日本海上に停泊した病院船。厳しい訓練の裏にはもう一つの物語があった。看護婦であり、軍人であり、心に淡い思いを秘めた彼女たち。二人の恋心と三人の友情は日ごとに育っていく。
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夜に咲く花 ~ ある看護婦の秘密 別景

1940年6月末。夜の日本海の只中に一隻の大型船が停泊していた。

艦名は『阿賀野丸』。民間の病院船だが、今は陸軍に接収され、その指揮下にある。

船の照明は灯火管制によって最低限に抑えられているので、淡い月明かりの中、白い船体の輪郭だけがうっすらと浮かび上がっている。

海面は真っ暗で、時折、船腹に当たって砕ける波頭の音から、波がやや高くなってきていることが分かるだけだ。

一見、船まで眠っているかのような光景だったが、そこでは今、厳しい軍事教練が行われていた。

 

訓練を受けているのは兵士ではなく、40数名の看護婦だ。

だが彼女たちがなるのはただの従軍看護婦ではない。

民間の軍属ではなく、女性でありながら軍人、それも少尉として、前線で自律的に指揮、救助活動を行うという新設の特務部隊に志願した者たちだった。

全員、看護婦としての実力は一流と評されるものを持っているが、軍事能力となると、全く畑が違う。

彼女たちは病院船での二週間の軍事教練に必死の思いで励んでいた。

 

その夜は夜間行動訓練だった。

上甲板にある広い倉庫の中では野戦服姿の看護婦が三人一組で担架を囲んで待機している。その担架の上には、一つ20キロの浸水対策用の砂袋が三つ乗っている。これを担いで、小さな赤色灯と月明かりだけの上甲板を常に身をかがめた姿勢で、音を立てることなく往復してこなければならない。

上甲板には太いロープや鎖、木箱などで障害物が作られているが、倉庫の中からではその様子は見えない。咄嗟の判断力も試されているのだ。

 

金属製の倉庫はまだ昼の熱気をゆっくりと放射しているのに加え、すでに各班、二往復しているので、40数人の汗と人いきれも加わっている。

だがその待機時間でさえ訓練の一環であり、野外服の襟を緩めることも許されない。ただじっとしゃがみ込んで、息を殺しているだけだ。

 

そして布村ミチヨもその中で、じっと順番を待っていた。

ミチヨはこの中では最年少の19歳。特務部隊への志願は看護婦を対象としたものだったのに対し、ミチヨは特務部隊の隊長である木内香婦長から、日赤の養成所三年生の時点で抜擢されたという、例外的な経緯を持つ。

だがその冷静な判断力、卓越した知識、技術は志願者たちのなかでも群を抜いており、誰もまだ学生だったとは気付かないだろう。

 

やがて先行した班がふらつく足取りで戻って来ると、教官が低く「次」と告げ、ミチヨの班が担架を担いで早足で倉庫を出る。

前の二回はミチヨが担架を担当したので、今回は進路を判断し、担架を誘導すする役目だ。

障害物の配置は変えられているので、乗り越えられるか、迂回すべきかを慎重に判断していく。そしてその判断材料には、班員二人の体力面も含まれる。60キロという重さと、できるだけ姿勢を低く保たなければならない制約。それが二回目となれば、障害物を乗り越えるより、安全優先で迂回していった方がいいだろう。

そう考えた途端、背後で『ブンッ』と竹刀が横に薙ぎ払われる音がして、担架を前で担いでいた班員が「ヒッ」と小さな悲鳴を漏らしてしゃがみ込む。姿勢が高すぎるという警告だ。

やはりここは早さよりも安全性を優先すべきだ。

ミチヨは一回目ならば乗り越えられたであろう、木箱の障害を迂回するルートを選ぶ。そして移動ペースも落とし、班員にも『ゆっくり』と手信号を送る。

そうして障害物を見極めながら進んでいたのだが、復路に入り、班員が油断したのか、床に這わせた鎖を踏んでしまう。

『ガチャン』と音がすると同時に、『バシッ』教官の竹刀が飛ぶ。

その衝撃で班員の一人が震えあがって担架を床に置いてしまう。

泣き出しそうになっている班員に、もう一度竹刀が飛ぼうとした時、ミチヨはその班員の肩を叩いて入れ替わると、代わりに担架を持った。

それに対しては竹刀が飛ばなかったため、柔軟な役割交代は認めているようだ。

 

前線では震えあがっている暇などない。そのわずかな時間が自分の命、患者の命を左右してしまう。動ける者だけが自分の命、患者の命を守ることができる。それが前線での真理だ。

 

ミチヨは担架を担いだまま、周囲の状況を確認して進んでいく。竹刀で叩かれた看護婦も、何とか気を取り直して、担架の横に張り付くようにしている。

そして倉庫に戻る直前、ふと見ると、水平線の向こう側が青白く光っていた。夜間操業の漁船群だろう。その幻想的な光は、真っ暗闇での厳しい訓練を一瞬だけ忘れさせてくれた。

 

そしてその時、阿賀野丸の無線手はその漁船からの救難信号を受信していた。

 

『こちら第二海竜丸。乗組員一名が上腕裂傷で大量出血。応急処置済み。医療支援求む。現在、北緯○○、東経○○にて帰港中。帰港まで8時間を予定。オーバー』

『第二海竜丸、こちら舞鶴港無線局。了解。救助準備を指示した。荒天が予想されるため帰港には注意せよ。オーバー』

 

その内容は無線手から直ちに阿賀野丸の船長に伝えられ、そこから同乗している軍の指揮官へと伝えられた。

その指揮官、副婦長の高岡芙美子の判断は迅速だった。

軍事訓練中とはいえ、看護婦はもちろんのこと、軍医も十分な医療設備もある。信号を無視する理由はなかった。直ちに返信される。

 

『こちら病院船、阿賀野丸。第二海竜丸、こちらの位置は貴船から18海里。一時間以内に接舷可能であり、救助に向かう。応答願います。オーバー』

『ありがとうございます。この海域で助けてもらえるとは幸運の限りです。こちらは停戦して待機しますので、収容をお願いいたします。舞鶴局にも重ねてお礼申し上げます。オーバー』

 

そして阿賀野丸の主機がかすかな振動を伴って駆動を始めると、船内放送が流れる。

 

『上甲板での訓練は中止。これより本船は漁船の負傷者救助に向かう。合流予定時刻は二二五〇。各自整容の上、持ち場で待機すること』

 

船内では灯火管制が解かれ、甲板や廊下に一斉に明かりが灯る。真っ暗闇だった海上に、白い大きな船体が浮かび上がった。

船体が揺れて、ガラガラと錨を巻きあがる音が響く。

看護婦たちは自室に寄って替えの下着や野戦服を持って、小走りで簡易シャワーの備えられた浴室へと急ぐ。夜間行動訓練は終わっていたが、足音を立てるのは厳禁というのは、通常の病院と同じだ。

浴室は普段は10人程で順番に使用しているが、合流予定時刻の22時50分までは1時間もなく、のんびりはしていられない。汗で張り付く衣服を洗濯かごに放り込むと、次々に浴室へとなだれ込んでいく。

浴室内では海水シャワーで汗や汚れを洗い流した後、真水のシャワーで海水を流すという方式だ。夏とはいえ、冷たいシャワーにあちこちから悲鳴が上がる。

この病院船での集団生活も、もう1週間が過ぎている。親しくなった者同士で互いに髪を洗いあう様子も見られた。海水では石鹸の泡立ちが悪く、その方がきれいに仕上がるのだ。

そうして手拭いで髪や体を丁寧にふき取り、綺麗な野戦服に着替えると、軍人から看護婦に戻ったような心持になれた。

 

今日の当番だった小野シゲミは浴室からすぐに医務室に入り、器材の確認作業を行う。

患者は左上腕の裂傷と聞いていたので、必要な洗浄用具、消毒薬、縫合セットなどを準備していく。

シゲミは小柄で幼げな顔立ちだが、実際は21歳で、陸軍附属病院で一年間の英才教育を受けて来た逸材だ。体力面では他の看護婦に劣るところもあるが、決してくじけず、自分の信念を曲げない精神的な強さも持ち合わせていた。

そのシゲミの頭の中では、すでに治療のための手順確認が始まっていた。

 

そして合流時刻の22時50分。風は徐々に強くなってきていた。大型の阿賀野丸にはさしたる影響はないものの、小型漁船である第二海竜丸は波間で大きく揺られていた。

 

阿賀野丸のデッキ上ではすでに救難ボートの点検が終了している。

阿賀野丸には海面にまで降ろせる可動式タラップが装備されているが、夜間で波もあることからボートに乗せてクレーンで吊り上げる方式をとるという。

ボートには操縦員と作業員が一人ずつ、そして看護婦は教官から指名された藤田スミレが乗り込む。

スミレは22歳で、日赤病院の二年目だったが、看護婦になる前は東北地方でマタギと共に行動していたという、異色の経歴の持ち主だった。彼女の豪胆さ、実戦的な判断力、そして陸軍の教官をも唸らせるほどの身体能力の高さは、今回の救助任務に最適と映ったのだろう。

 

病院船のクレーンでゆっくりと降ろされた救難ボートは、すぐに第二海竜丸に接舷する。荒れ始めた夜の海の中、漁船側も救難ボート側も、流石は海の男というような連携だった。そうして患者をボートに移すと、再びクレーンで吊り上げられ、病院船に収容される。

患者は新型の病院船である阿賀野丸の威容に驚き、本来あるはずの赤十字標章が帆布で覆い隠されているのを見て不審に思い、船内で数十人の野戦服姿の看護婦に迎えられたことに戸惑っていた。

そしてもう一度ボートが降ろされ、今度は残りの乗組員4人も収容される。

波が大きくなってきており、さらに荒れることも予想されたために、阿賀野丸の船長が高岡副婦長に収容を提案したのだ。

すでに漁船は麻袋を緩衝材として間に挟んで阿賀野丸に係留されている。時折、船体同士がぶつかり、『ドンッ』と衝撃が伝わってくる。

 

患者の方はスミレに連れられて医務室に通され、シゲミに引き渡される。

シゲミは圧迫止血に使われていた誰かのシャツに生理食塩液を含ませながら、ゆっくりと引きはがしていく。すでに受傷から1時間近くが経過し、布は傷口に張り付いていた。

「少し我慢してください・・・」

そう言いながら、溢れてくる血をガーゼで押さえつつ、傷口に異物が残っていないか確認する。繊維一本、砂粒一つでも、縫合後の感染症の原因になりかねない。

そうして確認を終えると、生理食塩液で傷口を優しく洗い流し、医師に引き渡す。

医師は麻酔を注射し、準備されていた器材で縫合を行う。

その後は再びシゲミがガーゼを当て、指先の血流を確認しながら、手早く包帯を巻いていく。

予め傷の状態が伝えられていたこともあって、流れるような処置だった。

そしてその様子は医務室の横で、スミレも興味深そうに見ていた。

 

その後、シゲミは処置の終わった患者を病室へと送り届けた。

病室ではすでに五人分の受け入れ態勢が整っており、漁船の仲間たちもほっとした様子だった。

三人部屋の自室に戻ると、スミレがまだ起きて待っていてくれた。

「お疲れー」

「あ、うん・・・」

今日の訓練、任務は終了ということで、すでにスミレは浴衣に着替えていたが、その胸元は大きくはだけていた。

シゲミはわずかに目を逸らせて、部屋の隅で浴衣に着替える。襟はきちんと合わせられ、帯もきれいに締められている。

「シゲミは陸軍病院の出身だよな。そっちじゃあ、結構きつめに包帯を巻くのか?」

シゲミの身支度を待ってから、スミレがそんな風に尋ねてくる。

「え? そう? 普通だと思ってたけど・・・」

そう応えるとスミレは個人用の備品の中から練習用の包帯を取り出して、浴衣の袖を捲り上げる。

「ちょっとあたしに巻いてみてよ」

「え、いいけど・・・」

 

そうして手に取ったスミレの腕は、山での生活を感じさせる、日に焼けた、あちこちに傷跡の残る、たくましいものだった。だが肌のきめは細やかで、しなやかさに満ちていた。

力強さではさっき包帯を巻いた漁師の腕も負けてはいないが、この吸い付くような滑らかさは、スミレだけのものだった。その傷の一つ一つまでが魅力的に思えてしまう。

シゲミはその傷跡を優しく撫でたいという衝動を抑えながら、包帯をゆっくりと巻いていく。

『落ち着いて。スミレは包帯の巻き方を知りたいだけ。包帯の巻き方を知りたいだけ』

シゲミは頭の中で、そう繰り返していた。

だが、衝動に耐えているのはスミレも同じだった。シゲミの小さな手が腕に触れる度に、その手を取りたくなってしまう。

『ダメだ。そんな下心で頼んだわけじゃないんだから』

スミレは何とか他のことを考えて、気を紛らわせようとしていた。

 

「こんな感じかな」

包帯の末端を巻き終わった部分に折り込んで、少し擦ってなじませる。そんな自然な行為だけで、ぞわぞわしてしまう。

「あ、あぁ、うん・・・ いいね」

スミレはあいまいな言葉を返すことしかできなかった。

何のために包帯を巻いてもらったのか、すっかり抜け落ちてしまったのだ。

そうしていると今度はシゲミが浴衣の袖をまくる。

「スミレはどんな風に習ったの?」

そう言ってシゲミが腕を差し出すが、スミレは咄嗟に動けなかった。

目の前には白く細い、いかにもお嬢様らしい、綺麗な腕がある。これに触れていいものだろうかという葛藤が巻き起こっていたのだ。

「えーっと・・・」

意を決してその腕を取ろうとした時、ガチャリとドアが開く。

「二人ともこんな暑い中で何やってるの?」

そう言って入って来たのは、船内の点検を終えたミチヨだった。

「あー、そうだよな、暑いよな」

「そ、そうだね。私だけかと思った・・・」

二人は引きつったような笑いを浮かべながら、さりげなく距離を取る。

「腕、どうしたの?」

ミチヨが尋ねると、スミレが思い出したかのように腕を上げる。

「あぁ、陸軍式の包帯の巻き方を聞いてたんだ。日赤で習ったものより、少しきつい感じがしてさ」

「陸軍は基本、頑丈な兵士相手だしね。日赤式の受傷部保護が優先じゃなくて、圧迫止血も兼ねているのかもね」

そう言いながら、ミチヨは船窓を少し開ける。

外の風はまだ止んでいないらしく、そこから冷たい夜風が吹き込んでくる。

ミチヨが浴衣に着替えている間、スミレとシゲミはちらちらと相手の様子をうかがっているようだった。

ミチヨは内心、ため息をつく。

「明日もいつも通りだし、寝たいんだけど、いい?」

「あ、あぁ、いいよ」「うん、おやすみ」

スミレは腕の包帯を巻き取ると二段ベッドの上段に上がり、シゲミも壁面の折り畳み式の寝台を広げてそこに入る。

最後にミチヨが部屋の照明を消して、二段ベッドの下段にもぐり込む。

スミレはシゲミの手の触れた場所に自分の手を当てて、その感触を思い起こしていた。

シゲミは目を閉じれば浮かんでくるスミレの腕を意識しないようにしていた。

そしてミチヨは『二人とも何やってるんだか・・・』と呆れていた。

 

翌日はいつも通りに5時半起床、6時に上甲板で体操、6時半からは自分たちの食事を作る調理訓練、7時から朝食といつも通りの流れだったが、午前中の教練は民間人がいるために座学に変更になった。

内容は記録、伝達のためのデッサン訓練で、大会議室に集合と伝えられる。

40人以上の看護婦が自室に戻ってから、かさばる画板を持って一斉に会議室に向かうので、居住区の狭い廊下は混雑してしまう。

特に小柄なシゲミは周りの看護婦に押されがちだ。

 

その時、スミレが他の看護婦の後ろでまごまごしていたシゲミの手を取ると、ぐっと引き寄せる。

「え・・・?」

「こっちから行こう。こっちなら空いてるから」

そうして二人は廊下を逆行して、混雑から抜け出る。

目的の大会議室まではかなり遠回りになるが、時間的に余裕がないわけではない。『とにかく行動』が信条のスミレにとっては、列の後ろで並んでいるより、こっちの方がずっと良かった。

「シゲミは結構、絵うまそうだよな。あたしの絵は小さい頃から散々笑われてきたからなぁ」

スミレはそう話しかけるが、シゲミからの返事はない。

『どうした?』と思い振り返ると、シゲミは俯いたまま歩いていた。耳が赤くなっている。

そこでようやく、スミレはシゲミの手を握ったままだと気付いた。

途端に体中が熱くなり、心臓が早鐘を打つ。

だが今更手を離すのも、意識しているのを悟られるようで、できなかった。

『シゲミは何も知らないお嬢様だし、意識しているのは自分だけ。シゲミは何も考えていないはず』

そう誤魔化しながら歩いて行く。

何かの拍子で、シゲミの手に力が加わると、握り返されたようで、それだけでドキッとしてしまう。

だが手を離す機会は完全に逸してしまった。もう手をつないだまま歩くしかない。

 

シゲミの小さな柔らかい手だけが意識される。

シゲミに触れているんだと思うと、言いようのない罪悪感と高揚感が交互に襲ってくるようだった。

じんわりと汗がにじむ。

この胸の高鳴りが、繋いだ手を通して伝わっているのではないだろうか。

シゲミが何も言わないのをいいことにこんなことをして、軽蔑されているのではないだろうか。

「えーっと・・・」

何か話しかけようとするが、何も言葉が出てこない。

 

遠回りだと思っていた大会議室への道のりは、ほんの一瞬だった。

そこでようやく、機会が訪れた。

大会議室への入り口にミチヨを見つけたのだ。

「おーい、ミチヨ!」

スミレは素早く手を離すと、手を振って呼びかける。

「・・・何?」

何となくミチヨの言葉が冷たい。

「あー、何だっけ。何か言おうとしてたんだけど、忘れちゃった」

スミレは笑って誤魔化す。

「何それ。いいから早く入って。今日は私が当番なんだから」

「そっか、当番か。それでそこにいたのか。そうかそうか」

スミレは無意味な言葉を並べながら、大会議室に入る。その後ろからは、スミレと繋いでいた左手を包み込むようにして握っているシゲミが続く。

 

『本当にじれったい・・・』

二人の背中を見比べながら、ため息をつく。

ミチヨは二人がすぐそこまで手を繋いで来ていたのを、はっきりと見ていた。

『やっと進展したかと思ったら、あんな風にわざとらしく手を離したりして。気付かれていないとでも思っているわけ? 当の二人が一番モヤモヤしているでしょうに・・・』

 

ミチヨが思った通り、その講義ではスミレもシゲミも上の空で、スミレは何度目かの、そしてシゲミも初めての叱責を受けたのだった。

 

講義が終わる昼頃には外の風や波もだいぶ収まっていた。

傷の方も炎症なども見られず、体調もいいということで、漁師たちの下船の許可が出される。

たった半日ではあったが、漁師たちは丁寧に礼を言っていた。

 

そして、彼らを見送って、調理訓練が始まる前のわずかな時間に、シゲミは「ちょっと・・・」と言って、ミチヨを空いている資材倉庫に引っ張って来た。

「誘う相手、間違えてない?」

ミチヨは冗談っぽく言ってみるが、シゲミは「え?」とよく分かっていないようだった。

「こんなところでどうしたの?」

改めて、ミチヨが尋ねる。だが、その相談内容は、もうとっくに察しがついていた。

「・・・あの、ミチヨって私よりもスミレとの付き合い長いよね?」

「ほんの数日だけね」

「・・・スミレって、す、好きな人とか、いるのかなぁ」

その言葉を口に出すだけで照れてしまうのか、シゲミは顔を赤らめて、俯きながら言う。

『そりゃ、いるでしょうよ』と答えたかったが、この皮肉は通じなさそうだったので、止めておく。

「どうかなぁ・・・」

「あの・・・ 私って、スミレに嫌われてると思う・・・?」

『はぁ!?』

思わずミチヨは心の中で叫んだ。

このお嬢さまは、何をどう受け取れば、そういう結論が出てくるんだろうか。

「・・・どうして?」

ミチヨは努めて冷静に尋ねる。

「手、引かれてるとき、握り返しても無反応だったし・・・ 『スミレ』って呼びかけても無視されるし・・・」

「それっていつのこと?」

「さっき。講義が始まる前」

手を繋いで、スミレが一番焦っていた時だ。

「それって、ちゃんと力込めて握り返した? 大きな声で『スミレ!』って呼んだ?」

念のため確認すると、案の定シゲミは両手を振った。

「や、だって、そんなこと恥ずかしいし・・・ スミレだったら気付いてくれるかなって・・・」

そう答えるシゲミの声はどんどん、か細くなっていく。

「それって、多分、気付かれていないだけだと思うよ」

「で、でも、私だって精一杯やったのに、これでだめなら、あとどうすればいいのか・・・」

シゲミは泣き出しそうな声で訴える。

『それで精一杯とか言ってたら、この後どうするつもりなんだ。スミレと付き合いたいんじゃないのか?』と呆れてしまう。

「ねぇ、どうしたらいいと思う?」

シゲミはすでに万策尽きた、というように言うが、はたから見ればまだ何もやっていないに等しい。

これは多少強引にでも、シゲミの意識を変えるしかない。

「もう、体当たりで行くしかないんじゃない?」

「・・・体当たり?」

「そう。細かいことは全部後回し。直球勝負よ」

「直球勝負・・・」

「こっちがどんなやり方であろうが、うまくいくときはうまくいく。もう結果は決まってるのよ。あとはそこに到達するのが早いか遅いかだけの違いなのよ。こんな状態のまま、ずっとモヤモヤしてたい?」

「それは、イヤだけど・・・」

「じゃあ、一気に行くしかないでしょ」

そうけしかけるが、シゲミはいまいち乗ってこない。

『あぁ~、もう・・・』と悶絶しながら、ミチヨは最後の一言を繰り出す。

「・・・ここだけの話、スミレ、結構モテモテだよ」

「え!?」

「目指せ、一番乗り!」

「・・・う、うん! やってみる!」

シゲミは単純に早い者勝ちだと認識したのか、ようやく決心して資材倉庫から出て行った。

 

そうして調理訓練、昼食と進み、午後の体力育成訓練が始まる。

30キロの砂袋を背負っての船内の行軍訓練だ。

急な階段を両手を使って這い上がったり、横に渡した大きな角材の上を乗り越えたり、下をくぐったりする。基本は歩きだが、そういった上下運動が地味にこたえる。

実はスミレだけは40キロの砂袋が使われていたのだが、それに気付いていても不平を言わずに訓練をこなしてしまうところが、スミレらしいとも言える。

 

そうしてその訓練でへとへとになっているミチヨのところに、スミレがすっとやってくる。

「ミチヨ。ちょっといい?」

「何?」

そうしてスミレはミチヨを人目につかない階段下に連れてくる。

「あのさ・・・ シゲミのことなんだけどさ・・・」

ミチヨは『こっちもか・・・』と思うが、スミレがこんな風に相談してくるなんて、意外だった。てっきり自己解決して、猪突猛進に行くかと思っていたのだが。

「あたし、シゲミに変に思われてないかな・・・ シゲミってお嬢様育ちだろ? どう接すればいいのか、いまいち分かんなくてさ」

なるほど・・・ そんなことで遠慮してたのか。

「今まで通りでいいんじゃない? あんな顔してたって21なんだし、何も知らないってわけじゃないでしょ?」

「そう、かもしれないけど。どういうのが好きかとかあるじゃん・・・」

「そんなの私だって分からないよ。本人に聞くしかないんじゃない?」

「いや、その聞き方とかさ・・・」

『あぁ、もう、こっちはこっちで煮え切らないことを・・・』

「スミレってそういう細かいことごちゃごちゃと考えてから動くタイプだった?」

「いや、そうじゃないけど・・・」

「だったらシゲミのことだって同じでしょうが。いつも通りにドーンと構えて、いざとなったら即断即決。それがスミレでしょ」

「お、おぉ・・・」

せっかくミチヨが背中を押しても、スミレは気の抜けたような返事だ。

「・・・他の子にシゲミ取られてもいいの?」

そう言った途端、スミレの目の奥に何かが宿ったような気がした。

「!? 分かった・・・ ありがと、ミチヨ」

「あ、うん・・・」

そうして奮起して立ち去るスミレを見送る。

『最後の一言は余計だったかもしれないけど・・・ 本人たちの希望でもあるんだし、悪いようにはならないでしょ・・・』

 

そうして夕食後の後片付け当番が終わると、スミレはすぐに自室に戻って来た。

だが、そこにはシゲミもミチヨもいなかった。

当番表を見ると、シゲミは船内の夜間点検の係になっていた。船内各所の常夜灯の点灯や他の電灯の消灯を確認したり、ドアやハッチの閉鎖を確認したりする役目だ。手早くやれば、もう終わっていてもいい時間だ。

何か問題が起きれば遅くなることもあるだろうが、それにしては、船内は静かなままだった。

『何をやっているんだ・・・』

そう思ってスミレは、シゲミを探して船内を歩き回る。

折角決心したのに、時間を置けば、またその決心が揺らいでしまうかもしれない。言うなら今だ。

 

そして、その背後をこそこそと付いて回る、小柄な影があった。

シゲミだ。

『体当たり・・・ 体当たり・・・』と心の中で唱えながら、機会を伺っていたのだ。

『もうちょっと・・・ もうちょっと・・・』

そしてスミレが曲がり角で足を止めた。

『今だ!』

シゲミは勢いよく飛び出していく。

「・・・スミレ!」

声と同時に体当たりを敢行する。

スミレは一瞬よろけるが、シゲミの体当たり程度で転ぶような体幹ではない。

それよりも、『どうしてシゲミが体当たりを?』という混乱の方が先に立つ。

だがそこでミチヨに言われた言葉が浮かんでくる。

『即断即決!』

スミレは咄嗟にシゲミを抱きしめた。

だが、その後のことは考えていない。そして、後のことを考えていなかったのは、シゲミも同じだった。

二人は密着したまま、どうしたらいいか分からず、至近距離で見つめ合う。

 

その途端、全ての疑念が、遠慮が霧散した。

 

そう言えば、こんな間近で向き合ったことはなかった。

最初からこうすればよかったのだ。

今までごちゃごちゃと考えを巡らせていたことが、馬鹿らしくなってくる。

二人の間に、もう言葉は必要なかった。

ごく自然に体を離すと、お互いに笑いあう。

 

そうして手を繋いで自室に戻って来るが、ミチヨはまだいなかった。

「この時間になっても来ないんだったら、急な当直か何か入ったんじゃない? 真面目なミチヨがふらふらしてるとは思えないでしょ」

「・・・そうかも」

スミレの言葉に、シゲミも頷く。

つまり、今夜は二人っきりということだ。

「シゲミ・・・」

「スミレ・・・」

二人の間の甘い空気が熱を帯びていく。

 

そしてその頃、ミチヨは当直室で、日誌を書き終わっていた。

二人に発破をかけたので、今夜あたりにでも、何か起こりそうだと、当直を替わってもらったのだ。

「あそこまで言えば、流石に進展するでしょ」

ミチヨは一人呟いた。

これは決して二人のためだけにやったことではない。

これでやっと変なモヤモヤした空気感から解放される、と考えていた。

それは正しかったが、ある意味、誤算でもあった。

 

それは作戦立案のための講義が終わった後のことだった。

「以上。解散」

「「ありがとうございました」」

そう挨拶をして、みんなが次々と講義室を出て行く中、シゲミはまだ席に着いたまま、教本を読み返していた。

みんなが出て行って、廊下が空くのを待っていたのだ。

その背後にスミレが忍び寄る。

そしてぱっと両手で目隠しをすると、特に声色を変えるでもなく、尋ねる。

「だーれだ?」

「え~? 恵子?」

声ですぐに分かりそうなものだが、シゲミは別な子の名前を挙げる。

「ブブー」

「じゃあ、明子?」

「ブブー」

「桜? 久子? 知美かな?」

シゲミは次々と別の子の名前を挙げていく。

「ちょっと、あたしの名前はいつ出て来るの?」

スミレが抗議するが、シゲミは平然としている。

「だってスミレだったら、髪撫でてくれるし、ほっぺたも触ってくれるし、もっとギュってしてくれるだろうし・・・」

「はいはい。これでいい?」

そうしてスミレは、シゲミの髪を撫でた後、自分の頬をシゲミの頬にくっつけて、ぎゅっと抱きしめた。

「これは、スミレかな?」

「正解!」

スミレが手を離して、二人で笑いあう。

 

だがその場にいたのはスミレとシゲミだけではなかった。

「あんたたち、それ人前でやらないでね」

「うおぅ! びっくりした。いつからいたんだよ」

ミチヨからの突っ込みに、スミレが飛びあがる。

「あなたが来る前から、ずっとここにいましたけど? 言っとくけど、それ恋人同士のじゃれ合い以外のなにものでもないからね?」

「そ、そんなことねーだろ。ただの当てっこだよ」

そう否定するが、スミレは珍しく顔を赤くしている。

「そんな声でばればれの当てっこがありますかっての。それに、シゲミも。ダシに使われた子たち、かわいそー」

「そ、そんなつもりじゃ・・・」

シゲミは意地悪く言われ、わたわたしているが、肩に乗せられたスミレの手に、ちゃっかり自分の手を重ねている。

「とにかく、人前では抑えてね。風紀がどうのこうの言われたら、面白くないでしょ?」

「ミチヨの前でならいいのかよ」

「まぁ、責任の一端はあると思ってるし」

「だよな」「うん」

手を握ったまま、スミレとシゲミが頷く。

その様子を見て、ミチヨは呆れながらも、小さく呟く。

「それに、友達の笑顔はいいものだしね」

 

そして後日。

その夜の当直はミチヨだった。ミチヨはすでに身支度を整えて、当直室に行っている。

つまり、訓練を終えた自室は、スミレとシゲミの二人きりだ。

あの告白の日から、二度目の二人だけの夜。

意識しないわけにはいかなかった。

まだ消灯までには少し時間があるため、二人とも着替えてはいない。

スミレはずっとそわそわしていた。

シゲミは折り畳み式のベッドの端に腰かけ、じっと教本を見ていたが、さっきから全くページは動いていない。

ふと見ると、いつもはどんなに暑くてもぴったりと閉じられている服のボタンが、一番上だけ外されている。

『これは、誘ってる・・・』

白い首筋を見て、スミレは無意識のうちにつばを飲み込む。

スミレはさりげなく、シゲミの左側に並んで腰を下ろした。

ギシリとベッドが鳴って、シゲミの肩がピクリと反応する。

「シゲミ・・・」

スミレが声をかけると、本から目を離さないまま、「ん・・・」と答える。すでに耳が真っ赤になっていた。

「シゲミ・・・」

もう一度声をかけると、今度は本を置いて、居住まいを正す。そしてゆっくりと顔を上げて「スミレ・・・」と呟いた。

それは小さな声だったが、今のスミレにはどんな音楽よりも強く心に響く音色だった。

スミレはシゲミのすぐ横に来ると、右手をゆっくりと細い腰に回した。

「あ・・・」と小さく、シゲミの声が漏れる。

それは驚きではなく、期待と了承の合図だった。

シゲミがおずおずと右手を伸ばすと、スミレは左手でそっと迎え入れ、指を絡ませた。

「シゲミ・・・」

スミレが囁くと、シゲミは目を閉じて、そっと上を向いた。

お互いの体温が伝わるほど、顔が近づいていく。

髪から石鹸の匂いがふわりと香る。

 

その時、ガチャリと自室のドアが開いた。

「ごめんごめん。ファイル忘れちゃって」

そう言いながらミチヨが入ってくると、自分の鞄の中から黒いファイルと筆記用具を取り出す。

ミチヨが横目でちらりと見ると、スミレは折り畳み式のベッドの端に腰かけて、爪を気にしていたし、シゲミの方は、ベッドの反対側の端にいて、何やら俯いていた。

「もうすぐ消灯時間だから、早く寝なさいよ」

そう声をかけると、スミレだけが「あ、あぁ」と応える。

だがミチヨは全てお見通しだった。

部屋から出て行き際に、釘を刺す。

「やり終わったらきちんと換気しておいてね。メスの匂いが充満してるのイヤだから」

そうしてドアがパタンと閉じられる。

部屋の中はしばらく沈黙が支配する。

「・・・メスの匂いって、私のこと? 私ってそんなに匂いキツイ?」

「そんなことないよ! シゲミの匂いは一日中嗅いでいたいくらい、いい匂いだよ」

「前のあれもバレてたってこと? うぅ~、恥ずかしいよ~」

「こうなったら、ミチヨも巻き込むしか・・・」

「・・・うん、そうだね」

スミレの無茶ともいえる提案に、涙目のシゲミが頷いた。

 


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