蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~ 作:斉宮 柴野
原作の名場面をなぞりつつ、ブリちゃんの立場から「裏でこんなやり取りがあったら」という形で膨らませています。実際の競馬界とは違う部分もありますが、フィクションとして楽しんでいただければ幸いです。
本多社長はひとしきり高笑いした後、わざとらしく咳払いをした。
「飯富さん、お宅の坊ちゃんの同級生を紹介しますよ」
そう言って厩務員に合図を送る。
何が来るか、もう分かっている。俺は思わず鼻息が荒くなった。
――来た。
放牧地の奥から、堂々と現れたのは漆黒の弾丸。
青鹿毛(あおかげ)の馬体は陽の光を反射するんじゃなく、吸い込むみたいに沈んで見える。背筋がゾワッとした。まだ1歳だっていうのに、完成度が高すぎる。
トモの筋肉はパンパンに盛り上がり、繋ぎの角度も理想的。柔らかさと力強さを両立している。俺の目から見ても、ケチのつけようがない。
「な、なんだと!?まだ明け1歳になったばかりで、もう人を乗せて調教を!?」
案の定、飯富源次郎がギャーギャー騒ぎ出す。ヨダレを飛ばしすぎだ。
「フン、普通の馬なら故障しますわな。ですが、このカスケードは世界の競馬史を塗り替える馬ですから」
社長はドヤ顔で胸を張る。お前、いつもそんな顔だな。
けど、腹が立つことに、その言葉に偽りはなかった。
カスケードは俺が知っているカスケードそのものだ。いや、むしろ「こいつ本当に1歳か?」って思うくらいの完成度。血管が浮き出る首筋、地面を滑るような歩様(ほよう)、全身から漂う王者のオーラ。
横でたれ蔵が「んあー!なんかすっげえやつなのねー!」と叫んでいる。相変わらず語尾は「~なのね」だ。落語家みたいな馬だな。
でもな、たれ蔵。お前の直感は間違ってない。
目の前にいるのは間違いなく化け物だ。
俺は思わず比べてしまう。
俺はリアルジャダイ産駒で、スタミナは無尽蔵。けど、瞬発力はそこそこ。母からもらったスピードでなんとかしている。
一方で、カスケードは全ての要素が最初から完成されている感じだ。血統の奇跡の融合。しかもこの雰囲気。王様かよ。
「おいおい…まだ俺の方が1歳年上なんだぞ?」
思わず呟いた。
が、馬体を見てると完全に立場逆転。まるで俺が後輩みたいだ。
隣で飫富さんが「いやあ!立派な同級生ができましたなあ!」とご満悦。いや、お前の坊ちゃん(マキバオー)と比べると体格差が10倍くらいあるぞ?「同級生」っていうか「親子」レベルだ。
そして事件は起きる。
「んあーっ!僕と、勝負するのねーっ!」
そう言った瞬間、たれ蔵がまた放牧地に突っ込んでいった。チュウ兵衛親分が必死にしがみついて「バカ!やめろぉぉ!」って叫んでるけど完全に無視。
するとカスケード、ピタッと立ち止まって、たれ蔵を横目でチラリ。
その目は明らかに「格下と遊ぶのも悪くないな」っていう冷たい王者の目だった。
◆
社長はニタァと笑って、これ見よがしに厩舎の若手騎手を呼んできて、カスケードの背に乗せた。
「飫富さん、お宅の坊ちゃんがデビューしたら、カスケードが出ないレースだけを使うことですな。潰されますぞ?」
挑発が過ぎるだろ! でも社長はこういうキャラだから仕方ない。完全に悪役顔で言い放った瞬間、たれ蔵の顔がカッと燃えた。
「んあ! やってやるのね!」
小さいくせに胸張ってんのが妙に可愛い。いや、可愛いで済ませたら失礼か。あいつは本気だ。
「ほう、そのチビも走る気かね? いいでしょう、うちのカスケードが調教がてら遊んでやりますよ」
社長の煽りに、飯富さんは「いや、まだデビュー前だし…」とオロオロしてる。でももう遅い。完全に空気は模擬レースの流れになっていた。
俺はたまらずカスケードに声をかけた。
「おい、いいのか? あいつ、まだ子どもだぞ」
するとカスケード、落ち着いた低い声で返してきた。
「俺は構わん。それより先輩、あんたも走るか?」
先輩。そう、俺はカスケードの1歳上だ。
その言葉が妙に胸に刺さった。
だが、今の俺は走れる状態じゃなかった。
春先からずっと経営ごっこにかかりきりで、調教もほとんどしていない。腹回りはぽよんぽよん、完全にデブ。蹄を見るより腹の肉を見た方が体調が分かる馬ってどうなんだ。
「…遠慮しとく。今はまだ乗り運動始めたばかりでな」
情けなく断るしかなかった。
カスケードは俺をジッと見て、それから少し笑った。
「そうか。じゃあ見てろよ。これが俺の走りだ」
先陣を切ったのは、もちろんたれ蔵。
「んあーっ! すごいのねーっ!」
チュウ兵衛親分が「お前、最初から飛ばすな!」と突っ込む間もなく、ロケットスタートをかまして全力疾走。
その横を、カスケードが優雅に追走してきた。
「……まだ子どもだろうに。元気なもんだ」
息一つ乱さず、するするっと差を詰めて、気づけばたれ蔵の隣に並びかける。
普通ならここで終わりだ。だが、たれ蔵は違った。
「負けないのねーっ!」
小さな脚で必死に食らいつく。フォームはガタガタ、息はゼーハー。
だが、前に進もうという気持ちだけは誰よりも強かった。
「バ、バカな! あのカスケードと互角だと!?」
社長がひっくり返った声を上げる。
いやいや社長、騙されるな。
俺には分かっていた。カスケードはまだ本気を出していない。遊び半分で流しているだけだ。
一方のたれ蔵は、根性だけで走ってる。フォームはメチャクチャ、呼吸もバラバラ。あれじゃ心臓に負担がかかりすぎる。
そして迎えた最後の直線。
カスケードがほんの少しだけギアを上げた。軽く、脚をひと伸ばししただけ。
その瞬間――たれ蔵の脚がもつれて、前のめりに崩れ落ちた。
「んあぁぁぁぁぁっ!!!」
ドテーン!と派手に転倒。親分ごとすっ転んで、地面をゴロゴロ。
俺は息を呑んだ。
心房細動。競走馬の世界では珍しくない不整脈だが、ギャグ漫画の住人でも避けられない現実らしい。
つまり、たれ蔵は本気でカスケードに挑んで、心臓が悲鳴を上げるほど走りきったってことだ。
その証拠に、カスケードの瞳がわずかに揺れていた。
「……やるじゃないか」
余裕の笑みは崩さないが、間違いなく心を昂らせていた。
俺は確信した。
この二頭、本気でぶつかれば間違いなくG1を獲れる。
いや、それ以上。時代を作る怪物になる。
そして俺自身も、黙って眺めている場合じゃない。
(クソッ、腹の肉なんかに負けてる場合じゃねえ!)
◆
この日を境に、俺とカスケードの間には奇妙な友情が芽生えた。
カスケードは普段は完璧超人だが、実は甘えん坊な一面を隠している。特に母馬のヒロポンさんに会いたがるのに、プライドが邪魔して素直になれない。
「マストブリンガー先輩……母に会いたい」
夜、放牧地の隅でこっそり打ち明けてきたときは思わず吹いた。あの漆黒の怪物が、だぞ?
仕方なく、俺が仲介役を買って出た。
「社長ー、カスケードが温泉使いたいそうです」
「ヒロポンさん、カスケードが会いたがってますよ」
こうして、俺のセッティングで親子はマストファームの温泉施設で水入らずの時間を過ごすのが習慣になった。
母ちゃんに甘えるカスケード。俺だけが知るその素顔。
(……あの怪物も、ただのガキだな)
不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、時代を作る馬の裏側を知れる優越感。
もちろん俺自身も調教を再開した。
「腹の肉を落とすのね!」とたれ蔵に茶化されながら、坂路を黙々と駆け上がる。
カスケードは静かに隣で走り、時折チラリと俺を見て微笑む。
その視線が、「先輩、まだ走れるだろ?」と語っていた。
……ああ、走ってやるさ。
俺は俺で、この時代の主役だ。
ブリちゃんが証人から一歩踏み込んで、カスケードの“素顔”に触れる流れは書いていて楽しかったです。
次は「この怪物たちにどう肩を並べていくのか?」がテーマになっていきます。
感想で「ブリちゃんとカスケード、どんな関係になると思うか?」ぜひ教えていただけると嬉しいです!