蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~   作:斉宮 柴野

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実際の競馬界ではあり得ない描写や設定が多数出てきますが、完全にフィクションとしてお楽しみください。
今回はブリンガーと暁萌騎手の「地獄の再教育編」ギャグに見せかけて実は大事な布石回でもあります


荷物から賢者へ

俺のタスク表に「新人騎手の再教育」という不名誉極まりない項目が追加された。やりたくねぇ。牧場経営にトレーニングに体作り、全部背負ってるのに、今度は人間教育まで俺の仕事かよ。俺、何者?万能黒鹿毛か?

 

でも仕方ない。萌──もう「暁騎手」なんて敬称はやめだ──の騎乗は地獄そのもの。トレセンの他馬たちも噂を聞きつけていて、「あいつ乗せるくらいなら屈腱炎で休養に回るわ」と口を揃えて言う始末。おかげで俺以外に協力する馬がいなくなった。結果、俺自身が調馬索をつけられてロンギ場で彼女の個人レッスンに付き合う羽目に。馬人生でこんな屈辱ある?

 

まずは静止した状態で正しい姿勢を取る練習。ここだけは何とかなる。背筋を伸ばし、膝を馬体に軽く添え、手綱は余裕を持って…。うん、形だけならまあまあ様になってる。

だが、俺が一歩でも動くと地獄絵図だ。

 

「うわああああ!」

ちょっと歩いただけで、全体重を俺の首に預けるな!

「バランス取れない!怖い!」

「怖いのは俺の頸椎だ!折れる!」

 

仕方なく速歩に切り替える。するとどうだ、彼女の尻が上下にボンボン弾み、俺の背中にドスンドスンと衝撃が突き刺さる。

「お前の尻は鉄球か!内臓が揺れる!」

「す、すみません!どうすればいいの!?」

「どうすればって、まずは木馬で練習しろ!何でいきなり実馬でやるんだよ!」

 

…いや待てよ。もしかすると競馬学校の卒業試験で乗ったのは、俺みたいに会話できる超ベテラン馬だったんじゃないか?「もっと左足に体重移せ」とか「はい、その調子」とか、全部馬が指示してくれてたのかもしれん。だとしたら、今こうして俺が被害を受けてるのも納得だ。

 

次に駈歩(かけあし)の練習。俺がリズムよく加速してやると、背中から「ひぃぃぃぃ!」の悲鳴。で、バランスを崩して左に傾く。

「やばい、落ちる!」

「いや落ちろ!いっぺん落ちろ!地面の硬さを体感しろ!」

「無理ー!」

そして俺のたてがみを鷲掴みにしてしがみつく。毛が引きちぎれる!俺はカツラじゃねぇぞ!

 

試しに模擬レース形式でゲートを出てみた。案の定、スタートで大絶叫。俺はダッシュしながら背中の荷物を無視することにした。だが、コーナーに差し掛かった時、萌が恐怖で全力内傾。俺のバランスまで狂って大外に膨れる。試験官代わりに見ていた厩務員が爆笑してたけど、俺は真剣に命の危険を感じてたんだぞ。

 

「おい萌、いいか。お前はジョッキーじゃない。ただのリュックサックだ」

「えっ!?」

「俺にしがみついてじっとしてろ。それ以上何もするな。それが最良の騎乗だ」

「えぇぇ…」

 

本人はショック受けてたが、現状それしかない。操縦とか夢見るな。ただの荷物になれ。

 

俺は夜な夜な作戦会議を開いた。蹄でホワイトボードに書き出し、計画を立てる。

【暁萌騎手・矯正プログラム】

1.木馬に毎日1時間。バランス感覚を養う。

2.実馬での練習は速歩まで。駈歩は禁止。

3.実戦では荷物作戦。「鞍に固定されたオブジェ」になることを徹底。

 

厩務員さんたちも同意してくれた。むしろ「これなら勝てるかもしれない」と期待の声まで上がった。俺が一番泣きたいのに。

 

こうして俺は、新馬戦デビュー前に「新人騎手再教育」という前代未聞の修羅場を経験することになった。地獄のロンギ場レッスンで削られたのは俺の筋肉よりも、心だった。

 

 

 

 

 

 

正直、俺は萌に関してはもう完全に諦めてた。

「こいつは一生ただのリュックサックだな」って。俺の背中にくっついて奇声を発し、鞭を首に入れてくる。そういう生き物なんだと割り切ってた。

 

ところがある日、その評価は180度覆されることになる。

 

調教師の大原さんと俺と萌で、次の週の調教メニューを決める会議をしてた。まあ会議といっても、俺が蹄でホワイトボードに「坂路で併せ馬、終い強め」って書いて、大原さんが「うんうん」って頷くだけのいつもの流れだ。

 

すると黙って座ってた萌が、いきなり口を開いた。

「待ってください」

 

待ってください?俺の脳内で時間が止まった。こいつが「待ってください」なんてまともな日本語を発したの初めてじゃね?

 

「彼の血統背景とここ数週間の調教時計を考えると、今は心肺機能を追い込むよりも、瞬発力を養うポリトラックでの単走の方が効果的です」

 

……は?

 

一瞬理解できなかった。こいつ、俺のこと「彼」って言ったよな?敬語使ったよな?しかも今のコメント、競馬ファン歴20年の俺でも納得するレベルのド正論じゃね?

 

いや待て。冷静になれ。

リアルジャダイ産駒のスタミナに、トウホウボーイ由来のスピード。確かに今はスタミナより瞬発力を伸ばす方が効率的だ。しかも時計の分析もちゃんとできてる。おいおい、正論すぎるだろ。

 

「……萌、お前、本当に暁萌か?」

思わず口から出た。

 

「はい?」

小首を傾げる萌。バランス感覚ゼロのくせに、座学では俺より遥かに上。いや、もしかしたら栗東の調教師陣の中でも上位かもしれん。

 

そうだ、こいつは遅れてきた天才──ただし座学に限る。

走らせるとカカシ、でも喋らせると賢者。なんだこの極端な才能の偏りは。

 

後日、偶然にも萌が腹痛で休んだ日、大原さんが代わりに俺の鞍上に跨った。

結果?乗り心地は天国だった。

 

無駄に動かない。馬のリズムに自然に合わせる。手綱の重みは軽く、それでいて確実に意思が伝わる。これぞ扶助ってやつだ。俺は走ってて泣きそうになった。

「これだよ!俺が求めてたのはこれだよ!」

 

坂路を駆け上がりながら俺は本気で思った。

──なぁ、大原さん、あんたが騎手やれ。

「無理よ!」

即答だった。

 

そりゃそうか。調教師免許持ってんだから、今さら騎手に戻れるわけないよな。俺は心の底から残念に思った。騎手と調教師、交換できたらどんなに良かったか。

 

結局その日も、萌は診療所のベッドで「お粥おいしい」とか言ってた。おいしいじゃねぇよ、こっちは命がけなんだよ。

 

でもまあ…少なくとも調教プランを立てる上では頼りになる。座学に関してだけは。

だから俺はこう決めた。

「お前は乗るな。しゃべれ。しゃべってプラン立てろ。それがお前の仕事だ」

 

これからも地獄は続く。でもちょっとだけ光が見えた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺と萌の個人レッスンは、もはや栗東トレセンの名物になっていた。いや、正確に言うと“名物笑いもの”だ。毎回ロンギ場で俺が必死にフォローしながら走る横で、萌がバランスを崩して「きゃああああ!」と絶叫。調教助手や他厩舎の厩務員たちがゲラゲラ笑ってるのが聞こえる。頼むからやめてくれ、こっちは命がけなんだよ。

 

オーナーは事情をまったく理解していない。「萌ちゃんがんばれー!マストブリンガー君も!」と満面の笑みで応援してくる。いや、可愛い声援で頑張れる状況じゃねぇんだ。むしろ恥ずかしさで死ぬわ。

 

先日、本多リッチファームの社長が視察に来た時なんて、本気で土下座したくなった。俺と萌がギクシャクした動きでロンギ場を回っていると、社長は苦笑いしながら大原師にボソッと囁いた。

「服部騎手、今からでも呼びますよ?」

心の底から「お願いします!」と叫びたかった。だが、オーナーが満面の笑みで遮った。

「大丈夫です!萌ちゃんには才能がありますから!」

どの口が言うんだよ。才能があるなら俺の背中はここまで悲鳴を上げてない。

 

さらに極めつけは、あの出会いだ。

マストファームに見学に来ていた1歳のカスケードと鉢合わせしたのだ。そう、将来「怪物」と呼ばれるあのカスケードだ。

 

俺と萌の珍妙な走りを見たカスケードは、まだ幼いのに信じられないほど真剣な眼差しで俺を見つめてきた。そして一言。

「……大変そうだな、先輩」

 

やめろ。やめてくれ。漆黒の怪物に哀れみの目を向けられるとか、競馬人生で一番惨めだわ。

 

周りにいた繁殖牝馬や若駒たちもクスクス笑ってるのが聞こえる。俺は心の中で「俺は悪くない、俺は悪くない」と必死に唱えた。悪いのは全部背中の荷物──萌だ。

 

しかし、悲しいかな人間社会の評価は違う。「ゲート20回落ち」「調教でバランス崩す」「叫び声で馬を驚かせる」──全部「マストブリンガーは気性難」というレッテルにされてしまう。やめろ、それは俺じゃない。俺は超優等生なんだってば!

 

この公開処刑の日々で、俺の精神力はどんどん削られていった。だが、同時に悟ったこともある。

──ここで耐え抜けば、どんな状況でも走れるメンタルが身につく。

 

そうだ、これはただの屈辱じゃない。地獄の訓練なんだ。俺はそう自分に言い聞かせた。萌に鍛えられるとか、この世で一番認めたくない事実だが。

 

「……よし、先輩」

再びこちらを見てくる幼いカスケード。目は真剣だ。

「俺、強くなります。だから、負けないでください」

 

おいおいおい。カスケードに励まされるとか、プライド粉々どころの騒ぎじゃねぇ。でも同時に、不思議と力が湧いてきたのも確かだ。

 

こうして俺は、衆人環視の中で繰り広げられる公開処刑を乗り越え、新馬戦への道を歩み続けることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでもだ。血の滲むような(主に俺の背中の皮膚と心の耐久力による)努力の末、萌の騎乗は「ただ乗っているだけなら馬の邪魔をしない」レベルにまで到達した。これは快挙だ。オリンピックに「新人騎手矯正部門」があったら金メダル確実。いや、俺が金メダル。教育者としての神がかった才能を誇っていいはずだ。

 

ただし副作用として、俺の精神力ゲージは常時レッドゾーン。毎晩「鞭が首に当たる悪夢」でうなされている。

 

夏デビューの予定は大幅に遅れ、結局9月にずれ込んだ。だが、もう十分だろう。これ以上の上達は望めない。むしろ「これ以上やっても悪化するリスク」が大きい。ならば、実戦で叩き込むしかない。

 

俺の役割は二つ。レース中にコース取りを判断すること。そして萌には「ただ掴まってるだけの重り」役を全うしてもらうことだ。もうそれ以外は何も期待してない。

 

1994年9月、札幌競馬場、芝1800m、新馬戦。

ついにこの日が来た。

 




まさかカスケードに励まされるとは……ブリンガーの屈辱は天井知らずですが、読者的には最高のご褒美シーンでした。
次回はいよいよ新馬戦!「荷物作戦」で勝てるのか、それとも爆死か……?
感想で「萌に賭けるか、降ろせ派か」ぜひ教えてください!
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