紺碧の海へ帆を上げて、今日も船が錨を上げる。
白く立ち昇った煙が青い空へと溶けた。
雲一つなく、お日様が燦々と降り注ぐ港街にある丘の上には、白い屋敷があった。
開け放たれた窓。
吹き込んだ潮風がパラパラと、机の上に広げられた書類を捲り上げていく。
「あら、良い風ね」
白い
小高い丘から望む港町。瑠璃色に輝く石畳。
服喪を示す黒きドレスを纏った女は未亡人であり、この白き屋敷の女主人であった。
「んなこ。たいぎゃ、良か風たい」
ビタロサ国王により、港町トラーパニの統治を認められた子爵家。その当主代行の傍には、今日も一人の老婆がいる。
開祖である梟雄に仕え、彼の孫娘である女に三十五年の永きに渡り、仕え続ける古老。
「いい風じゃありませんって! 奥方様も婆やもっ! 早く書類を押さえてくださいっ!」
そんな二人に向かい、癇癪を起こす若い娘がいた。
金の髪を高く結い上げて、ヘイゼルの瞳を三角にしてしまう娘を、喪服の淑女は愛しげに眺める。
残暑の熱気には、少女の白い薄衣がよく似合った。
「もう、そんなに慌てないの。それに、何ですかフィオナ、その服装は。はしたない。……あら」
嗜める声は、言葉よりも遥かに機嫌が良い。
豊満な黒衣の胸元へ張り付いた紙——復興予算案の草稿を摘み上げ、揃えた女がアウグスタ。
トラーパニの母と呼ばれ、領主代行として十四年。
炎に焼かれ、多くの働き手を失った港町を再建した後、今も治める彼女こそが、キエッリーニの後家とも呼ばれる女であった。
アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニ。
白を意味する母の名を受け継ぐ女は長きに渡り喪に服す、貞淑な黒衣の寡婦である。
「なんなんですかっ! そのモノはっ! 私は、全然はしたなくなんて、ないですぅー。我が家にいるんだから、寛げる服装で良いんですしぃー」
子供返りしたかのように、頬を膨らますのがフィオナ。ポンポンと唇へ昇る言葉は、実に軽い。
キエッリーニの後援者にして,トラーパニ指折りの商会であるミリオッツイの一人娘が、彼女であった。
「はいはい。あんまり、うるさいことは言わないでおくわよ。私も、助かっちゃってるしね」
まだ学生であるフィオナに手伝って貰っているのは復興予算案。本来は行政府の仕事だが、何せ役所には金がない。
ついこの間と、二月近く前の初夏に起こった
幸いに、どちらも人的被害こそなかったものの、港を襲った災害は商品となる物品だけでなく、多くの建物や船、産業基盤にも甚大な損害を齎した。
「はーぁ。大変なのはわかるけど、行政府にも、もっとしっかりして欲しいわ」
フィオナが愚痴るのも仕方がない。その復興予算だけでも膨大な額に上っているからだ。自然の脅威はあまりにも、大きかった。
更には折り悪く、資源急騰の時期にもぶつかって、行政府の財政は青息吐息の模様を見せている。
「皆、よくやってくれているじゃないの」
生活、産業の基盤ともなっている霊核の急騰は、仕組まれたものだった。そう今は認識されている。
保有していれば確実に値上がりする資産として、霊核の価値を喧伝しながら買い占める。
そういった工作をするのが、地方にも派遣される財務省の外交員、監査官などの役職であった。
同時に、実体がなくとも存在する事業への出資を募り、僅かな配当を見せることで投資を煽った。
そういったやり口を始めたとした、王国財務省による大規模な市場操作。それらが一人の現役官僚による告発で明るみになっていて、世を騒がせている。
「キエッリーニの持ち出しのおかげでですけどね。まぁ、どこぞから借り入れるよりかはマシか」
本来ならば王国から降りる復興予算であるが、即時的なものではない。ましてや取り纏め役である財務省までもが騒然としていた。
「フィオナ達のおかげで、落ち着きましたしね。本当に、感謝しているわ」
「儲けさせて貰いましたし。今もまだ、美味しいんじゃないですか?」
この時期に霊核の相場安定のためにアウグスタが打ち出した政策は、かなり強引なものだった。
価格安定のための領内での流通統制だけでなく、冒険者組合をも巻き込んだ大規模な採掘事業を、彼女はシシリア島領主へと献策している。
「まぁ、その利潤は右から左に流れてしまいますけどもね。不幸は二人連れ、三人連れでやって来るなんて、昔の人は上手い事を言ったわねぇ……」
遠い目をしたアウグスタはカップへ口付ける。たった今、婆やが入れてくれた薬湯だ。
東国産のやや癖の強い茶であるが、精神の昂りへの鎮静作用もあるらしい。
ほんのりと甘く、爽やかに薫るこの味を、彼女はそう嫌いでもなかった。
「取り立てが、厳し過ぎますけどね。騎士達まで使って、鬼ですか? 法案が施行されたとはいえ、変に恨みを買うのも考えものですよ」
投資は自己責任。といったところで解決とはならないもので、資金を集めて破綻を理由に弁済を行わない事業者もいる。そういった者達へ楔を打つための法案が、弁済における利益の遡及的回収であった。
「割に合わない商法と示すものだしね。先物投資に規制がない以上、強引にでも受益者には負担して貰わないと。それが責任というものよ」
フィオナが眼を瞬いて、ニヤリと笑う。
「で、奥方様は利息を頂くと」
間違えではないものの、少しだけ心外であった。
アウグスタは首を横へ振り、髪を掻き上げる。
救済のための法案であった。かといって、行政府がすぐに多額の金を動かせるはずもない。
それを立て替えているのが領主であるキエッリーニであり、取り立てを行うのもまた、子爵家の私兵である騎士達だった。
「右から左に消えてゆくのは本当だわ。必要経費ですもの。それも織り込み済みよ」
胸を張って言ってやれる。法案の施行に当たり、破産申請の開始と共に受益者には督促を行っている。利息を取るのは正当な権利行使となっていた。
「おー、こわ」
フィオナはお手上げの姿勢を見せるが、利息あるいは課徴金はそう大きなものでなく、実質的にはキエッリーニの持ち出しとなってしまう。
だが、それでも良かった。この法案の目的は抑止であって、収支をあげるためのものではないのだから。
「お陰で、オルトには変な勘違いをさせてしまったみたいですけどね」
立て替えによる出費だけでなく、連日の夜会と前倒して行った
帳簿を前につい、「お金が足りない」などと口走ったのが、良くなかった。
何を思ったのか息子は、俺が働いて稼ぐよ。などと言い出して、連日稼ぎに出ている。
母としても、今更ながら呆れた吐息が出てしまうのも仕方がない。冒険者であるオルトの稼ぐは、身体を張って異界に潜る、そういった仕事であるのだから。
「せからしかガキ共には、よか息抜きたい」
広がる海へ視線を送り、フンと鼻を鳴らした婆やは常と変わらず口が悪い。
危険でありながら、恵み深く人々の暮らしを支える大異界、海。
「オルトも懲りないわよねぇ……」
カップに口を付け、苦い顔をするフィオナ。どうやら苦手らしい。
「良い経験になるわ。あの人も家を継ぐ前はよく、海に出ていたわね……」
亡夫のことだった。瞼の裏に蘇る大きな背中。追憶が大きくなった息子のものと重なった。
騎士達や冒険者仲間と共に、今日もオルトは海へと出ている。
戦闘を伴い、ときには生命を賭すこともある危険な任務だが、母の胸には恐怖よりも誇りがあった。
「もう! そんなこと言って! ルカがブー垂れて、もう大変なんですからねっ!」
笑いながら、器用に文句をつけたフィオナが軽やかに立ち上がる。つい、クスリと微笑んでしまうアウグスタ。
「息抜きに迎え、行ってきますよ。ついでにリナも駆り出さないと」
オルトの騎士となった姪のルカだが、まだ学園にいる。義務教育期間中である彼女には、オルトに着いて自由気儘な冒険を楽しむことを許されていなかった。
「いってらっしゃい」
対抗心の強いあの子には、不満であるのだろう。
自分が机に向かっている間、従兄弟にして守るべき主人が冒険者としての力をつける。焦りが生まれてしまうのも、仕方がなかった。
——ルカです。今日は、友達が遊びに来ます。
それでも今の不自由は、彼女を苦しめる鎖ではなくなっている。
頭に響く姪からの交信は、少しだけ弾んでいた。
——あらあら。それならお菓子の用意をしませんとね。昨日三人で作ったもので、いいかしら?
ご機嫌な了承の言葉が返った。ルカは鼻歌まで口ずさんでいる。
どうやら義姉へも面目が立ちそうで、アウグスタもホッと胸を撫で下ろした。
昨日もまた、一緒に
姪にはもう少しだけ、女の子らしくしていて欲しいもので、お菓子作りを気に入った事が非常に嬉しいものだった。
アレは懐かしい母の味。幼い頃のアウグスタが母や叔母、義姉にも教えられた味であり、キエッリーニでは女の嗜みだった。
「フィオナが迎えに出たわ。気を付けて、帰って来るのよ。お友達と一緒にね」
交信と声が一緒に出てしまう。潮風に乗って、歌声が聴こえて来るようだった。
未来へ伸びる種子として、学び、遊び、人と関わることこそが、子供達に与えられた使命。
ルカも、リナも。少女達はやがて、大人になる。
「甘かねぇ」
「いいじゃないの」
それまでは、だけでなくそれからも。帰るべき家として、甘えられる親としてありたいのが、アウグスタの密かな願望であった。
「それにしても、何とかなって良かったわ……」
「怪我ん功名ばい。ま、次はなかろうもん」
ついこの間の人造異界による暴走は、意外な流れを生んでいた。街中に怪物である肉塊が溢れ出て、区別なく暴れ回った事件である。
「助かったけれど、複雑だわ……」
どうにもならないと考えていた武器規制問題は、今は小康状態となっている。規制派の勢いが消沈したためであった。
「道具ば、使い方一つだけん。何をどうしたところで人自体は変わりゃせんたい」
「わかってはおりますけど……。ねぇ?」
そうなのかもしれないとアウグスタも思う。
だがそれは、あまりにもあやふやなもので、やはりどこか割り切れなかった。
後に伝え聞いた情報によれば、力持つ者も持たない者も、武器を手にして闘ったそうである。
荒くれの冒険者達だけでなく、争いなど縁のない市井の人々までもが闘って、おかげで被害も相当抑えられていた。
「力に惑わされんごつ。それば、望んどっとんじゃなかと?」
そうなのだ。結果的には正しい。しかも、その後は粗暴な鼻摘み者達や、赤布を着けて不満を叫んでいた連中から市へと、寄付金まで贈られている。
暴れすぎたから、道路や建物なんかの補填に当てて欲しいと、かなりの大金が行政府へ納められていた。
「そうなのですけどね。助かっては、いるのですけども……」
歯切れ悪くなってしまうのも仕方がない。アウグスタとて人の気持ちは計り知れないもので、だからこそ気持ちの整理が難しい。
「そういえば、あの子の姿も見ないわね」
ふと、思い出したようにしてアウグスタは呟いた。
リナの過ごした孤児院にかつていた、優秀な男の子。歳は確か、アントニオの一つ下だったはず。
「王都にでも帰ったのではなかと」
婆やも、すぐに思い至ったようだった。
死体遺棄、霊核の不正所持の疑いで検挙した赤い屋根の家、その夫婦。
彼等の拘束が不当であり、そのせいで損害を被ったとする一団を率いていた青年のことである。
暴動を未遂で治めた後、アウグスタへ王都へ報告すると言い放った彼は後に、監査官殿と共に再びトラーパニへと戻って来ていた。
それからは何度も街角に立ち、演説を繰り返す姿を見ている。
どの様な内容だったかの報告も受けていた。あの騒ぎ以来話を聞かないが、トラーパニの子だ。
無事であったと願いたい。賢くて機転も効く子だとの印象は、大人になってからも変わりがなかった。
「この街には合わないけれど、立派になったわよね」
「しょんなかよ」
切れ味鋭い弁舌を振るい、市井の立場から政策を批判する姿は、正しくアウグスタの政敵である。
利害関係では対立し、またやり方などには認められないことも多々あるが、自らの足で立っ他かつての少年を、彼女も憎みきれはしなかった。
「元気でやっていると良いけれど……」
才長けた少年で、だからこそ学費を支援し王都へ送り出している。遥か遠い海の先、そこで息災であれば良いのだが、と願わずにはいられない。
「婆や。そろそろ、お茶の用意をしましょうか。怪獣達が帰ってくるわよ」
筆を置いてアウグスタが立ち上がる。なんだかんだで話しているうちに、時間は大分経っていた。
とくに何の成果もないが、簡単に解決するとも思ってはいない。
政治とは、末長く続けてゆくもの。そのためには息抜きも、楽しみも必要となる。
「よかよ。片付けておくけん、行ってきなっせ」
だからこそ老婆に背中を押され、喪服の淑女にしてトラーパニの母とも呼ばれる女は、足取りも軽く歩み出す。
夏の盛りより、僅かに陽の落ち出す時間は早くなっている。気温の高さも湿った空気も変わらずに、ただそれだけが季節の変化を告げていた。
吹き込んだ風が、片付蹴られる前の書類を捲り上げる。パラパラと捲られだ白と黒の頁。
「では、いってくるわね。ふふっ、残念ね。アントニオはまた今日も、ルカの手作りを食べられないわ」
アントニオの後添い探しは諦めた。目に見えた脅威は去ったし、催しで意気を上げねばならぬほど、街も鬱屈してはいない。なにより、あの朴念仁では女を幸せにすることも難しい。
であるのならば、絢爛な夜会で無駄に費やす金はなかった。既に夜会の規模は縮小している。情報収集としては、それだけで充分だった。
貯えも有限であるし、ならば余計な出費を抑えるのは、家計を預かる女としては、当然の選択であった。
「あん色男ば、呼べば来るに決まっとっとたい」
いそいそと机を片付け出したはずの老婆は手を止めて呟く。その小さな声は、誰にも届くことがない。
茜に染まり始めたお日様の元へ、潮風が運ぶだけである。
老婆はポキポキと腰を鳴らしながら、再び片付けへと取り掛かった。
お読みいただき、ありがとうございます。