蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~   作:斉宮 柴野

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今回は朝日杯の前日編です。
中山マイルの特徴、不良馬場という舞台装置、そしてチーム全員の寝不足とポンコツぶり――すべてが揃って「いよいよだな」と書きながら自分もワクワクしました。
実際の競馬とは異なる部分も多いですが、マキバオー的世界観で楽しんでいただければ幸いです。


恵みの雨

決戦の地、中山競馬場。

GIを前にした陣営がスクーリングでコースに慣れるのは常套手段だ。俺たちも例に漏れず、静まり返った芝コースをゆっくり歩いていた。

 

「中山の芝1600mは、JRAの中でも屈指のトリッキーなコースです」

唐突に始まった萌の解説。相変わらず知識オタクっぷりが半端じゃない。ていうかこいつ、競馬学校を卒業したのって実技じゃなく座学の成績だけじゃないのか?

 

「スタート直後にすぐ第2コーナー。向こう正面はずっと下り坂なので、ペースが上がりやすい。さらに3コーナー手前で微妙にカーブがきつくなって…」

俺はうんうん頷きながら聞いてたんだが、途中で違和感に気づいた。

「なあ、なんでお前、売店のメニューとバイトのシフトまで把握してんだ?」

「し、視察です!」

どう考えてもただの食い意地だろうが。バイトの女の子のインスタまでチェックしてるのは何の努力だよ。

 

それでもコースの特徴に関しては的を射ている。確かにスタートから下り坂、自然と先行争いは激しくなる。

「逃げを打つ俺としては、ここで後続に脚を使わせつつ、どこかで息を入れたいな」

俺がそう言うと、萌はドヤ顔で「ラップタイムの想定は私が…」と言いかけて、すぐに顔が引きつった。

「ひっ…!」

おい、なんで急にホラー映画みたいな声出すんだよ。お前の仕事はスタートで手綱を引かないことだけだって何度も言ってるだろ。

 

そして問題のゴール前直線。急坂。通称「心臓破りの坂」。

普通の馬なら最後に脚が止まる鬼門だが、俺には無尽蔵のスタミナがある。坂なんぞ屁でもない。だが、相手はピーターⅡ。あいつの血統を考えると、中長距離はお手の物。揺さぶりペースで他馬を削り倒し、最後に坂を力で踏み切る――これが奴の勝ちパターンかもしれん。

 

つまり結論。勝負は持久力と根性の削り合い。

「萌、最後の直線で外に出すなよ。内ラチ沿いをピッタリ通って、そのまま坂を駆け上がる」

「わ、分かった…」

こいつの返事は心許ない。だが信じるしかない。信じたくないけど信じるしかない。

 

夜、厩舎に戻ってからもシミュレーションを繰り返した。スタートからハナを奪い、坂の手前でペースを落とす。ピーターⅡが仕掛けてきた瞬間、再加速して坂を力で登り切る。これが俺の勝ち筋だ。

問題は一つ。萌がまた手綱を引き絞らないかどうか。こればかりは祈るしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな俺の冷静な分析を、あっさり木っ端微塵にする存在がいた。

「マストブリンガー君!応援に来たよ!」

…チアガール姿で登場した馬主、美桜ちゃんである。

 

いや、確かに気合は入る。入るが!ここは中山競馬場だぞ?お前は馬主席で他のオーナーと一緒に視察する立場だろうが!ポンポン振りながら「がんばれー!」って…俺が勝ったら本当にその格好で口取り式に出る気か?いやまあ、出てくれてもいいんだが。場内の視線を全部持っていかれるのは確実だな。

 

未来ちゃんは未来ちゃんで、耳元に顔を寄せて囁いてくる。

「ねえ、明日の朝、最終追い切りを一杯で20本追加してみない?」

「死ぬわ!」

思わず即答した。そりゃ俺は丈夫だが、そんなことしたらレース当日を迎える前に競走馬登録抹消だ。頼むから調教師なら調教師らしく、馬を壊さないように管理してくれ。脳筋スパルタは趣味の筋トレだけにしておけ。

 

そして肝心の萌は、というと。

「え、えっと…あの、わたし、緊張で夜眠れないかもです…」

知ってる。お前はどうせレース当日も震えて、俺の首筋に鞭を叩き込むんだろ。あれまだ痕残ってんだぞ。馬にだって痛覚はあるんだ。

 

そんなポンコツどもに囲まれた俺だが、天は見捨ててはいなかった。

土曜の午後、空模様が一変。厚い雲が立ち込め、やがて雨がざあざあと降り出した。

「天気予報では、明日の芝は重馬場から、不良馬場になるかもしれないそうです!」と未来ちゃんが妙に嬉しそうに叫ぶ。いや、お前は馬じゃないからいいけどな。

 

だが俺は心の中でガッツポーズを決めた。

そうだ、不良馬場は歓迎だ。芝が渋ればスピードだけの馬は脚を取られる。パワーとスタミナを備えた馬こそが生き残る。俺の持ち味は、どこまでも続くスタミナと、どんな状況でもバテない心肺機能。まさに雨こそが俺を後押ししてくれる。

 

対して、ピーターⅡはどうだ?

奴は乱ペースを刻んで相手を潰す走りだ。確かに強い。だがそれは馬場が軽い時の話。脚抜きの悪い馬場では、リズムを崩せば自分も一緒に沈むリスクがある。

(ふふ、これは追い風だな)

俺は鼻息を荒くして、目の前の泥濘んだターフを睨んだ。

 

夜。馬房に戻ると、萌が寝不足の目で俺を見てきた。

「ブリンガー君、雨、怖くないの?」

「はっ、むしろ歓迎だ。お前は心配しなくていい。俺が全部やる」

「え…」

萌は一瞬ぽかんとした後、またしてもトランス状態に突入した。瞳の光がスッと消える。

「不良馬場なら、前半は12秒台で刻み、向こう正面で13秒台に落として息を入れる。3コーナーから11秒台に再加速、直線入り口で外に振るのはロスだから最内を突く。最後の坂は根性勝負」

…な?こういう時だけ完璧なんだよな、こいつ。普段はポンコツのくせに。

 

それにしても、ここまで雨が味方してくれるとは思わなかった。

未来ちゃんのスパルタ計画を潰し、美桜ちゃんのチアコスを霞ませ、萌を自動モードに切り替える。すべての要素が噛み合ってきている。

俺は寝藁に体を沈め、静かに目を閉じた。

 

(明日、歴史が変わる。恵みの雨が、俺に勝利を呼び込む)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土曜の夜。中山競馬場の厩舎にいる俺は、なぜか全く眠れなかった。いや、正確に言えば、俺は馬だから眠ろうと思えばすぐ眠れるんだよ。けど、今夜ばかりは胸がざわついて仕方ない。

「GI当日の朝は、皆寝不足になる」ってのは競馬関係者の定番ジョークらしいが、まさか俺まで例外じゃなかったとはな。

 

窓の外をぼんやり眺めながら、蹄でカリカリと壁を掻いてみたり、寝藁を鼻で突っついてみたり。落ち着かねえ。そしたら、同じく落ち着いてない奴らの声が耳に入った。

 

まずは美桜ちゃん。馬主席の駐車場に車を停めたまま、深夜まで一人で資料を広げていたらしい。

「マストブリンガー君に、何を返せるんだろう…」

いやいや、返さなくていいんだよ!お前が派手な格好で応援してくれりゃ、それで十分なんだから。ていうか、余計な投資話に騙されないでくれる方が俺にとっては最大の恩返しだからな!?

 

次は未来ちゃん。調教師席に朝の五時から座ってるって、正気か?

「今日だけは、私の仕事で応えたい…」

あのな、普段から俺の背中に乗って調教してるお前が一番頼りになってるんだぞ。脳筋スパルタなのは玉に瑕だが、まあそこは俺がカバーしてやるから。

 

そして極めつけは萌。調整ルームで資料を広げ、展開シミュレーションを繰り返している。

「どうすれば…ピーターⅡに勝てるんだろう…」

いや、お前はとりあえず真っ直ぐ走れ。余計なことは考えるな。俺が前を走る、それだけでいい。お前の役割は、俺を邪魔しないことだ!

 

全員寝不足、全員ポンコツ。だがな、こんな奴らでも俺は愛すべき仲間だと思う。なんだかんだで、俺を一人にしないでくれてるんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

東の空が赤く染まりもせずに土砂降りの中、俺は厩舎の窓から外を眺めていた。

俺は確かに感じた。近くに美桜ちゃん、未来ちゃん、萌の気配があることを。

 

寝不足でクマの浮いた顔。だが、三人の瞳はギラギラと光っていた。

「マストブリンガー君、頑張ろうね!」

「仕上げは万全だから、絶対に勝てる!」

「展開は…あ、いや…その、うん!信じてる!」

 

全くもって、どこまでも頼りないチームだ。だが、それでも。

「……今日は勝つ!」

 

俺は静かに、けれど力強く誓った。

夜明けの空に、そして俺自身に。

逃げてやる、スタミナで押し切ってやる。ピーターⅡだろうが誰だろうが、この世代の王者は俺だ!




美桜のチア衣装、未来のスパルタ提案、萌のシミュレーション病。
もう全員揃いも揃ってポンコツですが(笑)、そんな仲間たちを背にブリンガーが「今日は勝つ」と言い切る場面は、自分でもちょっとジーンときました。
次回はついに朝日杯本番!実況風で盛り上げますので、ぜひ感想や予想を聞かせてください!
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