信じられる家族のもとへ。
───水の中にいても、その光は見えた。
暗い海の向こうが一瞬だけ真っ白に染まり、少し遅れて、水そのものを揺さぶるような衝撃が押し寄せてくる。
泳いでいた“出雲”の身体が、大きく煽られた。
咄嗟に姿勢を立て直し、胸元へ妖精たちを抱き寄せる。衝撃によって振り落とされた者がいないか確かめ、再び前へ進もうとしたところで、その手が止まった。
振り返っても、ここから「建御雷」の姿は見えない。
ただ、先ほどまであの艦がいたはずの方角から差し込んでいた白い光が、ゆっくりと海の闇へ溶けていく。
何が起きたのか、考える必要など無かった。
「……お父さん、お母さん」
声にしたはずの言葉は、小さな泡となって口元から離れ、暗い海へ消えていった。
胸元に身を寄せていた妖精の一人が、“出雲”の服をぎゅっと掴む。肩にも、腕にも、服の内側にも、小型化した妖精たちがしがみついていた。
海斗と美香が、最後に「建御雷」から逃がした乗員たちである。
皆、無事だった。
そのことを確かめるように、“出雲”は服の上からそっと手を添えた。
それから、もう一度だけ振り返る。
戻りたい。
あれほどの爆発でも、何かが残っているかもしれない。海斗も、美香も、ひょっとすればまだ───。
そんな考えが、頭から離れなかった。
理屈では分かっている。
あの光と衝撃が何を意味するのか、理解出来ないほど“出雲”は無知ではない。
まして、あの艦には二基の核融合機関が搭載されていた。海斗と美香が最後に何をしようとしていたのか、正確なところまでは分からなくとも、ただの被弾による爆発ではなかったことくらいは想像出来る。
それでも、今から戻れば何かが見つかるのではないかと考えてしまう。
ほんの少し前まで、二人は生きていたのだから。
いつものように話し、冗談を言い、最後には自分を送り出してくれた。
それが、もう二度と会えないかもしれないなどと。
そんなことを、簡単に受け入れられるはずが無かった。
しかし、身体が後ろへ向きかけたところで、別の言葉が頭に浮かんだ。
───お前は妖精たちを連れて帰れ。
海斗の声だった。
───お願い。この子たちを連れて帰って。
美香の声。
そして、最後に二人から託された言葉。
───希空と零を頼む。
「……っ」
“出雲”は目を閉じた。
自分一人だったなら、戻っていたかもしれない。何も考えず、今すぐあの光の方へ泳いでいたかもしれなかった。
だが、今は違う。
自分の身体には、海斗と美香が最後まで生かそうとした妖精たちがしがみついている。
その全員を連れて帰れと言われた。
希空と零のことも頼まれた。
ならば、ここで自分が死ぬわけにはいかなかった。
“出雲”はゆっくりと前を向き、服の上からもう一度、妖精たちへ手を添えた。
「……帰ろう」
水中で発した声が、どこまで聞こえたのかは分からない。それでも彼女は、もう一度だけ口を開いた。
「みんなで帰るよ。……絶対に」
目指す先は日本。
航法装置は無い。電探も通信機も、長距離航行を支えてくれる艤装も、今の“出雲”には何一つ残されていなかった。
あるのは、艦娘としての身体と、自分自身の記憶だけである。
それでも、帰るべき方角くらいは分かる。
何度も往復した海だった。出撃し、戦い、帰還し、また次の任務へ向かう。その間、海図を眺め、航路を確認し、様々な海域で行動してきた。
正確な現在位置までは分からなくとも、大まかな方角を判断することは出来る。
そして何より、ここに留まっている方が危険だった。
“戦艦棲姫”がどうなったのか分からない。
あの爆発に巻き込まれ、ただでは済んでいないだろう。しかし、だからといって死んだと決めつける気にはなれなかった。
相手は、ほんの少し前に自分を海の底へ沈めた上位個体である。常識で生死を判断してよい相手ではない。
海斗に言われた通り、“出雲”は浮上を避けたまま戦場から離れていく。
妖精たちの状態を確かめながら、可能な限り速く、ただ日本のある方角へ。
その腕が、再び水を掻き始めた。
背後の光が完全に消えても、“出雲”はもう振り返らなかった。
どれほど泳いだのか。
周囲の海がすっかり暗くなった頃には、身体の内側から少しずつ苦しさが広がり始めていた。
第一世代艦娘である“出雲”の身体は、人間より遥かに強靱である。呼吸を止めていられる時間も、泳ぎ続けられる距離も、普通の人間とは比較にならない。
しかし、無限に潜水出来るわけではない。
まして今の“出雲”は、単に艤装を失っているだけではなかった。
ほんの少し前まで、“戦艦棲姫”との戦闘で死にかけていた身体である。
ダッチハーバーに運び込まれた時には、頭部と胴体の一部しか残っていなかった。そこから“北方棲姫”による応急処置と、研究所での記憶再現式修理を受け、どうにか人の姿を取り戻したのである。
見た目こそ大きく回復していたものの、万全とは程遠い。日常生活を送れるようになったことと、過酷な運動に耐えられることは、全く別の話だった。
その身体で、外洋を泳ぎ続けている。
しかも、服の内側には何人もの妖精たちがいるのだ。自分だけなら多少無理な姿勢になっても構わないが、今はそれも出来なかった。
それでも“出雲”は暫く耐え、戦場から十分に離れたと思えるところまで進んでから、ようやく浮上した。
「ぷはっ……!」
海面を割り、大きく息を吸う。
冷たい夜気が肺へ入り、それだけで身体が少し軽くなった気がした。
辺りには海しかない。
艦影も見えなければ、航空機の灯火も無い。そして後方にも、もう「建御雷」の最期を示す光は残っていなかった。
「……みんな、いる?」
服の内側へ声を掛けると、小さな返事が幾つも返ってきた。
一人の妖精が仲間たちの人数を確認し、やがて胸元から顔を出す。
見たところ、単なる一乗員ではなく、第二特務艦隊の艦隊司令部要員を務めていた妖精のようだった。
「全員います。負傷者も、大丈夫です」
「……そっか。よかった」
それを聞いて、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
一人も欠けていない。
少なくとも今は、二人から預かった命を全て連れて来られている。
「ちょっと休もう。まだ先は長いから」
“出雲”は身体を仰向けにし、妖精たちを落とさないよう注意しながら波へ身を預けた。
全身が重かった。腕も脚も疲れ切っており、そのまま目を閉じればすぐにでも眠ってしまえそうだったが、瞼を閉じた途端、先ほどの白い光が浮かんでくる。
すぐに目を開く。
すると、肩の近くにいた妖精が声を掛けてきた。
「……“出雲”さん」
「何?」
「司令官と、艦長は……」
“出雲”の身体が、僅かに強張った。
皆、あの光を見ている。
「建御雷」に何が起きたのか、おそらく理解している。それでも、自分たちの目で二人の最期を確かめたわけではなかった。
「……分からない」
少し迷った末、それだけを答えた。
「私も、最後までは見てないから」
妖精は、黙って頷いた。
他の者たちも、何も言わなかった。
あの爆発がどれほど凄まじかったのか。最後まで艦に残った二人が、その後どうなったのか。
皆、考えていないわけではない。
だが、今はその答えを確かめようがなかった。
暫くして、“出雲”が再び身体を起こす。
「……行こうか」
「もう大丈夫ですか?」
「大丈夫、とまでは言えないけど……」
少しだけ笑い、遠くの水平線へ目を向けた。
「ちゃんと帰るまでが、私たちの仕事だから」
妖精たちは頷いた。
その言葉に励まされたのか、それとも自分たちも同じことを考えていたのか。
少なくとも、誰一人として帰還を諦めようとはしなかった。
“出雲”は再び泳ぎ始めた。
それからの時間は、ひどく長かった。
夜が明ければ太陽の位置を確認し、日が沈めば星を頼りに方角を修正する。海流や風向き、波の様子、それまでの航海で記憶している海域の特徴など、使えるものは何でも使った。
もちろん、正確な航法装置も無い状態で、常に正しい方向へ進めている保証は無い。
海流に流されれば修正し、波に押し戻されれば、また泳ぐ。方向を確かめるために浮上することさえ、周囲の状況を慎重に見極めてから行わなければならなかった。
船影が見えれば潜り、航空機の音が聞こえれば海面から姿を消す。
疲労が限界へ近付けば、周囲を確認して短い休息を取った。その間に妖精たちも互いの状態を確かめ、負傷者が無理な姿勢になっていないか、誰かが脱落しそうになっていないかを調べる。
“出雲”だけが、一方的に皆を運んでいたわけではなかった。
妖精たちもまた、自分たちに出来ることを続けていたのである。
とはいえ、最も大きな問題は、そうした身体的な負担ではなかった。
本来なら、味方を見つけた時点で救助を求めればいい。
国防海軍でも、沿岸警備を担う部隊でも、民間船でも構わない。何日も海を泳ぎ続けている今の“出雲”にとって、それが最も合理的な選択だった。
しかし、出来なかった。
海斗と美香は、艦娘の随伴すら許されないまま「建御雷」一隻で出撃させられた。
そして、その航路上には、まるで待ち構えていたように“戦艦棲姫”が現れた。
しかも、こちらが進路を変えれば、相手も針路を変更して追ってきたのである。
あれが単なる遭遇戦だったとは、“出雲”にはどうしても思えなかった。
まして海斗自身も、最後には何かを察していたように見えた。
誰が、あの出撃命令を出したのか。
誰が、その決定に関わったのか。
「建御雷」の航路は、どこまで知られていたのか。
もし敵へ情報が流れていたのなら、誰がそれを行ったのか。
分からないことばかりだった。
しかし、それ以上に恐ろしいのは、その人物が今も国防軍の中にいるかもしれないということだった。
仮に目の前へ国防軍の艦艇が現れたとしても、乗っている者たちが敵だとは限らない。むしろ、大多数は自分たちと同じように国を守るために戦っているはずだった。
だが、その艦艇が“出雲”たちを救助したと報告すればどうなるか。
通信を受けた司令部が、別の部署へ連絡する。そこからさらに別の場所へ情報が伝わり、いずれ関係者の耳へ入る。
その途中に今回の事件へ関わった人間が一人でもいれば、自分たちが生きていることを知られてしまう。
そして、それが何を意味するのか。
“出雲”は、考えたくもなかった。
自分たちは、単なる漂流者ではない。
「建御雷」がどんな命令で出撃し、どこで敵と遭遇し、どのように戦ったのか。
その一部始終を知る、当事者たちだった。
今、妖精たちが全員生きていると知られれば、誰かにとって都合が悪いのではないか。
そもそも、誰がそれを都合悪く感じるのか。
それさえ分からない。
だからこそ、何も出来なかった。
警察へ駆け込んだとしても、そこから軍へ連絡されれば同じである。
民間人に助けを求めたとしても、善意から警察や軍へ通報される可能性が高い。
相手に悪意など無くても、結果は変わらない。
むしろ、何も知らない人間ほど、当然のこととして通報するだろう。
本来なら、それが正しい行動なのだから。
しかし、今の“出雲”にとっては、その普通の行動さえ危険だった。
味方の制服を着ていることは、もう味方である証明にはならない。
だからといって、制服を着ていない相手なら信用出来るというわけでもない。
誰か一人が悪いのではない。
誰が悪いのか分からないから、誰も信用出来ない。
それが、何より恐ろしかった。
「……“出雲”さん」
ある時、肩の近くから声が掛かった。
「何?」
「このまま、横須賀まで行くんですか?」
“出雲”は、少しだけ考えた。
日本へ着くだけなら、もっと早く済むかもしれない。
近くの港へ入ればいい。適当な沿岸で人を探すことも出来るだろう。
しかし、そうして誰かに発見された瞬間、自分たちの情報がどこへ伝わるのか分からなくなる。
それだけは避けなければならなかった。
「……うん。出来れば、誰にも見つからずに」
「分かりました」
妖精は、それ以上何も言わなかった。
むしろ、他の仲間たちへ声を掛け、全員の状態を確認し始める。
皆が、今は自分たちの存在を知られてはいけないと理解していた。
“出雲”は、その様子を見て小さく頷いた。
「……ありがとう」
そして、再び腕を伸ばす。
日本へ、横須賀へ。
今は、それだけを考えて泳ぎ続けた。
『───国防海軍は本日、作戦行動中であった艦娘母艦「建御雷」が、太平洋上で深海棲艦と交戦し、その後消息を絶ったと発表しました』
艦娘技術研究所の一角に設置された大型モニターから、淡々としたニュースの声が流れていた。
普段から戦況や国防軍関連の情報を確認するためにつけられているものだが、今は誰も仕事の片手間には聞いていない。
『同艦は深海棲艦上位個体と遭遇し、圧倒的な戦力差の中にあっても長時間にわたり交戦。最後まで任務を遂行したものと見られています』
画面が切り替わる。
映し出されたのは、まだ無傷だった頃の「建御雷」だった。
艦首へ集中配置された二基の主砲塔と、巨大な艦体。長年にわたって第二特務艦隊を支えてきた艦娘母艦の姿である。
続いて、二人の人物の写真が表示された。
神崎海斗。
神崎美香。
つい数日前まで、当たり前のように笑っていた二人だった。
『現在までに、神崎海斗第二特務艦隊司令官、神崎美香艦長以下、「建御雷」乗員の生存は確認されておらず、国防軍は乗員全員が戦死したものと判断しました』
希空は、作業台の前に立ったまま動かなかった。
手には工具を握っているが、少し前から何の作業もしていない。端末に表示された設計図も、同じ場所で止まっている。
傍らのソファには加奈と士が並んで座り、少し離れた椅子では零が俯いていた。
秋吉も、いつもの軽口を挟もうとはしなかった。
『海斗司令官、美香艦長は長年にわたり深海棲艦との戦いの最前線に立ち、日本の防衛へ多大な功績を───』
「……消して」
希空が言った。
声は大きくなかったが、秋吉は何も聞き返さず、手元の端末を操作した。
画面が暗くなり、ニュースの声も消えた。
冷却装置や計算機の駆動音は、変わらず続いている。
それなのに、人の声が一つ消えただけで、その一角は妙に静かになった。
「……姉さん」
零が呼んだ。
「何?」
希空は、出来るだけ普段と同じ声で返そうとした。しかし、振り向いたところで弟の顔を見てしまい、上手く笑えなかった。
「父さんと母さん……本当に、死んだの?」
すぐには答えられなかった。
希空にとっても、海斗と美香は父と母である。
つい数日前まで普通に話していた。零の六歳の誕生日を一緒に祝ったばかりで、また帰ってくることを前提に二人を送り出したのだ。
あの日の食事も、ケーキも、プレゼントを早く開けたがっていた零の様子も、まだ鮮明に覚えている。
それが今は、画面の中で過去の人間のように扱われていた。
「……分かんない」
希空は弟の前まで歩き、その場へしゃがみ込んだ。
「まだ、ちゃんと見つかったわけじゃないから。本当のところは、まだ分かんないよ」
「じゃあ……」
零が顔を上げる。
だが、その先を言う前に、希空はゆっくりと首を振った。
「でもね……帰ってこない可能性は、高いと思う」
零は黙った。
意味が分かっていないわけではない。
戦死という言葉も、「建御雷」がどんな相手と戦ったのかも理解している。研究所に残された交戦資料を通じて、上位個体がどれほど危険な存在なのかも知っていた。
戦った相手が上位個体というのもニュースから手に入れた情報でしかないが、もしそれが事実なら、その脅威度も自ずと掴める。
そして、零自身には、その相手と戦えるだけの力がある。
だからこそ、簡単な慰めでは誤魔化せなかった。
「……そっか」
ようやく、それだけを言った。
希空が身体を抱き寄せると、零も抵抗せず姉の服を掴んだ。
暫く二人とも何も言わなかったが、やがて希空の胸元から小さな声が聞こえてきた。
「……俺が行ってたら」
希空の腕に、僅かに力が入る。
「零……」
「俺が一緒に行ってたら、父さんと母さん───」
「……今は、それ以上考えないで」
少し強い声だった。
零が顔を上げる。
「でも、俺なら」
「……うん。何か出来たかもしれない」
希空は、それを否定しなかった。
零には、それだけの力がある。六歳だからといって戦えないわけではなく、もし彼が「建御雷」に乗っていれば、結果が変わっていた可能性は十分にあった。
それは、希空にも分かっている。
「でも、お父さんもお母さんも、それを分かった上で零を残したんだよ」
「…………」
「来るなって、言われたんでしょ?」
「……うん」
「だったら、今はそれだけ覚えてて。お父さんもお母さんも、零にここにいてほしかったの」
零は、すぐには頷かなかった。
分かっている。
父と母は、自分の力を疑っていたわけではない。だからこそ、あの時の言葉が頭から離れなかった。
『父さんと母さんが、来てほしくないんだ』
二人が自分を拒んだわけではないことも理解している。
しかし、理解出来ることと納得出来ることは違った。
「……でもさ」
零が、ぽつりと呟く。
「……守れたかもしれないのに」
希空は何も答えず、もう一度その身体を抱きしめた。
今の自分には、それしか出来なかった。
零も、やがて小さく頷く。
納得出来たわけではない。それでも、姉の腕を振りほどこうとはしなかった。
少し離れたところでは、加奈が膝の上で両手を握り締めていた。
「……また」
その声に、士が隣を見る。
「加奈?」
「……また、家族いなくなっちゃった……」
普段の彼女からは想像しにくいほど、弱い声だった。
海斗は、加奈にとって幼い頃からずっと兄だった。美香も同じように、家族の中にいることが当たり前の存在だった。
何か特別なことがあった時だけ顔を合わせるような相手ではない。次に会えば、また普通に話せると思っていた相手である。
士も、かつてのように何か言おうとした。
しかし、今回ばかりは上手い言葉が思い浮かばなかった。
結局、加奈が伸ばしてきた手を握る。
「……うん」
それしか言えなかった。
秋吉は、抱き合う希空と零、その隣で手を握る士と加奈を順に見た後、暗くなったモニターへ視線を戻した。
「……国民を守るために、最後まで任務を遂行、か」
小さく漏れた言葉に、希空が顔を上げた。
「所長?」
「いや……今のところ、何とも言えないな」
本当に何も考えていないわけではない。
第二特務艦隊が壊滅的な被害を受け、その指揮権限が大きく削られた直後。
「建御雷」だけを、艦娘の随伴も無しに出撃させた。
そして現れたのは、上位個体だったという。
単なる不運だったのか。
それとも、別の理由があるのか。
違和感はあったが、今は証明出来るものが何も無かった。
そもそも研究所へ届いている情報そのものが、国防軍を通じて発表された内容である。
現場で何があったのか。
海斗と美香が何を判断したのか。
二人は、どのように戦ったのか。
それを知る者は、ここにはいなかった。
「……何か、変だと思う」
希空が呟いた。
秋吉は、少しだけ考えてから頷いた。
「……ああ。同感だ」
だが、それ以上は口にしなかった。
今は、家族を失ったばかりの者たちの前で、根拠のない憶測を並べるべき時ではない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
上層部は既に、海斗と美香の死を前提として動き始めていた。
その日のうちに、二人の戦死は全国へ広がった。
深海棲艦上位個体へ、単艦で立ち向かった英雄。
最後まで任務を遂行した司令官と艦長。
国民を守るため、壮烈な最期を遂げた軍人。
新聞もテレビも、国防軍の広報も、似たような言葉を並べた。
その内容は、完全な嘘ではない。
海斗と美香は、本当に最後まで戦った。
「建御雷」も、“戦艦棲姫”を相手に激しい砲撃戦を繰り広げ、幾度となく有効弾を与えている。
そして、最後には沈んだ。
しかし、その戦いを報じる記事の中には、語られていない部分があった。
なぜ、「建御雷」だけが出撃させられたのか。
なぜ、艦娘を随伴させることすら許されなかったのか。
なぜ、指定された航路の先で上位個体が待ち構えていたのか。
そうした疑問は、英雄的な戦死を伝える報道の中では、ほとんど触れられていなかった。
そして公式発表では、「建御雷」の乗員は全員戦死したことになっている。
……だが、実際には違う。
海斗と美香が退艦させた妖精乗員たちは、全員が生きている。
その全員を連れて逃げた“出雲”も、まだ海を泳ぎ続けている。
もっとも、“出雲”はそもそも正式な乗艦名簿に載っていなかった。
軍の記録上、彼女は「建御雷」に乗っていない。
それは、密航という形で乗艦したことによる、偶然の結果だった。
そして今、その偶然によって、彼女の生存は誰にも知られずに済んでいたのである。
日本の陸地が見えたのは、それから数日後だった。
「……あ」
“出雲”は泳ぐ手を止め、遠くの水平線へ目を凝らした。
最初は雲か何かにも見えたが、暫く眺めているうちに間違いないと分かった。
海岸線だった。
「……見えた」
掠れた声で呟く。
何日泳いだのか、途中から正確には数えていない。
休める時だけ休み、何かが近付けば潜り、太陽と星を頼りに少しずつ方角を修正してきた。
その間、一度も陸へ上がっていない。
一隻の船にも、助けを求めなかった。
服の内側から妖精たちが顔を出す。
「……日本ですか?」
「うん」
“出雲”は頷いた。
「帰ってきたよ」
そう答えて笑おうとしたが、上手くいかなかった。
それでも、妖精たちは嬉しそうだった。
顔を見合わせる者もいれば、その場で泣き始める者もいる。
“出雲”は止めなかった。
自分だって、本当なら今すぐ泣きたい気分だった。
ただし、まだ終わったわけではない。
日本が見えただけだ。
本当に知らせるべき相手へ、自分たちが生きていることを伝えていない。
「……もう少しだけ、頑張ろう」
そう言って、再び泳ぎ始めた。
陸が近付けば、周辺を航行する船舶や航空機も増えてくる。
例えそれが民間の漁船や旅客機であっても、沿岸を警備する海軍艦艇や哨戒機であっても関係ない。
音が近づいてくる度に“出雲”は姿を隠し、発見されないよう慎重に進んだ。
日本へ帰ってきたというのに、誰にも助けを求められない。
本来なら、これほど馬鹿げた話も無かった。
何年も国を守るために戦ってきた自分が、今は日本の船を避けながら泳いでいる。
しかも、敵襲を恐れているわけではない。
どこに敵がいるのか分からないからだった。
それでも、考えを変えるつもりは無かった。
誰か一人の悪意を見抜けなかっただけで、自分だけでなく、妖精たちまで失うことになるかもしれない。
海斗と美香が最後に残してくれた命を、そんな形で失うわけにはいかなかった。
沿岸へ近付いても、上陸はしなかった。
海岸線に沿って進み、人目を避けながら横須賀を目指す。
夜には道路を走る車両の灯りも見えたが、近付こうとは思わない。
それが警察の車両であっても、国防軍の車両であっても、普通の民間人であっても同じだった。
誰が悪いのか分からないからこそ、誰にも見つからずに進むしかなかった。
そしてようやく、見慣れた海岸線と、何度も航行した港への進入路が見えてきた。
横須賀である。
「……着いた」
“出雲”は小さく呟いた。
しかし、そこまで来ても軍港へ正面から入ろうとはしなかった。
夜を待ち、人の目が利きにくくなってから、海面ぎりぎりを進む。
警戒艇が近付けば潜り、港内を照らす光が向けられれば船体の陰へ身を隠す。必要以上の潜航は妖精たちの負担にもなるため、周囲の状況を見ながら慎重に進んだ。
かつて何度も帰ってきた場所だった。
それなのに今は、まるで敵地へ潜入しているような気分だった。
ただ、目指す場所だけは決まっている。
特務艦隊司令部。
そして、その司令部が置かれている艦娘母艦「建御名方」。
そこには、洋平と“鳳翔”がいる。
あの二人なら、信用出来る。
少なくとも、何も知らない相手へ救助を求めるよりは遥かに確実だった。
だからこそ、他の誰にも知らせずに直接二人のところまで行くと決めていた。
やがて、夜の軍港に「建御名方」の大きな船体が浮かび上がった。
「……あった」
何日もの間、何度も思い描いてきた場所だった。
だが、ここでもすぐには近付かない。
周囲の警戒状況と甲板上の動きを確かめ、誰にも見つからず接近出来る場所を探す。
そんな時、甲板の一角から小さな航空機の発動音が聞こえてきた。
夜だというのに、甲板上には照明が点けられている。
そして、一機の艦載機が発艦するのが見えた。
「……夜間発艦訓練?」
どうやら、甲板上ではまだ訓練が続いているらしかった。
同時刻。
艦娘母艦「建御名方」の飛行甲板では、二航戦の二人が妖精たちの夜間発艦訓練に付き合っていた。
「……ねえ、もう一回やるの?」
“蒼龍”が、足元の妖精へ尋ねた。
妖精は、何度も頷いている。
「さっきので終わりじゃなかった?」
「でも、着艦がちょっとずれちゃったもんね」
隣にいた“飛龍”が笑った。
その言葉に、妖精の操縦員がむっとした顔になる。
「……あ、気にしてる?」
「飛龍、そういうこと言っちゃ駄目だよ」
“蒼龍”が注意する。
「だって、本当のことでしょ?」
「そうだけど……」
二人は顔を見合わせ、結局一緒になって笑った。
傍らでは、穂乃果と凛もそのやり取りを見ていた。
四人とも小柄な少女だった。
穂乃果と凛は六歳。“蒼龍”と“飛龍”も、外見だけなら八歳ほどにしか見えない。
もっとも、二航戦の二人は既に簡単な発着艦程度なら問題なく出来る技量を持った空母艦娘であり、艦載機の運用についてはある程度熟知していた。穂乃果と凛もまた、ただの六歳児ではない。
ただし、だからといって普段の会話まで大人びているわけではなかった。
「穂乃果は、もう一回やってもいいと思うな」
穂乃果が、妖精の顔を覗き込む。
「ほら、やりたいって言ってるし」
「穂乃果までそう言うの?」
“蒼龍”が苦笑した。
すると、凛も頷いた。
「私も、もう一回くらいならいいと思う。夜の訓練って、あんまり出来ないでしょ?」
「うーん……」
“蒼龍”が少し考える。
その隣では、“飛龍”が楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、最後にもう一回だけ!」
「飛龍は最初からそうするつもりだったでしょ!」
「えへへっ」
結局、もう一度だけ飛ばすことになった。
本来の訓練予定は、既に終わっていた。しかし、妖精の搭乗員たちがもう少し練習したいと言い出し、二航戦の二人が付き合っているのである。
穂乃果と凛も、面白そうだからという理由でその場に残っていた。
もっとも、甲板上には訓練を補助する妖精たちもいる。発艦準備や灯火の調整など、それぞれの作業を分担し、夜間であっても安全に訓練出来るようにしていた。
やがて、一機の艦載機が発艦した。
小さな機体は甲板を離れ、夜空へ上がっていく。
「行った!」
“飛龍”が声を上げた。
「ちゃんと前を見ててよ。まだ終わってないんだから」
“蒼龍”が注意すると、“飛龍”は「分かってるよ」と答えながら空を見上げる。
穂乃果と凛も、飛んでいく機体を目で追っていた。
暫くして、艦載機が「建御名方」の周囲を旋回し始める。
そのまま決められた訓練コースへ入るはずだった。
───しかし。
『……あれ?』
通信越しに、操縦員の声が聞こえた。
“蒼龍”が顔を上げる。
「どうしたの?」
『海面に、何かいます』
「何か?」
『はい。右舷側、船体の近くです。漂流物……じゃないと思います』
“飛龍”も、すぐに海面へ目を向けた。
「人?」
『多分。でも、さっきまでは見えなかったんです』
二人は顔を見合わせた。
「……一回、見てみよう」
“蒼龍”が頷き、照明を担当している妖精へ声を掛ける。
「右舷側を照らしてくれる? 眩しくならないように、少しずつ」
妖精が頷き、照明の向きを変え始めた。
「何かいるの?」
穂乃果が尋ねる。
「うん。人かもしれないって」
“飛龍”が答えた。
凛は、すぐに海面へ視線を向ける。
「……こんな時間に?」
四人の表情が変わった。
つい先ほどまで笑っていた少女たちだったが、今は誰もふざけていない。
夜間の海面で人影が見つかったとなれば、何かあったに違いない。
照明がゆっくりと水面をなぞる。
しかし、目標らしいものは見つからなかった。
『……さっきは、確かにいたんですけど』
操縦員が困ったように報告する。
「もう一回、同じところを見てみて」
“蒼龍”の指示に従い、艦載機が旋回する。
『……あっ!』
「いた!?」
『はい! 人です!』
機体が少し高度を下げた。
艦の右舷側で、水面から顔を出した人影が、こちらへ片手を上げている。
「……本当に人だ」
“飛龍”が驚いたように呟いた。
しかし、次に送られてきた報告を聞いて、表情が変わった。
『……あれ?』
「どうしたの?」
『あの人、もしかして……』
操縦員の声が途切れる。
『……出雲さん?』
「えっ!?」
“蒼龍”が思わず声を上げた。
穂乃果と凛も、同時に海面へ目を向ける。
「出雲さん!?」
「どこ!?」
照明が、ゆっくりと人影へ近付いていった。
濡れた髪に傷んだ服、そして疲れ切った顔。しかし、その姿を見間違えるはずが無かった。
「……出雲さんだ」
“蒼龍”が呟く。
隣で、“飛龍”も目を丸くしていた。
「本当に……?」
“出雲”は、もう一度片手を上げた。
その動きを見て、ようやく四人とも確信した。
間違いなく、あれは“出雲”だ、と。
「……何で、あそこにいるの?」
穂乃果が、呆然と呟いた。
“出雲”は研究所で療養しているはずだった。
艤装も失っており、戦闘復帰の見込みも立っていない。
それが、何故こんな時間に、こんな場所で泳いでいるのか。
しかも、明らかに普通の状態ではなかった。
最初に動いたのは、凛だった。
「……お母さん!」
穂乃果が振り向く。
「凛?」
「お母さん呼んでくる!」
「あっ、私も!」
二人は顔を見合わせると、すぐに走り出した。
「お母さんなら、どうしたらいいか分かるよ!」
「うん!」
“蒼龍”と“飛龍”も、その判断を止めなかった。
むしろ、二人とも少し安心したようだった。
「……そうだよね。鳳翔さんを呼んだ方がいいよね」
“蒼龍”が呟く。
“飛龍”も頷いた。
二人は艦載機へ連絡し、“出雲”から目を離さないよう指示を出した。
その上で、舷側へ近付く。
「……出雲さん!」
“飛龍”が声を掛けた。
海面の“出雲”が、顔を上げる。
「……飛龍?」
「うん! 私!」
「……そっか」
“出雲”は、少しだけ笑った。
「……見つけてくれたんだ」
その声があまりにも弱々しく、“飛龍”は思わず“蒼龍”を見た。
“蒼龍”も、心配そうに海面を覗き込んでいた。
「出雲さん、大丈夫?」
「……大丈夫、とは言いにくいかな」
「えぇ……」
「……ごめんね」
“出雲”は、困ったように笑った。
いつもより随分と掠れた声だったが、それでも確かに本人のものだった。
“飛龍”は何か言おうとして、結局言葉に詰まった。
何故ここにいるのか。
どうして、こんな姿になっているのか。
聞きたいことは幾らでもある。
しかし、今はそんなことを聞いている場合ではなかった。
「……鳳翔さん、もうすぐ来るから!」
“蒼龍”が声を掛ける。
“出雲”は、その言葉を聞いて僅かに目を見開いた。
「……ありがとう」
その声は、とても小さかった。
「……出雲さんが?」
“鳳翔”は、娘たちの言葉を聞いて思わず立ち上がった。
「うん! 本当にいるの!」
「海の中!」
穂乃果と凛が、ほとんど同時に答える。
二人とも、かなり慌てていた。
ただ、その様子から、悪戯や見間違いではないことはすぐに分かった。
「……分かりました。案内してください」
“鳳翔”は、それだけを告げると、二人に続いて甲板へ向かった。
その途中で、当直に就いていた妖精の一人へ声を掛ける。
「救助の準備をお願いします。必要な人数だけで構いません」
「了解です!」
妖精は、すぐに準備を始めた。
“鳳翔”自身も、状況を確認するまで不用意に通常回線で報告を広げるつもりは無かった。
穂乃果と凛の話が事実なら、まずは“出雲”を安全な場所へ引き上げる必要がある。
そして、彼女が何故こんな場所にいるのかを確かめなければならない。
やがて甲板へ出ると、“蒼龍”と“飛龍”が舷側から海面を覗き込んでいた。
「鳳翔さん!」
“蒼龍”が振り向く。
「こっち!」
“鳳翔”は、すぐに二人のところへ向かった。
そして、照明の先にいる人影を見た瞬間、足を止めた。
「…………」
見間違いかと思った。
だが、そんなはずはない。
何度も顔を合わせ、共に戦ってきた相手である。
「……出雲さん?」
海面に浮かんでいた少女が、ゆっくりと顔を上げた。
「……鳳翔?」
それだけだった。
しかし、その返事を聞いた瞬間、“鳳翔”の表情が変わった。
“出雲”だった。
間違いなく、彼女自身だった。
「……どうして」
思わず漏れた言葉だった。
だが、すぐに考え直す。
今は理由を尋ねている場合ではない。
目の前の“出雲”は、明らかに疲れ切っている。
服は傷み、身体には幾つもの擦り傷が見えた。しかも、その表情には、普段の落ち着いた様子とは違うものがあった。
「……出雲さん。こちらへ上がれますか?」
「……手伝って、ほしい」
“鳳翔”が頷く。
「分かりました。すぐに準備します」
そう言って、傍らの妖精へ指示を出した。
「救助用の梯子をお願いします。それと、引き上げを補助するための索具も用意してください」
「了解!」
人間と同じ大きさになった妖精たちが、すぐに動き始める。
その間、“鳳翔”はもう一度海面へ目を向けた。
「出雲さん、もう少しだけ待ってくださいね」
「……うん」
返事はあったものの、声に力が無い。
“鳳翔”は僅かに眉を寄せた。
「無理に動かなくて大丈夫です。こちらで引き上げますから」
その言葉を聞いた“出雲”は、少しだけ安心したように頷いた。
しかし、すぐに口を開く。
「……鳳翔」
「はい?」
「……お願いが、あるの」
“鳳翔”は、黙って続きを待った。
「私がここにいること……まだ、あんまり広めないでほしいの」
その言葉に、“鳳翔”の表情が僅かに変わった。
普通なら、何日も海を泳いできたような状態で助けを求めている者が、真っ先にそんなことを言うはずが無い。
まして“出雲”は、長年にわたって国防軍に所属してきた艦娘である。
その彼女が、軍の艦艇へ救助を求めながら、自分の存在を知られないようにしてほしいと言っている。
「……分かりました」
“鳳翔”は、それ以上の説明を求めなかった。
「詳しいことは、後で聞きます。まずは上がってください」
“出雲”が、小さく頷く。
救助用の梯子が降ろされた。
しかし、“出雲”はそれを掴もうとして、僅かに顔を歪めた。
もう、腕にも脚にも力が入らなかった。
何日も海を泳ぎ続けてきた上に、元々の身体も完全には回復していないのである。
「……っ」
「出雲さん?」
“鳳翔”が声を掛ける。
「……ごめん。ちょっと、力が……」
その返事を聞いた“鳳翔”は、すぐに判断した。
「……分かりました。無理に登らなくて大丈夫です」
彼女は傍らの妖精へ向き直る。
「身体を支えられるようにしてください。引き上げる時も、急がなくて構いません」
「了解!」
“鳳翔”の指示を受け、妖精たちが救助用の索具を降ろし、慎重に“出雲”の身体を支えた。
胸元や肩に何かを抱えているような様子が見えたため、そこへ強い力が掛からないよう注意しながら、少しずつ引き上げていく。
“鳳翔”自身も舷側で待ち、甲板へ上がってきた“出雲”を受け止めた。
「……よく頑張りましたね」
“出雲”は、返事をしようとした。
しかし、足が甲板へ触れた瞬間、膝から力が抜ける。
「……っ」
「出雲さん!」
“鳳翔”が、咄嗟にその身体を抱き留めた。
“蒼龍”と“飛龍”も近付こうとしたが、“鳳翔”が穏やかに制止する。
「大丈夫ですよ。二人とも、少し場所を空けてくださいね」
「……うん」
二人は素直に頷いた。
穂乃果と凛も、心配そうに母の傍へ寄ってくる。
「お母さん、出雲さん大丈夫?」
「……怪我してるの?」
“鳳翔”は、“出雲”を支えたまま答えた。
「かなり疲れているみたいです。まずは休んでもらいましょう」
その時だった。
「……鳳翔」
“出雲”が、掠れた声で呼んだ。
「はい?」
「……私だけじゃ、ないの」
“鳳翔”が顔を上げる。
“出雲”は、自分の胸元へそっと手を当てた。
すると、服の内側から小さな顔が一つ覗いた。
続いてもう一人、さらにもう一人、次々に顔を覗かせる。
「……妖精さん?」
穂乃果が、不思議そうに首を傾げた。
凛も、その光景をじっと見つめている。
「……いっぱい、いる」
“蒼龍”と“飛龍”も、目を丸くした。
確かに妖精だった。
しかも、見覚えのある顔まで混じっている。
“鳳翔”は、暫くその姿を見つめていた。
そして、ようやく口を開く。
「……この方たちは?」
“出雲”が、小さく頷いた。
「……建御雷の、乗員」
その瞬間、周囲が静まり返った。
“鳳翔”の表情が変わる。
「……建御雷、の?」
“出雲”が頷くと同時に、彼女の胸元から、妖精の一人が顔を上げた。
「……鳳翔さん」
その声には、聞き覚えがあった。
長年、第二特務艦隊で勤務してきた妖精の一人である。
“鳳翔”は、思わず息を呑んだ。
「……あなたたち……」
妖精は、僅かに頷いた。
“出雲”が続ける。
「……みんな、いる」
そこで少しだけ息を整える。
「……一人も、欠けてない」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
『建御雷』
その名前は、つい数日前から全く別の意味を持つようになっていた。
深海棲艦上位個体との交戦で消息を絶った艦娘母艦。
海斗と美香が戦死した艦。
そして、乗員全員が戦死したと発表された艦である。
しかし、その乗員たちが今、目の前にいる。
“鳳翔”は、一度だけ目を閉じた。
それから、再び“出雲”へ向き直る。
「……分かりました」
声は、普段と大きく変わらなかった。
しかし、表情は引き締まっていた。
「このことは、まだ外へ出さない方がよさそうですね」
“出雲”が、ゆっくりと頷く。
「……お願い」
“鳳翔”は、周囲を見回した。
「皆さん、今夜ここで見たことは、許可が出るまで他の方へ話さないでください。訓練記録についても、通常の訓練終了として処理してください」
妖精たちが頷く。
“蒼龍”と“飛龍”も、真剣な表情で返事をした。
「……分かった」
「誰にも言わないよ」
“鳳翔”は、穂乃果と凛へも目を向けた。
「穂乃果、凛。二人もいいですね?」
「……うん」
「分かった」
二人とも、素直に頷いた。
普段なら何か質問していただろう。
しかし、今は“鳳翔”の表情を見ただけで、ふざけたり、余計なことを聞いたりしてはいけないと分かったらしかった。
“鳳翔”は、もう一度“出雲”へ向き直った。
「……出雲さん。歩けますか?」
「……多分」
「無理なら、私が支えます」
“出雲”は、自分の脚へ目を落とした。
立っているだけでも、随分と辛い。
だが、ここまで来た以上、もう少しだけ頑張りたかった。
「……それは、借りるね」
“鳳翔”は、ほんの僅かに表情を緩めた。
「ええ。そうしてください」
それから、“出雲”の片腕を自分の肩へ回し、身体を支えながら立ち上がらせる。
「……提督のところへ行きましょう」
「……うん」
その言葉を聞いた“出雲”は、ようやく少しだけ安心したように頷いた。
夜の「建御名方」の艦内を、“出雲”は歩いた。
何度も来たことのある場所だった。
知っている通路に見慣れた隔壁、何度も通った階段。
以前なら何も考えずに歩いていたはずだが、今夜は何もかもが違って見えた。
“鳳翔”は、出来るだけ人とすれ違わない経路を選んでいた。穂乃果と凛は母の傍を離れず、時折心配そうに“出雲”の顔を見上げている。
“蒼龍”と“飛龍”は甲板へ残り、訓練の終了処理を進めていた。
艦内では、普段通りの仕事が続けられている。
遠くからは、誰かの話し声も聞こえてきた。
つい先日まで、自分もそうした日常の中にいた。
そして、「建御雷」の中でも、同じような時間が流れていたはずだった。
“出雲”は、ふと足を止めかけた。
あの艦の中では、もう誰も働いていない。
機関室で計器を確認する妖精たちも、艦橋から各部署へ命令を送る二人も。
もう、そこにはいない。
ただし、すぐに胸元から小さな声が掛かった。
「……出雲さん、大丈夫ですか?」
“出雲”は、服の上からそっと手を添える。
「……うん」
少しだけ笑った。
「もう少しだから」
それは、これまで何度も繰り返してきた言葉だった。
だが、今は少しだけ意味が違う。
本当に、もう少しだった。
もうすぐ、洋平のところへ着く。
あの人の前でなら、きっと全てを話せる。
「建御雷」がどんな戦いをしたのか。
海斗と美香が、最後に何を残していったのか。
それを、伝えなければならなかった。
“出雲”は再び歩き始めた。
何も聞かずに支えてくれる“鳳翔”の肩へ、ほんの少しだけ体重を預ける。
そのまま、通路の奥へ進んでいった。
長官執務室。
洋平は、机の前に立っていた。
つい先ほど、“鳳翔”から直接、短い連絡があった。
ただし、詳しい説明は無かった。
───どうしても、直接見ていただきたい人がいます。
そう伝えられただけだった。
普段なら、理由を確認していただろう。
何故わざわざ直接なのか。
そもそも、こんな時間に誰が来るというのか。
しかし、今回ばかりは何も聞かなかった。
あの“鳳翔”が、わざわざそう言ったのである。ならば何か事情があるのだろうと判断した。
もっとも、洋平自身も落ち着いていたわけではなかった。
「建御雷」の消息が絶たれてから、既に数日が経っている。
国防軍は、海斗と美香を含む乗員全員の戦死を発表していた。
公式には、二人は英雄となった。
単艦で上位個体へ立ち向かい、最後まで任務を遂行した司令官と艦長。
その戦いぶりは、軍人としての模範であるとまで評されている。
だが、洋平にとっては違った。
自分の弟と、その妻だった。
何年も共に戦ってきた仲間であり、家族である。
そして何より、自分があの出撃命令を止められなかった。
その事実だけは、どうしても消えなかった。
だからこそ、“鳳翔”から連絡があった時も、最初は何か新しい報告でも届いたのかと思った。
あるいは、行方不明となっている「建御雷」の調査に進展があったのかもしれない。
そんなことを考えながら、待っていた。
やがて、扉が開く。
最初に入ってきたのは、“鳳翔”だった。
その後ろから、穂乃果と凛。
そして最後に、“鳳翔”に身体を支えられながら、もう一人の少女が部屋へ入ってきた。
洋平は、動きを止めた。
「…………」
見間違いかと思った。
確かに、少し前まで研究所で療養していたはずの姿だった。自分も何度か会っている。
肉体の再生が進み、ようやく普通に歩けるようになったことを喜んでいた。
しかし、何故ここに。
しかも、こんな姿で。
「……出雲?」
洋平が、ようやく口を開いた。
その声を聞いた途端、“出雲”の中で、数日間ずっと張り詰めていた何かが揺れた。
「……長官」
洋平が一歩近付く。
目の前にいる。
本当にいる。
何日も海を泳ぎ続けてきたらしい、疲労しきった姿だった。服は傷み、身体には幾つもの擦り傷がある。
立っているだけでも辛そうだった。
それでも、確かに“出雲”だった。
「……お前、どうしたんだ」
洋平が尋ねる。
しかし、“出雲”はすぐには答えなかった。
その代わり、服の内側へ目を落とす。
洋平も、つられるように視線を向けた。
そこで、初めて気付いた。
小さな妖精が一人、胸元から顔を出していた。
さらに、肩にも、服の内側にも、何人も。
「…………」
洋平の表情が変わった。
その妖精たちには、見覚えがあった。
少なくとも、幾人かは間違いなく知っている。
「建御雷」の乗員たちと、二特艦の艦隊司令部要員だった。
長年、海斗と美香の下で勤務していた者たち。
二人と共に出撃し、戦死したと発表されていた者たちである。
「……お前たち」
洋平が、呟いた。
妖精の一人が顔を上げる。
「……長官」
その声を聞いた瞬間、洋平は理解した。
“出雲”がここにいる理由。
彼女が何故、こんな姿になっているのか。
そして、何故“鳳翔”が、通常の通信を使わず直接連れてきたのか。
全てではない。
何があったのか、まだ分からないことの方が多い。
しかし、一つだけはっきりと分かった。
「建御雷」から、生きて帰ってきた者たちがいる。
「……そうか」
洋平は、ようやく声を出した。
「……そうだったのか」
それ以上、何も言えなかった。
“出雲”は、ふらつく身体をどうにか立て直した。
“鳳翔”の肩から、ゆっくりと手を離す。
「……出雲さん?」
“鳳翔”が、心配そうに声を掛けた。
しかし、“出雲”は小さく首を振った。
「……大丈夫」
そう言って、背筋を伸ばす。
軍人として。
艦娘として。
そして、海斗と美香から最後に託された者として。
「第二特務艦隊所属、装甲巡洋艦“出雲”」
一度、息を吸う。
声が震えそうになるのを、どうにか堪えた。
洋平は、何も言わずに彼女を見つめている。
“鳳翔”も、穂乃果も、凛も。
誰も、言葉を挟まなかった。
“出雲”は、胸元へそっと手を添えた。
そこには、「建御雷」の妖精乗員たちがいる。
海斗と美香が、最後まで守り抜こうとした者たちだった。
「……妖精乗員、全員と共に」
そこで初めて、目の奥が熱くなった。
何日も泳いできた。
誰にも助けを求めず、誰も信用せず、ただ帰ることだけを考えてきた。
自分一人なら、途中で諦めていたかもしれない。
あの光を見た時、その場で引き返していたかもしれない。
けれど、そうしなかった。
二人から託された命を連れて帰るために。
そして、二人が守ろうとした家族のところへ戻るために。
“出雲”は、最後まで言い切った。
「……帰還しました」
続く
あ と が き
結果的にあの密航が、二特艦人員の全滅を防いだ。
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