依頼の件に付きましては、失踪人の行方一切を調査下されたく候。失踪人の氏名はソフィア・ヴァレンタイン・グロース、性別は女子、年齢十八歳、学生に御座候。当人は依頼人の娘にて、去る三週間以前より消息を絶ち、いまだ行方知れずに候。本件、極秘に御取り計らい下され度く、調査に関しては貴殿を全面的に信任仕り、必要の資料等は惜しまず差し出す所存に候。
右、依頼申し上ぐる次第に御座候。
XXXX年十月十八日
依頼人氏名 マグナス・ヴァレンイン・グロー 印
私立探偵イヴァン・カヴァーノ殿
その日、イヴァン・カヴァーノが意識を失ったキクノに出会ったのは、偶然としかいうほかなかった。その朝、依頼を受けた彼は指定された場所へタクシーで向かっていた。昼ぐらいになると、その場所へついた。軍管区本部だった。
彼は受付を抜け、階段をのぼり、長い廊下の軋む床を歩き、突き当たりにある将軍の執務室の扉の前で止まった。そして自身の服装を改めて、確認した。
イヴァンは、黒いスーツに、真っ白の絹のシャツ、そして黒いネクタイを正しく締め、胸ポケットには紫色のハンカチをのぞかせている。靴も穴飾りのついた黒い革靴を選び、靴下も無地の黒を選んでいた。
イヴァンは、曲がっていないネクタイを何気なく左右に揺らした。そして靴へ視線を落とし、汚れていないのかを確認する。問題はなさそうだ、とイヴァンは思い、ニスが塗られた黒の大ドアをゆっくりと3回、ノックした。
数秒すると「入れ」と、いう声が聞こえた。
低く、厳粛な声だった。余計な世話話はいらない、とでも言わんかばかりに。
イヴァンは、「失礼します」と、いって、扉をあけ閉めると、右手側の開け放たれた窓のカーテンが揺れた。風が吹き、カーテンは大きく揺れ、紙の匂いとインクの匂いが鼻をかすめた。
奥には執務机に置かれた書類の山に囲まれた将軍がすわっていた。銀色の短髪、書類に落とされた視線。その鋭い青目の両端には、あらゆる戦局を看破してきたことの証のように、細かい皺があった。胸ポケットには銀の星を月桂の葉が囲み、中央に血のように赤い石を嵌めたバッジが輝いていて、まるでこの街が流してきた血の結晶のような風情だった。
訪問者に目を向けずに将軍は、書類にペンを走らせながら、片手を挙げると赤いソファーを指差し、
「そこに座ってくれ」と、いった。
イヴァンは何も言わずいう通りにした。すわる。心地の良いソファーだった。
それから、沈黙。
ペンが走る音が断続的に響き、その音に混じったコチコチ、と時を刻む音がした。
「五分だ」将軍は突然そういった。
「え?」
「五分でこの書類を終わらせる。タバコでも吸って待て」
「今日、俺は、……いや、私はあいにく持って来ていません」
「なら、この部屋でも見回っておくといい、つまらん部屋だが」
それで話はおしまい、という感じで将軍は黙った。イヴァンは席を立ち、あたりへ歩を進めた。
部屋には、さきほどまで彼が座っていた、来客用のソファーとローテーブルが中央にあり、その両端にはガラス張りの本棚があった。ガラスの先には軍用の本や数々の仕事の書類が詰まったファイルがあり、中には、おそらく、上からもらった、詩や小説などが混じっていた。そして、写真立てがひとつあった。
その中のセピア色の写真には、教会の前に止まった黒い車を背にして、三人、男性がふたり、ぞ女性がひとり、立って微笑んでいた。女性が中央に立ち、両手を膝の前に組み、その端に男性たちが、腕を後ろに組み、立っている具合だった。全員、若く、その腰には軍刀を差し込んでいた。
彼らは、これからの未来を待ちのぞっているかのように、熱っぽい希望に満ちた目線をむけていた。おそらく、将軍だと思われる右手側の男は、穏やかそうに微笑んでいた。
「イヴァン・カヴァーノ」横から声がかかった。「それが、君の名前であっているな」
イヴァンは椅子に座っている将軍に視線をやり、
「ええ、そうです。間違いありません」
「わかった。君はどのように呼ばれたい、そして追加の質問として、君は酒かコーヒーどっちを飲む」
「イヴァンでお願いします、そっちの方が耳に馴染みがあるので。あと、私はコーヒーが飲みたいです」
「コーヒーか、よかろう。イヴァン、ソファーに座ってくれ」
将軍は抽斗から開けて、そこから一枚の封筒を取り出すと、立ち上がった。そして部屋の端に置いてあるコーヒーサーバーを手にとった。鉄のお盆に置かれた、カップにコーヒーを入れると、将軍はソファーに座り、イヴァンと自身の手前にカップを置き、封筒を真ん中に置いた。
「私は秘書にあれこれやらせるのが苦手だ。秘書はあくまで私の仕事を手伝ってくれるのであって、こういう些細なことを秘書にやらせるのは門違いだと思わないかね、イヴァン」
「そうですね、執事ではありませんではないので」
「そうだろう。ああ、安心してくれ、秘書はここにいない。彼には人払いをさせてもらっている。ここに来る際に、兵士がいなかっただろう」
イヴァンは頷いた。たしかに廊下には誰もいなかった。
将軍はコーヒーを一口のみ、
「さて、これで余計な話を終わりにしよう。これからは依頼者として君に必要な情報を話そうではないか、それとも、君はアイスブレイクが欲しいかね」
「いえ」
「なら、いい、早速だが──」将軍は前にあった封筒を指で押すようにしてイヴァンの前へ滑らせた。「───これを読んでみてほしい」
イヴァンは封筒を開け、一枚の紙を取り出した。それは、小さな手紙でこのように書かれていた。
・ ・ ・
イヴァンはしばらくその字を眺めた。急ぎで書いたようで、紙の端には、インクが点々とあり、滲んでいた。
「それは個人的につながりがあるものが教えてくれた情報だ、知っての通り、我が娘が失踪した。失踪して、もう数週間は経っている。それで、君の結論は?」
「まだ、何もわかりません、失礼ながら、将軍の───」
「マグナスだ」
「マグナス?」
「ああ、私の名前だ、将軍というむさ苦しい称号で呼ぶな。マグナスと呼べ」
「せめて、マグナス将軍はダメですか」
「それなら、まあ構わない」
「わかりました、それではマグナス将軍の娘の情報を教えてくれませんか」
「アレの、情報か」
「アレ、とマグナス将軍は言うのですか」
「ああ、その呼び名が一番相応しいだろう」
「なるほど、話を続けてください」イヴァンは思うことはあったが、それを口には出さなかった。
「わかった、そうだな、アレは、私の娘だが、頭が弱い。自分で何かを決めることはできないし、基本的に、何かを考えることを極端に嫌う。それを私は何度も直そうとしたが、まあ、徒労に終わった」
「図書館にいくことはない、と」
「そうだ。行くとしたら、まあ、顔のいい男の家だろう。アレは、見た目は我が妻に似ているから整っている。引く手は数多だろう」
「……なるほど、だからわからないわけですね」
「ああ、ところで今思ったことだが、アレはいま、男の家にいるのではないか、と思ったのだが、どうだ」
「ありえません」
「その理由は?」
「理由としては二つあります。ひとつは、まだあなたになにも要求をされていないという点。あなたの娘ですよ、誘拐するとしたら、その父、あなたから、金やら地位やら要求できるはずです。それが、ないのなら、誘拐される理由がない」
「ふむ、二つ目は?」
「ふたつめは、そもそもとしてその娘の父が、あなたということです。どんな馬鹿者でも、あなたに立ち向かうのは、無謀とわかっています。それも、この街の内戦で、伝説となったあなたに。あなたは、この街の市長と並んで、権力があるのに、それにたてつくのはおかしい、並の男なら、とんでもない爆弾なので、抱えたくはないでしょうね」
将軍は両手をこすり合わせた。その両手には、戦いの時にできた古い斬り傷や銃弾に打たれた跡が深く残っていた。それから将軍は口を開き、低い声で、
「わかった。その線はない、とわかった。なら、なぜ彼女は失踪したのだ」
「そうですね、考えれるのは、ひとつとして、自ら失踪を選んだか」
「自ら?」
「ええ、自らです。……そうですね、すこしばかり回り道をしましょう。ほら、みてください、あの窓からみえる都市を、………あそこには、夥しいの建造物があって、地下には電車が通っていて、地上では車と通行人に溢れています。その誰もが、帰ります。出かけたて、自身が帰ったところに戻ります。どんな目的があれ、その最終的の終着点は自身の巣です。だけど、ときたま、出掛けっきり、戻ってこない人がいるんです。もちろん、その中には、誰かに誘拐された、という人はいますが、その中にはこの都市から、ここから逃れるために、失踪する人もいるんですよ」
「───ふむ、アレが逃げた。ありえないと思うが、可能性としてはあり得るな」
「ええ、だけど、一番可能性があり、一番最悪の可能性があります」
そこで、イヴァンは長い間、沈黙を守った。コーヒーを飲み、前へ体を傾けていたのを直すと、後ろへそくり返り、背に体重を預けた。それから口を開いた。
「殺すために、攫われた。───以上が、いま一番可能性があるものです」
それを聞くと、将軍は黙った。ポケットからタバコを取り出し、火をつけると、くゆらせ、目を閉じて考えた。そして目を開き、立ち昇る紫煙を眺めた。
「私が」将軍はいう。「なぜアレを探しているか、わかるか?」
「親としての愛ですか?」
「愛?」将軍はふん、と鼻で笑った。「まさか、アレには愛など微塵もない。アレは、我が妻が生み出した悲劇だ。妻に下された不条理にひとつだ。アレ自体がどんな末路になろうが、私には知ったことではない」
「なら、なぜ……」
「簡単だ、この忌々しい称号のせいだ。いいか、私はこの街の顔のひとつだ。鬱陶しい限りだが、君の言った通り、私はこの街の英雄となった。だが、それゆえに私はあらゆるスキャンダルを気にしないとならない。私は夜に妻以外の女と並んで歩くのは許されなくなった。たとえ、それが義務報告で近寄ってきたであろうが、だ。私は企業の社長と楽しく食事をすることが許されなくなった。………わかるか、私はいまや、私が命をかけた民衆に縛られているのだ。私に、求められているのは、本に出るような、完璧人間の英雄であり、決して、血が通ったものを、出来損ないだからといって愛さない英雄を望んでいないのだよ」
「だから、彼女を見つける必要がある、と」
「ああ、わかってもらえたかね。つまり、私は、言いたいのは、ひとつ。死んでも生きてようが、関係ない。アレを見つけることが絶対条件なんだ。わかったかね」
と、将軍は言うと、こわばった肩の力を抜くためにタバコを吸って、吐いてから、一本タバコを取り出し、それをイヴァンに差し出した。これは契約であった。けっして、気遣いなんかじゃない。
イヴァンは、数秒目を伏せ、短く息を吸い、顔を上げる。
もう引き返すには遅すぎる、と彼は思った。
それを受け取った。火をつけてもらった。
かなり重い。馴染みがなく、まずい、と感じた。
「前金、五十セリオンでも構わないかね」
「ええ、十分です」
「ありがとう、では仮にアレを見つけることができたら、三百セリオンを渡そう、必要経費や警察、軍の協力が必要なら私が支援しよう。期限は気にしない」
「それは───いうことがありませんね」
「そうか、ならいい、それでは、そろそろ私は仕事に戻ろう。忙しいのでね」将軍は席を立ち、一枚の紙にさらさらと何かをかくとその紙を破り、イヴァンに渡した。「これに書かれているやつが私の息がかかっているやつだ、助けが必要なら呼びたまえ」
イヴァンは礼をいい、それを丁寧におって、ポケットにしまった。そして灰皿にタバコを押しつけ、ジュという音を立てて火を消し、立ち上がると戸口まで足を振り出した。
数歩歩く。止まる。それから振り返り、
「ひとつお聞きたいことが」と、いった。
「ああ、なんでも聞きたまえ」
「あなたは、娘さまのことをほんとうにどうでもいいのですか?」
将軍は不快げに眉をひそめた。「そうだ、私はさっきそういったが、疑っているのかね」
「いえ、ただ、気になっただけです。まさか、本当は殺したかった、と思っているとはわけありませんよね」
沈黙。
将軍は走らせていたペンを止め、ことりと机に置くと、両手を組み、
「私のことをあまり馬鹿にしないで欲しいものだね」と、いった。
イヴァンと将軍は見つめあった。イヴァンが先に微笑んだ。
「そうですよね、すいません。ジョークにしては面白くないですよね、それでは私はここで」
そういうとイヴァンは玄関まで足を振り出し、取手に手をかけようとするとき、後ろから将軍の声がかかった。
「いいかね、イヴァン。私からの助言だが、私は賢い奴は好きだが、その中でも特に好きな奴がいるがいる。頭も回るし、切れ、すぐに物事の道理に気づき、それを解明することができ、かつ知的好奇心が溢れている。しかし、その好奇心を抑えることができ、身をわきまえて、余計に踏み込まず、素直に身を引くことができるような、そんな賢いやつが、私は好きなんだよ。私はね、君がそんな賢いやつであると願っているよ、医者が、何かしらの手術する際、余計のことを考えないように、君も、患者の不安な部分や危険な部分を完璧に取り除いてくれるのを期待しているよ」
その言葉を無視して、イヴァンは出た。
柔らかな日差しが差し、窓の影が落ちている、長い廊下を歩く。
軋む音。数秒すると木製の階段につき、そこを降りていく。階段を降りる途中、兵士とすれ違った。互い、一瞥するだけで話すことなく過ぎっていった。階段を降りきり、またドアが連なる廊下を歩き、受付がある玄関までたどり着き、外を出た。
外はまだ明るく、風が吹いた。寒かった。
兵士の訓練する声や号令が聞こえ、右にグラウンドを一周している兵士たちの列があった。
壁に寄りかかり、居眠りをしている兵士に、一匹の痩せた蝿が、疲れ切った様子で周りを旋回していた。兵士に止まった。そしてすぐに飛んだ。その行先を追っていくと、砂利と小石が混じった、一本道の先の門にひとりの男が佇んでいることに気づいた。その男は、ヒョロリと細い体格をしていて、猫背であった。腰には軍刀を差し、もう片方には拳銃が差してある。軍服をきちりと着ており、寸分の狂いもなく、バッジがつけてあった。
男は、クマができた深い黒の瞳で、イヴァンが近づくのを捉えていた。男は無表情のままで、金髪を撫でてて、待った。
「マグナスさまが」イヴァンが門につくと、口を開いた。「あなたさまをお迎えをしろ、と命令されました……」
「あんたが例の秘書か」
「ええ」
「ありがとう、助かったよ」と、いって手を差し出した。
握手を交わした。
「なあ、あんた。俺は思うのだが、あいつのことは何も言わないのか、兵士が居眠りは許されないんじゃないか」
「彼は………昨日、夜に任務がありまして、………それで、今日、あなたさまが来るということで、居眠ることを見越して、配置しました」
「なるほど、さすが、将軍さまの右腕といったところか」
彼らは歩き出した。門を離れ、右へまっすぐと歩を進め、タクシーが通りやすい、並木が並ぶ道路で止まった。自動車が前を過ぎていく。タクシーが来た。手をあげ、タクシーを止める。そしてイヴァンは乗ると、将軍の秘書は、胸ポケットから小切手を切って、それをタクシーに渡した。タクシーのムッと熱された匂いが香ってきた。
「それでは、また会おう、と将軍に伝えてくれ」
秘書は頷いた。そして車は動き出した。イヴァンは流れ出す景色のなか、ちらりと、軍管区本部をみた。石造りの建物の中、開け放たれた窓からカーテンが木の葉のように揺らいでいて、将軍が見下ろしていた。冷然とした、あの鋭い目つきで。
将軍は娘のことをまだ話していないことがある、それがイヴァンがマグナスの印象だった。
その後、イヴァンはオフィスにつくと、タクシーから降り、長い階段を登り、ドアの鍵を開けて、オフィスのなかへ入った。あかりをつけた。黒革のソファーに座った。両足を交差するように組み、ローテーブルにあげた。ネクタイを緩め、ローテーブルに置かれたタバコ箱から一本取り出し、火をつけて、一服した。馴染みのある味。うまかった。
腹が減ったな、と立ち上る紫煙を見ながら、イヴァンはそう思った。
が、その前にどうしても確認したいことがあった。彼は灰皿でタバコの火を消し、両足を組むのをやめると、席を立ち上がった。そして机に置かれた電話を取り、将軍からもらったメモからとある番号を探した。あった。電話をする。
プー、プー、とコールの音がしばらく続いていた。
電話が出るまでに、イヴァンは、机に置かれた紙のカレンダーをみた。十月十八日。さらに視線を走らせる。時計。観葉植物。机の上の黒の文鎮。それに固定された今回の依頼書。ラジオ。彼の若き頃の母親が卒業したときの微笑みを湛えた写真。それは、彼の父の遺品だった。本来は、もうひとつ、父と母が結婚したときの写真があったのだが、見るたびに涙が出そうになるので、仕舞ってしまった。このオフィスは、もともと、彼の父のものだった。
電話に相手はやっと出た。
『もしもし、誰ですか』
神経質そうな声であった。
「聞きたいことがある」イヴァンはそういった。
『はい?』
「ソフィア・ヴァレンイン・グロースという名の女を知っているな」
『誰ですか? あなた』
「ソフィア・ヴァレンイン・グロースという名の女を知っているな」
電話の相手はしばらく沈黙をした。『……知っていますが、それより質問に答えてください、あなたは誰ですか?』
「マグナス・ヴァレンイン・グロースと親交がある」
『マグナス将軍と? 私はあなたみたいな声をした人はなんて知りませんよ』
「最近だよ、それもついさっきだ」
『…………』
「それより、話の続きだ、ソフィアという娘は、市立図書館にいたんだよな」
『ええ』
答える気になったようだが、その声には侮蔑な念がこもっていた。
「それだけか?」
『それだけ?」
「ああ、この情報以外、ほんとうにないんだよな」
『たしかにそうですが』
「……いいか、俺にいま、手元にある調査書を読み上げようか、『査に関しては貴殿を全面的に信任仕り、必要の資料等は惜しまず差し出す所存に候』と、書かれている。この意味がわかるか?」
『ええ、まあ』
「なら、なんでもいい、手がかり、となりそうな情報を吐け」
しばらく、沈黙が走った。3秒間ぐらい。『無理だね』
「なるほど、余程のバカだな、お前は」
『無理だ、この話をするなら、それ相応の態度を見せないと』
「態度だと? おまえ、まさか、ここに来ても、金の話をするつもりなのか」
『ええ、そうでしょう。マグナス将軍にこの情報を教えたのも、それ相応の〈態度〉を見せてくれたからだ』
「………」
『わかるでしょう、私だって、暇じゃない。ボランティアをするようほど暇じゃないんですよ、わかりましたか? それでは私は電話を───』
「夜だ」
『え?』
「今日の夜、十一時半、『大いなる別れ』と書かれているバーで待て」
『何をいって───』
プツリ、とイヴァンは電話を切った。それから、机の傍にあった、回転椅子に座った。そして背もたれに体重を預け、時計を見た。十七時四十三分。そして目を閉じた。十分が経つと、目を開けた。横に目をやり、先の窓の景色をみると、外は暗かった。街灯の灯りは、急につき始め、建物も灯りがどんどんとついていった。
彼は立ち上がると、オフィスの明かりを消して、外を出た。
夕飯としてステーキを食べ、オフィスに帰った。そしてラジオをつけ、暇を潰した。ふと、時刻を見ると、もうすぐ時間になりそうだった。外をもう一度、出ようとするとき、霧に包まれていたことに気づいた。ラジオから「霧が発生しました、外出はお控えしてください」と、喚起されていた。それと、雨が降っているということをわかった。イヴァンはプラスチック製の傘を手に取り、外を出た。
霧はどこまでも広がっているように思えた。まだ、化け物が出るには早すぎる。おそらく、まだ都市全体を包んでいないだろう。彼は傘を開き、降る雨が傘に当たる音を聞き流し、歩き続けた。住宅街をぬけるためにはこの道をまっすぐといかないとならなかった。やがて坂道があるはずだった。彼は、両端に濁った雨の流れがちょろちょろと流れている歩道を歩き続けた。
そして坂道へ着くと、そこに彼女が───キクノが倒れていた。イヴァンは足をピタッと止め、彼女のもとへ歩み寄り、傘を差し出した。彼女は、遠いどこかへいくような目つきで、彼を見たが、すぐに意識を失った。
彼女は、雲のように白く美しい髪をしており、閉じられた楚々な目長いまつ毛がはっきりとわかった。清楚の感じを抱かせる、質素な黒の服装だが、ロングスカートには動きやすくするためか、深いスリットが入っていた。そして彼女の胸もとに聖書が抱かれていた。
「シスターか?」と、思わずイヴァンは呟いた。
が、彼女はシスターのように思えなかった。彼女は左上腕には鋭い切り口があり、そこから血が流れていたし、右腕は脱臼したのか、だらりと力なく項垂れていた。シスターにしては、あまりに血生臭い匂いがする。
イヴァンはタバコを吸いたくなった。が、ここでするのは憚れた。イヴァンは彼女をじっ見つめ、助けることにした。約束については、どうせ来ないだろうし、あとで後日に切り替えるばいい、と思った。
そしてイヴァンは首で傘を挟み、屈んで、彼女の膝と肩の下に腕を通すと、優しく持ち上げた。右肩ができるだけ動かないように注意しながら。
その体は、予想以上に小さく、華奢だった。
甘い匂いが、イヴァンの鼻を刺激した。イヴァンはため息をつき、オフィスへ足を振り出した。
イヴァン。誰よりもタフで、優しい心を持った男。少々、君のその皮肉ぶりに嫌になる時があったけど、今にしてみれば、それも楽しかった。