異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第114話 喪失の共鳴

 狂気の極彩色に塗り潰された空間から逃れ、蒼介たちは冷たい大理石の床に力なく座り込んだ。

 大迷宮第五十一層から始まる『法則の歪む画廊』。

 その果てしなく続く回廊の片隅で、彼らは短い休息を取ることにした。

 

 真っ白な額縁が等間隔に並ぶ壁に背を預け、蒼介は深く重い息を吐き出す。

 視覚情報が直接ダメージに変換されるという悪辣な絵画『色彩の暴力』での戦いは、肉体以上に精神を激しく摩耗させていた。

 目を閉じ、ナノマシンの【探知(サーチ)】のみを頼りに見えない敵と戦うという異常な状況。脳への負担は計り知れず、こめかみの奥で鈍い痛みが脈打っている。

 

「セレちゃん……火傷、痛くない?」

 

 ネアが心配そうな顔でセレスティアの腕を覗き込んでいた。

 彼女の紫色の髪は疲労で少しだけ輝きを失っているが、仲間を気遣う優しさは健在だった。

 

「ああ。暗示のおかげで痛みは消えた。多少皮膚が赤いだけで、槍を振るうのに支障はない」

 

 セレスは穏やかな声で答え、ネアの頭を軽く撫でた。

 その顔には深い疲労の色が濃いが、白銀の騎士としての矜持が彼女の背筋を伸ばさせている。

 

 蒼介は無言のまま携帯用の魔導コンロを取り出し、湯を沸かし始めた。

 固い携帯食料を少しでも食べやすくするためだ。

 

 コンロの青白い炎が静寂の回廊に小さな影を落とす。

 その炎の向こう側で、一人だけ全く別の空気を纏っている男がいた。

 

「いやあ、素晴らしい戦いだった。君たちの連携は見ているだけで胸が熱くなるよ」

 

 白金級冒険者フェイルである。

 彼は赤い絨毯の上に胡座をかき、まるで劇場で極上の芝居を見終えた観客のような満足げな笑顔を浮かべていた。

 漆黒の革鎧には染み一つなく、息すら全く乱れていない。

 理不尽な絵画の迷宮を越えてきたというのに、彼にとっては本当にただの散歩でしかないのだ。

 

(こいつのペースに巻き込まれるな。冷静になれ)

 

 蒼介は自分に言い聞かせるように、沸き立った湯に粉末のスープを溶かし込んだ。

 温かいカップを両手で包み込むと、少しだけ神経の昂ぶりが落ち着いた。

 そして、ふと冷静になった頭で一つの疑問が浮かび上がった。

 

「なあ。今更な疑問なんだが」

 

 蒼介はフェイルを真っ直ぐに見据えて口を開いた。

 

「そもそも、なんで俺たちは律儀に、ひとつひとつ絵画の中に入って攻略してるんだ?」

 

 その言葉に、セレスとネアが怪訝な顔をした。

 

「……どういうことだソウスケ」

 

「考えてもみろ。この回廊自体には魔物はほとんど出ない。たまに壁から平面の化け物が飛び出してくるくらいだ」

 

 蒼介は回廊の奥へと続く赤い絨毯を指差した。

 

「なら、わざわざ横道の絵画になんて入らずに、この回廊をまっすぐ突き進めばいいはずだ。一番奥に『主』のいる部屋か、次の階層へ続くゲートの絵画があるんじゃないのか?」

 

 そう、その単純な事実に気づき、蒼介の背筋に冷たい汗が伝ったのだった。

 最初の『逆さまの雨』は回廊を完全に塞いでいたから入るしかなかった。しかし、その後の絵画は壁に掛けられていたものだ。

 それを順番に攻略させられていた。

 フェイルの言葉や態度に、それとなく誘導されていたのだ。

 

(知らず知らずのうちに、こいつの『見学』に付き合わされていたのか?)

 

 蒼介が鋭い視線を向けると、フェイルはきょとんとした顔をした後、ポンと手を打った。

 

「あれっ、言ってなかったっけ?」

 

「何をだ」

 

「この画廊のルールだよ。道中にある特定の絵画を攻略しないと、一番奥にある『主』の絵画には『入れない』んだ。キャンバスが石のように硬くなっててね。一種のロック機構みたいなものさ」

 

 フェイルは悪びれる様子もなく、あっさりと種明かしをした。

 大迷宮にはそうした段階的なギミックを持つ階層も存在する。中層の後半ともなれば、それくらいの手間を強いられても不思議ではない。

 だが蒼介の疑念は完全には晴れなかった。

 

「アンタは最深到達階層が七十層を超えてるんだろ。なら、この階層はとっくに攻略済みのはずだ。どの絵をクリアすればいいのか知ってるんじゃないのか?」

 

「それがねえ、そう簡単にはいかないんだよ」

 

 フェイルは困ったように肩をすくめた。

 

「『主』のいる絵画だけは固定なんだけど、ロックを解除するための絵画は一定期間でランダムに入れ替わるんだ。だから、僕も今君たちと一緒に潜っている絵画はすべて初見なんだよね。ワクワクするだろ?」

 

「ワクワクするのはアンタだけだ」

 

 蒼介は忌々しそうに吐き捨てた。

 迷宮が常に形を変えることは知っている。しかしこの悪辣なギミックがランダムで変化するとなれば、攻略の難易度は跳ね上がる。

 

「まあ、攻略済みの僕と一緒なら、『主』の絵のロックをパスして入ることもできるんだけどね」

 

 フェイルがサラリととんでもないことを言った。

 

「……は?」

 

 蒼介から間の抜けた声が漏れた。

 セレスもネアも目を丸くしてフェイルを見つめている。

 

「できるのか? そんなことが」

 

「うん。攻略済みの僕と『同じパーティ』って認識されればね。でも……」

 

 フェイルは悪戯っぽく笑ってウインクをした。

 

「それじゃあ面白くないでしょう?」

 

 静寂。

 回廊の空気が一瞬だけ完全に凍りついた。

 蒼介はこめかみに青筋を浮かべ、マグカップを握り潰しそうになった。

 セレスは怒りのあまり槍の柄を折らんばかりの力で握りしめ、ワナワナと震えている。

 

「ふざけるな……。私たちがどれだけ命を削って戦っていると思っているのだ。貴様の娯楽のために付き合わされているというのか!」

 

「いやいや、誤解しないでほしいな。僕は君たちの自主性を重んじているだけだよ。冒険の醍醐味は苦難を乗り越えることにあるじゃないか」

 

 のらりくらりと躱すフェイルの態度に、蒼介は深い疲労を感じた。

 この男に常識は通じない。怒るだけ体力の無駄だ。

 

『……フェイルさん』

 

 その時だった。

 蒼介の腰で揺れる銀のペンダントから、ひときわ冷たく、そして威厳に満ちた声が響いた。

 リリアーナだ。

 普段は柔らかな口調の彼女が、まるで玉座から罪人を見下ろすような冷徹な響きで男の名を呼んだ。

 

「おや。お姫様がどうしたんだい?」

 

 フェイルは面白そうにペンダントを見つめた。

 

『貴方の魔力運用。そして先程の魔物に向けた術式……ずっと観察させていただきました』

 

 リリアの声は静かだが、刃のような鋭さを持っていた。

 

『無駄を極限まで削ぎ落とし、法則そのものに干渉するような不可解な力。あれは……五百年前に滅びた私の祖国、アルストロメリアで使われていた古代魔術の原型ではありませんか?』

 

 その問いに、場の空気がピタリと止まった。

 アルストロメリア。

 リリアの故郷であり、五百年前に『原初の探求者』と呼ばれる敵対勢力によって一夜にして滅ぼされた魔法王国。

 その失われた技術の原型を、目の前の男が使っているというのか。

 蒼介は無意識にナイフの柄に手をかけていた。

 

 フェイルの表情から、一瞬だけあの胡散臭い笑顔が消えた。

 彼の漆黒の瞳がわずかに見開かれ、そしてすぐにいつものように細められる。

 

「おや、ペンダントのお姫様は随分と博識だね。驚いたよ」

 

 フェイルは軽く肩をすくめ、はぐらかすように笑った。

 

「でも、ただの独学だよ。色んな遺跡を巡って古い文献を漁るのが好きでね。見よう見真似で覚えただけさ」

 

『見よう見真似で扱えるほど、古代魔術は底の浅いものではありませんわ。貴方の放つ魔力の匂いは、あまりにも古すぎる』

 

 リリアの追及は止まらない。

 彼女の魂が、フェイルという存在の異常性に警鐘を鳴らしているのだ。

 

「参ったな。そんなに怖い声を出さないでおくれよ」

 

 フェイルは両手を上げて降参のポーズをとった。

 

「本当に、君の国とは(・・)関係がないんだ。信じてほしいな」

 

 彼の言葉には不思議なほどの静けさがあった。

 嘘をついているようには聞こえない。しかしすべてを語っているわけでもない。

 リリアはそれ以上何も言わなかったが、ペンダントから伝わる彼女の疑念が晴れることはなかった。

 

「……もういい。これ以上こいつと話しても疲れるだけだ」

 

 蒼介は場を納めるように小さく溜息をついた。

 疲労は限界に達している。今は体を休めることが最優先だ。

 彼らは魔物が近づかないよう簡単な警戒結界を張り、交代で見張りを立てて仮眠を取ることにした。

 

 

 * * *

 

 

 静寂の回廊。

 壁の額縁は白く沈黙し、水晶のシャンデリアだけが冷たい光を落としている。

 ネアとセレスが毛布に包まって寝息を立てる中、蒼介は静かに目を開けた。

 見張りの交代時間だ。

 彼は体を起こし、少し離れた場所で魔導ランタンの炎を見つめている男の元へと歩み寄った。

 

「起きたかい? まだ寝ててもよかったのに」

 

 フェイルが振り返らずに声をかけてきた。

 蒼介は彼の隣に無言で腰を下ろし、ランタンの炎で手を温めた。

 

「お前に仲間を任せて寝こけるほど、俺はお人好しじゃない」

 

「ひどい言われようだね。僕はこれでも紳士なんだけどな」

 

 フェイルは苦笑し、静かに炎を見つめ続けた。

 昼間の飄々とした態度はなりを潜め、今の彼からは奇妙なほどの静けさが感じられる。

 蒼介は視線を回廊の暗闇に向けたまま、直球で切り出した。

 

「お前、本当は何が目的でこの迷宮をウロついてる?」

 

 フェイルの顔がわずかに動いた。

 

「面白いからなんて嘘だろ。アンタの実力なら、こんな中層のギミックなんてただの児戯に等しいはずだ。なぜ俺たちに付きまとう」

 

 静寂が降りた。

 炎が小さくパチリと爆ぜる音だけが響く。

 フェイルはゆっくりと顔を上げ、回廊の奥の底知れない暗闇を見つめた。

 その漆黒の瞳には、どんな光も吸い込んでしまうような果てしない虚無が広がっていた。

 

「……探し物さ」

 

 ぽつりとこぼれ落ちた言葉は、これまでの彼からは想像もつかないほど重く、そして乾いていた。

 

「ずっと昔に失くした、バカバカしいくらい重たい探し物だよ」

 

「探し物?」

 

「そう。広くて暗いこの迷宮のどこかに、そいつは落ちているはずなんだ」

 

 フェイルは自嘲するように口角を上げた。

 

「それを見つけるまでは、僕は死ぬことすら許されないんだ」

 

 死ぬことすら許されない。

 その言葉の響きに、蒼介の心臓が不自然に跳ねた。

 

 フェイルの横顔には、圧倒的な強者としての余裕など欠片もなかった。

 そこにあるのは、たった一人で歩いてきた者の「虚無」と、狂気じみた「執念」だけだった。

 ネアが言っていた「泣き疲れた後の目」。それは決して比喩ではなく、彼の魂そのものの形だったのだ。

 

(こいつは……)

 

 蒼介の脳裏に、かつての自分の姿が重なった。

 現代日本のダンジョンで仲間を喪い、絶望の中でただ機械のようにシーカーを続けていた日々。

 生きる目的もなく、ただ死ぬ理由が見つからないから惰性で命を繋いでいたあの冷たい時間。

 フェイルの暗い瞳は、あの頃の自分と決定的に似ていた。

 規模や過ごした時間は全く違うだろう。しかし根底にある「何かを喪った人間」の匂いは、蒼介の本能に深く共鳴した。

 

「重たい探し物か……見つかるといいな」

 

 蒼介はそれ以上深くは踏み込まず、ただ静かにそう返した。

 フェイルは少しだけ驚いたように蒼介を見た後、ふっと柔らかく笑った。

 それは作り物の笑顔ではなく、どこか安堵したような、人間らしい表情だった。

 

「ありがとう。君ならそう言ってくれる気がしてたよ」

 

 二人の間に、それ以上の言葉は不要だった。

 得体の知れない白金級冒険者。その正体も目的も依然として謎のままだ。

 しかし彼もまた、自分と同じように消えない傷を抱えて迷宮を彷徨う一人の人間なのだ。

 そう直感した蒼介は、フェイルに対する刺々しい警戒の糸を、少しだけ緩めたのだった。

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