フオリエ・ナスコシテ 【隠された徒花——当主代行の再春】 作:カズあっと
灯りの落ちた部屋。照らす月明かり。
秋の夜空は晴れていて、良い月が出ている。
だがその部屋には、何の風情もなかった。
飾り気どころか、ほぼ何もない。
壁に立てかけられた武具の他には机と寝台しかなくて、その寝台の上には男女がいる。
アウグスタと、アントニオであった。
一人は白く輝く花嫁衣装を纏っており、一人は簡素な部屋着でいる。二人は話し込んでいた。
「——つまりは、これこそが最善の道なのです。わかりましたか、アントニオ? 私が貴方の鞘となることで、街の、いいえ、この地の平和が保たれるのです」
先程から長広舌を振るい、懇々と因果を含めているのが子爵家の代表者、代行である花嫁。
「ええ、その深慮に感服いたします」
時折り頷いて、訥々とした言葉を返すのは、一代男爵に叙された花婿だった。
「オルトは血気に逸ることもあります。ルカが側についているならば、安心でしょう」
だのに、二人の会話は決して色気のあるものではなくて。随分と政治的なものとなっている。
「そうかも、しれませんな」
男、アントニオが顎に手を当て頷けば、女、アウグスタも「そうなのです」と頷いた。
二人は隣り合って座ってこそいるが、肌は触れ合わない。付かず、離れずの微妙な距離にある。
そのこれまでと変わらぬ距離感に、アウグスタは密かな安堵を覚えていた。
抱き上げられたまま入ったこの部屋で、何の生活の痕跡も見つけられなかったせいである。
机の上には酒杯があった。だがそれだけで壁に並ぶのは騎士鎧と数打ちの長剣ばかりであって、残るは寝台の他に、何もない。
「それで、貴方はこの海城でどんな生活を送っているのですか?」
寝具も清潔な物でこそあるものの、まったく飾り気などはなかった。ただ、質は良い。
座っていれば、それがわかってしまう。使われた痕跡など、ほとんどないという事実さえ。
「はて? 普通でありますが」
「普通とは? 何をもってでしょうか。この寝台、いつ使いましたか?」
首を傾げたアントニオ。彼を下から睨み付けたアウグスタは一息に問うとややあって、息を吐き出した。
「去年、ルカがまだこの海城に居た時期まででしょうか。あの子に、使わせておりましたので」
ああ、とまたもやアウグスタは息を吐く。
思えば、屋敷に滞在していたときも、様子がおかしかった。
侍女達が、「流石はアントニオ様、ベッドメイクも完璧ね」などと噂をしていたときに、気付いておくべきであった。
「で、貴方は?」
そんな習慣はなかったのだ。かつて、夫からも聞いている。何故、思い出さなかったのか。
戦場に在るとき、心得のある戦士は横にならない。いつ出陣しても良いように、絶えず牙を研いでいる。
「私でしょうか?」
いつからなのだろう。短い結婚生活の間、義姉と一緒に居たときは、どうだったのだろうか。
それを問いはしない。問うまでもなかった。
「……」
アウグスタはズイと身を乗り出して、アントニオの手を掴む。逃さないためだ。この男は昔から、問い詰めようとすると風のように去ってゆく。
手のひらが熱く、男の体温が伝わった。
「……ああ、騎士の嗜みは常在戦場。無論、常に抜かりなく備えておりました」
涼やかに微笑む男。この顔で、何人を泣かせて来たのだか。それは女にもわからない。
わからないながらも彼女は手を離し、肩へと伸ばすと体重を預けた。
「寝なさい」
触れている。花嫁衣装は夏の盛りでも着られるように薄い。肌の熱さが、紙一枚よりも薄く編まれた絹布越しに伝わった。
それが彼のものか、己のものなのか。どちらでも構わなかった。
早鐘が鳴っている。胸の奥、体の芯から響く衝動は何なのか。
「お、奥方様?」
狼狽えた声は懐かしいものでこそあるが、それすらももう関係ない。
押し倒す。胸を合わせるように押し出して。
抵抗なく、倒れ込んだ逞しい身体。
「ふっ、うふふ……」
笑い声が溢れるが、笑い事ではなかった。
アウグスタは己を突き動かした衝動の、その名前を知っている。
「お戯れを、奥方様」
「違うでしょ?」
それは怒り。微笑んでやれば、再び唇を開こうとするアントニオがいた。黒髪が、男の顔へと掛かる。
「——」
言わせない。塞いでやった。
重なった唇から、舌を突き入れて絡ませる。
硬い。
男の口腔内はひどく渇ききっていて。女の中から溢れ出るもので、濡らしていった。
——ダメよ。
男が頭を動かし逃れようとするものの、枕の上だ。両手で頬を挟んでやれば、退き口はなかった。
己を刻みつけるように啄んで、舌で口内を蹂躙してゆく。ピチャピチャと、くぐもって響き渡る水音。
瞳を覗き込めば、男は目を見開いている。
抵抗はない。女の思うがままに、男がなっている。
力なく、絡められてゆくもの。不器用で、柔らかな感触。それを感じ取ったアウグスタは、ピタリと動きを止めた。
腹の上に跨り唇を合わせるだけで、背筋に走るものがある。胎の奥まで疼いていた。
されど、続けない。動きを止める。
唇を離した。チュポと微かな音が鳴る。
髪が靡き、頭をゆっくりと上げてゆく。
月の光が明るい。アントニオの貌が、よく見えた。
唾液は繋がりを保ったままに、銀糸の如く煌めきながら糸を引いている。
見下ろして、見つめ合う。
アウグスタが唇を舌で舐めると、銀糸は切れた。
アントニオが、真っ直ぐにこちらを見ている。
「ねぇ、私は貴方の何かしら?」
突き付けるのは言葉。単純な問い掛け。
男は応えない。ただ真っ直ぐに、見上げていた。
「奥方様では、ないわよね」
もう一度だけ、言ってやる。
この地、エーリチェまで来た目的は告げていた。
そして彼は受け入れた。そう言っても良いだろうとアウグスタは断じている。
抱き上げて、寝所にまで招き入れておきながら断られてしまっては敵わない。多少なりとも、女としての意地だってあった。
必要であり、合理的であり、望ましい繋がりであって、既に様々な公的な手続きも済ませてある。
剣を包む鞘として、当然の仕置。
あと必要なのは、既成事実と誓いだけだった。
それに——。
アウグスタ自身が、欲しいのだ。
その声も、眼差しも、忠義も。
心も、身体も、愛情も。自分のものとして。
今更ながら独占したくなっている。
気付かされて、しまったのだから。
あの日、呼ばれたせいで壊されてしまっていた。
十四年、いや二十年間。輿入れの日からずっと、己を定義していたものを。
妻であり、母であり、娘でありながら、妹であって姉でもあった女主人、「奥方様」という定義を。
「ねぇ、アントニオ?」
未亡人でなく、母でもなく、代行でもない一人の女に戻された。
だからもう、心を抑えることが出来ない。
縛めは、断ち切られている。胸がほどけ、想いも溢れた。
「もう名前を呼んではくれないのかしら? あなた」
私はもう、貴方にとっての「奥方様」ではないのだから。
女として、妻として、あなたに呼ばれたい。そう望んでしまっているのだから。
シンと音が止む。衣擦れの音も、風の音も、鼓動の音さえ消えている。
「……アウグスタ」
聞き取れるかどうかという、か細い声だった。
「はい? 何か言いましたか、あなた?」
だからこそ、欲が出る。聞こえているのに、はっきりと呼ばれたい。そんな気持ちになってしまう。
「ア、ウグスタ」
失格だ。少し声音は大きくなったが、引っ掛かってしまっている。もっとちゃんと呼んで欲しい。
アウグスタはツンとした澄まし顔をして、首を横へと振った。視線だけが、結ばれている。
「アウグスタ」
三度目は、はっきりと呼ばれた。アウグスタは微かに身を震わせる。その感覚の意味を知っていて、彼女は少しだけ酔いしれていた。
「はい。アウグスタでございますよ、アントニオ様。何でございましょう。旦那様」
歳上の女として、姉貴分として、主人にして妻として揶揄うように、誘うように余裕をもって微笑んで見せてあげれば。
「アウグスタぁっ!」
「え?」
天地がひっくり返る。
瞬く間もなく押し倒されて、主客の入れ替わった位置にある、男の顔を見上げていた。
「俺が何年、我慢をしたかと思っている? 二十年だぞ、二十年。わかるか? アウグスタ」
アントニオの言葉遣いは昔の、若い頃の粗暴なものとなっている。
怜悧な美貌を朱に染めて、彼の瞳は爛々とした光を湛えていた。
「え、えぇ……?」
何も返せない。疑問ともつかぬ声だけが漏れた。戸惑いを浮かべる女だが、身動きが取れないでいる。
男に肩を掴まれて、跨られていた。
首を動かすと、身悶えさえ出来ない。視線も逸らさない。ただ真っ直ぐに射抜かれていた。
「覚悟はいいな。加減は出来んぞ」
獰猛な獣の貌が、降りてくる。
「え、あ、あの、ちょっと待っ——」
男の感情を隠さぬ瞳が、近付いてきていて。
「待たんよ。永遠に
「あ——」
唇が塞がれた。闇が降りてくる。
潮風に運ばれてきた雲が、月を隠した。
月さえも、知らない夜が来る。
長く半身であった鞘と剣。
一対の
潮風が、今日も変わらず吹いている。
どこまでも、高く澄んだ青い空。
白い雲がゆっくりと流れていった。
波音が、今日も変わらず繰り返す。
果てしなく、広がる紺碧の海。
白い波飛沫が形を変えて寄せては返した。
空と海。悠久の昔から変わらないでいるもの。
それらを望む小高い丘で陽光に照らされて、白く輝く屋敷があった。
屋敷からは丘の下、港へ続く道が真っ直ぐに伸びている。立ち並ぶ深緑が、瑠璃色の石畳に木陰を作っていた。
その名は通称、白の家。旧貴族、キエッリーニ子爵家邸。
築年数六百年を超える、シシリア州トラーパニ市における文化遺産にして観光名所であった。
その一室の窓から、港を望む母娘がいる。
白いサマードレスを纏った若い母親が、お揃いの白を着せた幼い娘を胸に抱き、風と陽を浴びていた。
「そうしてトラーパニ中興の祖、キエッリーニ後家とも呼ばれた女傑は、英雄の花嫁となりました」
港へ瞳を細める母親が、アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニによる「押し掛け嫁入り」の逸話を娘へと語り聞かせてみれば、幼い娘は瞳を輝かせながら「ほえー」などと鳴きっぱなしであった。
「おぉーっ! アウグスタ様、大胆ですねっ!」
歓声はとても、華やいでいて。
話の途中でもブンブンと頷いたり、いやいやと首を振ったりで、大変に忙しい娘であった。
「それで、それで!? どうなったのですかっ!?」
今もキャッキャと婚姻の祝い唄を口遊み、両手を上げている。
二人の初夜やその後のドタバタは大人にとっては非常に面白いものであるものの、七つの子供に話すべき内容ではなかった。少しだけ、大人向けなので。
「その後の二人は子宝にも恵まれて、末長く幸せに暮らしました。お陰で今でもトラーパニの港はこのようにして、大変栄えております。めでたし、めでたし」
にっこりと微笑んだ母親は、そう結ぶ。
五百年という歴史の流れによって、キエッリーニ子爵家も、今はもうない。
「やたっ! えへへ……」
だが無邪気に喜ぶ娘には、それだけで良かった。
その意思は、血は。
誇り高き末裔として、この島へ、この国へと広がっているのだから。
「うふふ、そろそろ港に出ましょうか。『奥方様』の統治が、どれだけの多くの幸せを運んだのかを実地で見てみましょう」
街を愛し、人を愛し、家を愛した一人の女性。
家族を愛し、夫を愛し、子を愛し、そして再び男を愛した彼女の本当の強さを知るのは、まだまだ先でよかった。
「はい! 私、
食い意地の張った娘であった。
彼女の愛したお菓子も、今や市の花である茉莉花と共に、伝統料理の一つとなっている。お魚は言うまでもない。今は、鰯が美味しい季節だ。
「あらあら、作ってみようとは思わないのですか?」
「作る!」
ピクリとした娘が、間髪置かずに言った。母親も、あの方と同じことをしてみたくなっている。
「では、後で。……このまま、出ちゃいましょう」
「えー」
などと言うものの、とても嬉しげにして、唇も綻んでいた。とても、素直な子であった。
「行きますよ」
娘を抱いたままに窓を閉め、扉へと向かう。この部屋は、かつてアウグスタ様が自室としていた部屋。
若かりし頃のオルト公が、扉を壊して入って来た部屋であり。
——ドォン。
古来の風習に従い、母親は扉を蹴破った。かなり良い音がしている。
「……ちょっと、はしたなくないですか? もしかして、機嫌が悪いです?」
そう言うのもわからないでもない。夫は仕事が忙しいらしく、トラーパニ観光に来ていない。
そのせいで、面白くない。そう思ったからこそ、娘が気を回したのかもしれないが——。
「伝統よ」
そんなことはなく、単純に伝えられている風習だった。それが続くことには意味がある。
別にちっとも、怒ってなどいやしなかった。
「許してあげてよぉ!」
赦しによる関係は、今や当たり前の倫理となっている。彼女達が再び手にした春が、こうして実を結んでもいた。だからこそ、この子にも見て貰いたい。
美しい港街、トラーパニの街を、港を、人々を。
蒼い空と海を。瑠璃色に輝き、眩しく煌めく街並みを。そして、潮風よりも熱く懸命に生きる人々を。
「赦すに、決まっておりますよ」
お日様が、最も高く昇っていた。
照らすのは街と人。彼女が、彼女達が繋いだもの。
遥か遠くからも、聴こえてくる威勢の良い掛け声。
「ヨーソロー! 錨を上げぇ!」
空は蒼く、澄んでいる。海は白く眩しく輝いた。
瑠璃色の石畳には、陽光が反射して。
そんな叫びとは対照的に、白の屋敷に備えられた聖堂から静かな祈りが聴こえた。
「今日も無事に、子供たちが過ごせますように——」
その願いは熱い潮風に乗り、天へと溶けてゆく。
白の屋敷には、トラーパニの港には今日も良い風が吹いていた。
誰もが望むささやかな想いがここにはあった。だからこそ、言ってやるしかない。
「今日も、めでたし、めでたし。ですね」
Buon vento.
完結しました。お読みいただき、ありがとうございます。約一年以上にもわたって連載し、ようやく完結出来ました。恋愛物は難しいですね。
歴史や郷土史に詳しい方は元ネタにもお気付きのことでしょうが、割とマイナーなものです。もし気付かれた方がいらっしゃいましたら、作者としては嬉しく思います。
活動報告に元ネタやネタバレ解説などを載せておきます。お読みいただければ幸いです。
ありがとうございました。