蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~ 作:斉宮 柴野
今回はデイリー杯2歳ステークスを描きつつ、「差し馬失格」と気づくブリちゃんの適性分析を軸にしました。ギャグ全開のチーム事情と、本格的な適性論のギャップを楽しんでいただければと思います。
サウジアラビアRCを1馬身差で制し、2戦2勝。俺たちは波に乗っていた。
波乱があると思った読者諸君。何もなかった。いや、正確には、いつものようなポンコツチームのドタバタが起こっただけで、それを俺が命を削ってカバーしただけだ。結果だけ見れば順風満帆。でも内情は、相変わらず泥舟である。
栗東トレセンに戻ってからの日々は、妙な進化を遂げていた。
調教において、萌と未来ちゃん(大原師)が完全に役割を交代していたのだ。
まず、萌が俺の馬体や歩様をじっくり観察する。
「今日は右前に硬さが出てる。坂路は負担が大きいから、Eコースのウッドでラップを徐々に上げる形にしましょう」
横で未来ちゃんがメモを取って「はい」と即答。
次に、未来ちゃんが俺の背中に跨り、まるでトップジョッキーのような手綱さばきで俺を導く。
軽い扶助、絶妙なバランス、全く無駄のない騎乗。まるで俺の体と心を知り尽くした相棒のように動く。
「やっぱり私、外から見てる方が馬のことがよく分かるみたい」
「私、乗ってるとその子の気持ちが流れ込んでくる感じがするのよね」
お前ら、絶対に職業を間違えている。
だが、この奇妙な凸凹コンビは面白いほどに噛み合っていた。萌の理論と未来ちゃんの実技。俺のコンディションはむしろ過去最高に維持されている。不本意ながら、これが陣営の最適解らしい。
一方で、俺の心配は尽きなかった。
だって、レース本番はどうする?鞍上に乗るのは未来ちゃんじゃなくて萌だぞ?
調教で完璧に仕上がっても、レースでポンコツが爆発したら元も子もない。
「本番はどうするんだ?」と俺が萌に問いかける。
「大丈夫。私、トランスに入ればできるから」
「お前、それ自分の意思じゃなくてスイッチ入るだけだろ!?ギャンブルか!」
未来ちゃんも横で「まあまあ、彼女は追い詰められた方が力を発揮するタイプだから」とか言ってるけど、俺の命を賭けたギャンブルを他人事みたいに語るな。俺は馬だぞ?命がけで走るんだぞ?
実際、サウジアラビアRCのときもそうだった。
スタート直後は例によって後方。萌はブルブル震えながら「むりむりむり」と泣いていた。
そこで俺が背中越しに「お前は不器用でいい。ただ道を指示しろ。俺が全部合わせてやる!」と声を張り上げたら、萌はスッと目の色を変えた。
「第3コーナー、内ラチ沿いの3番手が外に張る。その瞬間にできる隙間を突いて」
俺はGOサインを待ち、萌の言葉通りのタイミングで突っ込んだ。
あの神懸かりのイン突きは偶然でも奇跡でもなく、トランス萌の読み通りだった。
ただし問題は、そのトランスにいつ入れるかが完全ランダムなことだ。スイッチが入るまでは、泣きながら「降りたい…」とか言ってるんだから始末が悪い。
俺は密かに考えていた。
「調教=未来ちゃん、レース=トランス萌」という体制は、はっきり言ってチームとして破綻している。
普通は「調教で乗る人=レースでも乗る人」が基本。なのにウチは「調教で育てた力を、レース本番でギャンブルに委ねる」っていう地獄の布陣。
「なあ、未来ちゃん。お前、騎手免許取れないのか?」
「無理よ!今さら年齢的に受験資格がないわ!」
「……」
「でも任せて。私が調教で仕上げて、レースでは萌をトランス状態に導く。それで完璧よ」
お前の自信は信用できねえ。だが、実際に結果を出してるから文句を言えないのが悔しい。
さらに混乱を招くのが、オーナーの美桜ちゃんだ。
「役割分担が完璧ですね!じゃあ私はマストブリンガー君の宣伝を頑張ります!」
そう言って作ってきたポスターには「未来ちゃん=騎手、萌=調教師」って書いてあった。
おい待て。逆逆!ていうか嘘書くな!新聞社が混乱するだろ!
しかも牧場に戻れば、母ちゃんが「萌ちゃんは分析が上手ねえ。将来は名調教師になるわ」とか言い出す始末。いや、それ間違ってないけど今は騎手なんだって!
結局、俺のチームは「調教師が騎手やって、騎手が調教師やって、オーナーが広報やって、馬が秘書やってる」っていうカオスな役割分担で回っている。
でも、なぜか結果は出てる。俺は2戦2勝。
世間から見れば「美女チームが新たなスター馬を育成中」なんてキラキラした物語に見えるんだろうな。実態は泥舟に馬がしがみついてるだけなのに。
◆
そしてついにやってきた。阪神競馬場、秋の2歳重賞戦線、デイリー杯2歳ステークス(G2)。俺の次なる戦場だ。
パドックを周回する俺への評価は単勝3番人気。まあ、妥当なところだろう。2戦2勝とはいえ、内容は紙一重。鞍上はポンコツ新人。ファンが警戒するのも無理はない。
実況席からは相変わらずの声が飛んでくる。
「無傷の2連勝で重賞制覇を狙うマストブリンガー!鈴木オーナー、大原調教師、暁騎手と、相変わらず華やかな陣営でファンを魅了します!しかし、前走も際どい勝利。まだ人気先行の感は否めませんね」
……はい、その通りです。本人(馬)も同意見です。俺自身、薄氷の勝利だったと認めざるを得ない。
「騎手騎乗!」の合図で未来ちゃんに連れられてきた萌。
…もうお約束になってきたが、またしてもガチガチに緊張していた。顔は真っ青、手は震え、ステップはガニ股。これでよく「騎手」って名乗れるな?馬主が泣くぞ。いや俺が泣いてるけど。
だが、俺が「おい、仕事の時間だ」と声をかけると、カチリとスイッチが入った。
瞳から光が消え、感情がすべて削ぎ落とされた天才アナリストの顔になる。まるで別人だ。いや別人すぎて怖い。ホラー映画の演出か?
頼りになるから良い。良いんだが…やはり何度見てもこのトランス状態は恐怖でしかない。何しろ「予測は神」だが「騎乗技術はただ乗ってるだけに近い」というアンバランスさなのだ。
パドックで隣を歩いていた同じ2歳牡馬が俺に話しかけてきた。
「なあ、あの鞍上…本当に乗れるのか?」
「乗れるよ(理論上はな)」
「理論上ってなんだよ!」
そう、問題はそこだ。彼女の展開予想はミリ単位で当たる。馬群がどこで割れるか、ペースがどうなるか、風向きがどう影響するか…全部わかってる。
だが実際にそのプランを実行するのは俺の役目で、彼女はただ俺の背中でカタログスペックを読み上げてるだけ。これを「騎乗」と呼んでいいのか?
さらに最大の問題点は鞭だ。なぜか必ず首筋に正確にヒットする。いや狙ってんのか?俺の推進力じゃなくて殺す気か?馬体を叩け、馬体を!首筋は急所だって!
「マストブリンガー君、今日は落ち着いて見えるね」
と、未来ちゃんがパドックの外から声をかけてきた。いや落ち着いて見えるんじゃなくて、落ち着いてるんだよ。他の2歳馬はイレ込み気味で汗だくになってるけど、俺は場数が違うんだよ。前世込みならもう何十回も見てる光景だ。観客?カメラ?知ってる知ってる。毎度おなじみ。
ただ一つ誤算だったのは、観客の大半が「美女陣営を見に来た」という事実だ。俺?おまけだよ。マストブリンガーはただの置物。ファンの視線はみんな美桜オーナーと未来ちゃんと萌に釘付け。
「すごーい!女性オーナーと女性調教師と女性騎手だって!」
「華やかすぎ!勝てなくても応援したい!」
おい待て。勝つのは俺だぞ?見世物じゃないぞ?俺、主役だぞ?
さらに困ったことに、俺が声をかけた隣の牝馬が真っ赤になってこっちを見ていた。
「先輩…かっこいいです…!」
いや惚れるな。お前は俺の敵だ。ライバルだ。ていうか発情期か?やめろ、俺は牝馬に欲情しない主義だ。オーナーの美桜ちゃんの裸の方が100倍マシだ。
実況は続ける。
「ここまで2戦2勝ですが、いずれも際どい勝利。実力が本物かどうかは、この一戦で明らかになります!」
はいその通りです。俺もそう思います。俺の人生(馬生)最大の試練が、いま目の前に迫っているのだ。
俺の脳裏をよぎるのは、萌のポンコツ鞭と、未来ちゃんの完璧な騎乗フォーム。
できることなら、未来ちゃんがそのまま乗ってくれればいい。
だが現実はそうもいかない。俺の背中にいるのは萌。彼女のトランスが入らなければ俺たちはただの荷物。入れば神。極端すぎる。
つまり、俺がやるべきことはただ一つ。
「萌をスイッチオンさせる」
これだけだ。俺はパドックを歩きながら、彼女の耳元に小声で囁いた。
「おい、予想屋。そろそろ本気出せよ。ここは遊びじゃねえぞ」
「……了解しました」
よし、光が消えた。スイッチオン。今日も人馬一体(俺が全部やる)で戦うとしようじゃないか。
◆
「スタート後、無理にポジションを取りに行かず、中団に控えて。前の馬が作るペースを読んで、折り合いに専念して」
はいはい、了解。スタートの時点で恐怖から手綱を引かれなかったのは奇跡だな。とりあえず大出遅れは免れた。
俺は指示通りに中団で脚を溜める。馬群のど真ん中。左右前後を馬に囲まれる圧迫感は、普通の2歳馬ならパニック必至のシチュエーションだが、俺にとっては慣れたものだ。観客?歓声?知ってる知ってる。前世込みで場数は踏んでるからな。
ただ一つ気になるのは、背中から伝わる鞍上の挙動だ。心拍数が異常に高い。息遣いも荒い。なのに口から出てくる指示は冷静沈着そのもの。おいおい、体と頭が完全に分離してるじゃないか。
向こう正面。ペースはそこそこ速い。先頭の馬が飛ばしているから、前の馬群も縦長になりつつある。
「ペースは平均よりやや速い。今は動かないで」
俺はその指示に従い、じっと我慢。とはいえ、この時点で内心はムカついていた。「動くな」って言うだけなら誰でもできる。問題は動くべきタイミングを逃さないことだ。
第3コーナー。馬群が固まり、ペースが落ちる。ここだ。
「まだ待って」
…いや、ここは動くだろ普通。外の人気馬がジワッと上がってるぞ。
「次の600mで勝負が決まる。直線入口まで脚を温存」
わかった、信じよう。どうせ文句言っても聞かないんだろ、お前。
そして第4コーナー。
「外の馬場の良いところへ。前の馬を射程圏に入れて、一気に交わす」
俺は外へ持ち出す。鞍上の指示が珍しく理にかなっている。スタンド前の歓声が轟き、俺の体に電流のような緊張が走る。
「行け!!」
萌の声と共に、俺は脚を解放した。スタミナと瞬発力を同時に爆発させ、馬群を割って一気に先頭へ。
《マストブリンガー、強い!危なげなく先頭に立った!これは決まったか!》
実況が叫ぶ。観客もどよめく。確かに、この時点では完璧だった。外に持ち出し、伸びに伸びて、先頭の馬を一瞬で呑み込んだ。俺自身も「勝った」と思った。
だが。
残り100m。ほんの一瞬、俺の脚が鈍った。
理由は分からない。スタミナ切れではない。呼吸も乱れていない。ただ、急に身体が重くなった感覚。前世で何度も走った経験を総動員しても、この違和感の正体が掴めない。
後続の1番人気馬が猛烈に追い込んでくる。観客の歓声が割れんばかりに響く。
「差されるぞ!萌!」
「大丈夫、首を使って!」
言われるまでもない。俺は最後の最後で首を突き出した。
――ゴール。
電光掲示板が示したのは、俺の勝利。クビ差。危なげなく見えたが、実際は紙一重だった。
表彰式。美桜オーナーは満面の笑み、未来ちゃんも大はしゃぎ。萌はまた泣いていた。実況は「無傷の3連勝!マストブリンガー、クラシック戦線へ堂々の名乗り!」と絶叫している。
でもな。俺は全然喜べなかった。
勝ったことは嬉しい。けど、あの最後の100mの感覚…あれは何だ?まるで、俺の中でエンジンが一瞬空回りしたみたいだった。脚が止まりかけたのに、まだガソリンは残ってる。そんな不自然な走りだ。
「よく頑張ったね、マストブリンガー君!」
萌が涙でぐちゃぐちゃの顔で俺の首筋を撫でる。お前、その手でさっきまで首筋に鞭入れてただろうが。
俺は表向き堂々と立っていたが、内心は不安でいっぱいだった。
これから迎えるクラシック戦線。もっと強い怪物たちと戦う時、この違和感は致命傷になるかもしれない。
危なげなく勝ったように見えて、俺の心は全然安心していなかった。
◆
レース結果は1着。これでデビューから無傷の3連勝、重賞も2連勝だ。
未来ちゃんは号泣しながら「これで厩舎の信頼が上がる…!」と喜び、美桜ちゃんは「やっぱり私の見る目は正しかった!」と騒ぎ、萌は「マストブリンガー君が…!本当に…!」と鼻水まで垂らして泣いていた。いや、泣きすぎなんだよ。ここ葬式じゃないからな。
でも俺の心は、なぜか晴れなかった。
(…おかしい。今日のレース、もっと楽に勝てたはずだ)
表向きはドヤ顔でウイナーズサークルに立っていたが、内心は必死にレースを反芻していた。
スタートは普通。道中の折り合いもまあまあ。直線で外に持ち出して一気に差し切った…形だけ見れば理想的な勝ち方だ。
でも、最後の100mで脚色が鈍った。あれがどうしても引っかかる。
原因はすぐに見えた。
俺の体は差し馬向きじゃない。
父リアルジャダイ譲りのスタミナと、母父トウホウボーイから受け継いだスピード。それを最大限に活かす走りは、後方待機からのドカン差しじゃないんだ。
差し馬ってのは瞬発力勝負。直線だけで前をまとめてゴボウ抜きにするイメージだろう?でも俺には、その「瞬間最大風速」が足りない。長く脚を使えるのが武器なんだ。だから直線一気じゃなく、もっと早めに動いて押し切るのが正解だ。
控室に戻ると、美桜ちゃんが書類を持ってきた。
「マストブリンガー君!次は朝日杯よね?この登録書にサインして!」
いや、サインするのは人間の仕事だからな。あとお前、また勝手に会社の決算書を混ぜてるだろこれ。俺は出走登録と一緒にキャッシュフロー計算書のチェックをさせられる競走馬なんて聞いたことないぞ。
未来ちゃんは未来ちゃんで「よし!次はもっと追い込みを磨きましょう!」とか言い出すし。おい、話聞いてたか?俺、追い込み向きじゃないんだって。
「でも前走も今回も、それで勝ててるじゃない」
「いやいや、クビ差だぞ?もっと楽に勝てる道がある」
「理論的には正しいけど、騎手が…」
そう、問題は背中の荷物だ。
萌はというと、未だに鼻水をすすりながら「私、もっと頑張るから…」と涙声で言ってくる。いや、頑張る方向が違うんだよ。お前はせめて俺の首筋に鞭を入れるのをやめろ。俺、あれで軽くハゲかけてるんだからな。
「なあ萌。次からはもっと早めに動いていこうぜ」
「でも…私、タイミングに自信がなくて…」
「大丈夫だ。お前は考えるだけでいい。動くのは俺だ」
「……それ、騎手の仕事じゃないよね?」
「俺、馬だからな」
会話が成立しているようで全く成立していない。このチーム、本当に大丈夫か?
俺の頭の中では、新しい戦法の検証が始まっていた。
差し馬失格。ならば俺は何だ?
答えはシンプルだ。ロングスパート型の先行差し。早めにポジションを上げて、直線は粘り込みながら押し切る。
そう、父リアルジャダイの血が求めているのは、長距離を粘り強く走る「王道のスタミナ戦」なんだ。
でもこの走りをするには条件がある。
まず、萌が「勝手にブレーキをかけない」こと。
次に、美桜ちゃんが「出走登録を間違えない」こと。
そして未来ちゃんが「調教でライスシャワーやバクシンオーを併せ馬に連れてこない」こと。
……うん、無理ゲーだな。
でも、俺は諦めない。
差し馬失格でもいい。俺には俺の走り方がある。
そして、この走り方を突き詰めていけば、クラシックの頂点にだって届くはずだ。
問題は、このポンコツ陣営にそれを理解してもらえるかどうかだが…。
「マストブリンガー君!次の目標は無敗で凱旋門賞よ!」
……おい美桜、それは違うだろ。
無敗で3連勝、重賞2連勝という結果にも関わらず、ブリちゃんの心は晴れない…というお話でした。
そろそろ「ポンコツ陣営」と「実際の競馬的な戦法」のズレが決定的になってきそうです。
読者の皆さんは「追い込み続行派」と「先行粘り派」、どちらを応援しますか?ぜひ感想で教えてください!