地に降り立った音は、あまりにも軽かった。
血が騒めく。胎の奥が熱い。
月光を背にした秀麗な貌はゾクリとするほど男らしく、交差した視線を合わせてはいられなかった。
幼い頃から可愛がっていた男の子、弟分。
共に咎を背負い、剣を捧げられた忠義の騎士。
それは幻の様であり。
アウグスタはぼんやりと、そんな男の背中を見ている。
無理矢理に剣によって開かれた天井からは、白い月明かりが注ぐ。
男の手が肩の留め金を外し、ふわりと紅が舞う。
騎士鎧の背中に背負っていたマント。
ひどくゆっくりと靡く紅が、ふぁさりと女の身体へ掛かっていった。
暴れたせいでか黒きドレス——喪服の襟元は乱れ、裾もはだけてしまっている。
白い肌が、闇の中で浮いている。
アウグスタはマントをきゅっと握りしめ、ハッとしたようにして首を振る。
——何を勘違いしているアウグスタ。彼はあの人の騎士であり、あの方の夫。代行の役目、忘れたか。
頭の中で冷たい声がする。それが自分のものだと認識するのに、僅かな間があった。
女は男——アントニオの広い背中を見ている。
逞しい背中。
アウグスタの瞳、その視線は冷たく透徹するものではなくなっていた。
胎の底が熱い。鼓動が早くなっている。
何より、耳の奥に残り続けるものがあった。
女の肩と背は、か細く震えている。
風が吹き入る。少しだけ熱が抜けた風だった。
「おおっ、おおっ……」
獣の嗚咽にも似た音がする。座り込んだ監査官の前で、アントニオが腕を上げていた。
我に返ったアウグスタの頭と身体が動く。
「ま、……待ちなさい!」
彼女はアントニオの背中へ抱きついた。
後ろから腰に抱きついて、抱き寄せて、しがみついている。風が微かに動いた。
「ご無事でしたか。奥方様」
抑揚のない静かな声がする。振り向いた男の視線を感じるも、アウグスタの顔は上がらない。
耳を打つのは剣の音。騎士の声。
「……ええ。私は大丈夫です」
殺気はない。怒りもない。意思だけがあった。
それが騎士の恐ろしさ。主に仕え、己を一つの剣として定義した者の業。
「あわ、あわあわ……」
監査官は尻餅をついたまま、口を開けている。失禁までしていた。そこに意思はなく、身体の反射だけでしかない。
「……ですから、殺してはなりません」
アントニオが何をしようとしていたか。アウグスタにはわかる。仮初といえ、剣を御す主に必要なこと。
「敵で、仇でありますぞ」
それも知っていた。
監査官という男が王国財務省最大派閥、「赤い獅子」の走狗であり、彼の派遣がトラーパニへ混乱と混沌を齎し、彼等の悲願である王国全土の直轄領化、中央集権化を進める一手であることも。
「敵であるから排除し、仇であるから殺して、争いは収まりましたか?」
「……」
調べはついていた。赤い獅子は十四年前、夫を殺した仇でもある。
ここ暫く続いた異常事態の連続。それに彼等が関与していないとは思わない。けれども——。
「証拠はなく、あった所で根本的な解決とはなりません」
関連付けるものはない。アントニオも参加していたであろう十二年前の復讐戦。それと同じで。
「……危険は減らせる。誇りも守られた」
そうであろう。そのおかげで横槍もなく、復興へ心血を注げた。
領有貴族を襲った同時多発暗殺事変への祖父達による報復も赦された。
「それで、悲しみは減らせたのでしょうか?」
だが、アウグスタの耳は、眼は、胸は覚えている。
帰る事のない夫を、父を、子を待つ家族の嘆きを。
彼女と同じ黒衣を纏い、涙に濡れる妻と子。悲しみを押し殺し、唇を噛み締めた父母。
その姿は、自分自身の写し身だった。
「綺麗事、夢物語と口さがない者は言うでしょう。けれども——」
ルカの未来を託して逝った義姉。かつてアントニオが愛した女性が望んだのは、終わらない悲しみだったのだろうか。アウグスタは、そうとは思わない。
「私は十四年。赦しを掲げてきた。理と利による自他共楽の道をこそ、探し続けてきた。我が剣よ、もう一度だけ命じます」
アウグスタは手を離し、立ち上がる。
肌を離れてゆく男の体温。
向き直ったアントニオが頭を垂れ、膝を折っている。夜気が微かに揺れていた。
「殺すな」
女主人の命は、ただ冷たく。
静けさはほんの一瞬に過ぎず、風向きが変わった。
「貴方の職責において、誰一人として傷付ける事、決して許しません。出来ますよね? 私の『英雄』」
夜を照らす月の如く、無慈悲に女は微笑む。
「
涼やかな男の声が、はっきりと答えた。剣は再び、茉莉花の掌中へと握られる。
「お、おふっ、何と慈悲深い……。それに……うっ」
視界へ入った姿は不快だが、ただそれだけだ。小物、俗物、狂人。何とでも呼び様がある。だがそれでもアウグスタは、恐ろしくなかった。
「監査官殿」
声も、もう震えはしない。港街を支え続ける寡婦、彼女の理解の外にある怪物は既に屠られた。
「トラーパニでお過ごしになられた三十日間。実りあるものとなりましたでしょうか?」
微笑んだアウグスタは突き付ける。この期間に彼が赤い獅子の尻尾として残せた成果を。
「大変に、大変に……」
咽び泣く男。かつて、「儂が黒と言えば黒なのだ」などと不遜に構えた官僚に、その面影はなかった。
主たる役目は会計監査であり、違法や不適切な金銭授受、税逃れの有無を調べるためにある。
「ええ、ええ。そうでございましょう。ときに、以前提出した帳簿の精査はお済みでして?」
提出した資料について、未だ所感も難癖の一つも頂いてはいなかった。
「ええ、ええ……。某が遺漏なく財務省へ持ち帰り、疑いを晴らして見せましょう」
ならば、それは良い。なんの不正もないものから黒を作るのならば、此方にも手の打ちようもある。
「まぁ、それはようございました。監査官殿や財務省のお歴々にも、この港に集まる文物や美食をお気に入り頂けたならば……」
言葉を切った。監査官達の持ち込んだ新型兵器による犯罪も、無謀で無法な商法についても、あえては語らない。
「おわかりですわね?」
ただ、念を押す。額を床に擦り付ける男。アントニオが、彼を冷たく見ている。
アウグスタは微笑みを絶やす事はなかった。
これも一つの戦後処理。理解が出来ずとも、御せまいが、監査官にはまだ使い道がある。
明朗な商都と喧伝するために監査結果を持ち帰って貰わねばならぬし、財務省のお歴々にはこの男の楔となって貰わねばならなかった。
「王都とは良き関係を築きたいものです。頼りにしておりますよ。監査官殿」
「はっ。身命を賭しまして、我が信仰は……」
赤い獅子達が彼を切り捨てたとして、構わない。
精々、自らが蒔いた混沌の種に踊らされると良いやね、と領主代行は胸の中で呟いた。
理と利を掲げる者達の弱点を、彼女だからこそよく知っていた。
女は策士の貌を隠し、前を向く。
次代は頼もしく育っていた。彼女の胸に理想もあれば、傍らには剣がある。
恐れる事はない。一歩ずつ、誠実に。
歩みは遅くとも、変化に踊らされず真っ当に。
赦し、道を模索して「悲しみを減らせる」政を。
野心であり、祈りであった。夜の風がまた、地下へと吹き入った。それは遠くから、騒めきを運んで来ていて。だが良くは聴こえない。
「奥方様」
「ええ」
アントニオに肩を抱かれた。膝裏に逞しい腕が触れれば、身体は浮き上がる。
横抱きにされたアウグスタは、我が剣にして私の「英雄」とも呼ぶ男の首へと腕を回した。
「それでは監査官殿、ごきげんよう。迎えが来るまでは、大人しくなさっていてね」
再び床へと頭をつけた監査官。彼を流し見ようとしたアウグスタだが——。
「失礼」
地を蹴ったアントニオと共に地上へと出ていた。
ここは市街地からはやや離れた倉庫街。この時間、晴れた夜にも関わらず船の発着や荷運びもないのは珍しい。だが、その理由は容易に知れる。
港街が騒然としていた。混沌と混乱と狂熱が、潮風に乗って運ばれてきている。
アントニオならば何かわかるだろうか。即座に否定する。不正確な情報は不要であった。
——フィオナ、聞こえていますか? 街の状況を教えなさい。
ならば交信を用いるまでだ。こんな時、最も頼りとする「娘」へと。あの子ならば誤らない。母として、信頼があった。
——もう! 奥方様っ! ……ああん、もぅ! 無事だったんですね。……じゃんじゃん撃ちなさい、引き止めるわよ! ……いい大人が呑気に気絶なんかしちゃって。こっちは大変なんですから! ……無事、ですか? 婆やはピンピンしてますからね!
胸の奥の蟠りが、また一つ解ける。
フィオナは優しい子だが、まだ質問に答えてはいない。合間に漏れる号令や、僅かな会話の澱みから、かなり切迫した状況が伺えた。
——ご苦労様。それで、状況は? 簡潔に。
随分と大人になったとはいえこの子にも、伝えてやりたい事や、教えたい事はまだまだある。
——行政府の推定は、特級災害「異界侵蝕」。発生源はトラーパニ迎賓館と推測されています。オルト達と向かうって、ルカからも交信が。お願い、マンマあの子達を……。
交信が途切れた。優秀なフィオナであっても幾つもの役目を同時に果たす事は容易でない。
あの子ならば先を見ながらも、今の最善を尽くすだろう。何も、不安はなかった。
綻びそうになる口元を引き締め、アウグスタは一言告げる。
「目的地はトラーパニ迎賓館」
フィオナの要請が、アントニオの派遣であるのは明白だった。
世界において最も危険とされる災厄こそが「異界侵蝕」。それこそが世界を異なる理に染める大禍。
止められる強者は世界でも多くなく、トラーパニにはもう、一人しかいなかった。
「……奥方様?」
アントニオはアウグスタを降そうとするが、彼女は腕を離さない。どころか細腕にますます力を込める。
「危険です。お離し下さい」
硬い声を出した騎士の唇を、指先で塞いだ。
「オルディネよ。私を、連れて行きなさい」
夜風に吹かれたまま見つめ合う二人。雲が流れて月を隠して闇が降る。一瞬の静寂。
「
男が応え、女の身体を抱き寄せた。
タンと、軽い音が鳴る。
剣が往く。主を抱えて。
街はまだ、騒然としていた。だが夜空は変わらずそこにある。
剣は主と共に月光に照らされて鈍く輝いた。
目的は異常の鎮圧。願いは子供達の無事。
二人は一つの祈りを胸に、災厄の元へと向かう。
随分と低く降りてきた僅かに欠けた月が、二人を静かに見ていた。
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