フオリエ・ナスコシテ   作:カズあっと

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72話 柳達の憂鬱。

 

「やれやれ……」

 

 息を吐いたのは男。背は高くなく、痩せている。

 服装は簡素な着物であり、やたらと豪奢な椅子に腰掛けているのが似合わない。

 

 彼はグラスを傾けて、琥珀色の液体を呷った。

 舌先に、カッとした刺激。続くのは、長く燻されて生まれた癖のある香り。

 

 口内に広がる甘味は華やかで、良い酒であるのは間違いない。グラスを掲げ、酒越しに窓の外を見る。

 夜だった。そして、庭がある。

 

 室内の華やかな灯に照らされて、整えられた庭園が広がっていた。

 

「美味く、ねぇなぁ……」

 

 ここはトラーパニ行政府迎賓館。その一室。

 トラーパニ市が豊富な財政を背に築き上げ、賓客を持て成す為に用意した客室である。

 

 この場所を寝ぐらとしている男だが、彼は別に来賓などではなかった。

 その客の護衛として雇われて、ここにいる。

 その客本人は、今夜この場所にいないのであるが。

 

「上手くやりおった癖に、不景気な。なぁ、ジーノ」

「うるせぇよ」

 

 男の名はジーノ、(ウィロー)のジーノ。

 王都ロウムでは、それなりに名の通った無頼。

 彼は声を掛けてきた同僚へ、舌打ちを返した。

 いけすかない同僚は大きな鞄を開き、酒瓶や煙草を詰めている。高いものばかりであった。

 

「飲まねーし吸わねー癖に、そんなん持ち帰ってどーすんだ?」

 

 呼びかけようとして、止まる。同僚の名が、出てこなかったせいだった。

 

「酒や煙草などの嗜好品ほど、便利なものはない。売り物にも、贈答品にもなる」

 

 どうせ、明日までの同僚だった。王国財務省からの指名依頼、「トラーパニ市へ赴く監査官の護衛」は、明日で終了となる。

 

「……これは、エンナの三十年ものか。ふっ、詰め放題とは、ありがたい。監査官殿、様々だな」

 

 迎賓館に据えられた嗜好品の数々は、有償で提供されている。高い酒も、上等な煙草もだ。

 ジーノが口にしている酒だって、そうだった。

 それらは後々精算される。王国財務省の経費によって。

 

 ジーノは懐から煙草を取り出すと、火を付けた。

 独特な匂いと共に、紫煙が立ち昇る。

 

「臭いぞ」

「うるせぇよ」

 

 顔を歪めた男へ、ジーノも唇を歪める。

 

 ——ああ確か、先導者を自称していたか。いいところ、煽動者にしかなれていないが。

 

 そんな感慨を持ちながら、ぼんやりと部屋の中を眺める。

 この部屋は、あの場所によく似ていた。それも、そのはずだった。

 白亜の城ともされる行政府迎賓館は、白の屋敷と称される、キエッリーニ子爵邸を模して建てられたものなのだから。

 

 

 

 腕の中で、女の身体の柔らかさを感じている。

 ジーノは小柄な女を横抱きし、港にある倉庫街へと向かっていた。

 陽が暮れ始めてはいるものの、まだ潮風は昼の熱気を孕んだままでいる。

 

 ジーノは僅かに滲んだ汗の匂いに、僅かながらも眉を顰めた。

 彼の、ものではない。彼は汗などかかない。自律神経の制御は、狂いなく出来ている。

 

 嗅いだのは、茉莉花の香りと女の匂い。

 匂いが記憶を刺激する。

 

 ——ときに、ジーノ殿? ご協力は、仰げますか?

 

 綺麗な声で、綺麗な女だった。

 立派な母親で、佳い女だとも思った。

 

「悪ぃな。こっちも仕事なんだわ」

 

 見下ろせば、黒い喪服に包まれた白い肌。紅を引かない寡婦の唇が、静かな寝息を立てている。

 

 トラーパニ領主代行にして、キエッリーニ子爵家当主代行、アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニは魔銀位階の冒険者、(ウィロー)のジーノの腕の中にいた。

 

 ジーノは進む。引き渡しの場所へと。

 誰かに見られる事はない。

 気配を完全に消した彼の姿を捉えられる者など、こんな田舎にそう何人もいなかった。

 

 それに、例えいたとして——。

 

「見回り、ご苦労さん。ちょっと休んでな」

 

 ドサりと、男が倒れた。港湾警備をしている護衛団員だろうか。

 こうやって、視覚が像を結ぶ前に意識を刈り取ってしまえば良い事だった。少しだけ「落とし」てやればそれで済む。

 ジーノは崩れであっても武術家だ。余計な血を流さずに済ます為、武はあった。

 

「……うっ」

 

 形の良い唇からは呻き声。

 

「良い子で、お寝んねしておきな」

 

 唇を塞ぐのは二本指、の間で挟まれた白い布。

 睡眠へ誘う術具であった。それに医療用麻酔を染み込ませてもある。

 精密な身体操作を得意とする無頼にとって、薬剤の調合も得意分野と言えた。

 

 ジーノはこの女だけには当て身を使っていない。「あのお方を、決して傷付けてはならぬ」それが依頼人からのオルディネなのだから、当然の処置である。

 

「アッチはまだだろうが……」

 

 低い呟きは風の中に消えた。

 楽な依頼かと思ったが、存外に手間取った。

 付かず離れずの位置に、護衛があったからである。

 

 奴らはまだ目覚めないはずだ。そういう風に打っている。

 

「チッ。余計な手間、掛けさせやがって」

 

 ついぼやいてしまうのも仕方ない。前から一人。片手を上げ、トンと顎先を揺らした。

 ドサリ。

 

 アイツらはよく訓練されていた。あの剣の騎士であるのだから、当然か。

 そんな、納得とも敬意ともつかぬ気持ちを抱いてしまう事が忌々しい。

 

 若い頃に投げ捨てたはずの、武人の魂は無頼であるジーノにとって、邪魔でしかなかった。

 

 ——そういや、副長だったか。アイツも随分と面倒だったな。

 

 腕が立ち、傷を恐れず、死を厭わない相手程、面倒なものはない。

 だからこそ、副長の相手をした時には運動性能を奪い、顔の皮まで剥がしている。

 

 人数を揃えられ、足止めに徹されてしまえばジーノとて、容易に切り抜けられる気はしなかった。

 

「だが、まぁ」

 

 アイツらが目覚めた頃には日もとっぷりと暮れている。どちらにせよ、手足も奪ってもいた。

 

 目が覚めた所で、すぐに身動きは取れまい。そういう奪い方をしている。

 今夜を凌げば、どうとでもなった。

 王都まで、あの剣も追っては来られまい。

 

 ——この女が、いる限りな。

 

 誇り高き代行の存在は、ジーノにとっても命綱に等しい。

 腕の中を見る。

 細く軽い癖に、上下する胸だけは豊満だった。

 

「まぁ、えらい別嬪だがよぉ……」

 

 彼が問題とするのは、そういった練度の騎士達が、この女を護っていたという事実のみ。

 騎士団が如何に練度があろうとも、腕が立つ者など有限でしかない。

 

 魔銀——冒険者位階での同格。実力はピンキリといえど、ジーノ自身と同等の戦力評価を組合から受けている。念には念をと、少々酷な事をした。

 

 つい、視線が揺れるものを追ってしまっている。

 目に毒であった。

 この女の息子、あの糞餓鬼の同級だという若い奴だけには、少しだけ罪悪感が残った。

 

 柳のジーノ、かつては武人を志した男が、道を外れたのも十九の歳の事。

 ほんのそれだけの、感傷であった。

 

「それにしても脂の乗った年増ってのは、こうも男を狂わせるんかねぇ……」

 

 既に人通りはない。遠く岬の灯台が、火を入れ始めている。

 

 思い出すのは二人の男。あの剣と——。

 

「ったくよぉ、悪趣味な建物もあったもんだな」

 

 港の倉庫街。

 その一角にある建物は、かつて、とある貿易商が利権拡大と自らの楽しみの為に用意した、秘密の社交場であった。

 

 一見としては、やや趣味の悪い邸宅に過ぎない。

 灯りも落ちていて、現状では公的な名義人も登録されてはいなかった。

 

 血の香り、人の脂の匂い、吐瀉物や排泄物の臭い。

 甘美な香、酒の匂い、煙草の臭い。

 鼻が曲りそうな程、人の欲望を煮詰めた様な臭さがここにはあった。

 

 ジーノの鋭い嗅覚は、例え洗い流そうと、上塗りしようとも消えやしない、欲望の残り香を嗅いでいる。

 彼はこの場所で行われていただろう様々を想像し、唇を歪めた。

 

「まぁ、野良犬に噛まれたとでも思いねぇ」

 

 我知らず、女へと囁き掛けていた。入り口は知っている。石壁の一つが、隠し扉となっていた。

 潜り抜ければそこは、地下へと続く階段。

 

 ジーノは足音を立てず、ただ女の寝息を聞いている。

 忌々しい事に、獣染みた欲望に炎が灯った。

 だが、自制する。柳は折れず、曲がらず風にそよぎながら、降りてゆく。

 

 場所にこびりついた怨念は、人の心を狂わせるとされている。

 単なる建造物が、それ以上の意味を持つなんて、幾らでも聴いた話であった。

 裏社会で生きて来た、ジーノは知っている。

 

「……俺は、悪くねぇ」

 

 異界は人を狂わせる。

 ならばこういった場所もまた、異界と呼んで良いだろう。人の業である武とは異なった理は、彼にとっての異界であった。

 

 どんな手管を使ったのかまではわからぬものの、監査官が確保していた建物。

 獣の唸り声にも似た声が聴こえてくる。つい、眠る女の顔を見ていた。

 

「ま。アンタにゃ気の毒だが、天井の染みでも数えておくといいさ。一晩の愛情のお相手くらい、良い大人なんだしな」

 

 そうは言ってみたものの、胸糞の悪い臭いだけは、ただただ不愉快なだけだった。

 

「待たせたな」

 

 だが、そうも言っていられないのが、雇われだ。

 荷物の受け渡しは、終えなくてはならない。

 前金を、既に受け取っている。

 

「おおっ、おおっ、おおっ……」

 

 海雷獣の雄叫びにも似た声。酒焼けした喉は呻きにも似ていた。

 

「どうどう、落ち着けや」

 

 黒く焼けた肌が、赫く染まっている。

 だらしなく開いた唇からは涎が糸を引き、焦点を合わす事のない瞳には、涙が滲んでいた。

 

「き、き、き、貴様っ!」

 

 歯を剥き出して、叫ばれる。

 怖いというよりも、気持ち悪かった。

 

「はいよ。わーってる、わーってるよ。どう、どう、どう」

 

 監査官の見せる色は、この場所よりも醜悪で。

 その臭いは、男の欲望そのものだった。

 ジーノは女——アウグスタの身体を床へと降ろす。

 

「儂の、儂の……」

 

 奥に置かれた豪奢な寝台に、真新しいシーツが敷かれていた。清廉な、汚れなき白が。

 それでも、醜悪な臭いだけは隠せない。

 そうであっても——。

 

「女神よ、母よ。姉妹にして娘であり、師である恋人よ。……儂の、最愛の妻よ。汝、女でありけり」

 

 コレよりは、マシだった。

 

「あ……」

 

 ジーノが漏らした声は、彼らしくもないもの。

 通称、「奥方様」の高い踵の靴は、どこで落としていたのか脱げていた。

 その甲高の白い足へ、男が額を擦り付けている。

 

 男はこの場に二人しかいない。ジーノの頭はココにある。コメカミを、抑えた此処に。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……、ウッ……」

 

 発情した犬の様な吐息の後に、一瞬の叫び声。

 臭みが強まった。

 

「ふぅ、ふぅ、ふぅ……」

 

 その姿勢のまま、腰を上下する老人に、無頼は目を背ける。

 宙空で振られた腹は、突き出ていた。

 

「女神よ……。最愛よ……」

 

 それよりも、下腹部が怒張している。

 

「……おい、おっさんよ」

 

 雇い主への礼儀さえ、通す気になれない。

 その先から染み出し続ける濡れは、どう見ても救いがなかった。

 

「儂の事は、愛の使徒と呼べ」

 

 頭の方も救い様がない。何を見て、何を感じてそうなるか、ジーノには理解が出来ないでいる。

 だが、釘だけは刺しておかなければならない。

 

「どう楽しむかは勝手だが、『壊すな』よ」

 

 この女が無事であるならば、剣の鎖となった。

 もしも失われたり、壊されたりされてしまえば、計算が狂う。

 ジーノはもう、女を、アウグスタを見ない。

 しかし彼とは対照的に、老人は彼女を見ていた。

 

「罰当たりを言うでない」

 

 やがて、深く息が吐かれる。

 首を支え、背に腕を回し、膝裏へ手を差し入れて。

 まるで壊れ物でも扱うように、ゆっくりとその身体を抱き上げた。

 

「おいおい……」

 

 嫌になるくらい、丁寧だった。らしくもなく、吐き気が込み上げてきている。

 

「壊すだと? 神聖なる愛に、何を言う」

 

 先ほどまでの醜悪さはどこにもなく、至極真面目な顔をしている。

 

「ご案内いたしますぞ。我が愛よ」

 

 そのまま、寝台へ運んでいく姿を見送った。

 

「敬虔なもんだねぇ……」

 

 皮肉にも、なりやしない。ただ酷く、気味が悪かった。適温が保たれていようとも、肌が粟立つ。

 

「そうじゃ、ご苦労だったな使徒よ。約束の報酬であるが——」

 

 嫌に事務的な解説をされる。王国行政府財務省で、受け取る事になるらしい。

 手間ではあるが、王都へ帰らなくてはならない理由が、一つだけ増えていた。

 

 ジーノは階段の上へ顔を向け、踵を返す。

 これ以上、関わりたくもない。

 だから、信じるしかなかった。

 

 あの「狂った」剣が錨を失えば、何の躊躇いもないだろう。

 奴は来る。どこへ逃げようと、きっと来る。

 破滅に向かおうと、止まれやしない。

 

 だからこそ、女の身一つが分岐点となった。

 船は、鎖で繋がれるからこそ道具となる。

 

「神頼みとは、情けねぇ……」

 

 狂いはしても、官僚だ。まさか、殺しはしないだろう。

 

 下の方から、絶頂の雄叫びが聴こえてきていた。

 

「……生きてさえいりゃ、あの女ならちゃんと割り切るさ」

 

 女の声は、聴こえない。

 悲鳴も、嬌声も。

 それだけが、無頼の無聊を慰める。

 

 理と利による統治の根底は、赦し。

 それを掲げた「トラーパニの母」と呼ばれる女を信じ、建物を出た柳のジーノは、星空を見上げた。

 

 

 

 それから時が経ち、夜も更けてきたというのに星空は、何も変わらなかった。

 立ち上がったジーノはテラスへ出ると、天を大きく仰ぎ見る。酒の半分が残るグラスを握ったままに。

 

「ジーノよ。暖めている商売がある。王都に戻ったら、お前も一枚噛まないか?」

 

 その背へ、煽動者の声が投げられた。自信に溢れた力強い声音が。

 ジーノの気は進まない。

 

 今後十年は遊んで暮らせるだけの金ももう、約束されている。

 多少手続きが面倒であるが、そうでなくとも三年は不自由しない現金も、手にしていた。

 

「まぁ、単純な事業だがな。都市開発用の再生資源を販売するだけだ。元手となる霊核ならたんまりとあるし、金も大口とは話が着いているし、王国行政府からの補助金も期待が出来る」

 

 振り返ったジーノは、絵に描いたパンを語る男の顔を、マジマジと見ていた。

 酔っている。酒ではない。もっと、別のものに。

 

「どちらにせよ、今回の仕事は明日までだろ? 愚図の監査官はなんでだか帰ってこないし——」

 

 見てくれは全く違うのに、あの爺と同じ貌。

 

「オメェ、あの女の事は、いいのかよ?」

 

 コイツもまた、あの後家には随分とご執心だった。

 あそこまでは壊れていなくとも、五十歩も百歩も変わりはしない。

 

「はっ! あの母を騙る淫婦の事なぞ、どうでも良いわ! そんな事よりな。あの女も、再生資源をこの先の商売軸へと据えているらしい。確かな線だ」

 

 まったく、どうでも良さそうではなかった。

 そう、指摘する気にもなれない。

 単なる、一時限りの同僚だ。

 同胞でも友人でもない相手への親切など、幾ら金があってもヤル気はなかった。

 

「商売には先行者利益というものがあってだな、だからこそ、先手必勝などとも言われている。俺は早速朝一の便で、ここに置いていた霊核を王都へ送ろうと考えているんだ」

 

 夢を語る少年の様な顔。己の正しさを疑わず、自信に溢れた声を出せるこの男——煽動者は一角の者なのかもしれなかった。

 

「だからな、ジーノ。監査官のお守りは明日までであるし、俺達に出る幕はない」

 

 監査最終日。その行動予定はしっかりと組まれており、ほぼ護衛の意味がない。

 トラーパニ行政府から王国財務省に正式な引き継ぎがされるので、ジーノの役目は朝までだった。

 

「俺と共に、日の出に併せて王都へ出よう。兵は拙速を尊ぶ。悪い話ではないぞ。給金は弾むぞ?」

 

 ここで利害が一致する。

 その提案は、魅力的なものだった。朝一番の王都までの船便は、出港時刻も決められていた。

 

「……ああ、悪い話じゃ、ねぇな」

 

 生返事にさえ、コイツは嬉しそうな顔をする。

 演技だか本気だか、それはジーノにはわからない。

 

「ハッハッハッ! ならば、早速荷造りをせんとな。まだまだこの街からも、金を吸えるぞ。俺の商売は、完璧なんだ!」

 

 あんな、規制一つで骨抜きになる商売が完璧ねぇ。

 そうジーノは思うが、口にする事はない。

 共食いじみた商法に、先はなかった。

 

 ——ああ。だからコイツは、いつも焦ってやがんのか。……どこまで、逃げ切れるもんだか。

 

 室内へ戻った煽動者は、意気揚々と荷造りを再開している。アレは証文で、アッチのは契約書か。

 有言実行とは、感心な心掛けである。

 

 この男がこの街へ広め、あの女が抑えた商法の、確かな残滓。

 

「俺は、有能なんだ! どこだって、結果を出して来た! 結果を出し続ければ、あの女だって……」

 

 ああ、救えねぇな。そんな女じゃねーよ。盲め。

 

「柳のジーノ、出てこいやぁ!」

 

 冷笑が浮かびかけた時。

 バカでかい、能天気な小熊の咆哮が轟いた。

 

「悪のお魚屋さん! 出て来なさい!」

 

 ついでに、なんか緊張感のない小娘の声も。

 

「ハッ! 存外に、早かったじゃねぇの」

 

 ジーノは身を翻す。

 

「な、なんだ!? 何の話だ!?」

 

 狼狽える男は放っておく。もう今は、戦士や武人でない者が存在して良い場所じゃない。

 

「いつも美味しいお魚、ありがとうございます!」

 

 なんか場違いな侍女までいる事は、目を瞑る。

 

 ——まぁ、最後に稽古の一つでも、着けてやっか。

 

 時間にすれば、たったの数日。だが悪い時間ではなかった。ジーノは稽古を付けてやった日々を、そう思い出す。

 

「お、おい待てジーノ! お前は俺の護衛だろ!?」

 

 大きな勘違いだった。それは依頼に含まれたものではない。必要上の、ついでであった。

 それがわからないから、男は喚く。

 

「うるさい」

 

 ゴツンと響く、重い音。

 

「成敗」

 

 淡々とした、澄んだ声。

 

 ——あのお嬢ちゃんの相手は、したくねぇなぁ。

 

 笑い出しそうな気分を堪え、魔銀位階の冒険者、柳のジーノと呼ばれる無頼は、次期トラーパニ子爵の前へと躍り出た。

 

 既に日付は変わり、風は凪いでいる。

 空に叢雲がかかり、夜に笑うは朧月。

 

「ぶっ飛ばす」

 

 猛る小熊に。

 

「やってみろ」

 

 笑う柳。

 

 今こうして、真夏の夜の夢にも似た劇場の幕が開ける事となった。

 

 

 

 




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