フオリエ・ナスコシテ 【隠された徒花——当主代行の再春】   作:カズあっと

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78話 夜明け。

 

 ルカの振るう双剣の隙間を縫って、触腕がオルトの右腿を貫く。

 

「「オルトっ!」」

 

 前に立つルカと、背中にひっついたリナが叫んだ。

 ルカの剣戟が鋭さを増し、背中からは治癒の術式。

 傷は、たちどころに塞がった。

 だが肉を抉られ貫かれ、平気であるはずもない。

 

「おおっ……。恨めしい、憎らしい、奪うな、返せ」

 

 肉塊達は表層に現れた口々を開き、怨嗟の声を漏らす。それは単純な音ではなかった。

 呪詛である。

 言葉や意志は他者にも働きかけ、世界そのものにさえ影響を与える。

 

 その負の性質を利用した術式を、呪いと呼んだ。

 対象の心に疑心暗鬼や迷いを生み出す弱化の術式。

 人は弱い。迷いは隙を生み、集中を乱した。

 

 だからこそオルトは、痛くとも不敵に笑う。

 平気であると見せつけるように。それもまた、一つの術式であった。

 

「効かねぇよ、俺達にはよ。二人とも、もうちっとだけ頼むぜ」

 

 言いながら、父親の形見である渦喰らい(マニャ・ヴォルティチェ)を握り締め、オルトは「敵」を睨み続ける。

 

 それは異界の怪物で、巨大な肉塊であった。またその一撃が、オルトの肩を抉る。

 リナが即座に治癒をして、ルカも果敢に双剣を振っている。

 

「おおお……。奪われた。返せ、寄越せぇ……」

 

 歪んだ唇による、身勝手な罵り。それはそれで、誰もが持つものなのだろう。だからといって、好き勝手をさせるつもりはなかった。

 

「搾取を許すな……。俺の、モノだぁ……」

 

 その欲望は今も膨れ上がり、増え続けながら、世界を圧し潰さんとしているかにも見えた。

 残るはオルトを中心として、ルカの死守する僅かな範囲だけ。

 見渡せば、枯れた柳の背中ももう、見なくなっている。だがお陰で時間を稼げた。溜めも充分だ。

 

「頼んだぜ、渦喰らい(マニャ・ヴォルティチェ)」

 

 オルトは斧を振り上げる。誓いを胸に、祈りを唇へと乗せて。

 

「——ぶっ潰す!」

 

 猛る小熊の咆哮と共に、停止する肉塊、静止する世界。

 渦喰らい(マニャ・ヴォルティチェ)——梟雄と称されたキエッリーニ開祖より、連綿とトラーパニ子爵家に受け継がれてきた強大な術具。

 

 キエッリーニの代々当主が、トラーパニ子爵が、家族を、仲間を、街を。

 巨大なる大異界・海に抗い護るため、振るい続けてきた武具だ。

 その権能は、圧縮による縮小。

 

 未熟であれど、それを握るは次期子爵(未来)。

 渦喰らいが、鋭く振り下ろされた。

 切り裂かれてゆく手近な位置にある肉塊。膨張し、増殖し、自律して暴れ回る怪物の一部が屠られる。

 残るのは、圧し潰された欲望が一つだけ。

 

 突然に迎賓館玄関口付近の肉塊が、一気に消え去った。一瞬だけ見えた扉。開け放たれている。

 瞬く間に肉塊により埋め尽くされた光景であるが、直感が告げた。

 

 ——ジーノのおっさん!

 

 何をした、どんな手を使ったのかまではオルトにもわからない。

 わからなくとも、ジーノが向かった先には目星が付いている。

 

 向かう先は、ルカが感じ取ったという大量の霊核の気配、迎賓館、客室。そこに異界侵蝕の核となる異界があるに違いない。

 異界そのものを破壊、ないし攻略をしなければ侵食は止まらない。

 

 冒険者であるジーノがそれを知らぬ筈もなく、またそうしなければ、終わりはない。出来なければ、喰われるだけである。

 異なる世界同士による生存競争。異界侵食が戦争と呼ばれる所以でもあった。

 隣から、小さな影が飛び出した。

 

「行くよ、相棒」

 

 冒険者ではないルカである。

 彼女は双剣で、瞬く間に肉塊から伸びる触手を切り裂いた。

 肉塊の増殖により震え続けていた大地の、その揺れはもう収まっている。

 それでも、まだまだ異形の欲望がこの場所には、この街には数限りなく、ひしめいていて。

 だからこそ、止めなくてはならない。

 

「借りるぞ」

 

 念のためにと、荒縄くん二号を手にしていたリナからソレを奪い取り、リナ自身の身体をオルトは背中に括り付ける。

 おんぶであった。背中には、結構大きいおっぱいの感触が当たっている。それでもオルトは迷わない。

 

「え、えぇ……」

 

 困惑するリナの声など無視をして、大斧でまた一つずつ、肉塊を叩き潰し始めた。

 

「痛い、痛い……。横暴だ、許されんぞ……」

 

 口々に連なる恨み言。それが呪いであろうが、術式であろうが、オルトには関係がない。

 ルカの双剣では、もう肉塊には通らない。

 だが代わりにルカの小さな身体が、道を切り開く。

 

「サクサク殺すよ。鬱陶しい」

 

 ルカは肉塊共から浮き上がる顔、その発する呪詛に心底うんざりしているようだった。

 物騒ではあるも、その気概が頼もしい。

 

「露払いは任せたぜ。相棒」

 

 ならば応えてやるのが、主の役目であった。背中にリナをおんぶして、ルカとは隣合わせに立つ。

 

「いや、何格好付けてんですか若様。この格好、すっごく恥ずかしいんですけど」

 

 リナの抗議は受け付けないでおく。こうしておけばリナを置いて行かずに済むし、移動も楽だ。

 例え怪物が数だけの雑魚であっても、リナが一人で無事にいられる戦場ではなかった。

 

「ま、気にすんな。お前らも、誰も。死なせねぇよ」

 

 ルカからもリナからも、離れるわけにはいかない。

 確かに膨張や増殖は止められた。だが、圧縮の権能により巨大化を止め、体積を減らしたところで質量は変わらない。その脅威は別の形で現れる。

 

 ——だからこそ、その前に。

 

 ジーノと合流し、根から断つ。

 状況によっては不利となる渦喰らい(マニャ・ヴォルティチェ)の権能を用いた以上、速攻が求められた。

 

「じゃ、改めて反撃だ」

 

 肉塊の一つを切り裂く。

 運が良かったのか、霊核へ体内術力が注がれての現象——消失反応が起こり、肉塊が塵と光と化して消えてゆく。

 

 ジーノは技にてこれを熟した。オルトもルカも、まだその高みにはなかった。

 だがそれは、足を止める理由とならない。三人による攻略が、始まった。

 

 

 

 双剣が煌めき、斧が唸りを上げる。そして背中に括られた侍女が、紫色に輝いてもいた。

 

「刀剣顕現」

 

 肉塊の一つ、その中心部に剣が現れ、塵と光へ化した。ルカは素早く手を伸ばし、収納を行う。

 

「あと、何本だ?」

「五本。使い捨てでは厳しい」

 

 オルトが肉塊へと大斧を叩き付けて尋ねれば、ルカは歯噛みするようにして答えた。

 従姉妹が双剣を振るい、迫り来る脅威を逸らし、いなし、弾く。

 既に肉塊は、ルカの細腕では斬れなくなっていた。

 

 圧縮の権能は対象の体積こそ縮小させるが、質量は変わらない。密度を高める事により対象を縮小させているためだ。

 

「ちっ、どこまで増え続けてるってんだ!」

 

 増殖や膨張は止まっているものの、肉塊はもう、オルトでさえ一撃で屠れる硬さでも、重さでもなくなっている。

 数は確かに減っていた。だが、駆逐速度は時間に比例して遅くなってもいる。

 それが意味する事とは。

 

「もっと爆弾を持って来やがれ! 押し留めて一気に吹き飛ばす!」

「若が、留めてくれてんだ! ちっとでも減らすぞ! おらっ! 範囲内に集めろ!」

 

 味方の不利である。そして、自分達の力不足であった。

 

「シッ!」

 

 触腕による刺突をいなしたルカの身体が弾かれる。

 姿勢を崩さず着地に問題はないものの、手に持つ双剣の一つが折れていた。

 

「どらあっ! ちっくしょー!」

 

 オルトは何度も大斧を振るうことでやっと、肉塊一つを原型も留めぬ程に叩き潰せた。

 それでもやっと、肉塊を駆逐しながら迎賓館の玄関口まで辿り着く。

 やたらとデカい肉塊が入り口を塞いでいる。ルカが剣を入れ替えて、隣に並んだ。

 

「……刀剣顕現」

 

 地面に手を付けたルカが呟けば、巨大な肉塊が爆発し、サラサラと塵と光と化してゆく。カタンと軽い音がして、砕けた剣の握りだけが地面へ落ちた。

 

「あと、四本。流石にこのまま異界に潜るのは、やや心許ない」

 

 目を凝らせば、深い闇がある。屋内の灯りは圧迫により破壊され、既に光を灯さない。

 見える範囲に怪物の姿こそないものの、破壊の痕跡だけが闇の中に残されていた。

 

「つっても、引き返す余裕もねーし。もう突っ込むしかねーんだよな……」

 

 やれるのか。さしものオルトも不安を覚えた。

 圧縮の権能が解ければ、また肉塊が溢れ出る。怪物の増殖を止めるには、元を断たねばならない。

 だからこそ、こうしてやって来ている。

 

「オルトさ、不安になるのもわかるけど、引き返してどーにもなるもんじゃないじゃん?」

 

 リナが笑えば、ルカが続けた。

 

「放っておいて、解決する問題じゃない。それに、おじさんと合流出来れば攻略もなんとかなる。多分」

 

 そうだ、ジーノは既に先へ進んでいた。

 事態を解決するために、大元となる異界へ潜り込み、攻略に挑んでいる筈である。

 オルトはそう考えて、気合を入れた。

 

「行くぜ。取り敢えず、一発デカいのをお見舞いしてから、突っ込むぜ」

 

 渦喰らいを振り上げる。背中のリナは気になるが、腕力には自信があった。

 密度の高まった肉塊には苦戦をしたが、それは隙を作らぬため、動き続けたからだった。

 

「ルカ、吹き飛ばされんなよ。すうっ——」

 

 一言告げて、息を吸う。

 しっかりと構えての一撃は、圧縮した大海蛇(セルペンテ・マリーノ)すらをも屠った。

 全力なら、衝撃波だけでもこの屋敷くらいは——。

 

 ——ドゴォン!

 

 振り下ろそうとしたその瞬間、鳴り響いた爆音。

 

「があぁぁぁぁ! ちぃっっっ!」

 

 続く獣の如き咆哮と共に、迎賓館の一室が弾け飛んでいた。

 一瞬で吹き荒ぶ爆風、熱風、凄まじい衝撃波と、無慈悲なまでの破壊。

 何度も繰り返される、大きな破裂音。

 

「なっ!」

 

 屋敷の一角が吹き飛んで、炎を上げている。

 その煙と共に、未だ黒き天へと舞い上がるのは、消失反応による眩い塵と光。

 その中から、ゆらゆらと覚束ない足取りで歩み出て来た人影がある。背中に大きな荷物を抱えていた。

 

 背は高くなく、痩せている。

 青白い肌、無精髭。

 着物は襤褸となり、晒された肌には夥しい火傷らしき傷を負っている。足を、らしくもなく引き摺ってもいた。

 

「痛てて……。ちぃと、きっちぃなぁ……」

 

 それでも声は飄々と。

 どこか捉え所のない男。魔銀位階の冒険者。王都の無頼である、柳のジーノであった。

 

「リナっ!」

「我はここに集いたる——」

 

 オルトが駆け、リナが詠唱を開始する。

 

「よぉ、ガキ共。ちっとばかし、しんどいぜ。——って」

 

 つんのめりそうになるジーノをオルトが支えた。

 

「——慈愛深き、救いのラッパを吹く御使よ。我に御力を貸し与えたまへ。優しき光を賜りたまへ。治癒(キュア)」

 

 オルトの背中越しにジーノの頭をムンズと掴んだリナの詠唱が完成し、癒しの光が無頼の身を包んだ。

 

「おー、こりゃすげぇ。恩に着るぜ、嬢ちゃんよ」

 

 焼け爛れたジーノの肌が再生してゆく。「それにしても、反則すぎんだろう……」などという大人の呟きは無視をして、術式は必要な治療を施した。

 

「異界は?」

「まだまだ元気に侵蝕中よ」

 

 手を離したオルトが尋ねれば、ジーノは膝の調子を確かめる。背中にも手にも、彼はかなりの大荷物をかかえていた。

 

「爆発は? 怪物の攻撃か?」

 

 更に状況確認は続く。怪我と治癒による負荷の影響からか、ジーノの呼吸にはやや乱れがあった。

 

「奥の手ってヤツよ。——っと」

「危ない、はい」

 

 ジーノが手に下げた鞄を取り落とし掛けるも、ルカが受け止める。

 

「……お、おう。あんがとよ、嬢ちゃん」

 

 気まずそうに礼を伝えるジーノを、ルカが真っ直ぐに見上げていた。その唇が再び開かれる。

 

「おじさん、異界攻略手伝って。私達四人で行く」

「はぁ!?」

 

 幼い騎士の要求に、素っ頓狂な声を上げる無頼。

 

「頼む。この騒動を鎮めるのに、力が足りねぇ。協力してくれ!」

 

 小熊が真摯に頭を下げて、頼み込む。

 

「いやー、火傷の治療って、第三度までなると、かなりお高くなっちゃうんですよねー。請求しなくちゃ」

 

 恩着せがましく追い込む侍女がいて、「あー」と呟いた中年は、ますます気まずそうに頬を掻く。腕には鞄を抱えたままに。

 

「あー、いや、おじさん怪我人だろ? 流石に厳しいかなってよぉ……」

「治したし! 怪我人じゃないもん!」

 

 おずおずと答えた中年の、逃げ口を塞いだ癒師である。紫色に発光したままであるも、その眼差しは真剣であった。

 

「ってもよ、死ぬぜ。第一、俺の技は対人用よ。怪物相手にゃ大して上手かねーぜ。やたら硬いし、雑にせよ速ぇ。ちっと俺にゃ、手が余る。だからこそ、奥の手も使った訳だしな。それによ……」

 

 疲れたように、長々と吐き出されたのは弱音。

 そこでオルトは再び察する。圧縮の権能による、副作用というものを。

 やれやれと、首を振る柳。

 

「大丈夫、ジーノおじさんは強い。まだまだヤレる。私が保証する。それに、奥の手もまだ……」

 

 ルカが喰らいつく。その視線はジーノの持つ、鞄へ向けて注がれていた。彼女の言葉には根拠はないが、強い圧がある。

 

「行くよ! 異界攻略! 正義のお魚屋さん!」

 

 無頼へと侍女が畳み掛けた。

 

「時間がねぇんだ! 急がねーと! 頼む!」

 

 渦喰らいを置いたオルトが、ジーノの肩を掴んで吠える。

 

「気持ちはわからんでもねーけどな。命は投げ捨てるもんじゃねーよ、若いの。それに、ちっと待ってろ。そうすれば——げっ」

 

 噛んで含めて嗜めるかのように優しく言った無頼だが、彼は一瞬だけ身を竦ませた。

 そして、なんとも言えない叫びを漏らすとオルトの手首を掴み引きつけて、膝を落としてゆく。

 

「——チッ、もう来てんのかよ。悪いがお前ら、おじさんは野暮用だ」

 

 スッと落ちる腰。距離が消えた。平凡な体格の背は揺れず、屈強なオルトの体幹だけが崩れる。

 その刹那——。

 

「うおっ」

「え?」

 

 小熊の身体が、背負ったリナとも重なる驚愕の声と共に、弧を描いて反転した。ダンと音を立て、地を叩いたのは分厚い掌。

 半身となってリナを庇ったオルトの背中。

 

「——っ」

 

 その光景を呆然と見ていたルカだが、不意に顔を上げていた。夜気の中、はっきりと聴こえる含み笑い。

 

「感心、感心。良いな。受け身も鍛錬も、怠るんじゃねーぜ。もう二度と会う事もねーとは思うが、まぁ、悪くもなかったぜ。——アバよ、クソガキども」

 

 低い声で呟いて、無頼は手を離す。柳のジーノはその身を翻し、地を蹴った。

 その姿はあくまでも飄々としていて。

 寄るべなく、頼りなく。風にそよぐ柳のように。

 

「「「ま,待てっ!」」」

 

 同じ言葉が三つだけ重なった。

 柳の含み笑いは、もう聴こえない。パチパチと建物の燃える火の音と、物の、肉の焼ける臭いが漂った。

 

「チッ! ——こうしちゃいられねー!」

 

 立ち上がり、罵りを断ち切って斧を持つ。当てが外れたとはいえ、やるべき事は変わらない。

 

「う、うん。オルト、ルカ、行こ!」

 

 侍女もそれを知る。彼女は大切な兄貴分も妹分に声をかけ、怖さを拭って勇気を振り絞ろうとする。

 ドウと音が鳴り、柱の一つが倒れた。

 

「……辛い、……痛い、……助けて、……恨めしい。おおっ、……寄越せ、……何もかも」

 

 火の手からは、焼け爛れた肉塊達がワラワラと湧き出してきている。

 際限なく、痛みも苦しみも恨みも抱え、欲望と怨嗟の声で呻きながら。

 

「「ルカ?」」

 

 ルカが双剣を仕舞った。訝しげな声は、残る二人のもの。小さな騎士ルカが、恭しく膝をついていた。

 

「何してんだ、急がねーと」

「どったの?」

 

 全く別々の言葉が、彼女へと投げかけられる。そして二人は声を聴く。

 

「大丈夫。もう、心配ない」

 

 顔を伏せたルカによる小さな呟きを。

 屋敷は燃えている。火音はバチバチと鳴り響き、肉の蠢く悍ましき音も、絶える事なき怨嗟の言葉も終わらない。

 それでも——。

 

 若者達の耳に、音が響いた。

 それは硬い音。

 氷と鉄が触れ合って、微かに響く小さなもの。

 それは段々と高くなり。

 

 タンと、軽い音が鳴る。

 揺らめく炎と月の光を浴びて、立つのは男。騎士鎧を纏い、腕に女を抱いた美丈夫。一振りの剣。

 

「ふふっ……」

 

 その胸元からは、玲瓏な声がする。

 真紅のマントに包まれて、黒衣を纏う白い肌。

 微かに香る茉莉花が、その色彩を思い描かす。

 

「待たせましたね。でも、夜遊びはあまり感心しないかしら?」

 

 含み笑いは軽やかに、ただ優しい音だった。

 

「か、母ちゃん!」

「奥方様!」

 

 オルトとリナ。若い二人が呼ぶその人は。

 慈母の微笑を浮かべる女。その名こそが、アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニ。

 

 トラーパニの母であり、領主代行にして、子爵家キエッリーニの未亡人。そして剣を握りし、女主人。

 

「おかえりなさいませ、奥方様」

 

 顔を上げたルカが、猫のように目を細めた。

 

「ええ。三人とも、ただいま」

 

 女がくすぐったげに頷けば、ルカが立ち上がる。

 

「状況の説明は、必要でしょうか?」

「結構よ。よく、頑張りましたね」

 

 母は何でも知っている。なんて事はなくとも、彼女は知っていた。今を。

 常に白の屋敷から、トラーパニを見守り続けてきた領主代行は、場に落ち着きを与える。

 

「こら、アントニオ」

 

 そんなアウグスタが肘を突く。男の胸へ。

 

「あ、ああ。オルト、渦喰らい(マニャ・ヴォルティチェ)の扱い、見事だ」

 

 そして彼は静かに言う。

 

「兄貴っ!」

 

 オルトは拳を握り締め、喜びを噛み締めた。

 

「違うでしょ。この子は褒めてもどうせ、すぐに忘れてしまうのですから」

 

 女はまた、男の胸を肘で突く。だが、その眼差しは息子へと注がれたまま、どこか遠くを見ている。

 

「ほら、たまには父親らしいところを見せなさい」

 

 女主人に促され、父が向き合うのは娘。騎士となったばかりの十二歳、ルカである。

 

「あ、ああ。……ルカ、よくやった」

「うん」

 

 それだけで、言葉は途切れた。絡み合う視線、睨み合う父娘。

 

「それだけ?」

 

 呆然として漏れた声はリナのもの。侍女を包む紫色の発光は収まって、元気で可愛い娘の姿があった。

 それでも、そんな小さな呟きにより結ばれた、女達の視線。それは一つの言葉を導き出した。

 

「「「ポヴェロ(残念)」」」

 

 同じ言葉が紡がれて、陽気なもの、静かなもの、落ち着いたもの。三つの笑い声が重なる。

 

「まぁ、いいわ。中には?」

 

 迎賓館へと目を向けて、女が尋ねた。相変わらず炎に焼かれた肉塊が這い出して、唸りを上げている。

 凄惨な現場にも、アウグスタは眉を動かさない。

 

「誰もいねぇ、はずだ」

 

 息子の答えに、「そう」と頷いた女。その視線は上を向く。己を抱いた男の顔へと。

 月ももう、随分と落ちていた。揺らめく炎に照らされて、男の顔は赤く輝く。

 

「アントニオ」

「はっ」

 

 アウグスタが剣へと向けて呼びかける。騎士は優しく丁寧に、女主人の身体を大地へと横たえた。

 立ち上がろうとするアウグスタ。その身体がよろめいた。

 

「ほいよ、危ねぇ」

「お気をつけください」

 

 オルトとルカ。すぐに二人が側へとやって来て、その身体を支える。軽い礼の言葉を口にして、真っ直ぐに背筋を伸ばした。

 

 足元にアントニオが跪いている。片膝を立て、首を垂らした騎士の礼。造形こそ優美でありながら、その内に隠した熱も確かなものであり。

 

「顔を上げなさい。我が剣よ」

 

 アウグスタは唇を引き結んで一人立つ。

 短い返事と共に、アントニオの顔が上がった。

 交錯する視線、伝え合うは意志。主従に言葉は要らず、既に繋がり合っている。

 

 だからこそ、それは確認であり、静かな儀式。

 女の唇が再び開かれて、命令(オルディネ)が告げられる。

 

「インヴァデーレ・ミエイ・カルヴァリーエ(侵略せよ、私の騎士)」

 

 それは十四年前の悲劇。その後の長きに渡り続けられた苛烈なものであり。

 

「スイ、ミア・シニョーラ(はい、我が夫人)」

 

 護るため、二人が共に望むものでもあった。

 アントニオが腰を僅かに落とし、親指で剣の鍔口を僅かに押し出せば、剣身が鈍く輝く。

 

 ——ただ、一閃。

 

 無言のままに振られた銀光は、真夏の夢にも似て、ただ冷たく振り切られる。

 炎も怨嗟も欲望も、ただそれだけで消え去った。

 チンと、鞘に収まる音がする。

 

 切り裂かれた空に、光が漏れ出す。月の落ちた夏の夜空は、既に白み始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




お読みいただきありがとうございます。
あと2話程度で完結します。予定でしたが、長くなったで分けることにしました。3話か4話続きますね。80話でキリよく終わらすつもりが足が出ます。
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