聖書を持つ少女
キクノ・ペトローヴィチは捕らわれていた。彼女は放浪の旅の末、この街にたどり着き、いつものように放浪していたが、ある日、夜道を歩いていると、突然、背後から誰かが殴り、気絶してしまった。そして目覚めたときには、見知らぬ処で、キクノは、椅子に両手と両足を縛られていたのだ。
「すると、君にここにたどり着いたのは人探しということかね? なるほど、なるほど、見上げた愛だよ。深い愛だ、実に素晴らしいことではないか」
その老人は盲目だった。それは内戦の際、砲弾の破片が彼の両眼をつき破ったからであった。包帯を両目に巻かれ、カウボーイハットを被っている老人は、薄暗い部屋の中、杖をトントン、と一定の感覚を持って地面を叩きながら、キクノの周りをぐるぐると歩いた。後頭部は鈍痛が走っている。そこは殴れたところであった。
「……私は、そうだな。君のぐらいのときは何をしていたのだろう。学生だったっけ、学生で親にすこしでも親孝行をするために───ああ、すまないね、この年になると、どうしても自分のことを吐露したくなってしまうんだ。心のうちに止めるべきなのに。私の悪いところだ。………それにしても、人探しか。君はその人を見つけて、どうするつもりなのかね?」
キクノは返事をしなかった。窓をすかして、聳え立つ都市の建造物を背後に立つ、包帯を両眼に巻いた老人を睨んだ。縛られているロープを解こうと足掻きながら。
老人は口をへの文字にし、足を止めた。そして、顎を撫でながら窓へ身体をむけた。
「答えないか。まあ、いい。私は、別に無視されても怒りに駆られるほどもう若くないのでね。すこしばかり悲しいが。………話を戻そう。人探しのためにここを来たのなら、君は実に正しく、幸運だ。ここはあらゆるものが集まる最後の街だ。ここにいないのなら、君がやるべきことはひとつだ。拳銃を手に持ち、こめかみに当てて──」
老人は拳銃を構える手の形を作り、それをこめかみにあてて、引く動作をした。そして撃ち抜かれた演技をした。老人は帽子を手に当てて、ニヤリと笑い、
「そういうわけだ。行方不明者、聖人君主、殺人鬼、吸血鬼、亡霊、探偵、狼男、鬼、亡命した政治家、暴力団。あらゆるものがここにいる。そんなところに来たのは、じつに正しい。そして、何より、この街には優れた探偵がいる。少々、生意気で皮肉屋なところがあるが、それ以外は完璧だ。機会があったら、彼に頼るといい、さすれば、君の道は開かれるだろう。まあ、もっとも、君が生きて帰れたの話だが」
老人はキクノに近づき、黒い服を纏った彼女の肩から触り、胴、腹、腰へ手を下ろしていき、ぶつかった腰に吊り下げてある聖書を手に取った。たどたどしくページを捲り、聖書を撫でていると老人はキクノにはっきりと顔をむけて、
「君は神を信じるのかい? どうなんだい?」と、いった。「私は昔はこれでも崇高な信仰者だったよ。毎日、教会に行き、神の祈りを捧げたし、聖書も何度も読み、神父の言葉をありたがく聞いたよ。おかげで、君がこの本について何も言わなくても、聖書だとわかる。──だが、いまはそうだな、私は信じないよ。私の視界が暗黒に、いや虚無に覆われたとき、私は神というものを信じなくなった。私が覚えていたあらゆる世界の像が風化していくさまをみて、私は神はいないと思ったよ。今や、もう、私はここに書かれている聖書の内容を一文字も覚えていない。さあ、君はどうかな」
ひとときの静寂が訪れ、時計の音が鮮明に聞こえた。
長く伸びた影法師も動きをやめ、薄雲に覆われた月は、雲の縁を優しく照らしていた。両手に縛られた縄を緩めようとしているキクノは横に目をやると、クリーム色の壁には、数々の家主の肖像画が笑顔を浮かべて、列をなして飾られていた。そしてその最後尾に、この老人の肖像画があった。そこに書かれている老人は若く、茶色の目があり、髪は黒色であった。───この男は死んでいるはずだった。
が、老人の隣に視線をやると、寝椅子に、眠るように死んでいる現当主が、血を流しながら座っていた。虚の瞳は何も映していない。その視線の先にあるのは、萎れた百合の花が入ったガラスの花瓶とぬらぬらとした血がまとわりついたナイフが置かれているテーブルだった。
視線を元に戻し、キクノは口を開いた。
「信じてません」冷ややかな声だった。「神なんて信じてません」
「ほう?」
老人は顔を伏せ、考え込んだ。
「信じてない。面白いことをいう。実際、君はこうやって聖書を肌見に身につけていただろう。それが何よりの神への信仰ではないか? それとも───」
「信じてません」
キクノは断言した。
これには老人は驚いたように口をぽかんと開けた。そして口を閉め、また口を開け何かを言おうとするが、結局言葉は出ずに黙った。
話題を切り替えよう、と思い、老人はキクノに背を向けて、肩を小さく揺らしながら、
「ときに」と、静かにいった。「この街がなぜ、霧の都市と呼ばれる理由を君は知っているか?」
返事はない。───キクノは袖からペティナイフを取り出すことが成功した。この街に生きるためのひとつの秘訣。いつだって、武器は忍ばせておくこと。キクノはペティナイフを握った。
このことを気に気づいていない老人は杖を地面に軽く叩き、
「霧の都市。果ての都市。まあ、この街は色んな名称があるが、最も有名なのは、霧の都市だろうな。そうだな、この都市を謳った歌の歌詞の中で一番有名なのは、『寝なさい、坊や、寝なさい。霧の鬼さんが戸を叩く 』……しかし、なぜそんな歌が残っているのだろうか? 疑問に思ったことはないかね。それはね、この街に、本当に霧の鬼が出るからなんだよ。わかるか? 君はさきほど私がいった、『行方不明者、聖人君主、殺人鬼、吸血鬼、亡霊、探偵、狼男、鬼、亡命した政治家、暴力団』というセリフを嘘だと思っているだろうが、違う、違う。本当なんだよ。この都市にはおとぎ話に出る怪物はいる……さて、君はこう思っているだろう。『そんな奴はいなかった』と。ああ、なるほど、たしかにここに、殺人鬼や暴力団、行方不明者、亡命した政治家はいるが、魑魅魍魎はいない。
老人は無表情のまま振り向き、少女のまわりを優雅に踊るようにぐるぐると回り出し、
「そう、普通は、だ。つまり、裏を返せば、あるとき、その魑魅魍魎が現れるということだ。わかるか? 君もそろそろ話が見えてきたんじゃないか。つまり、その『あるとき』というのは、まさしく霧がこの街に覆われたときなんだよ」
血まみれのイモリのようなナイフを握った。
「わかったかね。私が、なぜいまもこうして生きているのか。なぜ、私は我が息子を老齢で、盲目なのに、殺すことができたのか」
ペティナイフで縄を削っていきながらキクノはゆっくりと口を開いた。この質問に答えるために、「……あなた、外道に堕ちたのですね」
「ひどいことを言わないでくれ。私は生きるためにこの体になったのだ。彼らは目を奪われた私に新しい人生をくれたのだ。私が目が見えなくなったとき、どんぐらい絶望になったか、君は知らないだろうけど、だけど、まあ、いい。いい加減、私もこの会話に飽きたころなんだ。霧がまた現れたとき、君のその生血をいただくとしよう、今日は運がいい、活きがいい女をふたり手に入れることができたんだから」
一歩。二歩。三歩。と、杖でしっかりと距離を測ってゆっくりと近づき、少女へ血濡れたナイフを振り上げようとした瞬間だった。
キクノを縛っていた縄が裂けた。彼女はペティナイフで、老人が話している間、縄をひとつひとつ傷をつけていたのが報われたのだ。
老人はナイフを振り下ろした。キクノはペティナイフを逆手に持って、そのナイフに横に振り、当てた。甲高い音が響く。
鍔迫り合い。老人の方が上だった。老人が持つナイフは滑り、どんどんとキクノの可憐な指に迫ってくる。それをキクノは体をひねり、その力を使うことで受け流した。
が、その勢いで椅子は横に倒れる。絨毯にキクノの体は打った。ちくちくとした感触。左上腕が焼き付くような熱が走っている。彼女はそこをさわると、粘着性がある赤い液体が指に付着した。キクノは気にせず、すぐさま、足を縛るペティナイフを切り、立ち上がり、後ろに飛び下がった。それから老人を見据えた。
老人は困惑しているようであった。音がした方角へ顔をむけ、片手にナイフを持ち、杖をトン、トンと叩きながら、
「なぜ、解けているのだ」
と、呟いたが、即座に、「ああ、そうか、君はペティナイフを忍ばせていたのか、それなら納得だ。ああ、そうだった、そうだった。この街で武器を潜めていないものなどいないはずだ、道理だ。しまったな、部下になにか潜めていないか調べるべきだったな、私も劣ったものだ……」
そうして老人は首をゆるりと振った直後、キクノの目の前に迫る一点の黒があった。
キクノは首を横に倒し、避けた。
杖が、彼女の背後の壁でぶつかった。そして老人は足を力を込め、一瞬にしてキクノに肉薄した。
恐ろしい速度の突き。横に飛んで、キクノは避け、返しに伸び切った腕へナイフを振る。老人は転がり、キクノは空を切った。
刃が空気を裂く音。あたりを舞うカウボーイハット。
と、老人は転がる勢いにまかせ、その音の方角へ蹴りをした。キクノは防ぐことができず、当たる。
瞬時にして、体は吹っ飛び、たたらを踏むことになる。じんじんと痛む腕を無視し、キクノは体勢を立ち直すために、足を一歩下げると、硬いものにあたった。
壁。クリーム色の壁がそこにあった。その上にはこの家主たちの肖像画がある。肖像画に描かれた男たちは、無関心にこの戦いを見下ろし、微笑んでいる。
「君は」老人は自身の汚れた包帯を撫でながら、カウボーイハットを手探りで拾い「手慣れているね。君のその美しい声や体つきに似合わない凶暴性だ。殺すことに躊躇がない、うん、ますます君はここにきて正解だ、か弱いレディはここで生き残ることはできないだろうから」
「そんな、あなたことこそ───」
荒れる息をおちつかせて、キクノは薄明るい照明に照らされているガラス張りの額に入った肖像画を眺めていた。
「盲目なのに、ずいぶん元気じゃないですか。その運動力を使って、路上パフォーマスをしてみたらいかがですか? きっと、たくさんの方が黙らせれることでしょうね」
「そうかね? この体になって以来、私は周囲に、敏感になったようでね、音や触覚でだいたいの物の位置を特定できるようになったのだよ」
その言葉には返事をせず、キクノは全力で後ろ回し蹴りで壁にうった。
壁が震えた。
その行動に、老人は眉を上げ、なにをしている、と口を開こうとしたとき、肖像画のガラスが砕ける音が響き、破片が飛び散る。老人は意図を察した。横へ避けようとしたが、そのときにはもう遅かった。ガラス片の閃きの中で、すでに刃は放たれていた。
静寂。口を開けたまま、老人はのけ反った。その額にはペティナイフの刃先が深くまで刺さっていた。血がその隙間からじわりじわりと滲み出て、頬から顎へ伝って顎へ落ちていく。
老人のナイフが音を立てて床に落ちた。それから遅れて老人は仰向けとなって倒れ込んだ。
が、キクノは余韻に浸る暇はなく、周囲に音を傾けた。
無音。自身の荒れている息と弾む音以外は聞こえない。
キクノは扉へ視線をむけて、その下に影が立っているのを眺めた。誰もいなかった。テーブルに置かれた一文字も読んだこない聖書を手に持つと、窓へ歩み出す。見下ろすと、かなりの高さがあることがわかった。3階の高さぐらい。この窓の真下には庭が広がっていて、その奥にはフェンスを挟んで、歩道があった。向かい側にはマンションがあった。庭には人影はなかった。
飛び降りても構わないが、どこかしらの骨を折る可能性はありますね、とキクノは思い、思案する。
この館の建物の構造、敵の配置、すべてがわからなかった。あのドアから行くには、あまりにも無謀であった。と、なると、ここから降りるしかない、と決めた瞬間、眼下の景色が霧に包まれはいじめた。庭やマンションや歩道が見えなくなった。一瞬、キクノは悩んだが、窓を開けて、飛び降りることにした。窓を開けた。霧がこの部屋に蛇のように流れ込み、床を這った。そうして窓枠に手をかけるとき、
「痛いじゃないか」と、震えながら、言う声が後ろからした。
ぱっとキクノは振り返ると、老人がマリオネットのようにゆらりと仰向けのまま、立ち上がっていた。体勢が完全に正すと、迷いなく刺さったナイフに手を伸ばし、つかんだ。抜き、ナイフを放り投げた。血がだらだらと流れる。
が、老人はそのことを気にしないように首の骨を鳴らした。
そのとき、流れた血がぴったりと止まると、逆再生を流したかのように血が傷口に戻った。それから傷も塞がっていった。驚いたキクノはただ、呆然とそのさまを眺めていた。
「ああ、危なかったよ、本当に危なかった。麗しきレディがまさかそんな手を持っているとは、私は知らなかったよ。いけない、これは不覚だよ」
と、老人は疲れたようにいいながら、震える両手で巻かれた包帯を解いていき、解けた包帯を受け止めた。それから振り返り、キクノをみた。赤い光が、顔に灯ってた。赤い瞳が、老人の怪我したはずの目に、あった。そして口を開くと鋭い犬歯がのぞいていた。
「さて、第二ラウンドと行こうか」
吸血鬼。
それを理解したとき、キクノは動き出していた。窓枠を握る指先に力を込め、一気に夜の霧へと飛び越えていた。キクノは霧のせいで見えない地面へ落ちていく。
衝撃。
鋭い痛みが走ったが、これまた無視して、立ち上がって、門へ走り出した。パン、パン、パン、と三発、銃声が聞こえた。何かが壊れた音がした。人影がみえた。が、すべてを無視して、キクノは上体を低くして、ひたすら前へ、前へ進んでいき、門を越えた。
霧の中に雨粒が混じりはじめていた。霧につつまれた都市は、さながらもはや忘れてされてしまった名前を忘れた古き都市のようで、霧は彼女が足を踏み出すたびに、周囲の道を開かせていた。雨粒に濡れながらキクノは本能的に左へ進みつづけた。どこかへいくことがわからないまま、雨で濡れて黒くなった道路を踏みしめた。そのとき、パン、と聞こえた、一発の銃声は、彼女がこの街を放浪した日々の別れを合図しているようであった。
やがて坂道を登りきったとき、キクノは疲れて切っており、力無く倒れた。そこでやっとキクノは右肩に激しい痛みが走り、そこが脱臼していることに気づいた。ここは住宅地で、周囲の家たちはぽつりぽつりと、窓から灯の光が洩れ出ていた。
雨足はさらに激しくなり、彼女の体を濡らしていく。10月の肌寒い日だった。彼女はせめて、聖書が濡れないように胸の前に赤子のように抱き寄せ、丸まった。そして、ふと、
なぜ、私はこの聖書を大事にしているのでしょう、と彼女は思った。
彼女は、神の救いというものを信じたことはない。神は世界というものを作った以降、もはやこの世界に干渉することは無くなった、と彼女は思っている。神はこの世界を愛している、というが、それは全くの真っ赤の嘘である、と彼女は硬く信じていた。神は沈黙を貫く。それが、神というものだった。
したがって、この神の救いや道徳を説く聖書なんて価値はないはずである。が、ここまで放浪の旅で、もはや誰もいない鉱山で雨やどりをしていると、石炭が積まれたトラックにそっと置かれていた聖書を目にしたとき、この聖書を手に持っていた。そして、ここまでずっと待ち歩いていた。
そのことを疑問に思いながら薄れていく意識のなか、彼女が最後にみた光景というのは、霧の中、傘を差すゆるゆるのネクタイにスーツを着たひとりの男の姿が、彼女を見下ろしているというものだった。