そらお前、れな子が悪いわ   作:ごはんや見習い

8 / 8
この話には、『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』
6巻及び7巻のネタバレが含まれています。
閲覧の際にはご注意のほど、よろしくお願いいたします。





今日の終わり、未来の始まり(後編)

格好良くて、優しくて、あこがれだったお姉ちゃんが、いつの間にかだらけきった家畜のような様相をもって自室に引きこもり、学校に行かず、やがてあたしや両親の問いかけにも応じなくなったとき。あたしは裏切られたと思った。

 

あたしの視界の前をいつも軽快に走っていたお姉ちゃんが、気づけば立ち止まって、前にも進もうとせず、項垂れ、地面ばかりを見てただ人生を浪費している。小さく開いた扉の先、自室のベッドの上でぼぉっと座る彼女の姿に、心の奥底から煮えたぎるような怒りが湧いたのを、あたしは今でも覚えている。

 

ふざけるな、と何度叫ぼうと思ったかわからない。もうどうなろうが知ったことじゃないと思う日々がどれだけあったかわからない。今日、家に帰ってきたときのお姉ちゃんの態度なんて、最悪だ。心配したあたしがバカみたいだと腸が煮えくり返る思いだった。

堕落と怠惰を布団に巻き、自室の中で生きてるのかも分からないようにのうのうと毎日を過ごして、そして急に学校に行き始めたと思ったら、家族の心配も考えず夜遅くまで帰ってこない。

 

……もう、どうでもいいよ。あたしのお姉ちゃんは死んだのだ。

リビングに入ってからの姉の軽々しい言葉を聞いて、心の内側で辛うじて燻ぶっていた彼女への熱が、フッと消えたような気がした。

 

かくして何十回目かの"裏切られた"という感傷は、今日この日をもって、姉を見る目に赤の他人の色を差し始めようとしていて。あたしは、あたしの人生の片隅に、ぼーっと地面ばかり見続ける姉を置き捨てて、先に行こうと、そう思った。

 

なのに。それなのに。

 

「ごめ……ごめんなさい、ごめんなさい。ずっとお母さんわたしのこと心配してくれてたのに、わたし、帰り遅くなってごめんなさい!なんにもいわないで引きこもっててごめんなさい!怖かった……!寂しかった……ずっとさみしかったよぉ……!!」

 

この一か月間ずっと地面に落ちていた彼女の表情が、泣き顔であったことを知ったとき。あたしは心臓を掴まれたような感覚を覚えた。

 

お母さんの、よく頑張りましたという言葉が心の堰を切り、泣きじゃくった姉の声は、嗚咽と、お母さんへのたどたどしい謝罪の言葉に溢れていて。そして、その不格好な様子と必死な言葉は、リビングに広がる彼女の苦悩に満ちた態度に、一切の繕いのなさを示していた。

 

 

……あたしは、本当にお姉ちゃんのことを考えていたのだろうか。

母が姉を抱きしめ、姉の頭の上から、蜂蜜を垂らすように優しく言葉をかけている光景を前にして、甘織遥奈は、脳の端に追いやられていたかつての記憶を思い出すとともにそう思った。

 

 

☆☆☆☆☆☆

 

 

 

やがて姉は、母の言葉を聞いて、なにかが決壊したように、酷く泣き始めた。その光景は、ただ、小さくてか弱い子供のようだった。

 

遥奈はその光景をただ茫然と見下ろしていた。ただ、見下ろしながら、しかし目の焦点はどこにも合わず、脳の焦点は過去へと飛んでいた。心が壊れてしまいそうで、ただうずくまっているような、そんな彼女の悲痛な光景に、脳裏にひらめく何かを感じ取ったからだ。そして、その答えはすぐに手のひらの中へと飛び込んできた。

 

ああ、と遥奈はふと思った。あたしはその子供に覚えがある。

 

それはむかしのあたしだ。母に抱き着く姉の姿は、記憶の断片に確かに刻まれている在りし日のあたしにそっくりだったのだ。

……ただ、尊敬する姉のような存在になろうとして、不確かな正義感を振りかざし、クラスメイトと対立して、煙たいものでも見るような扱いを受けた小さい頃のあたしが、目の前にいるピンク髪の少女と重なって見えるようだった。

 

 

お姉ちゃんのようになりたい。それがあの時のあたしの目標だった。ただ、ここでいう"お姉ちゃん"のような、という願望は、きっと、"ヒーロー"のような、という言葉に代替しても意味はまったく変わらなかったように思える。それほどまでに、お姉ちゃんは要領がよく、恰好がよく、人気者だった。

 

彼女の大きな背中を、後ろを走りながら常に見ていたあたしが、そうなりたいと考えるようになったのは、小学校低学年のころだ。憧れの人の隣に立ちたいと、そう思ったのだろうか。

 

いつの日かのお風呂。姉と一緒に湯船にはいったあたしは、少し赤みがかった姉の顔を見ながら、人知れず決心した。姉のように、正しいことをする人間になろう、と。決して曲がらず、正しいことを正しいと言える強い人間になろうと思ったのだ。

 

持ち前の行動力を生かして、次の日から行動をガラッと変えた。例えば、廊下を走っている男子生徒へ注意をするとか。昼食の配ぜん中、自分だけ少なくしようとしている女子生徒に対して、人並みの量のご飯をよそうとか。掃除中にサボろうとする生徒の袖を引っ張って持ち場に戻らせようとしたりとか。そういうことを続けていった。

 

すると次第に、あたしから人が離れていった。しかし、特に気にも留めなかった。正しい行動をとれば、いずれお姉ちゃんのように、かっこよくて、誰からも尊敬されるような人になれると思っていたからだ。しかし、一日、二日、一週間が経てば、それだけあたしの周りには人が寄り付かなくなっていった。大丈夫、と自分を奮い立たせた。お姉ちゃんのように、と心に念じて、正しい人であろうと心掛けた。他人だけでなく、自分も。

 

そうやって、自分にも、他人にも厳しく学校生活を続けて、数週間たった日。

 

教室の中に、あたしを見る人が、誰もいなくなった。幸か不幸か、他人の行動を見続けてきたあたしは、それに否応なく気がついてしまった。

そして、自分の内側にあるなにかが音を立てて崩れ落ちそうな、そんな雰囲気を、自分の行動を顧み続けていたあたしは、無意識的に感じ取ってしまった。

 

頭が、真っ暗になった。

 

 

☆☆☆☆☆☆

 

 

教室に自分の味方がいない。それは、たかだか数メートル四方の部屋の中で完結するような話であるが、その事実は、小学校低学年だったあたしにとって、世界のすべてが敵になってしまったような錯覚を覚えるに充分すぎるほどの恐怖を内包していた。

 

いや、それすらも些細なことかもしれない。あたしはただ、そんなことより、かっこいいお姉ちゃんのようにはなれないのかもしれないという事実に絶望して、下校途中、柄にもなく公園のブランコにうずくまっていた。校則違反だという事実が、頭の中にアラートを鳴り響かせるが、身体が動いてくれない。まだ明るさを孕んだ夕焼けが空を焦がす中、あたしはその下で、クラスメイトとの関わりの中ですり減って、お姉ちゃんの背中の遠さに溶けてしまった、なけなしの『自信』を、両腕で抱えて守っていた。

 

けど。ブランコに腰を掛け、弱りに弱っていたあたしの隣には、在りし日のお姉ちゃんがいた。

 

 

今でも思い出せる。もう、人に嫌われたくないと思って、どうしたら人に嫌われないの?と、姉に恐る恐る相談したときだ。その質問ひとつですらお姉ちゃんに嫌われないかと心に影を落としながら訊くと、同じく座椅子に座っていた彼女は、にわかにブランコへと両足を乗せて立ち上がり、体を夕焼けの空に映えさせながら、そして、すべてを晴らすように言い切った。

 

「わたしは遥奈のこと、好きだよ」

 

まるでそれが唯一不変の真実かのように。姉は凛とした声で言葉を灯し、やがてブランコの上から微笑んだ。それは昔から見てきた、あたしを安心させるための『お姉ちゃんの笑み』だった。

 

実際、他の人が聞いたら、会話にすらなっていないと思うような話で。"人に嫌われないためには?"という質問に対して、"妹のことが好きだ"という文章を国語の答案に書いたのなら、たしかにバツをもらうかもしれない。

 

しかしその言葉は結果として、友達付き合いを円満にさせる、輝きにあふれた魔法の言葉となった。それは在りし日のあたしにとって、100点の答案すらも敵わないほどに充足感を与えてくれる一言だったのだ。

 

たとえだれかに嫌われようとも、他でもない、お姉ちゃんだけはあたしの隣にいてくれる。あたしの胸に広がったそんな感慨の思いは、同時に胸中に巣食っていた悩みすらも消していって。

強く握ったブランコの吊り鎖が、小さく震えた気がした。

 

 

ふたたび言葉は降ってきた。それは宣言のような気高い叫びをもって。

 

「誰が遥奈のことを嫌っても、わたしは遥奈のこと、好きだから」

 

見上げれば、姉は、決意のこもった目を宿してあたしを見ていた。しかしそれも一瞬で、姉は再度口元を緩めて笑いかけてくる。安心してと言うように向けられた、そんな優しい視線が心に溶けていくようで。

あぁ、あたしはあたしでいいんだ、と。姉の笑みを見上げながら、ふと芽生えたそんな感情が、ブランコの吊り鎖を握りしめていたあたしの手を優しくほどいてくれた。

 

すると、ゆらゆらとひらけた視界の先、今まで見つめていた公園の土は、いつのまにか夕陽を吸ってオレンジ色に染まっていた。ほのかに頬を赤らめるように染まった地面は、陸続きにその色を続かせて、それは道路にも、買い物帰りの通行人にも、そして住宅街にも広がっている。

 

街は夕焼けに染まっていた。あたしも夕焼けに染まっていた。隣を見ると、お姉ちゃんも夕焼けに染まっていた。

 

あたしは、目に映るものすべてがきれいだと、そう思った。夕焼けはずっと街中を照らしていたのに、あたしたちを照らしていたのに。今、ようやく、そう思えた。

瞬間、遥奈の視界に、遥奈だけの色が灯り始めた。それは姉の進めた視線の先をなぞるだけでは見られなかった、自分だけが見える世界の色であった。

 

その時、ブランコに座ったままのあたしはどんな顔をしていただろうか。多分、きっと、小さなあの頃のあたしは、夕陽よりも、何百倍も輝いて見えるお姉ちゃんの笑みにつられて、一緒に笑ったのだと思う。

 

 

(お姉ちゃんは……)

 

視界の下には、いまだ母の膝の上で呻く姉の姿があった。

 

(お姉ちゃんは、もしかして)

 

ふと、頭を下げて、自分の手のひらをみた。先ほどまで外に出ていたからか、寒さで赤くなった手のひらは、弱弱しく震えていた。

 

こんなに泣いて、吐き出すように謝って、寂しいと言って、辛かったと言って、ずっとごめんなさいなんて言っていて。

どもりがちで涙声で、震えながら叫んだ姉の謝罪の言葉は、ただ。

 

引きこもっていた一か月間も、そして今日という一日も、彼女は決して適当に生きていたわけではないということを、痛いほど示していた。

 

 

ああ、お姉ちゃんはもしかして。

 

ある可能性が、罪悪感で濁った川の水のように、不安を纏った煙のように、上下から脳を侵してくる。

 

(もしかして、引きこもってからずっと……)

 

なにか恐ろしい怪物がふと背中を撫でたようだった。部屋の中は温かいはずなのに両手がかじかむように震える。しかし、潜った思考はさらに深度を深め、指の先はもうすこしで思い出と今とを結んだナニカに触れようとしていた。

 

あの日、隣のブランコにいてくれたお姉ちゃんの笑顔と、好きだと言ってくれたあの優しい声音が、背中を丸くし、ただ抜け殻のように自室のベッドに座るお姉ちゃんの姿と重なった瞬間。遥奈は、

 

 

暗闇の下、小さな街灯に照らされたブランコと、そこにぽつんと座るお姉ちゃんの姿を見た。

 

静かに、夕暮れの先、月と夜の世界に溶けた制服姿のお姉ちゃんが、辛うじて吊り鎖をつかんで、項垂れている光景を見たような気がした。しかし、彼女の横には、だれもいない。肌を刺すほどに痛々しい、無音な世界がそこにはあった。

 

───お姉ちゃんは、ひきこもってからずっと、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

想像する。もしあの日、あの時、あたしの座ったブランコの隣に、誰もいなかったら。

 

記憶の中、隣のブランコに座るありし日のお姉ちゃんが、段々と霧に変わって消えていく。やがてあたしの横のブランコは空っぽになって、ブランコの隙間からは寂しく夕日が漏れていた。そして、あたしは公園で独りになって、その先は……。

 

にわかに、ずっと視認していたはずの自分の手のひらが、砂になってさらさらと溶けだしていくような気がした。自分の身体が輪郭を保てず、リビングの風景に消えていくように思えた。それが答えだった。あの日のあたしはきっと、独りだったら耐えられなかったはずだから。

 

……お姉ちゃんの隣に、いてあげたい。

 

あたしの胸にふと灯った衝動が、心の奥底、消えかかっていた炎に火をくべた。

 

 

☆☆☆☆☆☆

 

 

 

「ほら、遥奈も、来なさい?」

 

母の声が明瞭と耳に入ってきて、暗がった思考の中からにわかに現実へと引き上げられる。あたしはハッとしていつの間にか下がっていた視線を上げると、母は姉を胸に抱きかかえながら、右手で小さく手招きをしていた。まるで小さな子を寝かしつけた後に寝顔を見せたがるように、とても優しい笑みを浮かべて。

 

お姉ちゃんの泣き声は、いつの間にかきこえなくなっていた。

 

 

トッ、と音が聞こえた。ついで、右足にフローリングの感触がなくなっていることに気が付いた。遥奈は知らず知らずのうちに走りだしていた。

 

ばたばたと崩れた歩幅を取り繕って母のところにたどり着き、ゆらゆらと膝を折ると、姉はゆっくりと顔をこちらへと向けてきた。ゆっくりと、ゆっくりと。姉がリビングのドアを開けてから数分ぶりに。あるいは、姉が自室に引きこもる前から1か月ぶりに。

 

お姉ちゃんの顔を、ちゃんとこの目で見た。

 

 

お母さんの胸を離れてこちらへと振り返りつつあるまぶたは赤くはれていて、頬はほんの少し痩けているようだった。カーテンのように揺れるピンクの長髪は野暮ったくて、肌は髪以上にカサカサで。総じて、記憶上にいるどのお姉ちゃんとも合致しない。……ただ一つを除いて。

 

完全に振り返ったお姉ちゃんは、少し視線を惑わせて、しかし意を決したように体の震えと一緒に視線をおさめて、あたしの目を見た。

 

(あっ、この目……あの時の)

 

次の瞬間、お姉ちゃんは、膝を落としただけのあたしにあまりあるほどのスピードで、抱き着いてきた。

 

「遥奈!遥奈もその、ごめんね!」

 

突き飛ばされそうになった上半身をなんとか堪えて姉を受け止める。そして、互いの息遣いすら聞こえてきそうなほどの至近距離で姉を見て、肌で感じて、気が付く。

 

……やっぱりお姉ちゃんは変わってしまっている。髪はぼさぼさ、肌はかさかさ、自信なさげにおどおどしていて、あたしに抱き着いてきたその身体は想像よりもだいぶ痩せてしまっている。前のお姉ちゃんだったら、恥も外聞もなくあたしに抱き着いてきたりなんてしなかったかもしれない。

お姉ちゃんは変わってしまった。匂いすらも、変わってしまっているかもしれない。

 

けど。

 

「お姉ちゃん、その、せめて、遥奈の迷惑にはならないようにするから!もうちょっとだけ、なかよくして……」

 

姉の視線が、あたしの目を射抜く。不安そうに揺れた目はやがて、かっこよかった、あの日のおねえちゃんの決意のこもった強い視線へと変わっていく。それは、かろうじて、お姉ちゃんがお姉ちゃんでいられていると信じられる確かなお守りであった。

 

しかしその視線も、ゆるやかな沈黙とともに、再度不安そうで頼りなさげな視線へとグラデーションを変えていった。どうやらあたしの返答を待っているらしい。……そんなの、決まってる。

 

お姉ちゃんの言葉になんて答えるか、まずすらりと出た言葉は、罵倒の言葉だった。

 

「バカだね、お姉ちゃん」

 

「バッ!?」

 

姉が驚いたように目を見開く。そして、あたしの両肩へ両手を乗せてしおしおとうなだれた。

しかしあたしはそんなこと気にも留めず、言葉を紡ぐ。

 

「ねぇ、お姉ちゃん。一回しか言わないからね」

 

自分の肩にへばりついた姉の両手をひったくって、あたしの両手の手のひらに包み込み、姉の頭へ言葉を零す。するとお姉ちゃんは、数日ぶりに水をもらった花のように、ゆらゆらとこちらへと頭を上げた。

 

「な、なに……?」

 

姉は不安そうにこちらへと視線を上げて、続く言葉を待つ。それはまるで、ふたりそろって並んだあの時のブランコの情景に似ているようで。

 

あたしはただ、あの日のお姉ちゃんの椅子から、言葉を返した。

 

「『あたしはお姉ちゃんのこと、好きだから』」

 

続ける。顔が火照っている気がして、恥ずかしいから、八つ当たりに姉の頬を両手で挟み込んで、顔を近づけて言葉をかける。

 

「だから……その、だから!これまでのこととか、もう気にしなくていいから……。もし困ってることがあるなら、あたしにも相談してよ。お姉ちゃん……」

 

そういって、あたしはうなだれてしまった。これが限界だった。これ以上は言えなかった。

 

しかしお姉ちゃんは、少しの沈黙の後、あたしのマネをするように、あたしの頬を優しく両手で挟んで、ゆっくりと持ち上げる。

 

お姉ちゃんの膝からゆっくりと視界を上げていくと、続くように姉の声も上から聞こえてきた。

 

「ありがと、ね。はるな……」

 

掠れがすれに聞こえる声は、誰が聞いても鼻声のそれで。

 

しかし。

 

視界を完全に上げると、そこにいたのはやせ我慢のような笑みを浮かべた『むかしのお姉ちゃん』の姿だった。

 

しかしそれも一瞬のことで、お姉ちゃんはやがて顔をくしゃくしゃにさせて、そしてそれを見せないようにあたしの顔を胸に寄せてきた。うぐっ、くるしい。

 

「お姉ちゃん、がんばるから。遥奈の好きなお姉ちゃんでいれるようにがんばるからぁ……」

 

姉の胸の中でかろうじて聞こえてきた言葉に、"べつにそんなのいいって"と反論しようとして、

 

「えうにおんあお……」

 

そこまで言って、あきらめた。言葉にならない声に、あたしの苦しさが聞こえたのか、ごめん、という声とともに体の圧迫感は多少和らいだ。

あたしはもぞもぞと姉の身体から顔をすっぽりとだして、姉の顔を下から至近距離でまじまじと見る。

 

表情は、すこしだけ、明るくなったような気がする。なにか雰囲気も柔らかくなったような気がした。

 

ふと、あるいはまた、視線が交差する。

 

「……え、へへ……?」

 

笑いかけ方も下手だ。あたしはぎこちないお姉ちゃんの笑顔にむけて、

 

「それが"好きなお姉ちゃんでいられるための頑張り"ってやつ?しょうじきキモいよ」

 

「ひどい!?」

 

そう言って、あたしは笑った。お姉ちゃんのそんな明朗な声は(悲鳴?)久しぶりに聞いたから、すこし気が抜けた。

 

ちょうどそのとき、駐車場からエンジンの音が聞こえた。お父さんが帰ってきたのだろう。

窓の外へと視線を移す姉を見て、思わず言葉が突いて出る。

 

「ねぇ、お姉ちゃん」

 

「なに、遥奈?」

 

「……いや、なんでも」

 

「え、なんなのぉ?」

 

あたしの懐へ上手く踏み込めないような、おどおどした不満の声を聞きながら、あたしはお姉ちゃんの腕の中で思う。

 

お姉ちゃんがひきこもった理由をいま直接聞くのは、違う気がする。いつか、言ってくれる日を待とう。

それよりもまずするべきことは。多分、お姉ちゃんに歩み寄ることだから。

 

「今日の夜ご飯、お姉ちゃんの好きなカレーらしいよ」

 

ひとりごとを言うように呟いた言葉は、想像通りすぐにお姉ちゃんの琴線に触れたようで。小さい歓声のような驚きの声があがった。

 

「ほんとに!?」

 

「そうねー、お父さんも帰ってきたし、そろそろご飯にしましょうか。二人とも、ちょっと座って待っててねー」

 

そう言ってお母さんはリビングから台所へと歩いて行った。お姉ちゃんも少し目を輝かしてダイニングテーブルの椅子へと進み、腰を下ろす。

 

 

あたしも立ち上がる。お姉ちゃんがこちらへと体を回して、手招きしてくる。

 

「遥奈、はやく!」

 

……まったく、調子のいいお姉ちゃんだ。さっきまで泣いていたのはどこの誰だったのか。

 

「はいはい、お姉ちゃん」

 

そういってあたしも、お姉ちゃんの隣に座った。遅すぎるかもしれないけど、まだ間に合うと信じて。

 

「お姉ちゃん。そういえば、あたしが低学年の時に公園のブランコで話した内容、覚えてる?」

 

そういうとお姉ちゃんはうんうんとうなってから、やがてあたしの方へと向き直り、申し訳なさそうに答えた。

 

「えーっと、どんな話だっけ?それ」

 

そう申し訳なさそうに答えた。

あたしはそれを聞いて、はあ、と大仰にため息を吐き、眼前のお姉ちゃんに言ってやるのである。

 

「お姉ちゃん、そんな鈍感で大丈夫?封筒届けてくれたあの友達にも愛想つかされちゃうよー?」

 

すると効果てきめんだったようで、ひとしきり顔を青くさせた後、首をゆらゆらとまわし、観念するように呟いた。

 

「やっぱ遥奈変わったよね。むかしはもっと可愛げがあった……」

 

「はいはい、そうですねー」

 

そう言っていると、カレーの匂いが漂ってきた。あたしたちの机の前に、カレーライスのお皿が置かれて、クライマックスかのように、父もリビングの扉を開けてくる。

 

おっ、今日はカレーだぁ、と喜んだお父さんは、お姉ちゃんを見ると、ふと笑って。少し歩いて、軽くお姉ちゃんの髪を撫でた。ついでにあたしの髪も撫でてきた。

 

お姉ちゃんを見ると、何とも言えない笑みを浮かべていた。お風呂上りにアイスを食べたような、幸せをかみしめるような笑み。それを見てあたしも自然と、笑みがこぼれる。

 

全員分のカレーが行き届き、唐揚げも食卓に並んで、ダイニングテーブルからは美味しそうな匂いが漂ってきた。

 

「じゃあ、食べましょうか」

 

最後にお母さんが席について、そう言ったのを皮切りに。甘織家は一斉に言葉を発した。

 

「「「「いただきます」」」」

 

あたしが大皿に盛られた唐揚げをカレーへと持っていっていると、一足先にカレーを口に入れたお姉ちゃんが隣から呼んでくる。

見ると、姉は満面の笑みをたたえて、コンビニでおいしいアイスを見つけた時のように、言うのである。

 

「遥奈!このカレーすごいおいしい!!」

 

「それくらい、見てれば分かるよ」

 

姉の顔を見ながら、軽くあしらうように言った言葉は、知らず知らずのうちに、なぜか飛び跳ねるように軽快で。

 

いつの間にか、不覚にも。

 

お姉ちゃんのカレーをほおばる姿を見て、あたしは気づかぬうちに、自然と口角が上がっていたのだった。

 

 

☆☆☆☆☆☆

 

 

「ねえお母さんー。パソコンで映画見たいんだけど……」

 

学校から帰り、リビングのドアを空けながらそう言うと、そこには母と、もう一人。

 

「あ……、おかえり」

 

お姉ちゃんはダイニングの椅子に座りながら、パソコンの画面をふらふらと畳んでそう零した。そこには数日前の夜に見た勢いはまったくなくて、昔に戻ってしまったかのようだった。

 

「……お姉ちゃん、まだパソコン見る?」

 

視線を向けると、姉は机に置かれたキーボードを見るように伏目がちになりながら、

 

「……いや、もう見ないけど……」

 

そう言葉を零した。すると、蝋燭の灯が消えたように、リビングはしんと暗くなり、沈黙が流れる。

 

「……」

 

「……」

 

「ねえ」「あのさ!」

 

遥奈のつぶやきは、その数倍の声量に打ち消された。おどろいて見ると、お姉ちゃんはなぜかもっとおどろいた顔をして、こちらを恐る恐るのぞいていた。

 

「なに?そんな大きな声出して」

 

怪訝そうな顔をして問うと、お姉ちゃんはパジャマの裾を握って、やがて椅子を思いきり引きながら立ち上がり、あたしの目を見て言ってきた。

 

「その映画!……その、わたしといっしょに見ない!?」

 

お姉ちゃんは、自分が言ったのにもかかわらず目を白黒させてこちらを見てくる。その奥では、キッチンで食材を切っていた母が、ふと包丁を置いて、ほほえましそうにこちらを見ていた。まるで、あたしが飲み込んだ言葉のさきを見抜いているようだった。

 

あたしはお姉ちゃんへと視線を戻し、しかたないなというようにため息を吐いて、

 

「まぁいいけど。その代わりホラー映画だから、ビビッて大きな声とか出さないでね。お姉ちゃん」

 

そう憎まれ口をたたきながら、お姉ちゃんの椅子の隣へと歩みを進める。パソコンを見ると、液晶は動画配信サービスのホーム画面を映していた。

あたしは隣に腰を下ろし、お姉ちゃんからパソコンを譲り受けて、タイトルを入れる。それは、ここ最近クラスの女子たちの間で話題になっていた映画であった。レビューを見る限り評価も高いようである。

 

「あ、これ見たことある」

 

左を向くと、お姉ちゃんは申し訳なさそうにこちらへ手を合わせていて、続けて

 

「けど、いいの?これほんとに怖いやつだけど……」

 

そう恐る恐る聞いてきた。その不安そうな目は昔と変わらず、やっぱりお姉ちゃんの心配癖は治っていないようだった。

あたしはあくまで悠然と、当たり前かのようにお姉ちゃんへ訊く。

 

「お姉ちゃんは大丈夫だったんでしょ!」

 

「え、まぁ大丈夫だったけど……」

 

そう言い切る前に、あたしは自信をもって告げる。

 

「じゃあいけるでしょ」

 

至極当然のように言い放って、ゆっくりと視線をパソコンへと移し、マウスを動かして映画を再生させる。

 

おろおろする姉を横目に、あたしはあくまで画面を見ながら、今度はちいさく、独り言のようにつぶやいた。

 

「あたしは、お姉ちゃんの妹なんだから」

 

その声は、どうやらお姉ちゃんの耳まで届いたようで。お姉ちゃんはなにか言いたげに口を動かして、しかしやがてこちらへと椅子を近づけて、観念したようにホラー映画を見始めた。

 

パソコンから流れるタイトルコールが、映画開始の号砲を鳴らす。キャストの悲鳴とおどろおどろしい音楽が、不釣り合いにも昼下がりのリビングへと溶けていく。あたしたちは互いの肩をあわせながら、ホラー映画の世界へと足を踏み入れていった。

 

 

一緒に映画見ない?そう口に出そうとした人間がもう一人いることを、ただひとり、甘織れな子だけが知らない。

 

ねえ、とつぶやいた先。胸にしまったその未発表のみじかい文章は、お姉ちゃんから貰った誘い言葉と、それがもたらす確かな充実感に揺れながら、遥奈の心の中へと溶けていった。

 

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