異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
鈍く重い打撃音が薄暗い部屋の壁に反響した。
骨の髄まで響くような衝撃だった。
蒼介の視界が激しく揺らぎ、世界が横倒しになる。
無防備だった蒼介の身体は、セレスティアの放った拳の威力に耐えきれず、横殴りに吹き飛ばされた。
ベッドの木製フレームに背中を打ち付け、床に無様に転がる。
口の中に鉄錆のような血の味が広がり、脳が激しく揺さぶられたことで視界がチカチカと明滅した。
「……!?」
何が起きたのか、蒼介はすぐには理解できなかった。
殴られた左頬が火を吹いたように熱く、ジンジンと痺れている。
『ひゃあっ!? セレスさん!?』
セレスの胸元で揺れる銀のペンダントから声が響いた。
リリアーナの悲鳴に近い驚愕の声だった。
無理もない。
傷ついた仲間を気遣いに来たはずの騎士が、突如として渾身の拳を振り抜いたのだ。
五百年前の気高き王女の魂であっても、気高く礼節を重んじるはずの王国騎士が、満身創痍の仲間の顔面を全力で殴り飛ばす光景など、想像すらしていなかったのだろう。
「なっ、何すんだよ……!」
蒼介は床に這いつくばったまま、腫れ上がり始めた頬を押さえて呻いた。
混乱とわずかな怒りが入り混じった目で、ベッドの脇に立つセレスを見上げる。
彼を見下ろすセレスは、肩で激しく息をしていた。
拳を握りしめたままの彼女の青い瞳には、燃え盛るような怒りと、それ以上に深い悲しみが満ちている。
その瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。
「……何をする、だと?」
セレスの声は低く、地鳴りのように蒼介の鼓膜を震わせた。
彼女は一歩、蒼介に向かって踏み出した。
床の軋む音が、張り詰めた空気をさらに切り裂く。
「貴様こそ! 何を一人で勝手に終わろうとしている!!」
怒声だった。
だがそれは刃のように蒼介を傷つけるものではなかった。
閉ざされた彼の心の殻を、外側から力ずくで叩き割ろうとする魂の叫びだった。
セレスは床に倒れ伏す蒼介に歩み寄ると、彼の胸ぐらを両手で強く掴んだ。
泥と血に汚れた服ごと、彼女は蒼介の胸ぐらを強引に引き寄せた。
「おい、セレス……」
蒼介が戸惑いの声を上げるのに構わず、セレスはそのまま力任せに彼を引き寄せ、強く、ひしと抱きしめた。
「……っ!」
蒼介は息を呑み、完全に硬直した。
首筋に彼女の柔らかな金糸の髪が触れる。
兜を脱いだ彼女の額が、蒼介の肩口に押し付けられた。
鼻腔を突くのは、埃や血の匂いだけではなかった。
彼女から放たれる微かな石鹸の香りと、生きている人間の確かな熱気だった。
甲冑を外した彼女の体は、騎士という肩書きに反してひどく華奢だった。
だが彼女が蒼介の背中に回した腕の力は、骨が軋むほどに強かった。
絶対に逃がさないという、強烈な意志の表れだった。
「お前は一人じゃない!」
セレスが蒼介の肩に顔を埋めたまま叫んだ。
その声は先ほどの怒声とは違い、激しく震えていた。
「仲間を喪ったのは、お前だけじゃないんだぞ……!」
その言葉が、蒼介の胸の奥底を真っ直ぐに貫いた。
(そうだ……)
蒼介は目を見開いたまま、虚空を見つめた。
俺だけが苦しんでいたわけではないのだ。
天真爛漫な彼女の笑顔に救われていたのは、セレスもリリアも同じだった。
ネアの死を目の当たりにし、悲しみに暮れたのはセレスも同じだ。リリアだって同じだ。
彼女たちもまた、あんなにも明るかった仲間の喪失に心を痛め、涙を流していたのだ。
それなのに俺は自分だけの絶望に引きこもり、幻影を作り出して彼女たちの悲しみに蓋をした。
セレスがどれほど傷つき、どれほど一人で耐えていたか。
俺は自分の痛みにばかり気を取られ、そんな当たり前のことすら見失っていたのだ。
「過去に縛られて、今ここにある命を見失うな!」
セレスの叫びが部屋に反響する。
彼女は知っているのだ。俺が現代日本のダンジョンで仲間を喪ったことを。そして、その絶望から逃げるために、ネアの幻影という狂気にすがりついていたことを。
リリアが彼女にすべてを話したのだと、蒼介は瞬時に理解した。
惨めな過去。臆病で卑怯な自分の本性。
それらをすべて知られた上で、彼女は今、彼を突き放すのではなく、逆に強く抱きしめている。
「ネアが命を懸けて守ったのは、こんな薄暗い部屋で、一人で腐っていくような情けない男か! 違うだろう!」
蒼介の首筋に、生温かい水滴が落ちた。
一つ、二つ。
それはすぐに連続した細い流れとなり、蒼介の衣服を濡らしていった。
「……私が、私がいる!!」
気高き騎士が、声を上げて泣いていた。
彼女は蒼介の肩に顔を擦り付けるようにして、子どものように大声で泣き叫んだ。
その体は激しく痙攣し、抑えきれない感情の奔流が蒼介に直接伝わってくる。
「私は死なない!!」
彼女の不器用で、まっすぐで、あまりにも熱すぎる言葉。
それは蒼介が心の奥底に何重にもかけていた冷たい鍵を、物理的な熱量で溶かしていくようだった。
「共に死線を越えただろう! 第七十層の火口でも、第八十層の骸の王の闘技場でも、お前の隣で、私は生き残っただろう!!」
そうだ。
俺たちは死線を越えた。
不死鳥の炎からも、骸の王の圧倒的な暴力からも、俺たちは満身創痍になりながら生き残ったのだ。
俺のせいで彼女は深い傷を負った。
だが彼女は死ななかった。
今こうして俺を抱きしめ、体温を伝え、心臓の音を響かせている。
「私は絶対にお前を置いていかないし、お前から離れない!!」
セレスの腕の力がさらに強くなる。
蒼介の肺から空気が絞り出されるほどだったが、彼はその痛みを心地よいとすら感じていた。
「お前がどこへ行こうと、地獄の底までついて行ってやる!!」
不器用で、まっすぐで、そしてあまりにも熱すぎる言葉。
それは、蒼介が長い間、誰からもかけられることのなかった言葉だった。
現代日本で生き残った時、彼は誰からもそんな言葉をかけられなかった。自分だけが生き残った罪悪感に苛まれ、誰も自分に近づかないように線を引いた。
だからこそ、再び仲間を喪った時、彼はまた一人になるのが怖くて、狂気に逃げ込むしかなかったのだ。
だが、現実は違った。
彼が幻影に縋って耳を塞いでいる間にも、彼を真っ直ぐに見つめ、彼と共に生きようとしてくれる仲間が、すぐそばにいたのだ。
『そうですわ! 貴方が壊れそうなら、私たちが支えます!』
セレスの胸元で揺れる銀のペンダントから、リリアーナのすすり泣くような声が響いた。
五百年もの間、たった一人で暗闇の中で孤独に耐え続けてきた彼女の魂もまた、蒼介という存在にどれほど救われていたことか。
『私をあの冷たい部屋から連れ出してくれたのは貴方です! 共にこの理不尽な迷宮を終わらせると誓ってくれたではありませんか! だから、もう一人で背負わないでくださいまし!』
王女としての威厳をかなぐり捨て、リリアもまた声を上げて泣きじゃくっていた。
ペンダントから放たれる青白い魔力の光が、まるで見えない手のように蒼介を優しく包み込んでいる。
リリアの切実な懇願が、蒼介の心をさらに強く揺さぶった。
俺は、なんて馬鹿だったんだ。
過去の幻影に怯え、もう誰も傷つけまいと壁を作っていたつもりが、今、目の前で俺を思い、俺のために泣いてくれている仲間たちを一番傷つけていたのだ。
彼女たちは、俺が弱いことを知っている。
俺が過去に囚われ、幻覚に逃げ込むほど脆い人間だということを知った上で、それでも「一緒にいる」と言ってくれているのだ。
現実の世界に、俺を必要とし、俺と共に生きてくれる仲間が、こんなにも強く俺を抱きしめている。
その事実が、凍りついていた蒼介の魂に、温かい血を通わせていく。
「あ……」
蒼介の口から、掠れた吐息が漏れた。
視界が、急激にぼやけ始めた。
瞬きをするたびに、せき止めていた感情の堤防が決壊していくのを感じた。
「あ……ああ……っ」
蒼介の喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
彼は震える両腕をゆっくりとセレスの背中に回し、彼女の体を強く抱きしめ返した。
その瞬間、彼の中で張り詰めていた太い糸が、完全にプツリと切れた。
蒼介の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
それは、ネアが死んだという現実を直視できず、幻影に逃げ込んでから一度も流すことのできなかった涙だった。
頬を伝う熱い雫が、顎を伝ってぽたぽたと床に落ちる。
彼はもう、自分の弱さを誤魔化す必要はなかった。
「ごめん……ごめんな……っ」
蒼介はセレスの肩に顔を押し当て、声を上げて泣き崩れた。
それは、大迷宮の最前線で飄々と立ち回っていた姿ではなく、一人の無力な青年としての剥き出しの慟哭だった。
「俺が、俺が弱かったから……っ! ネアを……あいつを……っ!」
彼は自分の弱さを、己の罪を、包み隠さずに吐き出した。
ネアの死から目を背け、狂気の世界で彼女の幻影と笑い合っていた自分が、どれほど残酷で卑怯だったか。
その現実を直視することは、文字通り身を裂かれるような苦痛を伴った。
だが、その痛みこそが、彼がネアの死を初めて正面から受け止めた証拠だった。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」
蒼介は声を出して泣き崩れた。
部屋の壁に反響するほどの、深い深い慟哭だった。
大人も子どもも関係ない。
ただ一人の人間として、彼は仲間たちの腕の中で泣きじゃくった。
セレスもまた、蒼介の背中を叩くようにしながら声を上げて泣いた。
リリアの魔力の光が、二人の体を優しく明滅しながら照らし続ける。
蒼介の脳裏に、紫色の髪をした少女の笑顔が浮かんだ。
ネアはもういない。
隣を歩くことはないし、呼びかけに答えることもない。
都合の良い幻影は、もうどこにも存在しないのだ。
その現実は、どうしようもなく残酷で、胸が張り裂けそうになるほど痛い。
だが、その痛みからもう目を背けない。
命を懸けて守ってくれたこの命を、幻の中に逃げ込んで無駄にしたりはしない。
これは、彼女に本当の別れを告げるための、慟哭の儀式だった。
幻影の彼女ではなく、共に笑い、共に戦い、そして自分のために命を散らしてくれた、本当のネアに対して。
言葉にならない感情のすべてを、涙に乗せて吐き出していく。
(ごめん、ネア)
蒼介は心の中で小さな少女に語りかけた。
幻影ではない、本当に生きていた彼女の姿を思い浮かべる。
紫色の瞳と薄緑色のチュニック。
彼女は最期に蒼介を庇って死んだ。その命の重さを一生背負って生きていく。
(お前のこと、絶対に忘れない)
それは呪いではなく、彼女がこの世界に生きた証だ。
蒼介が彼女を忘れない限り、ネアは蒼介の中で生き続ける。
だからこそ、蒼介は前を向いて歩かなければならないのだ。
「ごめん……ごめんな……っ」
蒼介は嗚咽の合間に何度も謝罪の言葉を紡いだ。
ネアへの謝罪であり、セレスとリリアへの謝罪でもあった。
一人で勝手に絶望して、見当違いの方向へ走った自分を恥じる。
「謝るな……! お前は、よくやった……よく頑張った……っ」
セレスもまた、蒼介の背中を強く抱きしめ返し、ボロボロと涙を流しながら彼の言葉に応えた。
泥と血と涙に塗れた二人が、暗い部屋の床の上で互いにすがりつくようにして泣き続ける。
ペンダントの中のリリアも、静かな魔力の瞬きで二人に寄り添い、共に悲しみを分かち合っていた。
部屋の窓には分厚いカーテンが引かれ、外の光は一切差し込んでこない。
だが、その薄暗い部屋の中には、かつてないほど確かな熱と光が存在していた。
不器用で、傷だらけで、脆い人間たちの集まり。
それでも、彼らは互いの弱さを認め合い、支え合うことで、再び前を向こうとしている。
どれほどの時間が経っただろうか。
外の街の喧騒は夜の静寂へと変わり、部屋の中に響いていた嗚咽も、やがて静かな鼻をすする音へと変わっていった。
蒼介はゆっくりと顔を上げ、セレスの肩から離れた。
セレスも顔を上げ、赤く腫れ上がった瞳で彼を見つめ返す。
互いの顔のひどい有様に、どちらからともなく小さく吹き出した。
それは力ない、かすかな笑いだったが、確かな安堵を含んだものだった。
「……ひどい顔だぞ、セレス」
「お前こそ、無精髭と涙でぐちゃぐちゃではないか」
セレスが自分の袖で乱暴に目元を拭う。
蒼介も手の甲で涙を拭い、深く息を吐き出した。
胸の中にあった重い鉛のような塊が、すっかり溶けて無くなっていた。
悲しみが消えたわけではない。ネアを喪った痛みは、一生消えることはないだろう。
だが、その痛みを背負ってでも、生きていこうと思えるだけの強さを、彼らは今、この手で掴み取ったのだ。
『お二人とも、少しは落ち着かれましたか?』
リリアの優しく、穏やかな声が響いた。
その声には、以前のような緊迫感や悲痛さはなく、安らかな響きが戻っていた。
「ああ。……心配かけたな、リリア」
『いいえ。ソウスケさんが戻ってきてくれて、私、本当に嬉しいですわ』
蒼介は床に座り込んだまま、自らの両手を見つめた。
ナノマシンのオーバードライブでボロボロになった肉体。
だが、その手には、仲間を抱きしめた確かな感触が残っている。
「俺は……弱い」
蒼介は静かに口を開いた。
「過去に縛られて、現実から逃げて、一番大切なものを見失いかけた。一人じゃ、到底この迷宮の底には辿り着けない」
彼は顔を上げ、セレスと、彼女の胸元のペンダントを真っ直ぐに見つめた。
「だから……俺を、支えてくれ。俺がまた道を間違えそうになったら、今日みたいに殴ってでも止めてくれ」
それは、彼が初めて他者に対して素直に助けを求めた言葉だった。
飄々とした仮面を脱ぎ捨て、己の弱さをさらけ出した上での、心からの願い。
セレスは涙で濡れた顔に、かつての気高き騎士の笑みを浮かべた。
「ふん。騎士の拳は重かっただろう」
セレスはわざと少しだけ胸を張って鼻を鳴らした。
その顔には、いつもの凛とした騎士の表情が戻りつつある。
「ああ。最高に効いたよ」
蒼介は腫れた頬を撫でながら力なく笑った。
物理的な痛みはナノマシンが修復してくれるが、この痛みの記憶だけは一生消さないと決めた。
『私もおりますわ。私の知識と魔力、そしてこの魂のすべてをもって、貴方たちをお守りいたします』
リリアの魂が優しく明滅する。
その光はまるで三人を祝福するかのようだった。
「……ありがとう、セレス。リリア」
蒼介は心からの感謝を口にし、ゆっくりと立ち上がった。
体はまだ重く、あちこちが軋むように痛む。
だが、彼の瞳には、かつての光のない虚無ではなく、静かに燃える意志の光が宿っていた。
「俺はもう逃げない」
蒼介は暗い部屋の天井を見上げて静かに宣言した。
「ネアの分も生きる。そして大迷宮を攻略する。絶対に」
それは誰への誓いでもない自分自身への絶対的な約束だ。
大迷宮の最深部にあるというどんな願いも叶う力。
リリアの肉体を取り戻すため。
――そしてもしかしたら、ネアのことも……
「大迷宮の底まで、俺に付き合ってくれるか?」
蒼介が視線を戻して尋ねる。
セレスは迷うことなく、力強く頷いた。
「言っただろう。地獄の底までついて行ってやると」
『私も最後までお供いたしますわ。私たちの旅はこれからです』
三人の意志が完全に一つに重なった瞬間だった。
薄暗い部屋の中で、彼らの絆はもう二度と解けないほどに強く結びついた。
それは、過去のトラウマを乗り越えた蒼介が初めて手にした本当の居場所だ。
もう失う恐怖に怯えることはない。
守るべき仲間がいるからこそ、彼はどこまでも強くなれるのだ。
夜の
窓の外からは遠くの酒場の喧騒が微かに聞こえてくる。
だがこの部屋の中にあるのは、絶対的な平穏と信頼だけだった。
「今日はもう寝よう。体力的にも限界だ」
蒼介が立ち上がりながら言うと、セレスも同意して頷いた。
「ああ。明日からまた忙しくなるぞ。覚悟しておけ」
セレスは立ち上がると、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
そして、彼女は自分の部屋へと戻るために扉の方へと歩き出す。
「おやすみ、ソウスケ。……また明日な」
「ああ、おやすみ。リリアもな」
『おやすみなさいませ。良い夢を』
セレスが部屋を出て行き、扉が静かに閉められた。気遣ったのか、リリアのペンダントはセレスが付けたままだ。
蒼介は一人残された部屋で大きく伸びをした。
全身の痛みはまだ消えていないが、不思議と体は軽かった。
胸の中にあった重い鉛の塊が消え去っていたからだ。
彼はベッドに横たわり目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのはネアの無邪気な笑顔だ。
だが、それはもう蒼介を責める幻影ではない。
(見ててくれ、ネア)
蒼介は心の中で小さな少女に語りかけた。
(俺はお前が信じてくれた通り、最強の冒険者になってやるからな)
静かな決意を胸に抱きながら、蒼介の意識は深い眠りへと落ちていった。
悪夢はもう二度と彼の元を訪れることはなかった。
少女の想いを胸に抱き、彼らは再び、前を向いて歩き出す。
その足取りは、もう決して揺らぐことはない。