蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~   作:斉宮 柴野

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今回の話では、マストブリンガーがついに本当の走りに目覚めました。
ギャグでもトラブルでもなく、ただ走ることそのものが喜びになる瞬間。
そんな主人公の成長を、レース描写の中で全力で描いてみました。
※実在の競馬とは異なる描写がありますが、ご了承ください。


覚醒の二の脚(にのあし)、そして三の脚へ

そして、最後の直線に飛び込んだところで、俺はようやく「今、自分がどこを走っているのか」を意識した。

 

さっきまで、半分夢みたいな感覚でターフをぶっ飛ばしていたからな。

前を見る。誰もいない。視界を遮るものが何一つない。

あるのは、まっすぐ伸びたコースと、遠くのゴール板だけ。

 

「あ、これ、気持ちよくぶっちぎってゴールして終わりだな」

俺は、完全にナメたことを考えていた。

そう思った、その瞬間だった。

 

背後から、明らかに空気の壁が押し寄せてきた。

ブオオオオオッ、とジェット機みたいなエンジン音が聞こえる。

いや、実際は蹄の音なんだけど、体感的には完全にジェットだ。

空気の密度が変わる。背中側の風圧が急に重くなった。

 

《カスケード!大外からとてつもない末脚で突っ込んでくる! 一気に差が詰まる!》

 

実況の悲鳴みたいな声が聞こえる。

 

振り返らなくても分かった。さっきまで遙か後ろにいたはずの黒い塊が、今は射程圏内に入ってきている。

 

さすが怪物世代のラスボス候補。

 

マジかよ、まだこんな脚残してやがったのか。こいつ、もしかして生まれつきターボ付きか?

 

でもよ。

末脚を残してるのは、お前だけじゃないんだよ!

 

「未来ちゃん! 行くぞ!」

 

『ええ! 分かってる!』

 

ここまで、俺は「気持ちいい」ラインをギリギリ保つペースで走っていた。

弥生賞みたいに感情だけでぶっ飛ばさないように、でも皐月賞やダービーみたいにピーターⅡの影を気にしてブレーキを踏みすぎないように。

あくまで、自分の中の上限の一歩手前。

ここから先は、GⅠ本番でしか踏み込むつもりのなかった領域だ。

 

俺は、胸のあたりに残していた最後のスイッチを押した。

二の脚(にのあし)、解放。

 

ガツン、と体が前に飛び出す感覚。

今までも全力で走っていたつもりなのに、そこからもう一段ギアが勝手に上がる。

蹄がさっきまでとは違うリズムで、ターフをえぐり始める。

さっきまで「ドドドド」だったのが、「ドドドドドドド」に増量された感じだ。

 

「お、おおお!?」

 

未来ちゃんが軽く仰け反る。

 

「ちょっと待って、ブリンガー! さっきまでの全力は何だったのよ!!」

 

「ウォーミングアップだ! ここからが本番だ!!」

 

「本番長すぎ問題!」

 

さっきまで10馬身あった差を、カスケードが3馬身差まで詰めてきていた。

が、その差が、二の脚を使った瞬間、逆にぐんぐん開いていく。

芝の上に置いてきた足跡の一つ一つが、さっきより深く、重く刻まれていくのが自分でも分かる。

 

《まだ伸びる!マストブリンガー、まだ伸びる!カスケードが追いすがってくるが、差が縮まらない!》

 

実況が半分引き気味だ。

 

カスケードの息遣いが、ほんの少しだけ荒くなったのが分かった。

 

さすがにキツいか?でも、ここまで詰めてきた根性は認める。あいつ、ちゃんと怪物だ

 

だが、今日は譲る気はない。

 

「まだだ!」

 

俺は奥歯を噛みしめ、そのさらに奥にあった、正直使いたくなかったストックを捻り出した。

魂の非常用バッテリー、三の脚(さんのあし)起動。

 

ドンッ、と心臓が一段ギアを上げたみたいに跳ねる。

肺の奥まで一気に冷たい空気が入ってきて、そこから一気に燃料に変わる。

脚が自分の意思とは別次元のキレで動き出す。

 

「ちょ、ちょっと待って! 身体は本当に大丈夫!?」

 

「知らん! でも気持ちはめちゃくちゃ元気だ!!」

 

「一番あてにならないタイプの自信よ、それ!!」

 

直線の半分を過ぎたところで、俺の意識が一瞬だけふっと軽くなった。

頭の中のノイズが全部消えて、「前に行け」という命令だけが残る。

ターフの感触も、観客の歓声も、未来ちゃんの息遣いも、全部ひとつのラインに重なっていく。

 

結局、カスケードの猛追をまったく寄せ付けず、俺は8馬身差をつけてゴール板を駆け抜けた。

 

ラスト100mは、もはや独走というより、何かから逃走している気分に近かった気がする。

多分、現実的には何も追ってきていないんだけど、メンタル的には「これを逃したら一生ピーターⅡに勝てねえ」みたいな得体の知れないプレッシャーから逃げていたのかもしれない。

…まあいい。細かいことは気にしない。とにかく一言でまとめるなら――気持ちいい!!

 

ゴールを駆け抜けた瞬間、未来ちゃんが俺の首をぽんぽん叩いた。

 

「お疲れさま。どう? 今の走り」

 

「最高。税務署に追われてる気分だった」

 

「なんでそこで比喩が確定申告なのよ」

 

「逃げ切った時の開放感が似てる」

 

「経験者みたいに言うな」

 

息は上がっている。

肺は燃えるように熱い。

でも、体のどこかで、まだ「行ける」と言っている感覚も残っていた。

 

ああ、これか。これが、二の脚、三の脚ってやつか

 

弥生賞の時は、前半で使えるだけスタミナを吐き出して、後半は残りカスでなんとかしようとしてバテた。

 

今日は違う。

 

前半、中盤、終盤、全部計算づくで、ちゃんと残して、ちゃんと使った。

 

俺は、自分の中にまだこんな余力ゾーンが眠っていたことに、心底驚いていた。

 

 

 

 

《圧勝! 圧勝! マストブリンガー、次世代の怪物を全く寄せ付けず、8馬身差の圧勝です!》

 

場内に、どよめきと共に公式タイムが告げられる。

 

《タ、タイムは……! 1分56秒2! こ、これは2000mの日本レコードを大幅に更新しています!》

 

観客席から、悲鳴と歓声と、あと多分いくつか罵声が入り混じったよく分からない叫びが上がった。

 

「レコード出すなら事前に言っとけー!」とか、「馬券売れないだろうがバカヤロー!」とか、いろいろ聞こえる。

知らん。非公式レースなんだから馬券は最初から売ってない。

 

…日本レコード?俺、あんまり疲れてないぞ??

 

未来ちゃんが、俺の首筋をさすりながら笑った。

 

「やっぱりね。本当の全力は、まだ誰にも見せてなかったんだわ」

 

「え、今ので全力じゃないのか?」

 

「感覚的には八割五分ってところね」

 

「……マジかよ」

 

「だって、まだ私、ムチ一発も入れてないし」

 

「そう言われてみれば!」

 

そこへ、カスケードの鞍上、半蔵さんが笑いながら近づいてきた。

 

「まいったな。こっちは本気で追ったんだが。これでまだ騎手が本気で乗ってないってんだから、末恐ろしいぜ」

 

「いやいやいや、今の未来ちゃん、けっこう本気だったろ?」

 

「うん、まあ半分くらいは本気」

 

「半分!?」

 

思わず素でツッコんでしまった。

 

半蔵さんは、未来ちゃんに向き直る。

 

「暁くん(萌)じゃなくて、君が乗ってこれってことはさ。あの子が本気であいつに合わせられるようになったら、どこまで行くんだろうね」

 

未来ちゃんが少しだけ真面目な顔になった。

 

「…萌のこと、買ってくれてありがとう。あの子、まだ伸びますよ。私は土台作ってるだけですから」

 

「おう、だから俺は二人とも敵に回したくないんだよな。調教師の大原先生も含めてな」

 

「調教師本人が一番ポンコツなんだけどね」

 

「おい聞こえてるぞー!」

 

遠くから未来ちゃんの声にツッコミを入れる大原。

 

カスケード本人は、汗だくになりながらも、礼儀正しく頭を下げてきた。

 

「完敗です、先輩。勉強になりました」

 

「お前なあ……その完璧な礼儀、ちょっと気持ち悪いわ」

 

「そう言われましても、母の教育方針なもので」

 

「ヒロポンさん、恐るべしだな」

 

「家では人様に迷惑をかけるくらいなら、ターフで全部出しなさいって言われてます」

 

「教育方針が体育会系すぎる」

 

それでも、カスケードの目はギラギラしていた。

さっきまで全力で走っていたとは思えないくらい、瞳だけはさらに燃えている。

 

「でも、これで分かりました。先輩は、距離2000mなら、現役最強クラスでしょう」

 

「おいおい、さらっとハードル上げるな」

 

「ですから、俺はちゃんと準備しておきます。マイルでも、長距離でも、どこからでも先輩を喰いに行けるように」

 

「お前、ほんと将来有望すぎて怖いわ。社長室のホワイトボードに要警戒って書いとく」

 

その会話を聞いていたピーターⅡの馬主・尼子さんが、解説席から顔を出して叫んだ。

 

「やっぱり、うちのピーターⅡ君がいないと、世代論争が締まらないねえ!」

 

いや、お前のところの息子、今、解説席で労働中だからな。ちゃんと残業代払ってやれよ。

 

実況席では、さっきまで解説をしていたピーターⅡが、なぜかスタッフと揉めていた。

 

『いいか、ギャラの件だが――』

 

《ピーターⅡさん、CM入ります!》

 

『話をそらすな!!』

 

《では一旦スタジオを離れて、マストファームの特設ブースからお送りしました!》

 

『勝手に締めるな!!』

 

そんなドタバタを眺めながら、俺はふと気づく。

 

俺、今、日本レコード出したんだよな

 

冷静に考えたら、わりととんでもないことをやらかしている。

マストファームの経営資料に、「日本レコードホルダー在籍」とデカデカ書ける。

広告費の単価アップも狙えるし、グッズ展開もできるし、引退後の種牡馬ビジネスも――

 

ちょうどその時、遠くからダイスパートナーがこっちを見ていた。

あのオークス馬の牝馬だ。

 

俺と目が合うと、ふわっと微笑んだ。

 

「すごいわ、ブリンガー君。本当に、あなたは走るために生まれてきた馬なのね」

 

「い、いや、その……」

 

さっきまで日本レコードだの経営戦略だの考えていた頭が、一瞬で真っ白になる。

 

「宝塚記念で会えるの、楽しみにしてるわ。同じコースで、今度は本番で走りましょう?」

 

「は、はい! 全力でエスコートさせていただきます!!」

 

「エスコートするのはジョッキーよ」

 

横から未来ちゃんの冷静なツッコミが刺さる。

 

「もしあなたが引退したら、ぜひ私たちの牧場で、種付けの機会をいただきたいわ」

 

そう囁かれた瞬間、俺の脳みそは完全にシャットダウンした。

 

「……………………」

 

「フリーズしてる」

 

未来ちゃんが指で俺の頬をつつく。

 

「再起動中だから待ってくれ」

 

それでも、心の奥底で確かに感じていた。

 

これが、俺の本当の力か

 

今までの俺は、ずっと「まだどこかに上がある」って感覚だけを頼りに走ってきた。

それが、ようやく具体的な形になった。

数字として、タイムとして、日本レコードという結果として見えた。

 

よし。これなら――

 

自然と、ある馬の顔が頭に浮かぶ。

いつも涼しい顔で俺をぶっちぎってきた、あの化け物だ。

 

 

 

 

俺は、解説席に向かって腹の底から叫んだ。

 

「おい、ピーターⅡ!!」

 

ちょうどCMが明けて、スタジオが再び映像をつないだところだったらしい。

カメラが俺の方を向く。

解説席でマイクを外しかけていたピーターⅡが、びくっと肩を揺らした。

 

「次は公式戦、宝塚記念で勝負だ! お前も早く体調を戻せよ!」

 

スタンドから、どよめきと歓声が上がる。

ダイスパートナーのファンらしき人たちも「ついでに牝馬にも優しくしてやれー!」とかよく分からないことを叫んでいる。

 

ピーターⅡは、一瞬だけ呆れた顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。

 

『フン……聞いたぞ、マストブリンガー。どうせ言ってくると思っていた』

 

実況がマイクを向ける。

 

《ピーターⅡさん、今の挑戦状、どう受け止めますか!?》

 

『受けて立つに決まっているだろう。グランプリを勝つのは、この世代の王としての義務だからな』

 

《おおっと、王の宣言だあああ!!》

 

その瞬間、場内のテンションが一段階上がったのが分かった。

宝塚記念はファン投票のレースだ。

つまり、俺とピーターⅡの対決を見たいかどうかは、ファン次第だ。

 

でも、心配はしていない。

 

「どうせ俺は、票を入れられなくても勝手に出るしな」

 

「それダメなやつだからね!?」

 

未来ちゃんの冷静な指摘が飛んできた。

 

不思議なことに、俺がストーカー行為をやめた途端、ピーターⅡのストレス性の体調不良は、あっという間に回復したという。

医者曰く、「原因不明の精神的ストレスからくる胃腸炎」だったらしい。

 

 

本多社長が、診断書を見ながらため息をついていた。

 

「いやあ、マストブリンガー君。君の愛はちょっと重すぎたみたいだね」

 

「俺はただ、朝から晩まで四六時中隣にいただけだ」

 

「それを世間ではストーカーって言うんだよ」

 

「ライバル心だ!」

 

「紙一重なんだよなあ、その二つ」

 

ピーターⅡ本人も、どこか複雑そうな顔でこっちを見ていた。

 

『……マストブリンガー』

 

「なんだ」

 

『宝塚まで、俺の私生活には干渉するな』

 

「努力する」

 

『努力するじゃなくてやめると言え!』

 

とにかく、これで役者は揃った。

春のクラシックで俺をボコボコにした絶対王者、ピーターⅡ。

秋から本格参戦してくる次世代の怪物、カスケード。

そして、日本レコードを叩き出して一段階上のギアを見つけた、俺。

 

上半期の総決算、グランプリ・宝塚記念。

 

ここで勝てば、「春はピーターⅡのものだったが、夏から先はマストブリンガーの時代」と言わせられる。

 

負けたら……まあ、その時はまたすすきので屋台巡りしてヤケ酒だな。

屋台のおやじ、覚悟しとけよ。次は日本レコードホルダーが飲みに行くからな。

 

マストファームに帰る馬運車の中で、俺は天井を見上げながら小さく笑った。

今日一日で、走ることの意味が、少しだけ変わった気がした。

誰かを黙らせるためでも、誰かの期待に応えるためでもなく。

もちろん、それも大事だし、やってやろうとは思うけど。

 

「なあ未来ちゃん」

 

「なに?」

 

「今日の俺の走り、何点だ?」

 

「そうねえ……」

 

未来ちゃんは、少しだけ考えてから言った。

 

「競走馬としては、85点」

 

「厳しいな」

 

「でも、マストブリンガーとしては、満点」

 

「……おう」

 

なんだよ、その採点基準。

でも、悪くない。

 

「あとの15点は?」

 

「本番で、ピーターⅡと、お客さんの前で取りに行きなさい」

 

「言うじゃねえか」

 

宝塚記念まで、あと少し。

 

うちはうちで、マストファームと大原厩舎と萌のアイドル事務所という、よく分からない三本柱体制で準備を進めることになる。

 

萌は歌番組の生放送の合間に坂路を駆け上がり、未来ちゃんは調教の合間に台本チェック、美桜ちゃんはスポンサーとの打ち合わせの合間に馬券検討。

 

どこからどう見ても、本気で世代最強を獲りに行くチームには見えない。

 

それでも、きっと大丈夫だ。

 

だって、俺たちはこれまでも、だいたい全部ギリギリで、だいたい全部何とかなってきた。

 

今回も、多分、きっと、何とかなる。

 

……ならなかったら、その時はその時だ。

 

その時はまた、みんなで笑いながら「いやー、やらかしたね!」って飲めばいい。

 

そう思えるくらいには、俺はもう、このポンコツ共が好きになっていた。

 

こうして、俺は新たな次元の走りを手に入れて、次のステージへ向かうことになった。

 

でも、ポンコツ共と一緒に、世代最強の座を本気で獲りに行く。

 

 

 

 

俺たちの本当の戦いは、ここからだ。

 

まだ終わらせない。




「二の脚」「三の脚」というマストブリンガーのギアが
一気にキャラとして花開いた回だったと思います。

また、未来ちゃんの存在感が一段音量を上げ、
カスケードはライバルとしての魅力を確立し、
そしてピーターⅡとの因縁は、いよいよ本編最大の山場へ。

宝塚記念は必ずアツい展開になりますので、
感想・評価などいただけると励みになります!
今後ともよろしくお願いいたします!
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