自我持つ兵器の英雄譚   作:Nyappy-

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1日だけのともだち。



51. シオン

 

 

2016年1月

 

釧路の街は、年が明けても雪の中にあった。

 

道路脇には除雪された雪が白い壁のように積まれ、歩道には踏み固められた雪が薄く残っている。

吐く息は白く、行き交う人々は肩をすくめながら、足早にそれぞれの目的地へ向かっていた。

 

零は、その街の中を一人で歩いていた。

 

一人。

 

少なくとも、すぐ隣に誰かがいるわけではない。

 

それは、珍しいことだった。

 

艦娘技術研究所の外へ出る時、零は多くの場合、希空や士、加奈、“阿武隈”たちと一緒だった。

東堂家の屋敷でも、“出雲”や“磐手”が近くにいることが多い。

零自身が強いことは、誰もが分かっている。

けれど、零はまだ子供でもあった。

 

それでも、今日だけは少し違っていた。

 

釧路の街を見る。

店を見る。

道路を歩く。

人の流れを見る。

公園へ行く。

普通の子供がするようなことを、普通に経験する。

 

そのためには、あまりにも目立つ護衛を付けるより、零だけで歩かせた方がよい。

 

そう判断された。

 

もちろん、完全に放置されているわけではない。

定められた範囲。

決められた時間。

何かあればすぐ連絡できる端末。

そして、零自身の能力。

 

通常の危険であれば、零一人で対処できる。

少なくとも、そう考えられていた。

 

この時点で、彼らはまだ、自分たちを取り巻く見えない悪意の輪郭を明確には掴んでいなかった。

 

零は、歩道の端で足を止めた。

 

目の前には、小さな公園があった。

 

雪の積もった滑り台。

半分ほど埋もれた砂場。

白く覆われたベンチ。

風に揺れるブランコ。

 

冬の公園には、ほとんど人がいない。

子供の声もなく、遊具は雪に包まれ、少しだけ取り残されたように見えた。

 

零は、公園の入口に立ったまま、それを眺めた。

 

「公園」

 

知識としては知っている。

 

子供が遊ぶ場所。

地域住民の憩いの場。

遊具、ベンチ、広場、砂場などを備えることが多い。

都市や住宅地において、公共空間として整備される。

 

説明はできる。

 

だが、実際にそこで遊んだことは、ほとんどなかった。

 

零は公園の中へ入った。

 

雪を踏むたびに、靴の下で小さく音が鳴る。

ぎゅっ、ぎゅっ、と乾いた音がする。

零は何度か足踏みをした。

 

「やっぱり音がする」

 

当たり前のことだった。

けれど、零にとっては未だ確認すべきことでもあった。

 

次に、零はブランコの前へ行った。

 

雪が積もった座面を手で払う。

金属の鎖は冷たく、触れると指先にその冷たさが伝わってきた。

零は少し考え、ブランコに座った。

 

揺らす。

 

少しだけ前に動く。

少しだけ後ろに戻る。

 

もう一度、足で雪を蹴る。

今度は少し大きく揺れた。

 

「……なるほど」

 

何がなるほどなのか、零自身にもよく分からなかった。

 

ただ、訓練室の機材とは違う。

重力制御でも、運動能力測定でも、耐G訓練でもない。

意味があるのかどうかもよく分からない。

 

それなのに、少しだけ面白い。

 

零はしばらくブランコを揺らしていた。

 

 

 

その時だった。

 

「───それ、楽しいの?」

 

声がした。

 

零は足を止めた。

 

気づくと、ブランコの横に一人の少女が立っていた。

 

いつからそこにいたのか、零には分からなかった。

気配はあったはずだ。

足音もあったはずだ。

けれど、零はブランコに気を取られていて、彼女が近づいていたことに気づくのが少し遅れた。

 

少女は、五歳か六歳くらいに見えた。

 

厚手のコート。

首元のマフラー。

雪で少し濡れた靴。

頬は寒さで赤くなっている。

 

普通の女の子だった。

 

少なくとも、零にはそう見えた。

 

艤装の気配はない。

タキオンドライヴの反応もない。

艦娘特有の雰囲気もない。

訓練を受けた兵士のような動きでもない。

 

ただ、公園にいる女の子。

 

少女は、零をじっと見ていた。

 

「楽しいの?」

 

もう一度、彼女は聞いた。

 

零は少し考えた。

 

「分からない」

 

「分からないの?」

 

「初めてだから」

 

少女は目を丸くした。

 

「ブランコが?」

 

「うん」

 

「変なの」

 

少女はそう言った。

 

だが、馬鹿にしているようには聞こえなかった。

ただ、本当に不思議そうだった。

 

零はブランコから降りる。

 

「君は?」

 

「私?」

 

「うん」

 

「シオン」

 

少女は短く名乗った。

 

「シオン」

 

零はその名を繰り返す。

 

「そう。シオン」

 

「どんな字?」

 

「……字?」

 

シオンは首を傾げた。

 

「名前の字」

 

「分かんない」

 

「分からない?」

 

「うん。シオンはシオン」

 

彼女は当然のように言った。

 

 

零は少しだけ考えた。

 

───知識の中には、紫苑という花がある。

秋に咲く、薄紫色の花。

漢字で書けば、紫に苑。

 

だが、目の前の少女がその名なのかどうかは分からない。

 

まして、零は花としての紫苑を知っているが、実物を見たことはない。

画像や説明として知っているだけだった。

 

だから、零はそれ以上聞かなかった。

 

「俺は零」

 

「ゼロ?」

 

「うん」

 

「数字みたい」

 

「数字?」

 

「ゼロでしょ」

 

「うん」

 

「じゃあ、何もないってこと?」

 

零は少し考えた。

 

「分からない」

 

シオンは零を見た。

 

「……自分の名前なのに?」

 

「うん」

 

「変なの」

 

また、シオンはそう言った。

 

零は首を傾げる。

 

「シオンも、自分の名前の字、分からない」

 

シオンは一瞬だけ黙った。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「たしかに」

 

零も、少しだけ頷いた。

 

 

 

二人はしばらく、公園の中に立っていた。

 

雪の上に、零の足跡とシオンの足跡が並んでいる。

大きさは少し違う。

零の足跡はまっすぐで、シオンの足跡は少し曲がっていた。

 

「シオンは、ここで何してるの?」

 

零が聞く。

 

シオンはブランコの鎖を指で触りながら答えた。

 

「待ってる」

 

「誰を?」

 

「お父さん」

 

「お父さん?」

 

「うん。用事があるから、ここで遊んでてって」

 

「一人で?」

 

「うん」

 

シオンは当たり前のように言う。

 

零は少しだけ眉を寄せた。

 

少女を一人で待たせる。

この雪の中、知らない公園で。

 

普通なのかどうか、零には判断しづらかった。

 

だが、シオンは不安そうには見えなかった。

退屈そうではあったが、怖がってはいない。

 

「寒くない?」

 

零が聞く。

 

「寒い」

 

「じゃあ、どうして外にいるの?」

 

「中に入るところないし」

 

「そうなんだ」

 

「それに、ちょっと面白そうだったから」

 

「何が?」

 

「あなた」

 

シオンは零を指差した。

 

零は自分を見下ろす。

 

「俺?」

 

「うん。公園で遊ぶの、初めてみたいな顔してた」

 

「実際初めて」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

シオンは少しだけ目を細める。

 

「やっぱり変」

 

「さっきも言った」

 

「何回見ても変だから」

 

零は少し考えた。

 

「シオンは、変じゃない?」

 

「私は普通」

 

「普通」

 

零は、その言葉を繰り返した。

 

普通。

 

シオンは普通の女の子に見える。

艦娘ではない。

兵士でもない。

研究所の関係者でもない。

……ただの子供。

 

零にとって、それは少し不思議だった。

 

零の周りにいる同年代の子供は、普通ではないことが多い。

穂乃果や凛は洋平と“鳳翔”の娘。

“阿武隈”たちは艦娘。

“瑞鶴”も“翔鶴”も艦娘。

研究所で出会う者は、妖精か技術者か、何らかの特別な事情を持つ者ばかりだった。

 

それ故に、

『普通の女の子』

その存在は、零には少し分からない。

 

シオンは雪の上にしゃがみ込んだ。

 

「雪玉、作れる?」

 

「作れる」

 

零もしゃがむ。

 

二人は雪を集めた。

シオンは手袋をしていたが、雪を強く握りすぎて、すぐに形が崩れた。

 

「丸くならない……」

 

「力が強すぎる」

 

「そうなの?」

 

「……たぶん」

 

零は雪を両手で軽く押さえる。

小さな雪玉ができる。

 

シオンはそれを見て、少しだけ悔しそうな顔をした。

 

「上手い」

 

「そう?」

 

「うん。なんか、慣れてる」

 

「最近、少し慣れた」

 

「最近?」

 

「うん」

 

シオンは零を見る。

 

「ほんとに変」

 

「シオンは、ずっと雪で遊んでるの?」

 

「たまに」

 

「楽しい?」

 

「うん。冷たいけど」

 

シオンはそう言って、自分の手袋についた雪を払った。

 

零は、小さな雪玉をもう一つ作った。

シオンも真似をする。

今度は少しだけ丸くなった。

 

「……できた」

 

シオンが言う。

 

「うん」

 

零は頷く。

 

「できてる」

 

シオンは雪玉を手のひらに乗せたまま、少しだけ笑った。

 

その笑顔は、普通の子供のものだった。

 

零は、それを見ていた。

 

何か特別な力があるわけではない。

強いわけでもない。

戦えるわけでもない。

ただ、雪玉ができて少し嬉しそうにしている。

 

それが、零には不思議だった。

 

「何?」

 

シオンが聞く。

 

「見てた」

 

「どうして?」

 

「シオン、普通だから」

 

シオンは少しだけ眉を寄せた。

 

「普通って、変な言い方」

 

「そう?」

 

「うん。普通は普通でしょ」

 

「分からない」

 

「分からないこと多いね」

 

「うん」

 

零は否定しなかった。

 

シオンは少し考え、それからベンチの方を指差した。

 

「座る?」

 

「うん」

 

二人は雪を払って、ベンチに座った。

 

ベンチは冷たかった。

シオンは座った瞬間、小さく肩をすくめる。

 

「冷たっ」

 

「冷たい」

 

「分かってたなら言ってよ」

 

「座るって言ったから」

 

「そうだけど」

 

シオンは少し不満そうにしながらも、立ち上がりはしなかった。

 

二人は並んで、公園を見た。

 

誰もいない公園。

雪に覆われた遊具。

遠くの道路を走る車。

白い息。

 

「ゼロは、どこから来たの?」

 

シオンが聞く。

 

零は少し迷った。

 

「近く」

 

「近く?」

 

「うん」

 

「家?」

 

零は答えなかった。

 

東堂家の屋敷、研究所、或いは自分の家。

どれが答えなのか、零には少し分からなかった。

 

シオンは零の顔を見る。

 

「言いたくない?」

 

「分からない」

 

「またそれ」

 

「うん」

 

シオンは少しだけ笑った。

 

「じゃあ、いい」

 

「聞かないの?」

 

「うん。聞いても分からないって言いそうだし」

 

「言うかも」

 

「でしょ」

 

シオンは足をぶらぶらさせた。

 

「私は、家は遠い」

 

「遠い?」

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「車で来たから、よく分からない」

 

「そうなんだ」

 

「うん」

 

シオンは空を見上げた。

 

「知らない場所だけど、雪があるからいい」

 

「雪が好き?」

 

「嫌いじゃない」

 

「好きではない?」

 

「冷たいから」

 

「でも、遊ぶ」

 

「遊ぶものがそれしかないから」

 

零は頷いた。

 

「なるほど」

 

「なるほどなの?」

 

「うん」

 

シオンはまた少し笑った。

 

二人は、深い話をしなかった。

 

なぜ一人なのか。

どこから来たのか。

どこへ帰るのか。

どうしてここにいるのか。

 

聞こうと思えば、聞けたかもしれない。

だが、二人とも子供だった。

 

気になっても、次の瞬間には雪に目が行く。

疑問に思っても、別の言葉が出る。

寒ければ肩をすくめ、雪玉が崩れれば笑う。

 

それで十分だった。

 

「ゼロ」

 

「何?」

 

「あなた、怖くないの?」

 

「怖い?」

 

「うん」

 

シオンは零を見る。

 

「なんか、静かだけど、変な感じがする」

 

零は少しだけ黙った。

 

艦娘だから。

タキオンドライヴがあるから。

普通の人間ではないから。

 

理由はいくつか思い浮かぶ。

 

けれど、それをどう説明すればいいのかは分からなかった。

 

「シオンは、怖い?」

 

零が聞く。

 

シオンはしばらく零を見た。

 

「怖くはない」

 

「そう」

 

「変だけど」

 

「うん」

 

「でも、怖くない」

 

零は、それを聞いて少しだけ安心した。

 

なぜ安心したのかは分からない。

 

ただ、シオンが怖がっていないことが、嫌ではなかった。

 

「シオンは、普通」

 

零は言った。

 

「またそれ?」

 

「うん」

 

「普通なのがそんなに珍しいの?」

 

「俺の周りには、あまりいない」

 

シオンは少しだけ考えた。

 

「じゃあ、私は珍しい普通?」

 

「たぶん」

 

「何それ」

 

シオンは笑った。

 

零も少しだけ笑った。

 

そのあと、二人は公園の中を歩いた。

 

雪の積もった滑り台を見上げる。

砂場の上を歩く。

ブランコを少しだけ揺らす。

誰かが作りかけた雪だるまの残りを見つける。

 

シオンは、雪に足跡をつける遊びを思いついた。

零はそれを真似した。

 

まっすぐ歩く。

丸く歩く。

同じ足跡を踏む。

途中でずれる。

 

「ゼロ、まっすぐすぎ」

 

「まっすぐ?」

 

「うん。足跡がまっすぐ」

 

「駄目?」

 

「駄目じゃないけど、つまらない」

 

「じゃあ、どうする?」

 

シオンは大きく横へ跳んだ。

 

雪の上に、少し乱れた足跡がつく。

 

「こう」

 

零も真似をした。

けれど、動きが正確すぎて、やはり足跡は整っていた。

 

シオンはそれを見て、少し不満そうに言う。

 

「なんか違う」

 

「違う?」

 

「上手すぎる」

 

「上手いと違うの?」

 

「こういうのは、もっと適当でいいの」

 

「適当」

 

零は、その言葉を覚える。

 

適当。

効率的ではなく。

正確でもなく。

目的があるようで、ないようなもの。

 

零はもう一度、雪の上を跳んだ。

今度はわざと少しバランスを崩してみる。

 

足跡が少し乱れた。

 

シオンは満足そうに頷く。

 

「そう。それくらい」

 

「これでいい?」

 

「うん」

 

零は、雪の上の足跡を見た。

 

乱れている。

正確ではない。

けれど、シオンはそれを見て笑っている。

 

それでいいらしい。

 

零は、また一つ、知らないものを覚えた気がした。

 

 

 

やがて、風が少し強くなった。

 

シオンはマフラーを引き寄せる。

 

「寒い」

 

「戻る?」

 

「どこに?」

 

「分からない」

 

「また分からない」

 

シオンは少しだけ笑った。

 

それから、ベンチの方へ戻る。

 

「ゼロは、またここに来る?」

 

「分からない」

 

「そっか」

 

シオンは少しだけ残念そうに見えた。

 

零はそれに気づく。

 

「シオンは?」

 

「分からない」

 

「同じ」

 

「うん。同じ」

 

二人はベンチの前に立った。

 

雪は、ゆっくりと降り続けている。

 

「……また、会う?」

 

零が聞いた。

 

シオンは少しだけ目を瞬かせた。

 

「分からない」

 

「そう」

 

「でも」

 

シオンは少しだけ考える。

 

「名前は覚えた」

 

「零?」

 

「うん。ゼロ」

 

「俺も覚えた」

 

「シオン?」

 

「うん。シオン」

 

シオンは、なぜか少し嬉しそうだった。

 

「じゃあ、いいや」

 

「いいの?」

 

「うん。名前覚えたから」

 

零には、その理屈はよく分からなかった。

 

でも、シオンがそれでいいと言うなら、そうなのかもしれない。

 

 

その時、遠くで車の音がした。

 

シオンがそちらを見た。

 

「あ」

 

「どうしたの?」

 

「たぶん、呼ばれる」

 

「お父さん?」

 

「うん」

 

シオンは少しだけ迷ったように見えた。

 

それから、零を見る。

 

「……じゃあね」

 

「うん」

 

零は頷く。

 

「じゃあね」

 

シオンは数歩歩き出した。

 

雪の上に、小さな足跡が残る。

 

ふと、彼女は振り返った。

 

「───ゼロ」

 

「何?」

 

「ブランコ、次はもっとちゃんと揺らせば?」

 

「ちゃんと?」

 

「もっと高く」

 

「高く」

 

「うん。怖くないくらいに」

 

零は少し考えた。

 

「分かった」

 

シオンは満足したように頷いた。

 

そして、今度こそ歩いていった。

 

零は少しの間、その背中を見ていた。

 

けれど、公園の外を通る人影と、降り続ける雪と、道路脇に積まれた白い壁の向こうに、シオンの姿はすぐに紛れていった。

 

追いかける理由はなかった。

 

追いかけてはいけない理由も、特にはなかった。

 

ただ、零はその場に立っていた。

 

少しして、シオンの姿は見えなくなった。

 

 

 

「───シオン」

 

零は、その名前を小さく呟いた。

 

返事はなかった。

 

公園には、雪の上に二人分の足跡が残っている。

ブランコの下に、乱れた雪がある。

ベンチの前に、小さな雪玉が転がっている。

 

それだけだった。

 

零は、しばらくその場にいた。

 

不思議な女の子だった。

 

普通の女の子。

寒がる女の子。

雪玉をうまく作れない女の子。

適当でいいと言った女の子。

零を怖がらなかった女の子。

 

そして、ふといなくなった女の子。

 

零は、その日会った少女のことを、うまく説明できなかった。

 

“瑞鶴”に感じたものとは違う。

懐かしいのではない。

でも、忘れたくないと思った。

 

それがなぜなのかも、零には分からなかった。

 

端末が小さく震える。

 

約束の時間が近づいていた。

 

零は、公園を出る前にもう一度振り返った。

 

雪の中の公園。

ブランコ。

ベンチ。

足跡。

 

そこに、シオンはいない。

 

けれど、確かにいた。

 

少なくとも、零にはそう思えた。

 

 

 


 

 

 

紫苑という花がある。

 

零は、その花を知識としては知っていた。

 

秋に咲く、薄紫色の花。

別名を、思い草。

与えられた言葉は、追憶。

君を忘れない。

遠くにある人を思う。

 

けれど零は、その花を実際に見たことがなかった。

 

だから、その日出会った少女の名前が、どんな文字で書かれるのかも知らない。

それが花の名なのか、人の名なのかも分からない。

 

零が知っているのは、ただ音だけだった。

 

シオン。

 

雪の日の公園で、一日だけ一緒にいた女の子。

 

その名前だけが、降り続く雪の記憶と一緒に、零の中へ静かに残った。

 

 

 

 

 

間章 完結





あ と が き

次回から第二章突入です。


次回 水面下の暗雲
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