蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~ 作:斉宮 柴野
今回はいよいよ「メイクデビュー札幌」直前、パドックからゲートインまでを描きました。緊張感とギャグの交錯を楽しんでいただければ幸いです。
俺のデビュー戦、メイクデビュー札幌のパドックは独特の熱気に包まれていた。人、人、人。競馬場なんて初めて来たに違いない素人客が「可愛い〜!」とか「脚キレイ〜!」とか叫んでるのも聞こえる。こっちは命懸けなんだが。
他の2歳馬たちはというと、案の定浮足立ってる。チャカチャカ落ち着きなく歩いたり、突然立ち上がって取っ手の厩務員を振り回す奴もいる。観客席からは「うわっ!暴れてる!」と悲鳴混じりの声。まあ、初めて大観衆に囲まれたらそうなるわな。
俺はといえば、前世を含めればこの光景は日常。悠然と周回を重ねる。耳をピンと立て、ゆったりと首を振り、毛ヅヤもピカピカ。どうだ、惚れ惚れするだろ。
隣を歩いていたのは栗毛の可愛い牝馬。緊張で発汗しまくってて、肩口から湯気出てるんじゃないかってくらい汗だくだ。チャカチャカと落ち着きなく歩き、厩務員を困らせている。
「落ち着け、嬢ちゃん。ここは自分をアピールする場所だ。楽しんだ方が良い」
俺が声をかけると、彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにうっとりとした表情で「…はいっ!」と頷いた。
ふっ、俺のイケメンぶりと大人の余裕に惚れたな。まあ、未だに牝馬に欲情したりはしないけどな。オーナーの鈴木美桜ちゃん(いつの間にかフルネーム覚えた)の裸の方がよっぽど良かった。あれは芸術。
実況席からは解説者の声が流れてくる。
「さあ、1番人気はマストブリンガーです!父はステイヤー血統のリアルジャダイ、母父は快速のトウホウボーイと、血統的な魅力も十分ですが…何より話題なのは、鈴木オーナー、大原調教師、そして暁騎手と、陣営が美女揃いということですね!実力は未知数ですが、人気先行といったところでしょうか!」
……聞こえてるぞ。完全に色物扱いだな。こっちは真剣勝負だっての。ま、いい。レースで黙らせてやる。
観客の中には萌のファンもいるらしく、「萌ちゃーん!頑張ってー!」と声援が飛んでいる。だが当の本人は控室で「吐きそう…」と呟いている。頼むからゲロ吐くなよ。俺のデビュー戦が即終了するだろ。
スタンドの最前列では、うちの牧場長の息子・啓太が双眼鏡で俺をガン見していた。手元のノートには「筋肉量良好」「トモの踏み込み安定」とかメモってる。小学生でこれだ。将来有望すぎる。
「絶対勝って!」
声は届かないはずだが、表情で分かった。あぁ、こいつのためにも負けられん。
そうこうしているうちに、周回は終わり本馬場入場。観客が一段とどよめく。
「マストブリンガー、堂々としてるな」
「気性難って噂あったけど、全然じゃん」
……そうだ、俺は優等生なんだよ!誰が気性難だ!
だが、俺は構わない。むしろこの状況を利用してやる。観客も解説も「色物」だの「人気先行」だのと好き放題言いやがってるが、レースが始まれば真実が分かる。俺は血統と努力でここまで来た。実力で証明してやる。
◆
「騎手騎乗!」
その合図で萌が俺のところへ来た。…来たんだが、手と足が同時に出て派手にすっ転んだ。スタンドから「おぉー!」とどよめきが起きる。違う、そこは感嘆じゃない。普通に恥ずかしいんだよ。
しかもその前、検量室で斤量測定のときにやらかしたらしい。馬具込みで体重を測るだけなのに、ヘルメットもブーツも脱いで裸同然になろうとして係員に「何やってるんですか!」と怒鳴られたとか。萌よ、ここはボクシングの計量会場じゃない。
ため息しか出ない俺は、とにかく鞍上に跨った萌を落ち着かせるため、今日の札幌競馬場の馬場状態を説明してやった。
「いいか、今日の芝は稍重。内側は荒れてきてるから、最後の直線は外に出したい。上がり3ハロンの勝負になる」
すると背中で、萌が静かに言った。
「…いいえ」
俺は思わず耳を疑った。今の声、震えがない。いつもの「ひぃぃ」でも「怖い」でもない。低く落ち着いていて、妙に迫力がある。
「今日の札幌芝1800mは、馬場状態と風向きを考慮すると、4コーナー出口で内にいる馬が有利です。内ラチ沿いをロスなく回り、直線で馬群がバラけた一瞬の隙間を突くべき。上がり勝負ではなく、道中のペース配分とコース取りが全てを分けます」
……は?
一瞬、背中に乗ってるのが誰なのか分からなくなった。
普段は「お馬さん速い〜!」と絶叫して俺の首を鞭でしばく荷物だろ?なのに今は、競馬新聞の予想欄を担当してるプロ記者レベルの分析を口にしてるぞ。いや、下手したらトップジョッキー並みじゃねえか。
俺は思わず聞いた。
「お、お前、それを実行できるのか?」
「できます」
返ってきたのは短い言葉。だが、その目は正気じゃなかった。瞳に光がなく、まるでトランス状態。完全に人が変わってる。
怖い。怖いが、そのプランは完璧だった。
スタートから道中のラップの刻み方、3コーナーでの馬群の位置取り、直線で外に出すタイミング──全て理にかなっている。俺ですら「なるほど」と唸るほどの展開予想だった。
まるで、普段のダメっぷりを補うために、頭脳だけ別次元の存在に切り替わったような…。いや、もしかしてこれが「覚醒」ってやつか?
ただし問題は一つ。こいつの肉体が、その完璧プランを再現できるかどうかだ。
俺は深呼吸した。
「……分かった。お前の作戦に乗ってやる。ただし、俺がやれることは全部やる。お前は俺を信じて、絶対にブレるな」
「はい」
即答だった。声のトーンは相変わらず冷たい。いつもの萌なら「えええ〜無理〜!」とか言うのに、今日は一切の迷いがない。
ゲートに向かう途中、観客から「暁萌、今日は落ち着いてるな?」なんて声も聞こえた。そうだろう、普段の萌を知ってるやつなら驚くはずだ。
俺は決意した。この未知のスイッチが入った萌と共に、札幌のターフを駆け抜ける。怖さと期待が入り混じった感覚。これこそデビュー戦にふさわしいスリルってやつだ。
◆
返し馬を終え、俺たちは発走地点へ向かった。さっきまで「トランス状態の天才」だった萌は、もうブルブル震えてる。おい、どっちが本当の顔なんだよ。二重人格か?
「マ、マストブリンガー君、怖い…!観客がいっぱい…!」
「さっき完璧な展開予想してたやつが言うセリフか!」
隣の枠の栗毛の牡馬がクスクス笑ってる。
「お前の鞍上、大丈夫か?ゲートで泣き出すんじゃないのか?」
「うるせえ!こっちだって不安なんだよ!」
そんな会話をしてるうちに、1番から順番にゲート入りが始まった。カン、カン、と鉄の音が響くたび、俺の鼓動も高まる。ついに俺の番だ。12番ゲート。最後に入るのはいつだって緊張する。
係員が俺の手綱を持ってゲートに誘導する。俺は大人しく一歩ずつ進む。萌の手は汗でビッチョリ。
「ひぃぃぃ…」
「落ち着け!暴れるなよ!ここで落ちたら公開処刑だぞ!」
ガチャン、と扉が閉まる。鉄の檻に囲まれた瞬間、世界が狭まった気がする。スタンドのざわめきが遠のき、聞こえるのは隣の馬の鼻息と俺の心臓の鼓動だけ。静寂。
その時だった。
――パララララ〜ン♪
場内にファンファーレが鳴り響く。札幌新馬戦の荘厳なトランペットの音色。観客の歓声が一段と大きくなる。
俺の背中で萌が「ごくり」と唾を飲み込んだのがわかる。
「い、いけるかな…」
「もう行くしかない!俺に任せろ!」
係員の声が響く。
「全馬、ゲートイン完了!」
間髪入れずに――
――ガシャン!
扉が一斉に開いた。
パドックでの余裕っぷりと萌の二重人格芸、そしてファンファーレでの緊張感……一気にレース本番へ突入する高まりを意識しました。
次回はついに札幌新馬戦!勝つのか、負けるのか、荷物作戦は通じるのか……。
ぜひ感想で「萌は覚醒派?爆弾派?」を教えていただけると嬉しいです!