「やっぱりよ、何か味気ねーよな」
「何が味気ないのよ。男一人だけだからかしら?」
共に夕食を囲んでいると、唐突にオルトが言い出した。大ぶりな骨付き仔羊肉の炭火焼き、アニェッロ・スコッタディートを八本も平らげた後にだ。
フィオナがまぜっ返すが、姪であるルカは目を三角にしている。唇を尖らせていた。
「随分と驕った口をきく。料理長達の仕事はいつもと変わらず完璧。それがわからないオルトは、海水でも舐めていればいい」
オルトの隣に座ったルカからの、文字通りに塩対応というものである。
言い終えると、彼女はナイフとフォークを器用に用いて二本目の塩と黒胡椒の効いた仔羊肉を、静かに口に運び始めた。
「そういうんじゃなくて、こういうことなんじゃないかな?」
リナが手に持ったアニェッロ・スコッタディートにかぶりつく。ハフハフとしながらもペロリと平らげた仔羊肉も、既に四本目であった。
回しかけられたオリーブオイルや季節の香草だけでなく、骨にしっかりとくっ付いた筋肉まで綺麗になっている。
「やっぱり、手掴みが一番なんですよ。でしょ? 若様?」
手指を洗い、脂も拭き取ったリナは、とても得意顔であった。唇の端がテカテカと輝いていても。
「そういう意味じゃないんじゃないの? オルト」
手を伸ばしたフィオナが布巾でリナの唇を拭う。
主にサラダを摘んでいた彼女はまだ、仔羊肉を一本しか食べ終えていない。ワインこそ三本目であるが。
「飯に文句なんてあるわけねーだろ、うめーし。そうじゃなくて、俺が言いたいのはなぁ……」
十本目の骨を並べて指を拭き、エール瓶を呷った息子は
リナの推理は的外れであり、オルトは最初から手掴みで食べている。
だからこそ、味気ないと言い出した意味がアウグスタにもわからない。
オルトは昔から好き嫌いのない子であったし、お肉は特に好物であったはずだ。
大体息子はこれまで、味付けなどについて「美味い」以外を口にすることもなかった。
「わかってるわよ。ルカはどう? 何かが物足りなくない?」
「知らない」
魚介と卵のスープを飲み込んで、姪が首を振る。彼女もまた、カルパッチョの秋刀魚だけをチャバッタへと乗せた。
細かく砕かれた大蒜と唐辛子のみならず、切り揃えられた玉葱までをも避けて。
「ルカ」
「いらない」
アウグスタは許さず、お残し候補をナイフとフォークを用いてルカのチャバッタへと乗せてやる。
「うん、実に味気ない。むしろ痛い。今回は珍しく全面的に、オルトが正しい」
敵のようにして、白いオニオンスライスを睨み付けている姪だった。
ルカは生玉葱などを辛いと言い、あまり食べようとしない。火を通すと抵抗なく食べられるようではあるが、食事は身体の資本である。
生野菜でしか取れない栄養素などは、多々あるものなのだ。
「好き嫌いをしないこと」
オリーブオイルやレモン汁がふんだんに使われているし、刺激の強い香味も細かく砕かれて、程よい風味付けになっている。
そう玉葱の辛味は強くないはずだと思い、アウグスタは一切れのカルパッチョを口にした。
「あら美味しい。サッパリとしているわね。はぁ、毎日こんな贅沢をしてしまって、良いのかしら」
ややわざとらしくも言ってやれば、ルカがジーッとアウグスタの皿を見ている。
乗せられているのは、切り分けたアニェッロ。
「……好き嫌い、しないこと」
なるほど、まだこれが一本目であることを見咎めたつもりなのか。だがそれは、子供の浅知恵でしかないものだと当主代行は見抜いていた。
「好き嫌い? 大人はしないのよ」
葉物野菜で仔羊肉を包み込み、レバペテを一塗りさせたオリーブオイルの風味の効いたフォカッチャへと乗せる。
仔羊肉にはあらかじめ、レモンを振っていた。
ナイフとフォークを置いた淑女は、野菜と仔羊肉を挟んだフォカッチャを両手で持っている。
そしてアムりとかぶりつく。
広がる酸味とオリーブの香り。仔羊肉は癖がなく、柔らかい。それにまだ、切り分けたとはいえ熱々だ。
葉物野菜による、シャキシャキとした冷たさと爽やかさ。
パンが柔らかく食材を包んでいる。
葉物特有の僅かな苦味がレバペテから甘味を引き出して、強く塩を効かせた肉の旨みも引き出した。
とても「腕白」な食べ方であり、昔はよく港や田畑に街角でも、やっていた食事でもあった。
「肉っ!」
「私もっ!」
オルトとリナが真似をする。二人は豪快に骨ごと挟み込んでいる。
アウグスタは何も言わずに楚々として、懐かしいアニェッロ・スコッタディートのパニーニサンドを食していった。
「うめー」
「うまー」
オルトとリナの声。
少し遅れてサンドを食べ終えたアウグスタはまた二つ、同じ物を作り始めた。
「はい、フィオナ」
手渡せば、浮かぶ満面の笑み。反してルカはとても悔しげにしていた。
「いただきます。随分と懐かしいですね」
十四年前に焼け出されたあの頃は、食器はおろか椅子もテーブルもほとんどなかった。
街の働き手達や女性冒険者達を見習って、身に付けたもの。それらはこうして、アウグスタの血肉となっている。
「はい、ルカ。玉葱の次はお肉が待っているわよ」
「ぬぐぐぐ……」
交換条件というやつだ。これも理と利による統治の一環であった。ただし、お残しに対する赦しはない。
「ルカが食わねーなら、俺が貰うぜ」
オルトによる囃し立てるための声。
「玉葱なんて、怖くないですよっ! 頑張って!」
リナの応援しているようでいて、実は何でもない言葉。
「私はワインが怖いわ。婆や、冷えたのをもう一杯」
「もう、終わりたい」
フィオナが掲げた空瓶を受け取って、皺だらけの手の持ち主が返した。
ずっと側で立っていた婆やが息を吐く。
「そこをなんとかもう一本、お酒が怖い」
フィオナの飄々とした言葉にオルトが豪快に笑う。
リナが手を叩き、ルカがシャクシャクとお口の中で小さな音を奏でた。
「しょんなかね……」
呆れ声に返るのは笑い声。
婆やが折れたのも、お残しが許されないのにも理由があった。
領主代行という立場にありながら、アウグスタ自身が拐かされてしまうという失態を犯した「異界侵蝕」の起こったあの日。
その翌日から、夜会を止めている。
元々は一日も早く再開するつもりであった。だからこそ、準備も抜かりなく進めていた。
だが、そういう訳にもいかなくなっている。
以前から度々あった霊獣の顕現や津波による脅威とは異なり、港でなく街中での被害が大きい。
特に行政府周辺や住宅街、繁華街や企業の本部の置かれた区域に大きな被害が出ていた。
人的被害はなくとも、物的な損害は決して無視出来るものではないし、女達も浮かれて夜会などをする場合ではなかった。
それぞれが支えねばならぬ家もあれば、家族もあるものだ。社交にかまけて本分を疎かにすれば、女の誇りを傷付ける。
その結果として、屋敷には食材が溢れていた。
一部は市場に流したものの、量が量である。日持ちのしない食材を消費しなければならなかった。
——それに、あまり気が進まないのよね。
元々は状況に楔を打ち、良縁を繋ぐ為の催しだ。英雄達を労い結束を固める狙いもあったが今は情報収集も兼ねていて、不要であるはずもない。
必要であるならば、強行も可能であった。
だが何故だか、アウグスタはそんなつもりに成れないでいる。
「偉い! ルカ様っ!」
リナが元気一杯に叫べば、オルトとフィオナは再び杯を空けていた。
「頑張った。……ご褒美」
手を差し出したルカの得意気な顔に、アウグスタはクスリと笑う。声が、心が踊り出す。ささやかなものが嬉しくて、これで良かったのだと思えた。
「はい、あーん」
雛鳥を慈しむようにして差し出せば、まだまだその時間は残されているような気さえもしていた。
「……マンマ」
「ん、なぁに?」
ルカの小さな呟きはアウグスタには聞こえなかったがそれでも、表情を見ていれば胸が暖かくなった。
暫しの間、心地良くも僅かにくすぐったい時が流れる。見守る大人達がいて、元気な子供達がいる。
かつて望んだ未来、願った現在がここにはあった。
ただ左側だけが、今はぽっかりと空いている。
——夜。アウグスタの寝室。
そこには鏡の前に立つ、当主代行の姿があった。
少しだけ、寝苦しい夜である。
酷暑の熱気が帰って来ていて、夏の残り香が再びやってきたような、夜だった。
鏡面に映る己へ視線を合わせ、女は常と変わらぬ黒衣にて身を飾る。
下着でこそあるが、もはや彼女の象徴ともなっている仕立ての良い黒。その薄衣越しに、胸元へと掌を当てていた。
トクン、トクンと規則正しい鼓動が響く。
常から俯瞰して物事を視る彼女だが、やはり深い思考に沈む場合は一人がよい。
他に物音はなかった。屋敷の皆は寝静まっており、誰もが夢の中だろう。風も止んでいた。
「……あの子達には、何が足りていない」
呟いたアウグスタは眉を寄せる。鏡の中の彼女は答えない。ただじっと、己を見ている。
味気ない、物足りない。夕食でのオルトの言葉は、妙に引っ掛かるものだった。
単に息子が言い出した妄言だからでなく、ルカもリナもフィオナでさえも、同じように感じているのだと察していたのだから。
「……考える、までもないか」
アウグスタもまた、似たような感慨を覚えている。
再び呟いた彼女は僅かに身を前へと乗り出した。鏡面に映った女と視線が近くなる。
紅に近い瞳は真っ直ぐでなく、揺れていた。
いつもの夕食、いつもの団欒。当たり前の日常。
多忙や都合により皆が揃わないこともあるが、家族で夕食を囲むのは連日に渡る夜会開催の前からの習慣だった。
だからこそ、席が一つ埋まっていない事など問題とならない、はずである。平穏があり、望んでいたものが目の前にあるのだから。
「違うわね。今、考えるべきことは」
額へと手のひらを当てて、アウグスタは大きな吐息を漏らした。冷たい。その刺激からか、思考も切り替わる。
——落ち着きを取り戻したとはいえ、状況は予断を許さない。それに、この街の弱味も知れてしまった。
領主代行の貌へと。商船が行き交い荷を下ろし、また積み込んで船を出す。
港や街中では景気良く物品が取引されていて、シシリア島内へ送り出し、また受け取って各地へと船が出た。
平穏は取り戻されて、逞しく人々が暮らしている。薄氷の上で。
一連の災害の中でトラーパニが晒したのは、軍事的脆弱性であった。
トクントクンと手のひらから伝わる音が、静かに思考を促していく。
行政府が管轄する護衛団は専門の戦闘集団でなく、有志による自警団に近い存在だ。
政治思想から商業拡大に大きく予算を割り振ったが故の戦力不足であった。
有事となれば冒険者組合へも協力を仰げるが、冒険者個人への指揮命令権はない。
自由経済貿易港トラーパニ。この街には多くの人が集まった。それぞれが野心を秘めて。
寒くもない、むしろ暑いくらいであるはずなのに、背筋が震える。
アウグスタは両腕で肩を抱き、視線を落とした。
「向上心ならば良いだろう。だが、悪意……でなくとも人の行いというものは……」
理と利。だけを錨とするには弱く、人によっては目的のためならば手段を選ばない。かといって、急場拵えの戦力では——。
この富裕な都市を護ることは出来ない。
目を背け続けてきた問題だった。そのせいで戦力拡充の十全な準備とは程遠く、またそういった分野においてアウグスタには知見もない。
この十四年。一振りの剣だけで護りきるには、街も社会も大きくなり過ぎていた。
人を雇い入れ、武器を集めてなおかつ街を、人を護る力として育む。最も困難な問題は、現在の護衛団を常備軍とすることで解決が出来るかもしれない。
だが、そのためには——。
「アントニオは……」
名を呟いて、女の身体は僅かに固まる。
抱きしめた肩越しに、鼓動が跳ねた自覚があった。
顔を上げた彼女だが、視線は遠く、どこかを追っている。
女が思い起こしてしまうのは、真っ直ぐに視線を注いでくる涼やかな瞳と硬く引き締まった肉体。
そして、あの夜に呼びかけられた声だった。
彼は今、エーリチェに居る。
アントニオは夜会の停止と共に騎士団の一部を残し、トラーパニと王都を繋ぐ航路を護るためにエーリチェの海城へと帰って行った。
海からの脅威を排するためにエーリチェに置かれた一代男爵領。
アントニオの祖父、父から続く実質は世襲でこそあるが、要衝を預けるに相応しい者など、今は彼の他になかった。
その力により、アウグスタの統治は、トラーパニの繁栄は、齎されたものなのだから。
それに、主であるアウグスタであっても王より爵位を賜った彼を、あの地から動かすことなど出来ない。
「何を自惚れる、アウグスタ」
彼女は腕を解き、鏡へと向き直る。鼓動は既に落ち着きを取り戻していた。
そもそも彼女は、「正式」な意味での剣の主ではなかった。
実質的として、剣を捧げてくれている。忠義強く、心優しい男だ。十四年前にトラーパニ子爵である夫が「行方不明」となった後、「代行」となったアウグスタに従っているに過ぎなかった。
アントニオが本来剣を捧げるべきは、異界の中で非業に斃れた亡き夫。
死亡さえ確認されることのなかったあの人は、公的にはトラーパニ子爵のままである。
夫には、もう返せない。ならばせめて、彼には自由を。
そう思い続けたアウグスタであったが、今もそれを為せてはいない。
「義姉様……」
凪いだ背中。病弱な身体でオルトを抱いて、声を張るその背中。現在におけるアウグスタの原点。
混乱を収容するために、祖父は義姉と彼を娶せた。
新たにキエッリーニの家族となったアントニオが、喪に服した当主代行であるアウグスタに従うことは問題とならない。
そんな義姉も、ルカを産み落として儚くなる。
その後のアントニオを取り込もうとした勢力は数多く、引き抜きや囲い込み、縁談話は四方山あった。
剣を捧げる主は行方知れずであり、錨となる妻もいない。加えてエーリチェは、トラーパニの喉元にあたり、王都と繋がる航路は莫大な富を生み出した。
アントニオを取り込みさえすれば、街の利権も何もかも、思いのままとなるのだ。
当然ながらアウグスタの抵抗も熾烈なものとなる。
義姉の喪も、そして祖父の喪も明けぬままやって来た連中を追い返してもいた。
幸いにも、その後もアントニオは決して靡かず揺れず、主の、その代行であるアウグスタの剣として在り続けた。
例え、妻である義姉の死さえも看取れなかった男であったとしても。
不器用で、弁の立たない男でも。その武力は遥かな高みにありながら、見てくれだけは非常に良い。正に引く手数多であった。
後添えでも良いと婚姻相手を探す女性たちだけでなく、身分ある中央、地方の有力商家の娘や、貴族子女さえもが虎視眈々として彼へ狙いを定めていた。
——そういえば、さる公爵家の姫君が欲しいと言って、駄々を捏ねていたこともあったっけ。
余計なことまで思い出してしまう。中央との取引を広げるために伝手とした公爵様だ。偶々観光に来ていた四つの姫君が、非常に欲しがった。
公爵様もまともな大人。ルカの同年であるので、流石に嗜めなされたが、アウグスタは酷く気を揉んだ。
結果として、それからはあまり社交などに出すこともなく、エーリチェを任せている。
本分であり適任ではあるが、押し込めたのと変わりはないと囁かれても、彼女は反論が出来なかった。
「いえ、アントニオが悪いのです」
鏡へ映る自分を睨み付け、声が出る。女はこちらを同じく睨み付けていた。
誠に遺憾ながらアントニオは美しい。だがそれも、容姿だけであるのだ。
昔からなんとか社交を教え込み、無難にこなせるようになってはいるのだが、とにかく気が利かない。
髪型を変えても小物を付け替えても気付かぬし、彼は微笑みながら甘い声で囁いたところで、血生臭い話しかできやしないのだ。
剣を振る以外に能のない男であると、キエッリーニの女は誰もが知っていた。悪い女に騙されてはならぬと、昔から気を付けて育ててきたつもりでもあった。
「良縁があるならば、やぶさかでもないのですが」
呟きは誤魔化しであると、彼女も気付いてはいる。
そういった誘いを防ぎ、自由を与えることを何よりも望まなかったのは、自分自身なのだから。
アントニオが奪われるかもしれない、その恐怖は絶えず、アウグスタに不安を与え続けていた。
他に頼れる相手がいない。それは単なる言い訳で、彼が傍にあることが慰めとなっていた。
何度も見送った背中。夫の、義実の両親の、家族達の、隣人達の、その背中。それだけではない。
それから先も、義姉の、祖父の背中を見送った。
流れゆく死の中で、ずっと傍にいたあの子。
その背中を見送りたくは、なかった。
十四年前のあの日。死にゆく夫の目の前で、身を穢されかけた女は、今でも男が恐ろしい。
そんな女が海千山千と呼ばれる男達の中で、背筋を伸ばし胸を張り、立っていられたのは誰のおかげか。
たった一人、残された英雄。
その武により経済政策に専念も出来たし、軍事予算も抑えられている。
彼女による復興政策自体が、彼へと強く依存して成立していた。
「いえ。取り返すのなら、まだ……」
オルトも成人し、来年からの兵役を終えれば襲爵も予定されている。ビタロサの国法では行方不明者は十二年の経過で認定死亡となった。
アウグスタ自身が、その間の代行となっている。
ここまで来れば、もうアントニオ一人に頼る必要はない。だからこそ、英雄を預かる花嫁、武人の伴侶を見つけ出そうという催しであったのだが。
「似合いの女性が、中々みつかりませんね」
鏡の中の女が、盛大な溜息を吐いていた。彼の隣に並ぶ女性を、想像すら出来なかった。
義姉でさえ、あの炎に巻かれて鮮烈な姿を見せた後は起居に不自由し、彼の隣に並べていない。
だが彼女は一つの結晶を残してくれていた。
五つになるまでのルカを、手ずから育てたのはアウグスタであった。
その頃は乳の出なくなっていたアウグスタであるものの、乳母を雇い入れオルトの手を引き、ルカを抱いて、街中を駆け回ってきていた。
あの頃のルカはキャッキャと笑いよく喋る子で、今の姿とは似ても似つかない。
出ない乳を含ませてやったら大人しくなってはいたが、とても手の掛かる赤子であった。
「それに、ルカの母親になってくれる女性ですもの」
ぐっと拳を握り締める、女の姿があった。
義姉の忘れ形見であるし、何よりも可愛い。
そんな姪を疎かにされることに、我慢がならない。それは父親であっても変わらぬだろう。
多忙の合間を縫って、彼からも何度も相談を受けている。
だが、懸念もある。アントニオが英雄であると、あの日、「異界侵蝕」が起こりし夜に誰もが見ていた。
再び英雄が衆目に晒される事件が、ここに来て起こされた。ただ一太刀で、異なる世界そのものを殺す。
「それでも、手放せはしませんね……」
それは政治で、欲得の結果であった。力とは、そういうものである。
もう、持ってしまっては手放せない。それが例え浅ましくとも、アウグスタは節くれだった男の手を離せない。
「かといって、打てる手は……」
フィオナでさえ、恋愛とまではならなかった。あんな良い子であるのにも関わらず、あの男は娘の姉、そんな立場でしか見ていない。
「アントニオを、繋ぎ止めるためには……」
アウグスタは考える。思考は冷たくなっていた。
アントニオが別の勢力と縁付くのは、あまり上手くない。もし、彼に刃を突きつけられたなら——。
そんな男ではないと、アウグスタは知っている。例え何があろうとも、彼が横道に逸れることはない。
だからこそ、厄介なのだ。彼の視線は、声は、たった一人にむいていた。
「……え?」
思い付いてしまった筋書きに、思わず声が漏れた。
何を考えた寡婦よ。夫はまだ、ここにいる。左胸へと手を当てて、その指を見る。
左手の薬指には、なんの証もなかった。
契約を、婚姻の証を示す刻印。不貞を働けば呪いとなり、円満であれば祝福となる。それが、ない。
知っていた。ずっともう、それはなかった。
「貴方……」
愛した人の、名を呼んでいた。幼い頃から一緒にいた従兄弟。祖父により、定められた人生。
嫌じゃなかった。むしろ、嬉しかった。物心ついた頃から側に居て、好きだった男の人。その後ろに着いて来ていた小さな子は可愛くて、ずっと見ていた。
弟だったアントニオ。
大切な繋がりで、手放せない人。
「……ああ、そうか」
冷たく声が響いた。目の前の女は、確信に満ちている。打算に満ちたふしだらな女、お前は何を望む?
「——」
唇から登った小さな声は、まだ少し湿った夜気に溶けることもなく。
女は肩越しに、左側を見ている。ぼっかりと空いてしまった、その場所を。
アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニは、手に取った呼び鈴を押した。
シャラン、シャランと音が鳴る。
それは玉串、祝いの鈴の音。一台の輿が、街道をゆく。湿った夜気の中、白いお月様に照らされて。
シャラン、シャラン、シャラン。
輿を引くのは女達。
畦道に並ぶ芒と葦は潮風を吸っていて。
侍女服姿の女達が一台の輿を担ぎ、進んでく。
「通しなさいな、通しなさいな」
女達は口々に、唄う。
「こーこはだーれの細道だ」
口々にして、謳う。
「奥方、様の細道だー」
彼女達の主人を寿ぐ歌を。出鱈目な唄を。
誰が紡いだものでもない。
いつの間にか誰かが歌い出し、また別の誰かの唇に乗っていて。
トラーパニの街からエーリチェへと伸びる街道へ、響いてゆく唄声を。
葦が、芒が月光に照らされて、ソヨソヨと揺れている。秋の風は優しく涼しい。なのに——。
女達の描く汗には、熱いものがあった。
「止まれっ! 何奴っ! 名を名乗れっ!」
岬に建った、古い城。無骨な岩造の海城は、夜に笑う
無慈悲な灯りが照らしている。狼狽えた門番達の声は震えていた。
「ふふ、ふふ、ふふ……」
誰何の声に、女達が艶やかに微笑む。男達の前で、女輿は止まった。
訪れる静寂。
門前の篝火に照らされて、女輿も赤く揺らめいている。
気を飲まれた門番が紡げるのは、沈黙だけだった。
先頭で輿を担いでいた若い娘が、大きく息を吸いめば。
「控え、おろぅー!」
大喝が響いた。声は高く澄んでいる。
「ははーっ!」
門番達が、反射的に膝をつく。
「苦しゅうない! 面をあげぇーい!」
「ははーっ!」
言われた通りに顔を上げる男達であった。彼等は見る。もう一度、声を張ろうと息を吸う、若い娘を。
何故だか彼女は瀟洒な侍女服には似合わない、古い襷を掛けていた。
その唇が再び開かれる。
「奥方様の、おなーりぃー!」
その報せは、雷鳴の如く。
「門を開けぇ! 錨を上げろぉ!」
エーリチェの海城に、大騒動を齎した。
トラーパニの英雄、キエッリーニの剣、守護者。
そう二つ名されるアントニオ・マリオ=ペントラ、エーリチェ一代男爵である城主が一人、酒杯を傾けていた。
寝台と机の他には武具と着替えくらいしか置かれていない殺風景で無骨な部屋で一人、酒を飲む。
居城への帰還以後、毎夜のことだった。
だが、今夜はやけに騒々しい。霊獣でも出たかとぼんやりと考えるも、それはないと首を振る。
先程、屠って来たばかりであった。
開門の鐘が鳴り響き、鬨の声がする。笑いさざめく若い女達の声も、していた。
まぁ、良いだろうとアントニオは捨て置いた。
騎士団には女性もいるが、夜も城詰めとなるのは男達のみである。騎士達が慰安のため、女性達を城似迎え入れるのに、とやかく言うつもりなどなかった。
海域の安全は既に確保されている。仮に危険が迫ったところで斬ればいい。彼はそう、考えていた。
そこに響くのは、やけに慌ただしい足音で。
「どうした? こんな夜更けに」
開いた扉へ向けて、一言。
「団長! 門前に花嫁行列が!」
「は?」
副官の言葉に、それだけしか返せはしなかった。
「行くぞ」
だがアントニオは現場の男だ。一瞬でも判断を遅らせる危険を知っている。
杯を置いて立ち上がった彼は副官を押し退けると現場へと向かった。足音を立てることなく、足早に。
門へ辿り着いたアントニオが見たのは、どこか見覚えのある女輿であった。
見渡すまでもなく、見知った顔の女達が騎士達と共に笑いさざめいている。
「お、来た来た」
訝しげに降りた輿を眺めれば、その横でブンブンと手を振る若い娘がいる。彼女もまた、よく見知った顔だった。
「リナ?」
本城であるキエッリーニ邸へと送ったルカをよく可愛がってくれている娘であり、「あの方」が特に目を掛けている新米侍女。
「はいはい、リナちゃんですよ。今夜は婆やの代行です。見て見て、この襷。ということは——」
侍女服にまったく似合わない襷は、乳母殿のもの。通りで見覚えがあるはずだ。彼女は輿の帷へと手を掛ける。
それが意味することを、騎士は知っていた。
反射的に膝を折り、地に着ける。
「奥方様……」
ことが、出来なかった。スルスルと上がった帳のその中に。
「剣」とまで呼ばれた男が目にし、その動きを止めさせたのは——。
「こんばんは。相変わらず、気の利かない男ね」
白い
キエッリーニ後家、トラーパニの母、代行。様々な二つ名にて語られる、彼女は。
リナに手を取られ、静々とした足取りで輿を降りてゆく、その女性の名は。
「アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニ。今夜はアントニオ・マリオ=ペントラ卿へ、良縁を運びに参りましたわ」
名乗りと共に、愁眉が開かれる。
満月よりも無慈悲でありながら、海よりも深く澄んだ色をして、微笑みを湛えていた。
この十四年。纏い続けた黒衣を脱いで、白く華やかに着飾った女の姿があった。
「……お、奥方様」
「あら? 随分と他人行儀なのね」
アントニオは膝をつき首を垂れる。眩しくて、見ていられない女性がいた。
十二で誓いの儀を迎える前に、兄と慕った剣を捧げし英雄に、嫁いで来た美しい人が。
あの日と同じ花嫁衣装に身を包み、目の前にいる。
「申し訳、ございません」
頭上から降り注ぐのは、クスクスという笑い声。彼女の機嫌の良いときのものだった。
「して、奥方様。このような夜更けに何の……」
剣として、騎士としての応答に、笑い声が止む。
「鈍い男ね。アントニオ、私を後添いにしなさい」
「は?」
思わず漏れた声。冷たい声に頭が上がった。結ばれた視線は一瞬で、再び男は頭を下げた。
「そうすれば、オルトとルカは兄妹ね。キエッリーニとペントラが、より心を合わせたならば——」
何を言っているのか、理解が追いつかない。違う、道理を説いている。当事者として巻き込まれた後添い探し。その目的は聞かされていた。
考えるまでもなく、この女性の政治的、社会的な目的を達成するにはそれこそが——。
「この先の、どんな困難にも打ち勝つことが出来るでしょうね。ふふっ、アントニオ。これが、女の戦よ」
最適解であると、武辺でしかない男にも理解が出来た。出来てしまった。
「エーリチェも久しぶりよね。ほら、こんなとき、紳士はどうするのか忘れたのかしら?」
彼女の柔らかな肉体が身体へ触れる。潜り込んで腕を回した細い女の腰が、アントニオを支えるようにして、起き上がらそうとしていた。
——相変わらず、なんだな。
剣として、騎士として。
弟分として、義兄として、男には。
主君の妻として、末長く幸せになって貰いたかった女が頑張るも、その力は儚い。
「そうそう。お姉さんが女の扱い方というものを、教えてあげるわ」
立ち上がった男が、女の身体を横抱きにする。あの日々のような抵抗はなく、フッと力の抜けた女の熱が薄衣越しに肌へと伝わった。
「さぁ、私達の部屋へ案内しなさいな。アナタ」
視線が一瞬交わる。逸らさない、逸らさせない。
「
男は花嫁を抱いて、凱旋へと向かった。
お読みいただきありがとうございます。