一之瀬帆波の幼馴染   作:Olion

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第2話

「夏にね、お母さんが倒れたの。妹が欲しがってた誕生日プレゼントを買うために、無理してシフトを増やしたんだって」

 

 一度口火を切ってしまえば、後は流れるようだった。堰を切ったように、私の懺悔が声に乗っていく。

 

 全てを口にした。そのプレゼントが、初めて妹が欲しいと言った、好きなアイドルの付けていたヘアクリップだったこと。病室で、妹がお母さんに泣きながら罵声を浴びせたこと。私が何とかしなきゃと思ったこと。

とにかくお金をかき集めて、けれど全然足りなくて…盗んでしまったこと。

 

 ヘアクリップを手に掴んで、鞄にしまうその瞬間。

どうしようもないほどの恐怖と、なにかよくない高揚感。あの時のことを、今でも夢に見る。ばれてしまうんじゃないかという怯えが、心胆を寒からしめるあの心地が、脳裏にこびりついている。

 

 その後のことも、どんどんと口から溢れていく。お母さんにばれて、ひどく怒られたこと。お店に連れていかれて、一緒に謝罪したこと。大事にはならなかったけど、噂が広がったこと。

罪悪感に苛まれて、逃げることしかできなくて、殻に閉じこもったこと。

 

 それからは、後悔と自責の日々で。

謝りに行った帰りの、家でお母さんが本気で泣いている姿。あの悲嘆が、何度もリフレインして。ようやく、自分が何をしてしまったのか飲み込めて。犯した罪の重大さに、圧し潰されそうで。

 

 

 それは葉月くんに向けて語るというよりも、私の独白のようだった。正直、聞けたものではなかったはずだ。

支離滅裂で、整理して話す余裕もなくて、上手く喋れなかった。声が震えているのが自分でも分かった。

 

 未だに心臓が痛いくらいに鳴り打ち続けている。話を終えて落ち着くどころか、むしろ酷く脈打っていて。息が詰まりそうで、胸が苦しくて、涙が零れそうで。

けれど同時に、どこか安堵している私もいた。ようやく、誰かに打ち明けられた。閉じ込めていた秘密を、やっと自分で開け放てた。

硬い硬い殻に、罅を入れることができた。

 

 けれど、今はその安堵が怖かった。この瞬間、私はすべてを曝け出してしまったのだ。逃げ場はない。

 

 あとは葉月くんがどう思うか、それが全てになってしまった。

 

「……」

 

 彼の反応を待つのが、何よりも恐ろしかった。

顔を上げられない。俯いて、ブランコの鎖を握る両手に、ぎゅっと力が篭る。視界に映るのは砂が蹴られて薄くなった土と、それを包む自分の震える影だけ。

破裂しそうなほどの動悸が、全身に伝播してしまったようだった。耳が熱くて、背中にじわりと汗が滲む。

 

 

 

「……なんだ。そんなことか」

 

───それはあまりにあっけらかんとした、拍子外れな声で。

 

 呟くように零されたその声は、びっくりするほど平坦で。驚いた私は、思わず顔を上げた。

葉月くんはふらふらと足を前後させ、腰掛けたブランコを揺らしながら、ぼんやりと、退屈そうに、黒く染まった空を仰いでいる。

 

「…え?」

 

「イヤ、深刻そうに切り出すもんだから、もっとやばいこと言うのかと思った。国家転覆でも企んでます、みたいな感じのさ」

 

 その冗談めかした口調に、身体中を支配していた緊張が拍子抜けしたみたいに乱れた。

彼の様子はなんというか、思っていたよりも淡々と、飄々としていて。お母さんのように、深刻な顔で──ああ、あの時は頬を(はた)かれたっけ──怒ると思っていた訳ではない。けれど、今よりもっと重大な事として取り合うものだと思っていた。

 

「けど……良くないことだよ」

 

 思わず、口を()いて出る。

そうだ、良くないことだ。あのヘアクリップを万引きした時にも、本当は分かっていた。あの時は、こんなにずっと苦しい思いをしてきたのだから、これくらい…なんて、必死に自分を正当化してしまっていたけれど、本当は。その後でお母さんに怒られて、一緒にお店へ謝りに行った時には、もっともっと身に染みて。

 

 妹のために、なんて魔が差して動いてしまったけれど、どんな事情があっても万引きは万引き。それは決して、してはならないことで。そう、良くないことだったのだから。

 

「まあ、それはそう。良くはない。けど、だから何?」

 

 葉月くんが、肩を竦めて言った。本当に、軽い調子で。

肩を竦める仕草まで、呆気ないほど気楽で。私は言葉を失ってしまう。

 

 だから何、だなんて。そんなふうに言われるなんて、想像したことがなかった。だってこれは──私にとっては、圧し潰されそうなくらいに重くて、誰にも暴かれたくなかった秘密で。けれど心のどこかではお母さんにばれたときみたいに、怒られて、叱られて、それで初めて償えるんだと、そう思っていたから。

 

 でも葉月くんは、違う。怒鳴りもしないし、顔を曇らせるわけでもない。むしろ、まるで「昨日の晩ごはん、何だった?」と軽く尋ねるみたいに、何気ないような顔をしている。

 その落差に、胸の奥がざわざわと掻き乱される。身体が熱いのか、寒いのか分からない。跳ねる鼓動が耳の奥で轟々とうるさい。

 

 どうして。

どうしてそんなふうに言えるのかな。こんなに、私は怖かったのに。

 

 あの時の恐怖も、震える手も、胸を圧し潰すような罪悪感も──全部、私にとっては今も終わっていない。

 

 それを、彼は一言で「だから何」と切ってしまう。

 

 まるで、私の中で渦巻いていた黒いものなんて、最初から存在しなかったみたいに。

怒られた方が、罰せられた方が、どれほど楽だっただろう。赦されることの方がずっと怖い。赦されてしまえば、この罪悪感をどう抱えていけばいいのか分からなくなるから。

その軽さが、いっそ苦しいとすら思えて。

 

 心が、ぎゅっと締め付けられる。なのに同時に、どこかで安堵してしまっている自分もいて。

 

 私は今、涙が出そうなくらい混乱していた。

 

「まあ盗みが良くないのは勿論だし、失敗は失敗だ。でも別にそれで人生終わりって訳でもないし。失敗なんて、誰だって山ほどやる。万引きしたって事実は消えないかも知れないけど、だからって帆波ちゃんの全部がダメってわけじゃない」

 

 彼の声は軽い。深刻に責められることもなく、かといって無理に庇うでもない。

ただ「まあそういうこともあるよ」と笑ってくれている。その距離感が、この重さを少しだけ溶かしていくようだった。

でも、それが少し怖くて。まるで心の奥にある棘を引き抜かれたのに、その跡がじんじんと痛むみたいだった。

 

「……でも」

 

「俺だってさ、今日やったみたいに制服のままゲーセン行ったり、学校サボったりしてるじゃん。なんなら夜遊びだってしてるし」

 

 それから一度、葉月くんは下を向いて言葉を止めた。しんと、瞼を閉じて。

今の私には、彼が考えている事は分からないけれど。なんだか言葉を選んでいると言うよりは、湧いて出た逡巡を整理しているような様子だった。

けど、それも一瞬のことで。すぐに葉月くんは顔を伏せたまま、冗談めかした口調で言葉を重ねた。

 

「まあ万引きと比べるのは乱暴だけどさ。帆波ちゃんみたく反省してるでも無いし、懲りずに何度も繰り返してる。先生とか、大人からしたらよっぽど不良だろ?でも別に、俺は俺だし」

 

 そう言って、彼は私に顔を向け朗らかに笑った。

その笑顔に、ほんの少しの寂しさが混ざったように見えたのは、気の所為だろうか。

 

「……でもまあ」

 

 彼はブランコを止め、こちらに瞳を合わせる。

 

「それで帆波ちゃんが『不良だから俺のこと嫌いだ』って言うなら……それはそれで仕方ないけど」

 

 わざと軽く言ったような響き。でも、心のどこかで本当にそう思っているような気がした。

 試すような、突き放すような──そんな響き。

 

「……嫌わないよ」

 

 気付けば、すっとそう答えていた。

迷いはなかった。考えるよりも先に、自然と口を衝いて出た言葉だった。それだけのことのはずなのに、なんだか、ふと決定的な分水嶺をこえてしまったような気がして。

 

「でしょ?俺もそれと同じ。もっと前から帆波ちゃんの万引きを知ってても、俺は今日みたいに遊びに誘ったよ」

 

 その言葉で、はっとした。嫌わないと言ったのは、彼に向けただけじゃなかった。

 

今の言葉は、葉月くんのことを否定しなかっただけじゃない。

気づかない内に、自分自身のことも、否定せずに肯定してしまったのだ。その実感が苦しいのに、どこか温かかった。

葉月くんの軽やかな声が、それを教えてくれた。胸が熱くなって、視界がじわりと滲んだ。

 

 どうしようもなく涙がこぼれそうになって、慌てて瞬きを繰り返す。けれど誤魔化せるはずもなくて、頬が熱くなるのを止められない。

 

 私の様子に気付いたのか、葉月くんはちらりとこちらを見て、ばつが悪そうに小さく笑った。

軽薄さを装うみたいな笑みだったけれど、その奥に、昔よく見た彼の少し控えめなはにかみの面影があって。そして、その綺麗な黄金色の瞳には僅かに真剣な色が覗いた気がした。

 

「そりゃ万引きは犯罪で、取り返しのつかないことだ」

 

 彼はゆっくりと、そう切り出しながら視線を空に戻した。少し間を置いてから、今度は落ち着いた調子で言葉を紡ぐ。

 

「けど、やったのはその一回だけだろ?しかも許してもらえて、警察に突き出されたわけじゃない。なら、もう終わったことだ。次に同じ失敗をしないように気を付ければ、それでいいんじゃない?」

 

 終わったこと。

 

 その言葉が、そっと胸の奥に静かに沈んでいくのが分かった。

苦しさは消えていないのに、心にほんのひとかけらの安らぎが灯る。涙が滲んで滲んで、どうしようもなかった。

 

──でも、それでも。

 終わったことだと言われても、すぐに全てを受け入れられるわけじゃない。怖さや迷いはまだ、胸の奥に残っている。

それでも今なら、前を向けそうな気がした。

 

「……そう、なのかな」

 

「そうだよ、きっとね」

 

 静かに掛けられた声。その短い言葉が、夜風よりも静かに胸の奥に染みていった。

 

「…あー、よく喋った。喉乾いたな。帆波ちゃんは?」

 

 ほんの一瞬の沈黙の後、葉月くんはわざとらしく鎖をぱん、と叩くように離してポケットに手を突っ込んだ。それから、揺れる鎖をやり過ごすようにして、ぎしりとブランコから腰を上げる。

その大げさな仕草は、空気を切り替えようとしているのだと私には見えた。

 

 おどけたような声音には、もう真剣さは微塵も無い。そのさっぱりとした様子に、思わず頷いてしまう。

 

「そっか。飲み物買ってくるけど、どうする?一緒に行く?」

 

「…そうだね、行こうかな」

 

 葉月くんが「ほら」と右手を差し出した。

私は一瞬何のことだかわからなくて、その掌をぼう、と眺めるしかできなくて。彼は「ん」と促すように拳を握り、開く。そこでやっと、ああ、私はまた手を差し伸べられたんだと気が付いた。

 

 今日遊びに誘われたあの玄関先では、曖昧に頷くしかできなかったけれど。

 

 そっと、その手を掴んだ。

 

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 

 バスに揺られながら、真新しいアスファルトの道を進む。

 

私は窓側の座席に座り、車窓から流れていく景色を眺めていた。

等間隔に植樹されている街路樹には、桜の花が咲き誇っている。舞い散る花びらからなる桜の浪。落花繽紛としたそれはなんというか、まだ夢見心地だった高校入学を実感させるもので。程よい緊張感を私に与えてくれていた。

 

 けれど隣に座る彼は緊張なんてものとは無縁らしく、暢気にこくりこくりと船を漕いでいる。

 

「葉月くん起きて。もう着くよ」

 

 彼──葉月くんの肩を揺さぶって起こす。ゆっくりと目を覚ますと彼は、寝ぼけ眼で私の方をみて口を開く。

 

「……桜の妖精?」

 

「ちがうよ!?」

 

 素っ頓狂な彼の言葉に、思わず突っ込む。

葉月くんの顔を見てみると、くつくつと笑っている。どうやら揶揄われたようで、少し気恥ずかしい。寝起きの第一声がこれとは、相変わらずというか、平常運転で安心したというか。

 

「もう、びっくりしちゃった。からかうのやめてよ」

 

「いや、綺麗だったから」

 

 ぽつりと落とされた言葉に、思わず息が詰まる。

 

「えっ?」

 

 彼は聞いているのかいないのか、欠伸を噛み殺しながら、窓の外へ視線を移した。その頬が少し赤らんでいて、なんだか可愛い。彼の視線の先では、満開の桜並木が川のように続いている。

 

「…桜、綺麗だな」

 

 ぼそっと呟いた声は、眠気にかすれていたけれど、不思議と素直で。私は少し驚いて彼の横顔を見つめてしまった。

普段、軽口ばかりで人を揶揄っている彼の、こんな表情を見るのは珍しい。

 

「素直だね。もしかしてまだ夢の中?」

 

 その表情に、さっきの言葉の真意を聞き出す気にもなれなくて。照れ隠しと、先程の意趣返しも兼ねて少し揶揄うように言うと、彼は口元に笑みを浮かべた。

 

「かもね。でも今年の桜は特別だろ。俺ら、高校生になるんだし。それに今度は同じ学校だし」

 

 その一言に胸がどきりと鳴る。言葉の意味はただの事実なのに、彼の声に乗せられると、不思議と胸の奥にまで響いてきてしまう。

 

 

 バスが減速し、アナウンスが流れる。これから入学する、東京高度育成高校前のバス停だ。周りに座っていた私たちと同じ新入生らしき子たちが立ち上がり、そわそわと制服を触りながら席を立ち、ぞろぞろとバスを降りていく。

 

「ほら、行こう」

 

 葉月くんが立ち上がり、先に通路に出る。その背中を追いながら、私は自分の鼓動がやけに早いことに気づいた。

 

───これから始まる日々に、思いを馳せて。

 

 もう一度、ここからやり直そう。

舞い散る桜の下、私は一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

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