに行こうぜ」
その副長は騎士団の半数を率い、待機している。
そして彼らが駐留するのはここ、キエッリーニ邸であった。
歩き出そうとする四人。
いつまでも、変わらぬ波の音。
けれど窓から入る潮風からは、もう昼の陽射しの熱も奪われてきている。
そういえば、ルカ達の夏季休暇も明日までか。
そんな事を思い出す。
四人揃って空を見上げた。
明日も暑く、なりそうだ。
夏の星明かりは朧に瞬いて、何も変わらない。そこに——。
不穏を報せる警報が鳴り響いた。
災害、津波、大禍、顕現を報せる音。
——四番街二丁目六番地路地裏にて、意識不明の老婆を発見。歳は七十代程で白髪。体型は——。
足が、止まる。
——付近には重傷者三名。いずれも男性で、意識不明。救急隊は急行せよ。繰り返す——。
お読みいただきありがとうございます。