トラーパニ行政府迎賓館、その庭先を変わらぬ月明かりが照らしていた。
連続する打撃音に射撃音。そして荒い息の音。
「遅ぇよ、若造」
空を切る。拳を握ったオルトの左腕が肘の先から飛ばされた。
「……」
「いけっ! パンチだオルトん君!」
幼い少女——ルカが黙したままに引き金を絞れば、年若い少女——リナが号令を掛ける。
そして筋骨隆々とした若き巨漢、オルトは叫んだ。
「痛くねぇ!」
再び空を切った右足を、枯れた柳にも似た男が砕いた。
「痛ぇ! じゃなくて痛くねぇ!」
つい本音が漏れてしまっても、本音を隠すのは男の意地だ。そう彼は信じている。
「くっそー! フェイント失敗。もいっちょいけ! オルトん君。諦めの悪さが、君の武器だ!」
だからこそ侍女服姿の少女、リナも迷わない。ただ癒し、意地を張る背中を支えた。
「おじさん、そろそろ疲れてきたんじゃない?」
「お嬢ちゃんこそ、おねむじゃねーんか?」
無表情のまま銃声を鳴らし、問い掛けた少女ルカへ向けて柳の男、ジーノは唾を吐く。
「あっかんべー」
難なく躱したルカが煽るが、隙を突こうとしたオルトのタックルは切られた。
柳のジーノは汗さえ掻かず、そのまま膝で顎を打つ。
「痛くねぇ!」
仰け反る巨漢は倒れない。
「ったくよぉ……。っと、ほい」
ジーノはオルトの首と手首を掴んだままに身を寄せて、軽く脛を払った。
巨漢が宙を一回り。
腕を離したジーノだが、その足はオルトの頭部を踏み抜かず、飛び退いていた。刃がそこに立っている。
「まだまだ行くぜ! 今日こそ一本とってやる!」
「良い意気だ。が、今日で最後だろうからな。お前さんには、永遠に出来ねーかもしれねぇぜ?」
威勢だけは立派な若造に鼻を鳴らしたジーノだが、状況は膠着していた。
実力差は歴然であるにも関わらず、彼は子供達を倒す事も、この場から逃げ出す事も出来ずにいる。
「ど……らぁ!」
鋭い連撃からの踏み込み。打撃は撒き餌で、本命は足指を潰す技。
コイツには、何度か見せているもの。そう嗤った柳のジーノは、前蹴りを放った。
破砕音。割れる骨。壊されたのは左膝。
「膝の抜きが甘ぇ。歩法がまだまだ身に付いてねーんだよ。首、晒したな?」
必然、崩れ落ちる巨体へジーノは銃弾を躱し手刀を振り被る。狙いは、延髄への一撃。
「——
だが、オルトの後ろにはリナがいる。小熊は顔を上げ、前蹴りを放った。治ったばかりの左膝、その下を鋭くしならせて。
ならばジーノは飛び退くまでだ。ややあって、彼は首を傾げた。
「あん? 珍しいなお嬢ちゃん。弾切れか?」
この時、ルカからの銃撃がなかった。彼女の視線は何故だか遠くへと向いていて——。
「ん、なんでもない。弾はまだまだある」
再びの銃撃。難なく躱したジーノだが。
——ゾクリ。
悪寒が走った。肉体の制御は出来ている。はずなのに、自律神経の制御が狂う。
ほんの一瞬だけルカの見ていた方向、港の倉庫街へと視線を向けた彼は聴く。
鋼の獣の咆哮を。そして、顎へ強い衝撃が走る。
身体が宙へ浮いている。飛んでなく、跳んでもいない。足裏に、大地の感触がなかった。
「いっぽーん! もういっちょ! トドメだオルトんくん!」
リナがうるさい。だが、そんな事さえ気にならず、オルトは自分の右拳を見ていた。
硬い物を殴り抜いた感触。確かなもの。
「流石は馬鹿力。当たれば大したもの。当たれば」
オルトはウンウンと頷くルカの嫌味も気にならない。右拳に走る痺れと痛み。
人を、殴り抜いた手応え。
その感触が本物かどうかさえ、彼にはわからないでいた。
「つつ……」
渋い声に顔が自然と上がった。背中では「さっさとブチ殺せー」などと相変わらずリナがうるさい。
「……ぺっ。馬鹿力がよぉ……」
軽い音と共に地面に転がる白く硬い物。
駆け出そうとするリナを押し留める。
確かに殴り飛ばしたが、相手は魔銀。無頼である柳のジーノであった。
これだけで、勝てるはずもない。
その実力は身に染み付けられている。脳筋だの馬鹿だのと言われるオルトだが、こと戦闘においての判断はついていた。
風が吹く。夏の終わり、その近くの潮風が。
月に照らされた子供と大人。たった四名は一幅の画の様に静かに佇む。動きはなかった。
「ああ、そうだな。確かに一本だ。よぉ、小僧」
鬱々と、平坦な声で呟くジーノ。飄々として、捉え所のない、風にそよいだ柳。
柳は起き上がる。そして息を吐いた。
「ご褒美だね! お魚屋さん!」
「ちげーよ」
オルトの足からふっと力が抜けた。ガクリと膝を突きかける。何とか持ち堪えたが。
「……重い」
「オルト、ちょっとは痩せなよ」
ルカと、ついでにリナに支えられている。
ポンポンと銃を放り捨てたルカが、ここまで来ていた。リナは、あまり役に立ってはいない。
「気抜くと、しんでーな。リナは大丈夫か?」
「とーぜん! ゲロマズに耐えた私に敵はない!」
紫色に発光している。とても頭の方は大丈夫だと思えなかったが、オルトは目を逸らした。
かなり、疲れている。
当然だ。何度、治癒を受けた。
治癒は肉体の再生さえもする。折れた骨も繋ぐし、壊れた肉だって癒した。その代償は、一つ。
「リナ、ジーノは楊枝屋さん。間違えたら失礼」
術力。生命力の余剰。つまりは命そのものだ。
「そっちも、ちげーよ」
ジーノは口元を拭う。僅かな裂傷も、内出血による腫れさえも見られない。——自己治癒。
柳には、まだまだ余裕がある様だった。
ならば男として、オルトは備えねばならない。
「……まだ、やるか?」
尋ねれば、ジーノがククッと笑う。
「……急げ。四番倉庫街、悪趣味なアレだ」
「何、言ってんだ?」
オルトは首を傾げた。だが、直ぐに思い出す。何のためにジーノの下へ来た。それは、この武術家「一発入れる為でなく——。
「——母ちゃん!」
「待つ。父上が向かってる」
ルカに頭でグリグリされた。脇腹を。
「えっ!? アントニオ様が!?」
リナも驚いて、足を踏んでくる。小指であった。
「いてーよ。兄貴が、もう戻ってんの?」
オルトが疑問を口にすれば、ルカは無言で頷いた。そして、柳のジーノは苦笑して。
「やっぱ、そうかい。悪ぃなガキ共、ちょいとばかし褒美はお預けだ。俺ぁ、逃げるぜ。……の前に荷物を取って来ねぇとな」
よっと、と立ち上がったジーノは手を挙げる。降伏を示すハンドサインであった。
「……どうやら一雨、来そうだしな。あばよ」
ジーノは、行政府迎賓館客室を見ている。
空に再び叢雲が掛かり、湿った風が生温く匂った。
ジーノが、オルト達が視線を向けたトラーパニ行政府迎賓館客室に、一人の男がいた。
「つつつ……。なんなんだあのガキは……」
頭の瘤を撫でる男。
実態なき先物投資に乗った者からの資本を用い、配当とする事で莫大な富を築いた商人。
「畜生、顎まで。野蛮な糞餓鬼め……」
噛み合わせを確かめる彼は、権力を求め、王国財務省へ近付いた事により故郷、トラーパニへと帰って来る事になった煽動者であった。
「痛くねぇ!」
窓の外が、やけにうるさい。だが煽動者にはその物音に、心当たりがあった。
淡々とした「成敗」の一言で人様の頭を鈍器で殴り付け、顎にまで一撃を入れた糞餓鬼。
「くっそー! フェイント失敗。もいっちょいけ! オルトん君。諦めの悪さが、君の武器だ!」
随分と騒がしい。だが煽動者は慌てない。彼には状況が見えている。
今、不法侵入者とそのお仲間達が騒ぎを起こしている事なぞ、見え透いていた。声からは二人。合わせて三人か。そう彼は踏んでいる。
「馬鹿なガキ共が。ククッ……」
煽動者には余裕があった。彼と監査官との護衛を務める無頼、柳のジーノは魔銀位階の冒険者。
殺人も厭わぬ暴力そのものだ。
一人はあの女の息子だろう、声でわかった。
もう一人は「あの」孤児院出だという侍女か。煽動者はそこまで推測している。
「おじさん、そろそろ疲れてきたんじゃない?」
——あのガキっ!
一瞬だけ怒りが燃え上がる。あの淡々とした声は、先程も聴いたもの。しかし彼は落ち着きを取り戻す。
「お嬢ちゃんこそ、おねむじゃねーんか?」
飄々とした声。金で動く戦力は手駒のものである。
所詮は錬鉄と女子供の三人。暴力でしか生きられない破落戸に敵うはずもない。
——そういえば、あのガキは姪だったか?
煽動者は楽しくなってきていた。
ジーノが無力化した後に、ガキ共を憲兵へ突き出したりする気はなかった。
あちらは貴族で、法など曲げる。現に、新法とやらのせいで、多くの民が損害を出している。
——どうせ、女子供に甘いアイツの事だ。ならば少し痛ぶってやり、社会勉強でもさせてやろう。
歪んだ笑みを浮かべた男。彼は水差しをグラスに注ぐと一息に呷る。野蛮な劇場だ。だがどうせなら、近場で眺めておこうと。
脳の揺れが治らず、まだ覚束ない足取りで煽動者は窓へと向かった。
「なんだアレ……」
その光景は目を疑うものだった。何せ、侍女姿の少女が発光している。紫色で、毒々しくも煌びやかに。
しかも、あの女の息子は腕が飛び、脚が捥げても立ち上がる。痛みなど、ないかの様に。
破砕音。割れた骨。壊れたのは左膝。
「膝の抜きが甘ぇ。歩法がまだまだ身に付いてねーんだよ。首、晒したな?」
余裕たっぷりで腕を上げた護衛に、煽動者は思わず声が上がってしまう。
「ばっ——!」
叫びかけた罵声を焼き菓子を放り込む事で抑え、黙った。それが得策でない事を煽動者も知っている。
柳のジーノは監査官の護衛であった。
機嫌を損ねる訳にもいかず、また油断のならない糞餓鬼に狙われては敵わない。
「クソったれ! 銃は、どこだ……」
ホルスターに収めていた銃。監査官からちょろまかしたアヴェンティーノの新型が、どこにもない。
両手で扱う、鰐の鱗でさえ貫く新型だ。護身用には充分なものである。
発砲音。そして彼は見た。あの無表情な糞餓鬼が片手でソレを放つのを。
その銃弾が、粗暴な小熊の皮膚さえ貫けず地へと落ちるのを。
「——ひっ!」
何が起こったのかわからない。監査官の護衛、柳のジーノの身体が宙へ舞っていた。
魔銀位階の冒険者、暴力の専門家の肉体が。
煽動者は焼き菓子を口へと放り込む。
味はしない。早く、此処を離れなければ。
「いっぽーん! もういっちょ! トドメだオルトんくん!」
そう思った矢先に、不気味に発光する侍女からの無駄に能天気な叫び声を聴いていた。
煽動者は動けない。何がどうなっているのかさえ、わからないでいる。
気が焦る。けれども身体が動かない。何をしているジーノ、貴様は護衛だろうが。俺を——。
「ああ、そうだな。確かに一本だ。よぉ、小僧」
平坦な声で呪縛が解けた。もうコイツは役には立たないという気付きが、煽動者の脚を動かす。
反転、室内へ。出口なら非常口がある。今のうちに荷物を抱え、立ち去りさえすれば。
再起の目はまだあった。単純な暴力なんぞに屈して堪るものか。
理と利、知恵と情を用い、ここまで来たのだ。
いずれ俺は国政に打って出て議員となり、必ずや——。
——これはな、異界を生成する為の鍵だ。霊核を多く集め、これを掲げて大義を願う事で望みを叶えるものよ。尤も、都合の良い奇跡など起こるべくもないがのう。法を軽視し、暴力を良しとする輩に対抗する為の、儂ら王国財務省最大派閥、赤い獅子の切り札ぞ。
いつだか、監査官が自慢げに見せていたあの石。
それを思い出した煽動者は監査官の部屋へ走った。
アレは奴の荷物として片付けられている。そして大量の霊核も確保されている。
「聴け、この声なき声を。搾取され、踏み躙られ、それでも黙して耐え続けてきた叫びを!」
煽動者は赤き輝きを手にし、祈る。
開いた鞄からは、透き通る光。それは力そのものである霊核の純粋なる煌めき。
「俺こそが正義の代行。遂に鉄槌を下す時が来た。血に奢った者共から、この国を、我等が故郷を……」
無色が赤、否、紅へ流れ込む。男は謂れなき全能感に酔っていた。
「……あの女も、いずれわかる。俺こそが真に彼女を——いや、この街を統べるべきだと」
呟きは、静かなものだった。眩い光が溢れる。
音が消え、匂いも遠ざかる。
薄皮の様に剥がれてゆく世界。
顕現するは、異なる真実。
「おおっ、おおっ……。奥方様……」
瞳を閉じれば瞼の裏に、母の貌。変わらず儚く微笑み続ける嫋やかな女。
「ひっ」
だが世界は裏返る。像は輪郭を失い、熱が失われていった。浮かぶのは、無数の紙片の中から溢れ出す無機質な数字たち。
ソレは、人の貌をしていた。嘆き、哀しみ、苦しむ老若男女の同じ貌。
「たっ、た……」
先導者を自認する男の祈りは何処へ届く事もなく、新たな異界が産声をあげた。
「んなっ! またかよっ!」
一瞬、地が揺れた。
「……違う。リナ、下がって」
また地震かと叫び掛けたオルトだが、ルカの一言に意識を向ける。双剣を構えた相棒が見るものは。
「黒の……」
「オルト、構えて」
トラーパニが誇る、キエッリーニの白の家。を模した行政府迎賓館。その白亜が赤黒く輝いた。
覆い尽くすかの様に光が満ちてゆく。
その光を知っている。忘れるはずもない光。かつて赤い屋根の家で見た色に、
「ぐ、ぬぉぉぉぉっ!」
出ない。オルトは収納の術式が苦手であった。
「ルカ様、これって……」
震えるリナの声。あの夜見たものを思い出せば無理もない。オルトの気は逸る。またあんな怪物が出て来るならば、無手では対処しきれないからだ。
「多分、あの時と同じ。でも……」
ルカが屋敷へ向けて手榴弾を投げる。爆発で、傷一つもなかった。異界は名の通り異なる世界。
壊すには、文字通りに世界一つを殺し尽くす必要があった。
浮かび上がる、数字と数式。
飛び交う紙束に札束。
滲み出る顔、貌、
口を開けた異界がここに、再び産声をあげる。
——ピッギャー!
肉塊が、溢れ出す。黒き屋敷の中から。
「ハッ!」
ルカが双剣を振るい、伸びた触手を断ち切った。血にもインクにも似た液体が飛び散る。
身体を回転させながらルカは、瞬時に五本の触手を断ち切るが——。
「嘘でしょ……」
リナの声は震えたままに。
眼前では欲望をカタチにしたような夥しい触手の群れが、巨大な肉塊を突き破り生えながら蠢いている。
「嘘じゃない。大きくて多い、あの時よりも」
唸り続けるオルトを尻目に、ルカは回転の速度を上げた。
白い月の下、銀閃が煌めき剣が舞う。瞬く間に肉の触手は切り刻まれる。十、二十、三十。
「ルカっ! えーい、荒縄くん!」
リナが叫んで荒縄くん二号を投げつけた。
「ありがと、リナ。でも、無駄遣いはダメ。……ダメか」
ルカの頭上へ生まれた、巨大な肉塊へと。
その肉塊へと斬りかかったルカだが断ち切れず、蹴りを入れる。
「ルカっ! 危ない!」
またもリナが叫んだが、ルカは肉塊を足場として伸びてくる別の触手を切り刻んだ。
それでも、触手の数は減っていない。
「オルト、頼りにしてる」
十を刻めば二十が、二十を刻めば四十が、五十を刻めば百の数へと。肉塊が蠢き、産声をあげ続ける。
見る間に迎賓館敷地内は夥しい肉塊の群れにより、覆われていった。
それでもルカは双剣を振るい続ける。背中に守る、オルトとリナの前で。
「待たせたな」
そんな彼女が待ち望んでいた声が。
「遅い、鈍間」
ルカの唇には微笑みが浮かんでいた。
「そーいうなって。リナを、頼んだぜ」
頼もしい相棒にして剣を捧げた主人が、肉塊を叩き潰した。巨大な斧、
「任せて、相棒」
「おう、任せた相棒。そして、俺に任せろ」
吹き荒ぶ巨大な暴力が、肉塊を切り裂き、叩き潰してゆく。触手はオルトに通らない。全身の運動の中に巻き込んで、捻り潰していった。
「いけいけオルトっ!」
紫色に輝いたままのリナは、ルカへと分身活性を用いる。
武具を振るえぬ彼女には、それだけしか出来ない。
出来ないからこそ、オルトとルカ。二人の患者の状態を把握する。
負傷はないか、疲れはないか。それを見極めて、一瞬での対処を施した。
二人とも、既に疲労は色濃いものだった。
「オルト、交代」
「まだ、やれるっ!」
叫び合う、相棒にして主従。その意見は対立していた。だからこそ、リナは叫ぶ。
「主治医判断っ! 交代!」
バカみたいに笑うオルトがこれまでに、何を犠牲にしてきたのか癒師は知る。
「暴れ足んねーぜ」
命だ。
リナは広い背中に手を当てる。治癒も分身活性も接触を前提としていた。もう傷はない。だが、それが無事を示すものではないと、リナはもう知っている。
「行って来い! 男の子っ!」
だからこそ背中を押した。遠ざかってゆく背中。
「私達は、負けないよ」
戻ってきたルカをリナが抱きしめる。小さな身体への分身活性。
「知ってますぅ〜。でもルカ様も、無茶しちゃダメですからね。怒っちゃうん、ですからね!」
「——婦女を護りし、剣なれば」
リナの前でルカが勇ましく、双剣を構え直した。
オルトは肉塊を屠り続ける。だがそれでも——。
人の欲望が異形と化した肉塊は、増え続けていた。
それでも月は変わらない。無慈悲に微笑んで、悍ましき醜さも、ひたむきさも覚悟も。等しく冷たく見つめていた。
月が僅かに降りている。そんなものは幻想だ。オルトは夥しい数の肉塊を叩き潰しながら、戦場を俯瞰していた。
——キリがねぇなぁ、おい。
大斧を振り回すだけで、肉塊は叩き潰せる。大した敵ではない、簡単に屠れた。
だが、それでも。
幾度切り裂いて、踏み抜いて、叩き潰しても。
「んだ? 化け物か!?」
「知らね、とにかくぶっ殺せ!」
ああ、もう敷地外まで増えてんのか。
オルトは警備の声を聴く。取り敢えずぶっ殺せ。その判断は正しいもので、だからこそ、こうして彼も暴れ回っていた。物量に圧殺されぬために。
「——刀剣顕現」
短い声。ルカと場所を入れ替える。
巨大な肉塊が一つ、破裂した。
塵となり、霧散してゆき光と変わる。対象の内側へ剣を顕現させ、破壊を齎す恐ろしい技だった。
——何本目だ? 剣はあと、幾つある?
オルトはリナの側へ。背中に触れる暖かさ。身体に活力が漲った。
ルカが双剣を振るう。切り裂かれてゆく触手達。
だが、それは限りあるもの。収納に納められた剣が尽きれば使えない。
そうこうしているうちにも、肉塊は増え続けた。
「もっと応援を呼べ! 何が何だかわかんねーが、抑えきれなきゃ大変なことになるぞ!」
遠く聴こえる怒鳴り声。
「げっ! そっち行きやがった! 追えっ!」
膨張し、増殖し、分裂し、自律して。世界を覆ってゆかんとする肉塊。異なる世界そのものが、この世界の全てを食い尽くし、なり変わらんとする欲望。その現象を——。
「こいつは、『異界侵蝕』だっ! ありったけの戦力を連れて来い! こいつは、戦争だっ!」
焦りの滲む声に漏れ出た言葉を聞いた。それでオルトは腑に落ちる。
出会した事はない、見た事とない。伝え聞いて知っていた、世界の危機を意味する言葉を。
「そうかよ。なら、やって——」
呟いて、
「……くれぇ、よ、こせ……」
呻き声は緩慢に。されど鋭く尖った刃がルカの脇腹を掠めていく。
「くっ!」
短かな苦悶。途切れた運動に、静止する世界。
夥しい数の欲望が、ルカを狙い口を開いた。
「……っ、痛くねぇ!」
その悪意を全身で弾き返したオルト。
一跳びでルカとの立ち位置を入れ替えた彼は、再び破壊を開始する。
「死なせ、ねぇ!」
猛る小熊は大斧を振るった。原型を留める事なく壊れゆく肉が、壁となって積もっていった。
このままでは、マズイ。
そう考えてはいるものの、だからといって打てる手があるでない。例えあったとしても——。
「オルト、代わる。溜めて」
ルカはそれを知っていた。現状を打破する手段はある。巨大なるもの、広がり続ける海へ抗うために、キエッリーニ開祖が造りし
「ざっ、けんなぁ!」
だが、そうするには時間が必要だった。
リナが荒縄くんを投げつける。
ルカが刀剣顕現し肉塊を弾き飛ばすも、別の肉塊が突っ込んできたからだった。
今、手を止めれば負担は全てルカへゆく。そうなれば、物量に圧殺される。それでは誰も守れない。
ルカを信じていない訳じゃない。だがそれでもオルトの戦士としての勘は、切り札を用いる事を拒んでいた。
もう迎賓館中庭に、
——考えろ、考えろ。このまま前線を維持し続けながら、ぶちのめす方法を。
きっと、止める事は出来る。増殖も膨張も必ず。
だが、それまでに埋め尽くされてしまえばルカは、リナはどうなる。オルトだって肉塊の中へ身体が埋もれてしまえば、異界そのものを屠る術はなかった。
「おーおー。随分と面倒な事になってんな。おっと」
静かな声だった。だが、やけに通るもの。ゆらりと揺れる影。
影は肉塊の一つをクルリと裏返し、踏みつけた。
その肉塊はサラサラとした塵となり、光となって消えてゆく。影がそのまま腕を振り、別の肉塊へ拳を穿つとまた一つ消えてゆく。
背は高くない。痩せている。蒼白い肌、無精髭。
どこにでもいそうな、街の男。そう見えた。
「お魚屋さん!」
リナの呼び掛けに男は憮然とし顎を撫で、また別の肉塊を投げた。
地に叩きつけられた異界存在は塵と光となって消えてゆく。
「逃げるんじゃ、なかったの? おじさん」
剣を振るいながらも、ルカの声は冷たい。ククッと笑った男。その足が肉塊から浮かぶ顔を踏み抜いた。
「船も出てねーし、荷物も忘れてな。金ねーと困るだろ? ……気持ち悪ぃ手応えだな」
柳の様にゆらゆらと、風にそよぎながら男は痩せた身体で踊る。静かに、それが当たり前の様子で。
「ジーノ!」
「小僧に、呼び捨てされる謂れはねーよ」
苦い顔をしながら魔銀位階の冒険者、柳のジーノは肉塊を屠っていった。
「どういうつもり? お魚屋さん。もしかして、お得意様への
リナが朗らかに笑えば、ジーノはハァと息を吐く。
「悪ぃが、魚の手持ちはねーぜ?」
軽口を叩くもジーノは打ち、投げ、穿ちながら塵と光を作り出す。柳の足元では白い石床が見えていた。
「手、抜いてやがったか、おっさん」
オルトが肉塊を屠るも、消えはしない。ビクビクと蠢いて、活動を止めるだけである。
「稽古なんだから、当たりめぇだろ。で、小僧。何か手はあるか? ないならさっさとズラかるが。こんなんじゃ、荷物どころじゃねーし」
飄々として、ジーノはオルトへ問い掛けた。
街中から、悲鳴と怒号が聴こえてきている。このままでは、いけない。青年は信じた。
「ある。……頼めるか?」
オルトは答える。ジーノは肩を竦めると、彼の前へ立つ。
「ま、一本の褒美だ。くれてやるよ」
男二人、拳を交えた彼らにそれ以上はいらない。
シッと息を吐き出して、オルトはルカとリナの隣へ跳んだ。
「ルカも、頼んだ。任せたぞ、相棒」
二人は視線を交わす。
「任せて、相棒」
ルカが双剣を振り舞い、オルトは静かに斧を大地へと突き立てた。
風にそよぐ柳の様に、飄々として技を振るうジーノの背中が見える。
「やれやれ、オメェかよ。どうやら似合いの場所へ、堕ちたまったみてぇだな……」
そんな呆れ声を、気にする余裕はなかった。
「死なせねぇ」
街も、人も、誰も。
トラーパニを預かるキエッリーニの惣領息子、小熊のオルトは誓いを胸に、意識を沈めた。
黒い夜の帷に浮かぶ真っ白な月は、少しだけ低い場所に居る。
お読みいただきありがとうございます。