蹄鉄の軌跡~あるいは馬(俺)の調教マニュアル~ 作:斉宮 柴野
今回はいよいよ「メイクデビュー札幌」。スタートからゴールまでの一部始終を描きました。新人騎手・萌の不器用さと、それでも夢を追い続ける姿が少しでも伝われば嬉しいです。
ゲートの中で、萌はガタガタ震えていた。小刻みどころじゃない。ブルブルブルブル、まるで震度7だ。俺の背中にいるのは新人騎手じゃなくて洗濯機か?ってくらい揺れてる。顔色はもう青を通り越して灰色。いや、むしろゾンビ。完全にレースの雰囲気に呑まれている。
「落ち着け、萌。ただ真っ直ぐ走ればいい。それだけでいい」
俺が声をかけても、彼女の目は虚ろで、完全にイっちゃってる。耳に届いてない。あーこれダメなパターンだ。
《さあ、ゲートイン完了!12頭、ゲートに収まって態勢完了!》
場内アナウンスが響く。観客がざわめく。俺の心臓がドクンと跳ねた。
――ガシャン!
ゲートが一斉に開いた。
《スタートしました!大きな出遅れはありません!》
嘘つけ!俺にとっては出遅れたも同然だった。なぜなら――萌が恐怖で全力で手綱を引き絞ったからだ!
グンッ!と首に衝撃。
「ぐわっ!」
俺のダッシュは完全に殺された。あれだ、スタート直後に首根っこを引っ張られた犬みたいな感覚。これじゃ二の脚なんて出るわけがない。
《おっとマストブリンガー!鞍上の手が動いて後方から!これはどうしたことか!》
実況の声が響く。どうしたことかじゃねえよ、見りゃわかるだろ!完全に人馬一体の逆、人馬分離だ。折り合いもへったくれもない。俺は舌打ちしながら必死で体勢を立て直すが、他馬はもう先行集団を作って軽快に走っている。俺はなすすべなく最後尾に沈んだ。
「萌ィィィィィィ!!!」
心の中で叫んだ。
1コーナーを回る。観客の目には「落ち着いた後方待機」に見えるかもしれない。だが実際は違う。俺の背中では萌が「ひぃぃぃぃ!」と泣きそうな声を漏らしながら、必死に俺のたてがみを掴んでいるだけだ。手綱?操作?何もしてない。いや、してるか。無駄にブレーキをかけてるな。
隣を走る芦毛の馬が横目で俺を見て言った。
「お前んとこの騎手、大丈夫か?」
「大丈夫じゃねえ!」
俺は即答した。
2コーナー、ペースは落ち着いている。先頭から最後方までは10馬身差。まだ取り返せない距離じゃない。だが、ここからどうやって巻き返せってんだ。
「萌、聞け!前に行くぞ!」
「え、えええええええええ!?」
「えじゃねえ!お前が乗ってるのは競走馬だぞ!観光馬車じゃねえ!」
俺は仕方なく自分で加速を開始する。蹄が芝を叩き、徐々にスピードを上げる。萌は背中でキャーキャー叫んでるが無視だ。
《さあ後方からマストブリンガーが進出を開始!》
実況がやっと名前を呼んでくれた。よし、このまま馬群をさばいて…って、うおっ!?萌がまた手綱を引いた!
ガクンッ!
「なんでブレーキかけるんだよぉぉぉぉ!」
「は、速いの怖い!」
「速いのが仕事だバカ!」
◆
第2コーナーを回って向こう正面に入った。ペースはスロー。逃げ馬たちがノホホンとマイペースで走っているせいで、隊列は縦長になりつつある。そして俺はというと、きっちり最後尾。完全に置かれている。
「…もう、やだ…降りたい…」
背中で萌がすすり泣き始めた。おいおい、ここで泣く騎手がいるか?いや、この世界で最初で最後だろう。
「おい。なんで騎手になった?」
俺は静かに問いかけた。
「…子供の頃、おじいちゃんから五冠馬シンザンの話を聞いて…それでお馬さんが大好きになったの…。私もシンザンみたいに、みんなに愛される強い馬に乗って、大きなレースで勝ちたくて…」
うん、動機は100点満点だ。理想も夢もバッチリ。けど現実は――。
「ならなんで動かない!」
俺は叫んだ。
「だって!私の騎乗にどの子もついてきてくれないんだもん!私が慌てて手綱を引く前に勝手に掛かって行ったり、馬込みを嫌がって外に逃げたり…。だから馬に合わせようとしてるのに、私、不器用だから…っ!」
なるほどな。こいつ、下手なんじゃなくて不器用すぎるんだ。馬を押さえ込むんじゃなく、馬の動きに必死で合わせようとして、逆に噛み合わなくなってたわけか。そりゃ今まで誰にも信用されんわ。
「…いいだろう。不器用でも何でもいい。お前はただ進む道を考えろ。俺がお前のどんな無茶な指示でも、寸分違わず合わせてやる。だから勝ちたいなら、前だけを見ろ!」
「わ、分かった…。でも…」
「でももへったくれもあるか!このレースで勝てなかったら、お前はクビだ!」
俺はハッタリをかました。背中で萌の呼吸が変わった。震えも少し収まってきた。
「…うん…!」
よし、スイッチ入ったな。ここからが本番だ。
向こう正面の半ば、まだ隊列は縦長。俺たちは最後方のままだけど、馬場は良い。ここから外に持ち出してロングスパートすれば届く可能性はある。
「萌、外に出すぞ!」
「ううん、違う!」
「はぁ!?」
「このペースなら外はロスが大きい!3コーナーまで我慢して、馬群が動いた瞬間にインのポケットを突く!」
マジかよ。さっきまで泣いてた奴の言葉じゃない。完全に理詰め。俺は思わず笑った。
「分かった!任せろ!」
俺は内ラチ沿いに身体を寄せる。前に数頭の壁があるが、まだ焦るな。
◆
第3コーナーに入った。馬群がギュッと固まって、一気に密度が増す。蹄の音が反響して、まるで地響きみたいだ。実況が熱を帯びる。
《さあ、レースが動き始めた!先頭は依然として軽快な逃げ!マストブリンガーはまだ最後方!届くのか!?》
俺は苛立ちながら、背中の萌に叫ぶ。
「どうする、萌!外か!?」
普通ならここで外に持ち出す。だけどロスが大きすぎる。トップスピードに乗る前にゴールだ。俺の血統エンジンを持ってしても、これは無理。
「ううん…内」
「どこに道がある!」
「…できる。0.5秒後、前の馬とラチの間に、馬一頭分の隙間が、一瞬だけ」
馬群にそんな都合のいい隙間ができるわけ――。
「本気か!?」
「できるって言った!」
…マジか。こいつ、スタート前といい、たまに降りてくるんだよな、神がかり的なゾーンに。俺は息を止めた。
「…今!」
GOサイン!
俺は全身のバネを爆発させ、ラチ沿いのわずかな隙間に頭を突っ込む!ほんのコンマ1秒でも早ければ前の馬の後脚にド突かれてたし、遅ければラチに顔面強打だ。だが俺たちは――紙一重で抜けた!
「おおおおおっ!」
観客席から大歓声。実況も絶叫だ。
《マストブリンガー、神懸かりのイン突き!ラチ沿いの狭い狭いところを突っ込んでいった!》
俺は笑いが止まらなかった。スリル満点すぎるだろ、これ。
「萌!お前、やればできるじゃねぇか!」
「…あ、あたしも怖かったぁぁぁぁ!」
怖かったんかい!震え声混じりの返事で、なんだか力が抜けた。
◆
《おおーっと!マストブリンガー!最内を突いて一気に上がってきた!》
最終コーナーを回って直線!俺たちは馬群の中から外に持ち出し、5番手でスパート開始だ!
《先頭まではまだ5馬身!これは届かないか!?》
「行くぞぉぉぉっ!!」
「いけえええええっ!!」
俺と萌の絶叫が重なった瞬間、全身に電流が走った。父リアルジャダイ譲りの底なしスタミナ、母父トウホウボーイから受け継いだ爆発的スピード。それを今ここで全部解放する!
背中で萌の鞭(むち)が飛ぶ。普段なら「おい痛いぞ!」と文句を言うところだが、今日のそれは違った。素人のはずの一撃が、まるで神の計算かのように、俺の闘志に火をつけるベストポイントに入ったのだ。どうやったんだお前!?
「萌…お前、覚醒したか!?」
「わかんないけど、今は行ける気がするぅぅぅ!!」
その勢いでいい。
残り300m。前との差はまだ4馬身。だが、俺の脚は止まらない。
「どけどけどけぇぇぇ!!」
馬群を縫いながら、俺はまるで弾丸のように加速する。観客が総立ちで悲鳴のような歓声をあげているのが聞こえた。
《外からマストブリンガー!すごい勢いで伸びてくる!》
残り200m。まだ先頭は2馬身先。逃げ馬サクラプリンセス、その外に食らいつくタフボーイ。このままじゃ届かない!
「萌!もう一丁だ!」
「おりゃああああ!!」
バシィッ!と飛んできた鞭が、俺の尻を打つ。痛い!けど効く!なぜか効く!お前ほんとに新人か!?
「いいぞ!その調子だぁぁぁ!!」
残り100m。3頭が横一線に並んだ!
《外からタフボーイ!内のサクラプリンセス!そして大外マストブリンガー!三頭が並んだ!ゴール板は目の前!》
俺は最後の力を振り絞り、ぐっと首を突き出す!
――ゴール!
「はぁ…はぁ…やったのか…?」
背中の萌は涙声で叫ぶ。
「勝った!勝ったよね!?お願い勝ってぇぇぇ!!」
結果は、長い長い写真判定に持ち込まれた。スタンドの観客も固唾を飲んでいる。隣の馬たちも肩で息をしながら「今の俺だろ!」「いやいや私でしょ!」と口論している。お前らうるさい!
電光掲示板が点灯する。
1着 ⑫マストブリンガー
瞬間、スタンドから割れんばかりの大歓声!
「勝ったああああああああ!!」
萌が号泣しながら俺の首にしがみつく。苦しい!窒息する!
オーナーの美桜ちゃんはスタンドで飛び跳ねている。「ブリちゃーん!萌ちゃーん!やったー!」ってうるさい!呼び方が雑!
検量室に戻ると、萌は放心状態だった。係員に「ヘルメット脱がなくていいです」とまた注意されていたが、もう誰も気にしない。
新人騎手・暁萌、JRA初勝利。そして俺、マストブリンガーのデビュー戦初勝利だ。
ハナ差。ほんの鼻先一つ分の勝利。でもこの一瞬が、俺たちの未来を切り開いたのだ。
「なぁ萌」
「なに…?」
「お前、不器用でもいい。不器用だからこそ、俺が全部合わせてやる」
「…ありがと…ブリンガー君…」
泣き顔で笑うな。余計に不器用に見えるじゃねぇか。
だが、俺は知っている。ここから俺たちの物語が本当に始まるってことを。
出遅れ、泣き言、覚醒、そしてハナ差の勝利。
まさに「ドタバタ劇場」なデビュー戦でしたが、この一勝が物語の大きな転換点です。
感想で「このコンビは大成する派?事故る派?」をぜひ聞かせてもらえたら嬉しいです。
次回からは重賞への道。ますますカオスな競馬ライフが始まりますので、お楽しみに!