「マリナさん、遅いな……」
私は荷馬であるミルトちゃんを撫でて落ち着かせながら、自分の気持ちも鎮めようと苦心する。
マリナさんが友人であるテレサさんの家に向かってから、結構な時間が経過していた。忘れ物を返してもらうだけなら、もうとっくに戻ってきてもいい頃合いだ。もしかしたら、その友人と話が弾んでいるだけかもしれないが……
(でも、マリナさんはすぐ帰ってくるって言ってた。それに……)
私は先日自分の身に起きた二つの事件を思い浮かべていた。どちらも関わっていたのは例の悪魔崇拝者たちだ。話が通じているようで通じていない、不気味な集団だった。
マリナさんとの会話でも話題に出したが、彼女はあの集団について噂レベルでしか知らない。彼らの不気味さを実感できていない。そしてその不気味な存在は、まだこの街に残っているかもしれない。
(直前にそんな話をしてたから、私が過剰に心配しているだけかもしれない。でも――)
嫌な予感がする。胸の
「……」
彼女が向かった路地裏に視線を向ける。背の高い建物が深い影を生み出していて先は見通せない。まだ慣れない街の、さらに人目のない裏通り。ただでさえ危険が多いかもしれない。でも……
「……ごめんね、ミルトちゃん。ちょっとだけ、待っててね」
私はミルトちゃんの顔をそっと撫でてから、迷いと怯えを抱えたまま、マリナさんの後を追うために足を踏み出した。
――――
表に比べれば格段に静かな裏通りを、警戒しながら慎重に歩いてゆく。
すぐに不審者と遭遇することも覚悟していたが、しばらく進んでみても辺りに人影はなかった。若干拍子抜けの感もある。実は全てが私の
そんな風に思い始めたところで、前方からわずかに人の声のようなものが聞こえてくる。
見れば道の先は、周囲の建物の大きさの違いが噛み合った結果、少し広いスペース――空き地が生まれていた。物置きにされているのか、ところどころに木箱が散乱していた。
その空き地の陰になっている箇所に誰かがいるらしく、会話がこちらまで聞こえてくる。
「――しかし、もったいなかったな。顔も身体も抜群だったのによ」
「ええ、本当。女の私から見ても妬ましいくらい整っていたものね」
「仕方ないさ。話を聞かれていたんだからね。それに――もうすぐ、この街はそれどころじゃなくなる」
何を言ってるのかは分からない。いや、分かりたくなかったのかもしれない。嫌な予感が治まらないまま、私は恐る恐る建物の陰から声の主を覗き見て……それを、見てしまった。
地べたに座らされ、建物の壁に背を預けた一人の女性。彼女の豊満な胸には一本の長剣が突き刺さり、背後の壁に縫い付けられていた。
傷口から、そして口元から赤黒い液体がこぼれ、衣服を、地面を濡らしている。神秘的に輝いていたはずの青の瞳は虚ろに濁り、今は何も映していない。後ろで結わえた銀の髪の美しさだけが変わらない。
その姿は、ここ数日で見慣れた、けれど決定的に違う、彼女の……
「――マリナさん!!」
私は警戒して潜んでいたことも忘れ、弾かれたように飛び出した。
「マリナさん! マリナさん……! マ……」
呼びかけても、反応はない。近づいて触れてみると、まだ体温が残っている。けれど同時に気づき、絶句する。いや、気づいていたのは、一目見たときからすでにだ。彼女は、もう……
そこで、私たち以外にこの場にいた人間の一人、眼鏡をかけた男性が、マリナさんに突き刺さっていた長剣の柄を握り、引き抜いた。傷口から血が溢れ、彼女の衣服がさらに赤く染められていく。
「君は、彼女の友人かな?」
かけられたその気安い言葉に、頭が沸騰しそうになる。人一人を殺しておいて、よくもそんな……!
と、そこで、ようやく周囲の光景が目に入った。私たちを取り囲むのは、三人の男女。彼らは揃ってフードのついた黒のローブを身に着けている。私はそれに見覚えがあった。
「貴方たち、悪魔崇拝者……!」
私が怒りと共に立ち上がりながら、ハッキリとした敵意を込めて唸ってみせると、眼鏡の男性は少し意外そうに口を開く。
「へぇ? 僕らのことを知っているのかい? まだ一般市民にはぼんやりとした噂程度しか流れていないはずだけど」
やっぱり、彼らだ。恐れていたことが最悪の形で現実になってしまった。
「貴方たちが、マリナさんを……!」
「そうさ、殺した。僕らの計画を聞かれてしまったからね。実行前に騎士団に報告されては堪らない。それに、これは救いなんだよ。彼女は一足早く救われたというわけさ」
「何を言って……!」
「ああ、羨ましいことだ。もはや彼女はこの呪われた街から解放されたのだから。だが嘆くことはない。僕らも君も、もう間もなく解放の時が訪れ――」
その時、カーン、カーンと、大きな鐘の音が街中に鳴り響く。昼の時刻を告げる、神殿の
「おっと、話をしている間にその時が来たようだね。僕らは計画を実行に移す。ここまでくればもう早いか遅いかの違いでしかないが……せっかくだ。君はお友達と一緒に、ここで救いをもたらしてあげるとしよう――」
そう言って男が向けた長剣の切っ先、心臓を狙って突き出されたそれを……私は、避けることなく自分から受け入れた。
ぞぶり――
「な、に……!?」
眼鏡の男が初めて見せた動揺に、わずかな小気味よさを覚える。
恐怖はあった。けれどそれ以上に激しい怒りが私を支配していた。貫かれた胸に激痛が走り、傷口からじわりと血が滲み出て衣服を赤黒く染めていく。が、私は構うことなくさらに深く刃を受け入れ、一歩、また一歩と男に迫っていった。
「……る、さない……」
「……!?」
「許さない……貴方たちは、絶対に、私が……!」
彼女を……マリナさんを傷つけたこの悪魔崇拝者たちだけは、なんとしてでも止めなきゃいけない……!
自分にこんなに強い感情があったことに自分でも驚くが、相手はそれ以上に狼狽していた。
「なんだ……なんなんだ……! 君は、いったい……! くっ……!」
取り乱した男は私の身体を蹴り飛ばして無理やり刃を引き抜く。私は背後の壁に衝突し、ずるずると身体を落とし、地面に投げ出された。
「――ぁっ……! げほっ……!」
呼吸が詰まる。血の塊が喉からせり上がってきて口からこぼれる。手の先に何かが触れた。まだ体温の残る、けれどわずかに冷たくなってしまった、細い指先。――マリナさんの、手。
「おい! そんな子供に構ってる暇はねえ! さっさと行かねぇと!」
「あ、ああ。そうだな。僕らの務めを果たすとしよう」
まだわずかな動揺を残しつつ、男たちが去ってゆく。ぼやける視界にその姿を収めつつ、私は触れた指先からゆっくりと弱々しく、けれど愛おしむように指を絡め、彼女の手を握った。
「マリナ、さ、ん……」
見ず知らずの私を、自らの家に受け入れてくれた人。
美味しいパンを食べさせてくれて、その作り方まで教えてくれた人。
そして――私を〝憶えていてくれる〟、唯一の人。
彼女の存在が私の心の支え。彼女がいなければ、私がこの世界で生き続けることなど到底できなかっただろう。
だから……絶対に、助けてみせる。
残された力で精一杯彼女の手を握る。徐々に身体の感覚がなくなっていく。遠くなった私の耳に、何かが爆発するような音がうっすら届いたところで……私の意識は途絶えた。
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