「何か思い出すな」
緩やかで規則的な電子音を聞いて、姉がぽつりと呟く。
「ほら、この音。懐かしくない? 絶対昔聞いた覚えがあるのよね」
「あー、なんだろうな」
自分でもそう思っていたので、記憶の奥底を手繰っていると、隣に座る母が「おじいちゃんの時のことじゃない?」と水を差す。「あんたたち小さかったのに、覚えてるものなのね」
「全然違うよ、まずおじいちゃんの時はバックバクだったじゃん。こんな緩やかじゃなくて、ロックくらい激しかったんだから」
「親父、ビートルズ好きだったからなあ」
姉の反論に、父がズレた同調をした。詳しくないから下手なことは言えないが、ビートルズはBPM200も刻まないんじゃなかろうか。
「姉ちゃん、たぶんアレだよ。シャトルランだ」
「あー、それだ! 懐かしい」
「なんだ、それは」
聞き馴染みのない単語に父が首を傾げた。
「小学校の時に、身体測定でやらされるんだよ。一定の間隔で電子音が刻まれて、一音上がりきる前に走んなきゃ行けないの。徐々にペースが速くなるから、みんな嫌がってたな」
「速くなるどころか、遅くなってるけど」
母が、心電図のモニターを見つめながら言った。
目の前では、記憶の中の姿よりも老け込んだ祖母が、無数の機械に繋がれ眠っている。
規則的に刻まれている電子音の数値は、とうに60を下回り、祖母の心臓は二秒に一回、弱々しく拍動するばかり。血圧は最早一桁しかなくて、それはつまり、死に際を、安らかな生命の終わりを示していた。
「寝てるようにしか見えないけどな」
「今はね」
父の言葉に、祖母の傍らに立っている叔父が答えた。たしか、119番したのも、祖母と共に暮らしている叔父だった。
たとえ苦しんでいようと、生きている姿を最後まで見届けるのと、安らかに人生の幕を引く姿を看取るのと、どちらの方が幸せなのか、少しだけ考えてしまう。
「でもほら、さっきより血圧が上がってないか? 脈も持ち直してるし」
「そうだね」
誰かがそう返事をした。でも、きっと誰もそう思ってはいなかった。
八十八歳、米寿だ。もうボケも進んでて、お医者様からも身体はボロボロだって言われてて。
とうに覚悟はできていたはずだった。でも、倒れたって連絡を聞いた時には、何の実感も湧かなくて。
いざ機械に繋がれた祖母を見て、弱々しい心電図を見て、ようやく現状を、ひとつの終わりを理解して。
「ほら、まだ温かい。まだ生きてるんだよ」
父が祖母の額に手を当てる。心の底からそう思っているような、そう言い聞かせるような声音だった。
ふと、祖母の家を想起した。リビングのフローリング。夏場でも少しひんやりしていて、小さい頃はゴロゴロと寝転がったものだ。
いま、そんなことを思い出したくはなかった。
「お母様、みんな来ましたよ」
母が思い出したように、祖母にそう言った。
「遅くなっちゃいましたけど」
「間に合ってるからいいんだよ」
本当に間に合ったのだろうか? もっと顔を出しておくべきではなかったか? 声をかけるべきだったんじゃないか?
ボケちゃったから、なんていうのは言い訳だ。結局自己満足に勝るものはない。伝えておけば、伝わったかもしれない。いまそう思ってしまっている時点で、それはもう、後悔でしかない。
「ほら、貴方たちも何か言ってあげて」
「……っ、あ」
今更、何を言えばいいんだ。何処に合わせる顔があるんだ。そう思って言い淀んだのもあるけれど、自然と漏れ出る嗚咽が、声のすべてを掻き消していた。
後悔と、喪失感が、すべてを邪魔していた。
「お姉さん、別にいいですよ」
叔父が母を制して言った。
「無理して声かけなくても、きっと伝わりますから」
パイプ椅子に座り直して、再び心電図を眺める。先程よりも間を空けて、淡々と電子音は鳴る。
四秒に一回刻まれる生命の鼓動。間を開ける度に近づく死神の足音。
小さい頃のことを思い出していた。祖母に手を引かれ、路傍のヨモギを摘んで、一緒に草餅を作ったことがある。旬から遅れたせいでとても苦かったのは良い思い出だ。
受験期に叔父さんに勉強を見てもらっていた時には、行く度にご飯を作ってくれた。いつも味の濃い炒飯か、玉葱がたっぷり入って甘いビーフカレーだった。スナックのママだけあって料理上手で、正月にはお雑煮と、豪華なおせち料理まで作ってくれていた。
いつも綺麗な化粧をして出迎えてくれて、俺たちが行く度に嬉しそうにニコニコ微笑んでいた。「すっかり背越されちゃったねえ」なんて笑ってたのは、いつのことだっけ。
「……ありがとう」
いま送るべきなのはきっと、謝罪なんかじゃない。後悔は先に立たず、覆水は盆に返らない。
いま送るのは──見送るなら、感謝であるべきだ。
「…………」
もう一度、祖母を見る。それから家族を見回す。
みんな祖母との思い出を辿っているのだろう。目頭を抑えたり、そっぽを向いたり、祖母を見つめている。
「あっ」
誰かが声を上げた。
誰かが息を飲んだ。
誰かが立ち上がった。
誰かが静かに涙を流した。
電子音はもう鳴らない。祖母の心拍は、血圧は、なだらかな線になった。
「失礼します」
一礼して、お医者さんと、看護師さんらしき人たちが入ってきた。
聴診器を祖母の身体に当て、瞳孔を照らして、それから時計を見る。
「心肺機能の停止、瞳孔反応の停止、脳機能の停止を確認しました。九月十五日二十二時五十八分、これをもって死亡確認とさせていただきます」
ご臨終です。そう言って彼らは、深々と頭を下げた。釣られて俺たちもそうした。
そこからは、よく分からない手続きを待つことになった。警察による死因の確認とか、書類上の手続きとか、複雑なアレコレがあるらしい。
「霊安室に動かして、そこからまた別のところに運ぶらしい。明日も仕事だろ? お前らはもう帰ってていいぞ」
「いや、まだ大丈夫だよ」
姉と俺の空気から帰らないのを察したらしい父は、「なら、一旦コンビニで買い物してきてくれ」と、母に千円札を渡して、僕たちを送り出した。
「もしかしたらさ」
「うん」
「見られたくなかったのかもね」
「そうねえ」
姉の呟きに、母が同意した。プライドの高い父のことだ。息子や娘に、情けない姿は見せたくなかったのだろう。
「情けなくなんて、ないと思うけどな」
飲み物を買って戻ると、丁度看護師さんが来て、「ご遺体を霊安室に運ばせていただきました」と。いつまでも病室には置いておけないので、葬儀やら何やらの前に、一旦そこで待つらしい。
地下に降りて、角を曲がった小さな部屋に、祖母は寝かされていた。状況と気分に反比例するように部屋は明るくて、なんだか不思議な気持ちになった。
「何回か触ったんだけどさ、お母さん顎閉じないんだよ」
「まあ、らしくていいんじゃないか?」
父と叔父がそんな話をしている。祖母の口は丁度、リビングで寝ていびきをかいていたときと同じくらい開いていて、それこそ本当に、眠っているみたいだった。
「こちら、献花のためのお花となります」
白い、一輪の花を渡された。茎の辺りから、フィルムに覆われた花を見て、それから祖母を見た。
まだ、祖母の身体に触れることはできる。でも既に、僕たちは絶対的に隔たれている。
これから棺桶に隔たれて、炉に隔たれて、それから壺と、冷たい石に隔たれる。そう考えると、これが何も挟まずに見る、祖母の最後の姿だ。
「アタシ、おばあちゃんと最後に会ったの何ヶ月前かな」
涙を堪えるような声で、姉が言った。
俺が最後に祖母に会ったのは、先月病院に連れていく時だった。父が車で送っていくのに同行したのだけれど、いま思うと、運転しておけばよかった。免許取り立てだからってビビるんじゃなかった。
姉が運転した時はたしか、姉のことがわからないくらいにボケてたのに、この子は運転が上手いねえ、なんてニコニコ笑っていた。俺だったら、どうだったんだろう。上手いとか、下手とか、褒め言葉も、駄目出しも、もう何も貰えない。
「ばあちゃんに貰ったもの、どれだけ返せたのかな」
「いいんだよ、あげたくてあげてるんだから。孫なんて、目に入れても痛くないくらい可愛いんだから」
それはたしかに、祖母の口癖だった。俺らの時とはえらい違いだぜ? なんて、父は泣きながら笑った。
「それに、お前らがこれから元気に生きることが、何よりの手向けだよ」
「そう──かもね」
終わった後、どうなるのかなんて、誰にも分からない。
もう何も伝わらないのかもしれない。或いはすぐ近くで今も、見守ってくれているのかもしれない。
ひとつわかるのは、俺たちはもう、少なくとも一生は会えないということ。どうせ答えが出ないのなら、都合のいい方を信じたっていいじゃないか。
「今度こそ、帰った方がいいぞ。あとはもう、葬儀や諸々の手続きするだけなんだから」
「そうさせてもらうわ」
頷いた母に続いて、姉が出ていく。
まだ葬儀で姿を見る事は出来る。それでも俺は、いまの祖母の姿を目に焼き付ける。
年齢相応に見られなかった艶やかな黒髪。白粉を塗って、美しく着飾られていた姿。
すっかり白く染まり、枝毛だらけになってしまった髪。皺の増えた肌。痩せこけた頬。
どちらも祖母で、祖母の生き抜いた証だ。それを忘れないよう胸に刻んで、俺は、歩き始めた。