蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~ 作:斉宮 柴野
スタートから心臓破りの坂まで、実況と解説を交えて臨場感たっぷりに描きました。実際の競馬とは異なる部分もありますが、マキバオー的世界観として楽しんでいただければ幸いです。
カチリ、と鉄のゲートが閉まる音が、やけに重く響いた。
中山競馬場の大歓声が、一瞬にして遠のく。まるで、ここだけが異世界に切り取られたみたいに静まり返った。
俺の背後で、萌が息を整えている。瞳は青白く光り、完全にトランス状態。普段のポンコツとは別人だ。
「萌、プラン通りだ。スタートから行くぞ」
「はい。ゲートが開くと同時に、私が全身でGOサインを出します」
頼もしい。…いや、さっき落馬したのを俺はまだ忘れてないけどな。
その時、隣のゲートから低い鼻息。ピーターⅡだ。
「マストブリンガー、小細工は通用せんぞ。この不良馬場で、真っ向から叩き潰してくれる」
相変わらず王者ムーブ全開。だが、俺も引く気は毛頭ない。
「望むところだ、ピーターⅡ。お前をねじ伏せて、俺が世代最強の称号をいただく」
数頭離れたところでは、ブジキセキが冷静に鞍上の竹騎手と作戦会議をしていた。
「竹さん、プラン通り、前の二頭を行かせて好位で脚を溜めます」
「ああ、それでいい。奴らが潰し合ったところを、まとめて差し切るぞ」
おい、聞こえてんぞ!堂々と俺たちの前で差し切り宣言かよ!
観客席からは怒涛の歓声。雨が降りしきる中でも、人間どもはテンションMAXだ。
実況アナが絶叫する。
《各馬、ゲートイン完了!世紀の3歳王者決定戦、今、スタートします!》
俺の耳が、全ての音を拒んだ。
残るのは自分の心臓の鼓動、そして萌の小さな吐息。
「……行くぞ!」
「はい!」
――ガシャン!
金属音と同時に、俺は全身を爆発させた。
雨水を蹴り飛ばし、不良馬場をものともせず、一直線に飛び出す。
宣戦布告は済んだ。あとはただ――走るのみだ。
◆
スタートの金属音が響いた瞬間、萌の全身からGOサインが伝わってきた。
俺の体は電流が走ったみたいに反応し、ロケットみたいにゲートを飛び出した。
《スタートしました!朝日杯3歳ステークス!》
実況の声がかすむくらい、雨と風と泥水の音だけが耳に入る。
俺はもう全力。出し惜しみなんかするか。
「萌!行くぞ!」
「はい!全開です!」
俺は不良馬場を蹴り飛ばして、あっという間にハナを奪った。
《マストブリンガー、速い!速いぞ!早くも2馬身差をつけて先頭!》
だが、その俺の横に、すぐさま巨体が迫ってくる。ピーターⅡだ。
「逃がさんぞ、マストブリンガー!この泥臭い我慢比べ、面白いじゃないか!」
くそ、やっぱりこいつ、真っ向勝負かよ!
《おっと!ピーターⅡも食らいつく!譲らない!2頭が並んで飛ばす!》
解説の本部さんが悲鳴みたいに叫んでる。
「ちょ、ちょっと速すぎますよこれ!1ハロン目から10秒台!?ありえません!3歳戦でこれは自殺行為です!」
うるせえ!俺たちは命を燃やして走ってんだ!常識なんか知るか!
さらに後ろを見れば――いた。漁夫の利狙いのブジキセキ。
俺とピーターⅡを見ながら、余裕ぶっこいて好位キープしてやがる。
(…いいぞ、もっとやれ。2頭で潰し合ってくれれば、僕の勝利は確定する)
なんて思ってやがるんだろうが――。
「…ですがね、竹さん!」
鞍上の竹騎手が「は?」って顔する間もなく、ブジキセキの目がギラリと光った。
「そんな漁夫の利で勝っても、面白くないでしょう!男なら、こんな最高の喧嘩は大好物だ!」
おい!こっちに来る気か!?
《ああっと!ブジキセキもスパート!なんと3頭が並んで飛ばしていく!》
観客の悲鳴と歓声が入り混じる。
「待っててくれよお二人さん!僕も混ぜてくれなきゃ寂しいじゃないか!」
「馬鹿かお前!このペースで来るな!」
「フフフ、最高に燃える展開じゃないか!」
解説の本部さんは頭を抱えてる。
「後続はもうついていけません!なんと10馬身以上引き離しました!人気三頭による前代未聞の大逃げ!こんな3歳戦、聞いたことがない!」
観客は総立ち、スタンドは地鳴りのような大歓声。
雨なんか吹き飛ぶ熱気の中で、俺たち三頭は泥水を浴びながら、誰も見たことのない常識破壊のハイペースで突っ走っていた。
◆
向こう正面の下り坂に差しかかった。雨は容赦なく叩きつけ、俺たちの蹄音と混じってドラムみたいに響く。
ラップタイムは完全に短距離のそれ。馬場は不良?関係ねぇ。俺たち三頭のせいで、中山の1600mがまるで東京の1200mに見える勢いだ。
「おいマストブリンガー!」
横で泥を跳ね散らしながら、ピーターⅡが吼えた。
「今日は随分と楽しそうじゃないか!」
「ああ、機嫌がいいんでね!」
俺も吼え返す。
「なんせ俺の美人ポンコツチームが、今日に限ってミスがほとんどない!あいつらが普通に仕事してくれるとか、奇跡だぞ!そりゃ気合も入る!」
「フッ…」
ピーターⅡは泥だらけの顔で笑った。
「俺には全弟がいる。才能は俺より上かもしれん、弱気な奴だがな。あいつに最強の兄の背中を見せるためにも、俺は負けん!来年のクラシック三冠を獲るのはこの俺だ!」
なるほどな。こいつの目は、もう来年のダービーまで見据えてるわけだ。王者の視線ってやつか。
だが、その熱に水を差すように、もう一頭がぬっと口を挟んできた。
「随分と遠くを見てるんですね…」
ブジキセキだ。あくまでクールに、でも瞳はギラギラ燃えている。
「競走馬は、今、このレースに勝つことが全てじゃないですか!僕はカッコよく勝ちたい。それだけで全部満たされる!だから僕が、ここで前に出させてもらいます!」
「調子に乗るな、若造!」
ピーターⅡが吼える。
「お前に世代の頂点は渡さん!」
「おいおい、喧嘩は好きだが、俺を忘れるなよ!」
俺も負けじと前へ首を突っ込んだ。
実況の声が遠くから届く。
《さあ、向こう正面!人気の三頭が並んで火花を散らしています!不良馬場をものともせず、まるでスプリント戦のような流れ!》
解説の本部さんは叫んでいた。
「こ、これはおかしい!完全に常識を逸脱しています!これで最後まで持つはずが…いや、でもこの三頭なら…!」
そう、普通なら持たない。だが、俺たちは普通じゃない。
ピーターⅡは弟に背中を見せるために。
ブジキセキは「今」を輝くために。
そして俺は、俺を支えるポンコツどもにGIタイトルをプレゼントするために。
「負けられるかぁぁ!」
俺は泥を蹴り上げ、さらにスピードを上げた。
「こいよ、ピーターⅡ!」
「上等だ!」
「僕も一緒に!」
三者三様の譲れない想いが、不良馬場のターフを焼き尽くすようにぶつかり合う。
◆
第3コーナーを越えた瞬間、背後からドドドッと蹄音が迫ってきた。
実況が叫ぶ。
《さあ、後続も追い上げてきた!さすがに前の3頭、ペースが落ちたか!?》
(…バカどもめ)
俺は鼻で笑った。
(今さら無理して追いついてきたところで、脚が持つわけないだろ。こっちは最初から不良馬場を全開でぶっ飛ばしてるんだ。普通の馬が真似できるわけねえ。せいぜい勝手に潰れてろ)
俺がそう思った瞬間、横でピーターⅡが吠えた。
「おい、マストブリンガー!ここで息を入れる(ペースを落とす)なんて、ダサい真似すんじゃねえぞ!」
「当たり前だ!」
俺も吼え返す。
「逃げってのはなあ!ゲートが開いてからゴールまで、誰にも前を譲らねえやつのことを言うんだよ!」
「フッ、言うじゃないか!」
ピーターⅡの目が輝く。
すると今度はブジキセキが割り込んできた。
「お二人さん、熱くなってますね。でもね…僕も男なんでね!ここで加速しない理由がないでしょう!」
《なんと!マストブリンガー、ピーターⅡ、そしてブジキセキ!後続の接近に合わせて、さらに加速した!》
ドカドカと泥を跳ね飛ばし、俺たちはもう一段ギアを上げる。
観客が悲鳴のように叫んだ。
《速い、速い!ペースが落ちない、むしろ上がっている!》
後続の馬たちは必死で食らいつこうとしたが、次の瞬間には、もう差が広がっていた。
解説の本部さんが頭を抱える。
「こ、これはもう…!後続は完全に脚が上がった!この不良馬場でここまで飛ばされちゃ、どうにもならん!勝負は完全にこの3頭に絞られました!」
振り返る必要もない。俺の耳には、もう後続の蹄音は遠くなっていた。
(これでいい。余計な雑音はいらねえ。この世代の王者は、俺たち三頭の中で決まる)
ピーターⅡが牙を剥く。
「さあ、ここからは真の地獄だぞ、マストブリンガー!」
「望むところだ!」
「僕だって負けませんよ!」
◆
最終コーナーを抜けて、真正面に見えるは中山名物「心臓破りの坂」。
実況は叫んでいた。
《レコード決着は必至!…いや、このペースでは共倒れもあり得るぞ!》
俺はゼエゼエ息を吐きながらも、まだ前に脚を運ぶ。全身の筋肉が悲鳴を上げてるのに、不思議とまだ倒れる気はしなかった。
(こんなもんじゃねえ!スタミナ勝負なら負ける気がしない!)
横でピーターⅡが笑った。
「フフッ…俺がこんなところでくたばるかよ!最後まで付き合ってやるぜ、マストブリンガー!」
なんで笑ってやがんだ。あいつ、まだ脚色がまるで衰えてねえ。化け物か。
後ろからブジキセキが食らいついてきた。
「負けない!勝つ!抜く!僕が最強だ!」
お前、さっきまで好位で漁夫の利狙いって顔してたのに、なんで燃え上がってんだよ!おかげで三強マッチレースがさらにヒートアップじゃねえか!
ドロッドロの泥が顔に飛び散る。目に入ったけど拭けるわけがない。蹄が沈むたびに、脚が抜けなくなるんじゃねえかってくらい重い。肺は張り裂けそうで、心臓は爆音ドラムみたいに胸を叩き続けてる。
(クソッ…!でも俺は止まらねえ!)
萌の声が後ろから飛んできた。
「ブリンガー君!行けええええっ!」
うるせえ!こっちは必死だ!でもその一言で、なぜかまた脚が動くんだから不思議だよな。
ピーターⅡがさらに声を張る。
「この坂を制したやつが世代の王者だ!譲る気はねえぞ!」
「望むところだ!」
「僕が勝つって言ってるでしょ!」
三頭が横一線。坂の傾斜が俺たちの体力を奪いながらも、誰も退かねえ。誰も下がらねえ。
観客の叫びが、豪雨と蹄音をかき消すくらい響いてる。
《すごい!すごすぎる!世代最強を懸けた三頭の叩き合い!泥まみれ、雨まみれ!誰が抜け出す!?》
俺の脳裏に浮かんだのは、ただ一言。
(俺が…勝つ!)
ここまで溜めてきたピーターⅡ、ブジキセキ、そしてマストブリンガー。三強が本気でぶつかり合う姿を書いていて、自分でも息が上がるくらい熱くなりました。
次回はいよいよ「ゴール前の死闘」を描きます。果たして王者は誰か?ぜひ最後までお付き合いください!