蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~ 作:斉宮 柴野
そんな彼の次なる戦場は――恋だった。
今回は「深夜の馬運車密着」から始まる、美浦トレセンでの騒動、
そして“オークス馬ダイスパートナー”との衝撃の邂逅。
走るよりも喋り、勝負よりも恋する、史上最も多弁なサラブレッドの暴走劇をお楽しみください。
※なお、発情の描写は動物生態学的に99%真面目(1%ギャグ)です。
俺は、ピーターⅡが美浦(みほ)トレーニングセンターへ移動するという情報を――盗聴…いや、正当な手続きを経て――入手した。
そしてヤツと同じ馬運車に乗り込む手筈を秘密裏に整え、今、俺たちは深夜の高速道路を東へと向かっている。
「…おい」
暗闇の中、隣の区画から、ピーターⅡの怨嗟に満ちた声が聞こえた。
「なんだ?」
「なぜお前がいる」
「奇遇だな。俺も美浦に用事があってな」
「嘘をつけ!貴様のせいで、俺はここ最近まともに眠れていない!調教にも身が入らん!」
どうやら彼は最近、調教時計が思わしくないようだ。
俺という最高のライバルが四六時中監視しているというのに、情けない奴だ。
「…? なぜ俺をそんな目で見る?」
「お前の見守りが監視レベルなんだよ!」
「誤解だ。俺はただお前の努力を応援しているだけだ」
「応援の定義、今すぐ辞書で調べてこい!!」
俺たちを乗せた馬運車は、深夜の東名を滑るように走る。窓の外には街灯が流れ、反射するオレンジの光が車内を照らしている。
俺は荷台の中で脚を折りながら、隣の区画の壁に軽く頭を預けた。
「なあ、ピーターⅡ。最近の輸送馬用カスタム、快適だな。湿度も温度も完璧だ」
「話しかけるな。俺はいま瞑想中だ」
「へぇ。俺も真似していいか?」
「するな!」
「なら、音読に切り替えるか」
「切り替えるな!!!」
俺は咳払いしてから、深夜の馬運車内に自分の声を響かせた。
「ここに記す――世紀の三歳牡馬対決、その幕は近い。全てはこの俺、マストブリンガーが――」
「うるせぇぇぇぇぇぇっっ!!!」
隣の区画から、金属壁を蹴る音が響いた。いい反応だ。眠気覚ましにちょうどいい。
「なあ、ピーターⅡ。せっかくだからさ、しりとりでもするか?」
「断る」
「“る”からだぞ?」
「るせぇっ!!」
「“え”?じゃあ“えんやこら”の“ら”から!」
「もう喋んな!!!」
ふふ。彼はツンデレだな。距離を取るほどに、心の距離は縮まるというやつだ。
「なあ、ピーターⅡ」
「まだ何かあるのか」
「お前さ、最近夜食食ってるだろ。腹のラインがちょっと丸くなった」
「お前、俺の腹まで観察してんのか!!」
「俺の観察眼は馬体診断レベルだからな」
「それを人に向けるなあああ!!」
その瞬間、車体が大きく揺れた。カーブだ。
俺の身体がわずかに傾き、ヤツにドンッとぶつかる。
「おわっ!」
「うおっ!?近い!近い!!息がかかってる!!」
「安心しろ、無害だ」
「安心できるか!なんで湿ってんだ!!」
「雨上がりの牧場で深呼吸してたせいだ」
「そういうのを口臭って言うんだよ!!」
やがて運転席から、ドライバーの声が聞こえた。
「おーい、後ろうるせぇぞー!馬同士で喧嘩すんなよー!」
ピーターⅡがすかさず怒鳴り返す。
「俺が喧嘩してんじゃねぇ!こっちの黒鹿毛が延々語りかけてくるんだよ!!!」
「ははは!仲いいなーお前ら!」
「どこがだ!!」
「俺たちはただのライバルだ。同志だ」
「やめろ!その言い方が一番危険なんだよ!!」
俺はふと天井の隅を見上げた。古い馬運車にしては珍しく、カメラが設置されている。
「おいピーターⅡ、録画入ってるぞ。明日のニュースで『仲良し輸送馬、深夜の密着旅』とか出たらどうする?」
「やめろおおおお!!絶対にやめろ!!」
「まあ大丈夫だ。俺は映り慣れてる」
「お前、なにに出演してるんだよ!?」
「教育番組。賢い馬の社会生活特集で、ナレーション付きだ」
「完全にネタ枠じゃねぇか!!!」
◆
美浦トレセンに到着するやいなや、俺は驚くべき歓迎を受けた。
「きゃー!マストブリンガー様よ!」
「本物だわ!黒鹿毛の艶が違う!」
「タレント馬!素敵…!ヒヒーン♡」
どこから聞きつけたのか、美浦所属の牝馬たちが、俺の周りにわらわらと寄ってきたのだ。
「ちょ、ちょっと押さないで!一人ずつ!取材は順番に!」
俺は前脚を軽く上げ、スマートに挨拶ポーズ。するとさらに歓声が上がる。
「見た?今の仕草!キャーッ!紳士的!!」
「触ってもいいかしら!」
「できればサインして!」
「俺、蹄にサインってどうすりゃいいんだよ!?」
ピーターⅡが少し離れたところで、不機嫌そうに俺たちを見ていた。
「……なぜだ」
「ん?」
「なぜ俺には誰も群がらない!?俺はGI二勝馬だぞ!?血統も実績も完璧だ!」
「いやぁ、人気ってのは顔とキャラだよ、顔とキャラ」
「馬にキャラとかあるか!」
「あるんだよ。お前、いつもムスッとしてるしな。あれじゃ営業スマイル0点だ」
「俺は競走馬だ!芸能馬じゃない!!」
「その考えがすでに時代遅れだな。今の時代は走って稼ぐ+魅せて稼ぐだ」
「お前、どこでそんな知識を得たんだ」
「『ビジネス馬道(うまどう)入門』って本だ」
「読むなそんなもん!!!」
その後も牝馬たちの熱狂は止まらない。
「マストブリンガー様、もしよかったら今度一緒に坂路で走りませんか?」
「え、ああ、まあ予定が合えばね。アドレス交換しようか」
「キャー!連絡先交換だって!」
「お前、いつの間に携帯持ってるんだ!」
ピーターⅡがツッコミを入れてくるが、今それどころじゃない。営業チャンスは逃さない主義だ。
俺の隣では、さらに調子のいい馬が話しかけてきた。
「ねぇねぇ、ブリンガーくんって、本当にテレビの仕事してるの?」
「そりゃあ、多少はね」
「すごーい!じゃあ、恋バナとかもできるんだ!」
「恋バナ?まあ、最近はストーカー呼ばわりされるくらいには愛に真っすぐだな」
「え、ストーカー!?」
「違う!誤解だ!」
慌てて弁明する横で、ピーターⅡが遠くから爆笑していた。
「自業自得だろ、変態馬!」
「お前も笑ってる暇があったら、ファンサービスの一つでも覚えろよ!」
牝馬たちはますますヒートアップしていく。
「キャー!そのツヤツヤのたてがみ触らせて!」
「うわっ、ちょ、待て!そこはデリケートゾーン!」
「ヒヒーン♡」
「うおおおお!やめろ!尻尾掴むな!」
パドック顔負けの大混乱である。
そこに、トレセンの職員が駆けつけてきた。
「マストブリンガー!頼むから静かにしてくれ!君のせいで他の厩舎の馬が集中できない!」
「すまん、人気者はつらいな」
「自覚あるなら控えろ!!」
そして、その光景を冷ややかに見つめるピーターⅡ。
「お前、馬としての威厳をどこに捨ててきた」
「人気も実力のうちだ。レースもプロモーションも全力。それが俺の流儀だ」
「……ほんとお前、根っからの芸人気質だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「皮肉だ!!!」
牝馬たちはまだ去ろうとしない。
「ねぇブリンガーくーん!今夜、放牧地で月見しない?」
「今夜はちょっと…。美桜ちゃんから経営報告の電話がある」
「えーっ、彼女いるのー!?」
「違う違う!ビジネスの話だ!なんか誤解されそうな言い方やめて!」
ピーターⅡがぼそっとつぶやく。
「いや、もう完全に誤解されてるだろ」
「お前もだまっとけ!!!」
「ふぅ…美浦って案外刺激的な場所だな」
「お前のせいでな!」
「まぁまぁ。これで俺のファン層も関東に拡大だ。マーケティング的には上々だ」
「お前の人生、いや馬生、どこに向かってるんだ…」
「強さと人気を両立した総合型サラブレッド、つまりエンタメホースだ」
「そんなカテゴリ存在しねぇ!!」
すると、通りかかった調教師がピーターⅡに声をかけた。
「お、ピーターⅡ!次の調教、坂路単走でな!」
「了解しました」
「マストブリンガー、お前も見学していいぞ」
「もちろん行く!」
「来るな!!!」
◆
その時だった。牝馬たちの輪の中から、一頭の美しい鹿毛の牝馬が、すっと前に出てきた。
光が差し込んだように、空気が変わった。ざわついていた他の牝馬たちが一瞬で静まる。
「……だ、誰?」
「知らないの?今年のオークス馬、ダイスパートナーよ!」
周囲のざわめきが俺の鼓膜をくすぐる。オークス馬?あの名門・栗林ファームの看板娘か!
そして――目が合った。
その瞬間、俺の全身にビビビッと電撃が走った。
物理的な意味で。
いや、ほんとに静電気かと思った。乾燥してる季節だしな。
だが違う。心臓がバクンッと跳ねた。血が逆流して、脳が痺れる。
(な、なんだこの感覚は!?)
脚が震える。鼻息が荒くなる。尻尾が勝手に立つ。
「おい、ブリンガー、どうした!?また変な虫でもついたか?」
ピーターⅡが心配そうに俺を見た。
「ち、違う!これは……これは恋だぁぁぁぁ!!」
「うるせぇ!!!」
牝馬の輪の中心、ダイスパートナーは優雅に歩み寄ってくる。
毛並みは滑らかな栗色、瞳は深い琥珀色。蹄の一つ一つまで上品だ。
まるで女神。いや、馬神だ。
彼女が一歩近づくたびに、俺の鼓動が倍速で鳴り響く。
「あなたが、マストブリンガー君ね」
その声が、鈴のように響いた。
「う、うん!俺がマストブリンガーです!マストです!ブリンガーです!繰り返します、俺がマストブリンガーです!」
「自己紹介、そんなに連呼しなくても分かってるわ」
「す、すみません!初めて女性に名前を呼ばれたもので!」
「あなた、ちょっと面白いのね」
「いえ、全力で真面目です!!!」
近くで見ると、彼女はさらに美しかった。
艶やかな瞳の奥に、知性と誇りを湛えている。
「噂通りの、素敵な瞳」
そう言って微笑まれた瞬間、俺の脳内では天使の合唱が鳴った。
(あ、これもうダメだ。落ちた。完全に恋に落ちた。)
俺はどうにか正気を保ちながら質問する。
「えっと、ダイスパートナーさんは、なんで俺なんかに?」
「なんかじゃないわ。あなた、走りがすごく綺麗なのよ。直線でのフォーム、惚れ惚れしたもの」
「ほ、惚れ惚れ!?惚れ!?惚れられた!?」
「違う違う、比喩よ」
「比喩でも嬉しいです!!!」
彼女が少し照れたように笑う。
俺の心拍数はすでに出走前ゲート5秒前のテンションを超えていた。
「次のレースは決まっているの?」
「い、いえ!今は調整中で!」
「よかったら、宝塚記念(GI)で一緒に走らない?ファン投票、私も選ばれたのよ」
「は、はいっ!よ、喜んで出走させていただきます!!!」
「ふふ、嬉しいわ。楽しみにしてる」
俺の中の何かが弾けた。
(え?俺、今なに返事した?)
たしか、宝塚記念って上半期のグランプリだよな?距離2200m?阪神?
いや、そんなことはどうでもいい!彼女と一緒に走れるなら命を懸ける価値がある!!
「ファン投票、何位だったの?」
「え?えーと……8位です」
「わぁ、すごい!私、7位だったの」
(近い!順位まで相性抜群じゃないか!!)
その時、彼女がふと俺に顔を寄せた。
「レース、楽しみにしているわね」
そう言って、俺の首筋にそっと顔を寄せ――優しく毛づくろいをしてくれた。
ビリリッ!!また電撃。今度は心臓が一瞬止まった。
(あ、死んだかもしれん。幸福死ってこういうやつか)
「あなた、すごくいい匂い。青草とシャンプーの香りがする」
「ありがとうございます!今日、トレセンのスパで洗ってきたんです!」
「意識高いのね」
「惚れてますから!!」
「え?」
「いや、あの、その……尊敬してますから!!!」
「ふふっ、可愛いのね」
ピーターⅡが遠くで嘆息していた。
「終わったな、あいつ」
「なに終わったって!?始まったんだよ俺の恋が!!!」
「お前、恋愛体質にもほどがある!」
「だってしょうがないだろ!馬生(ばせい)で初めての恋なんだぞ!!」
「うるさい!こっちはレースの調整で忙しいんだ!」
ダイスパートナーは俺の耳元で、柔らかく囁いた。
「もしあなたが引退したら、ぜひ私たちの牧場で、種付け(たねつけ)の機会をいただきたいわ」
……時が止まった。
その言葉を理解するまで、5秒かかった。
理解した瞬間、頭の中で爆発音が鳴った。
「な、な、な、なんだってぇぇぇぇぇぇぇ!?」
「どうした!」ピーターⅡが驚く。
「だ、だいじょ、だいじょぶだ!これはその、心臓が…うっ…」
「お前、鼻血出てるぞ」
「出てねぇ!汗だ!情熱の汗だ!!!」
俺は完全に思考停止した。
目の前の女神が微笑んでいるのに、何も返せない。
「ごめん、突然そんなこと言っちゃって。冗談よ」
「じょ、冗談……」
「でも、あながち嘘でもないかも。あなたの子、きっと強い子が生まれそう」
「うわぁぁぁぁぁ!!」
俺は地面に倒れた。心臓がバクバクどころかバクハツしている。
ピーターⅡが呆れ顔で見下ろした。
「……お前、今から種牡馬モードに切り替えるの早すぎだろ」
「だってしょうがないだろぉぉぉ!愛は突然来るんだよぉぉぉ!!」
「頼むから黙れぇぇぇ!!」
ダイスパートナーはそんな俺たちを見て、楽しそうに笑っていた。
「仲良しなのね、あなたたち」
「違う!これは宿命のライバル関係だ!」
「はいはい、そういうことにしておくわ」
彼女が優しくウインクした瞬間、俺は確信した。
ああ、もうダメだ。完全に落ちた。
◆
「おい、待て。俺は真剣に悩んでいるんだ。お前、牝馬に興味ないのか?いや、あるだろ。この間だって栗東の洗い場で隣にいた牝馬の尻をガン見してたじゃないか。俺は見たぞ。あの時の目は完全にやる気だった。なのに俺には『頭がおかしい』だと?どの口が言うんだ、ええ?」
ピーターⅡは心底嫌そうな顔でじりじりと後ずさる。なんだよ、別に取って食おうってわけじゃない。ただ、俺はこの世界における競走牡馬の生態というものを、今さらながら学ぼうとしているだけだ。俺の物差しは前世の人間基準だからな。この世界での常識が分からん。だから、こうして同世代のトップランナーである君に教えを乞うているわけだ。もっと敬意を払ってもらいたいもんだぜ。
「いいか、俺はずっと人間の女の裸の方が興奮したんだ。これは事実だ。美桜ちゃんの裸を見たときは、正直言ってダービーを勝つより価値があると思ったくらいだ。だがな、今日、あのダイスパートナーさんを見た瞬間、俺の中で何かが弾けた。血が沸騰するような、脳が痺れるような、あの感覚!これが恋か!…いや、違うな、発情だ。これが馬としての本能なんだと、俺は三十路(前世)にしてようやく気づいたんだよ!」
「近寄るな!それ以上こっちに来たら叫ぶぞ!」
叫べばいいじゃないか。俺たちは馬だぞ。ヒヒーンって鳴くだけだろ。何をそんなに怯えているんだか。俺はただ、この新たな感情の正体を知りたいだけなんだ。つまりだな、ピーターⅡ。俺がお前を四六時中つけて回っているのも、実はこの生態調査の一環だったというわけだ。俺は自分の馬としての本能が欠落しているんじゃないかと、ずっと不安だった。だから、お前という優良個体を観察し、牡馬としての正常な行動パターンを学ぼうとしていたんだ。調教中に牝馬のケツを追いかけて集中力を欠くとか、そういう行動をお前がしないかと、ずっと期待して見ていたんだぞ。なのに、お前は常に冷静沈着、まるで聖人君子のようだ。面白みがないにも程がある。
「そんな理由で俺のプライベートを滅茶苦茶にしていたのか!?」
「人聞きが悪いな。研究熱心と言ってくれ。それに、お陰で俺もようやく牡馬としての一歩を踏み出せた。感謝しろとは言わんが、もう少し友好的な態度をとってもいいんじゃないか?例えば、そうだな、さっきのダイスパートナーさん、どう思う?美人だよな?俺はああいうタイプが…」
「知るか!俺に話しかけるな!」
ピ-ターⅡはついに耐えきれなくなったのか、猛然とダッシュして俺から逃げていった。何なんだあいつは。こっちは生まれて初めての恋(仮)について、仲間と語り合いたい気分だというのに。まあいい。宝塚記念でダイスパートナーさんと一緒に走れるんだ。それまでに、俺は最高の男…いや、最高の牡馬になってみせる。まずは、彼女に相応しい実績が必要だ。
そうだ、宝塚記念だ!俺が勝てば、引退後の種付け権は俺がいただく!…いや、そういう話じゃなかったか?まあいい。とにかく勝つ!そして勝って、ダイスパートナーさんと一緒に口取り式に出るんだ。そのためにも、まずは彼女の情報を集めないと。どんなレースが得意で、どんな血統で…。そうと決まれば、早速執務室(俺の馬房)に戻ってデータベースを検索だ!ピーターⅡの観察も大事だが、今は恋が最優先だからな!あいつのストーキングはちょっとだけ休んでやろう。せいぜい短い自由を謳歌するがいいさ!
というわけで、ついにブリンガー、恋に落ちました。
ストーカー→監視→恋愛→発情→哲学、
と進化してきた彼の感情曲線、もはや馬というより人類です。
ダイスパートナーの「あなたの子が見てみたい」という一言で完全ノックアウト、
それでも“恋を勝負に変える”あたりが彼らしいですね。