青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
三月三日
三月三日。夜。
家に帰った頃には、すっかり暗くなっていた。
鞄を下ろして、上着を脱ぐ。
机の上には、一昨日咲太から受け取った白い封筒。
新江ノ島水族館のチケットが、二枚入っている。
一度目の三月にも。二度目の三月にも。同じ場所に置いたものだった。
けれど。今の俺には、この二枚のチケットが以前とは少し違って見えた。
「……三月十四日、か」
のどかの誕生日。
最初の三月にも、一緒に過ごした。
二度目の三月にも。
そして今度は、三度目だ。
ただ、今回は一つだけ違うことがある。
のどかも、前の三月を覚えている。
スカイツリーも。東京駅も。
俺と過ごした、三月十四日も。
スマホを手に取る。
のどかから、メッセージが届いていた。
《やっと掃除終わった》
「……掃除?」
そう呟いてから、思い出す。
昨日、カフェで聞いた話。
三月三日。ひな祭り。
卯月が、のどかの家に雛あられを撒きに来るという、意味の分からない予定。
《雛あられ?》
送ると、すぐに既読がついた。
《そう》
《また撒かれた》
《今度こそ止めようと思ったのに》
思わず笑ってしまった。
《止められなかったのか》
《袋開けた瞬間に撒かれた》
「……何やってんだ、卯月」
自分でも驚くくらい、自然に笑えた。
少なくとも、のどかと卯月は、前と同じ三月三日を過ごしたらしい。
俺が知らないところで。
それが、今は少しだけ嬉しかった。
しばらくして、のどかから着信があった。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、出た」
「……」
その一言に、少しだけ胸が鳴った。
二度目の三月三日。
あの夜も、のどかは最初にそう言った。
けれど、今回は違う。
「……どうした?」
「どうしたって。別に用がないとかけちゃダメなの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ならいいじゃん」
同じ言葉だった。少しだけ拗ねたような声も。
けれど、今ののどかは、前の三月を覚えている。
俺と同じように。
「……卯月、帰った?」
「帰った。やっと」
「大変だったな」
「ほんと。なんでひな祭りに掃除機かけなきゃいけないの」
「来年は玄関で止めるしかないな」
「来年?」
のどかが、少しだけ黙った。
「……そうだね」
声が、少し柔らかくなる。
「来年は、そうしようかな」
来年。
その言葉が、胸の奥に残った。
俺たちは、まだ四月一日にさえ辿り着けていない。それでも、のどかは当たり前みたいに来年の話をする。
「蓮真」
「ん?」
「今日、牧之原さんと会ってきたんでしょ?」
「ああ」
「どうだった?」
「……色々話した」
「何か分かった?」
「いや」
少し考える。
「三月を終わらせる方法は、分からなかった」
「そっか」
「でも」
「うん?」
「明日へ行きたいと思え、って言われた」
「……何それ」
「俺も、まだよく分かってない」
のどかは少しだけ笑った。
「蓮真、そういうの苦手そうだもんね」
「……否定できない」
「考えすぎなんだって」
「それも否定できない」
電話の向こうで、のどかが笑った。
その声を聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。
「そうだ」
ふと思い出して、机を見る。
白い封筒。
新江ノ島水族館のチケット。
「のどか」
「なに?」
「十四日のことなんだけど」
少しだけ間があった。
「ああ、誕生日?」
「うん」
「それがどうしたの?」
「水族館、どうする?」
「……どうするって?」
「いや」
言葉を探す。
「前の三月でも行っただろ」
「行ったね」
「だから、今度は別の場所でもいいかなって」
「別の場所?」
「うん」
「なんで?」
「だって……」
そこまで言って、少し迷った。
のどかは、もう一度あの水族館へ行くことになる。
同じ展示を見て。同じ景色を見て。
俺と同じような一日を過ごす。
せっかくの誕生日なのに。
「……同じところ、二回目になるだろ」
正直に答えた。
のどかは、少しだけ黙った。それから。
「別によくない?」
「……いいのか?」
「うん」
あっさりした返事だった。
「前とおんなじようにしよ」
「……同じように?」
「そっか」
「水族館も?」
「うん」
「江の島も?」
「行きたい」
「……そっか」
のどかは、少しだけ笑った。
「楽しかったじゃん」
「……ああ」
「だから、また行きたい」
それだけだった。
単純な理由。なのに。
俺は、簡単に頷けなかった。
「……いいのか?」
もう一度聞いてしまった。
「何が?」
「いや、せっかくの誕生日だし」
「だから?」
「同じことばっかりでも、つまらないかなって」
電話の向こうが、少し静かになった。
「……蓮真さ」
「ん?」
「蓮真こそ、もう三回目なんでしょ?」
「……うん」
「水族館も、あたしの誕生日も」
「そうだな」
「じゃあ」
少しだけ、声の調子が変わる。
「蓮真はダメなの?」
「……え?」
「また同じところ行くの、嫌?」
「いや」
慌てて答える。
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、いいじゃん」
「でも」
「でも?」
「……」
言葉が出てこなかった。
俺は、どうしたかったのだろう。
のどかが楽しめるように。
同じ一ヶ月を繰り返していることを、少しでも嫌だと思わないように。
前より楽しい誕生日にしてやれたら。
そんなことを考えていた。
けれど。それは、のどかが望んだことなのだろうか。
「……蓮真?」
「ううん」
小さく息を吐く。
「いいよ」
「……ほんと?」
「うん」
机の上の封筒へ目を向ける。
「俺も、また行きたい」
「……そっか」
のどかの声が、少しだけ明るくなった。
「じゃあ決まりね」
「ああ」
「十四日、一日空けといてよ」
「空けてある」
「バイトも?」
「入れない」
「塾も?」
「入れない」
「卯月に呼ばれても?」
「行くわけないだろ」
「……ふーん」
少しだけ満足そうな声。
それを聞いて、思わず笑った。
「なんだよ」
「別に」
「またそれかよ」
「何?」
「いや、なんでもない」
同じような会話だった。
でも、今度は少し違う。
のどかも、前の三月を覚えている。
俺がどう答えるのか。何を約束するのか。
それを、もう一度聞いている。
「……楽しみだね」
のどかが言った。
「ああ」
「水族館」
「……うん」
楽しみ。
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
のどかは、本当に楽しみにしているのだろうか。
それとも。
俺がもう三回目の三月を過ごしているから。
俺に気を遣って、そう言ってくれているのだろうか。
前と同じようにしたい。
それは、のどか自身の希望なのか。
それとも、俺を安心させるためなのか。
「……」
分からなかった。
昨日、のどかに言われたばかりだった。
「俺が見ていない時に、あたしが消えてるわけじゃないんだから」
のどかには、のどかの時間がある。
のどかの気持ちがある。
それを、俺が勝手に決めてはいけない。
分かっている。
でも。自分のために誰かが無理をしているかもしれないと思うと。
どうしても、考えてしまう。
「蓮真」
「……ん?」
「また何か考えてる?」
「……ちょっとだけ」
「何?」
「いや」
少し迷った。
けれど。
「本当に、同じでいいのかなって」
正直に答えた。
「……だから、いいって言ってるじゃん」
少し呆れたような声だった。
「そうなんだけど」
「蓮真が嫌なら、別のところ考えるけど」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
「……うん」
それ以上、のどかは何も言わなかった。
俺も、聞かなかった。
少なくとも。のどかが、もう一度あの水族館へ行きたいと言っている。
それは、ちゃんと聞いた。
だったら今は。その言葉を信じてみてもいいのかもしれない。
「そういえば」
のどかが言った。
「五日、来るよね?」
「日曜日?」
「うん。新宿のライブ」
「ああ、行くよ」
「古賀さんも?」
「うん。花楓ちゃんも一緒」
「そっか」
少しだけ間が空く。
「……ちゃんと見ててよ」
「見るよ」
「あたしのこと」
「……分かってる」
のどかは、少しだけ笑った。
「じゃあ、日曜日」
「ああ」
「あと十四日も」
「忘れないよ」
そう答えてから。自分でも、少しだけ笑った。
今度は、のどかも覚えている。
俺たちは、一度同じ三月十四日を過ごしている。
それでも。もう一度、約束する。
「……うん」
電話の向こうで、のどかが小さく答えた。
「じゃあね、蓮真」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」
通話が切れる。
スマホの画面が暗くなった。
「……」
しばらく、そのまま座っていた。
机の上には、二枚の水族館のチケット。
三度目の三月十四日。
のどかにとっては、二度目の三月十四日。
俺たちは、また同じ場所へ行くことになった。
それ自体は、嬉しかった。
また一緒に過ごせる。同じ景色を見られる。
それは、間違いなく嬉しい。
けれど……
「……無理、してないかな」
小さく呟く。
のどかは、俺よりずっと自然に、この三月を受け入れているように見えた。
同じレッスンへ行って。卯月と雛あられを撒いて。
俺と、もう一度デートの約束をする。
でも、本当はどうなのだろう。
嫌じゃないのか。怖くないのか。
先が見えないことに、不安はないのか。
俺が三回目だから。俺の方が大変だから。
そう思って、無理に明るく振る舞っているのではないか。
「……また、これか」
思わず、額に手を当てる。
昨日、のどかに言われた。
「勝手に全部背負おうとしてない?」
その通りだった。
俺は、また同じことを考えている。
のどかが何を思っているのか。どうすれば幸せになれるのか。
その答えを、俺が先に見つけようとしている。
「……違うよな」
小さく呟く。
のどかの気持ちは、のどかのものだ。
それを俺が決めることはできない。
ただ。それでも、一つだけ確かめたいことがあった。
どうして、のどかまで三月を覚えているのか。
俺だけだったはずの思春期症候群に、何が起きたのか。
原因が分からないままでは。この先、のどかに何が起きるのかも分からない。
「……何か、手がかりは」
スマホを開く。
今日の日付。
三月三日。
のどかと牧之原さんが、前の三月を覚えている。
一度目とは違う人間が、同じ時間を経験している。
そんなことが、以前にもなかっただろうか。
思春期症候群。
時間の繰り返し。
一人ではなく、複数の人間が、同じ現象を経験する。
「……あ」
ふと、思い出した。
古賀朋絵。
いや、正確には。
古賀朋絵と、梓川咲太。
「……そうだ」
かつて、古賀の思春期症候群によって、同じ日々が繰り返されたことがあった。
あの時。古賀だけではなかった。
咲太も、同じ時間を経験していた。
そう聞いている。
「……なんでだ?」
思わず声に出す。
どうして、古賀の思春期症候群に、咲太まで巻き込まれたのだろう。
古賀が時間を繰り返していた理由と。
咲太が、その時間を経験できた理由。
それは、同じだったのだろうか。
それとも、別の理由があったのだろうか。
俺は詳しい仕組みまでは知らない。
当事者ではなかったのだから、当然だ。
ただ。今の俺とのどかに、少しだけ似ている。
「……古賀に聞いてみるか」
カレンダーを開く。
三月五日。日曜日。
新宿。
スイートバレットのライブ。
古賀と花楓ちゃんと、三人で見に行く予定になっている。
「……明後日、か」
ちょうどいい。
会う約束を新しく作る必要もない。
ただ、古賀にとっては昔の思春期症候群の話だ。
今さら掘り返していいものなのかは、分からない。
それでも。少しだけ、聞いてみたい。
どうして、咲太まで巻き込まれたのか。
古賀自身は、何か覚えていないだろうか。
もし、そこに共通点があるのなら。
のどかが三月を覚えている理由も、少しは分かるかもしれない。
もちろん、同じ現象とは限らない。
六年前の俺の思春期症候群とも、今回の三月とも。
古賀の経験は、違うものだったのかもしれない。
それでも、今は他に思いつかなかった。
「……まずは、そこからだな」
カレンダーを閉じる。
机の上には、白い封筒。
新江ノ島水族館のチケット。
三月十四日。
のどかと、もう一度行く場所。
そして、明後日は三月五日。
古賀と花楓ちゃんと、新宿へ行く。
一度目にも。二度目にもあった予定。
けれど、今度は少しだけ違う。
前の二回は、ただライブを見に行くだけだった。
今度は、古賀に聞いてみたいことがある。
それが、何かを変えるかどうかは分からない。
変わらないかもしれない。
でも。
「……明後日、聞いてみよう」
小さく呟いた。
昨日より今日。今日より明日。
牧之原さんが言っていた。
ちょっとだけ、優しい人間になれればいい。
その言葉の意味は、まだよく分からない。
けれど今度は、俺一人で答えを出さなくてもいい。
のどかもいる。
牧之原さんもいる。
そして、古賀にも聞くことができる。
誰かが、俺の知らないことを知っているかもしれない。
知らないことがあるのなら。まずは、聞いてみればいい。
それだけのことを。俺は、今まで難しく考えすぎていたのかもしれなかった。
三月五日
日曜日の昼過ぎ。
俺は小田急線の車内で、向かい側に座る古賀と花楓ちゃんを見ていた。
「いやぁ……やっぱ新宿って緊張するんだよね」
古賀が、窓の外を見ながら小さく息を吐く。
「なんでだよ?」
「だって迷うじゃん、あそこ」
「それ、分かります」
花楓ちゃんが真剣に頷いた。
「私も高校が新宿なのに、未だに時々迷います」
「あー、分かる!地下とかほんとヤバいよね!」
「そうなんです……」
そんな二人を見ながら、少しだけ息を吐く。
一度目の三月五日も。二度目の三月五日も。
同じ会話を聞いた。
新宿駅をダンジョン扱いする古賀も、それに真剣に同意する花楓ちゃんも。
何も変わっていない。
それが、少しだけ嬉しかった。
「きっしー先輩?」
「……ん?」
「今日も案内よろしくね!」
「勝手に決めるな」
「だって東京育ちじゃん」
「東京育ちでも新宿は迷うぞ」
「えー、そうなの?」
古賀が笑う。花楓ちゃんも、小さく笑っていた。
俺も、少しだけ笑った。
少なくとも。今の二人にとって、今日は初めての三月五日だった。
新宿駅から歌舞伎町へ向かい、歌舞伎町タワーに入る。
Zepp Shinjukuの周辺には、スイートバレットのファンらしい人たちが集まっていた。
そこで、卯月のお母さんと会った。
「蓮真くん、こんにちは」
「こんにちは」
「今日は来てくれてありがとうね」
「いえ」
古賀と花楓ちゃんが挨拶をすると、卯月のお母さんは嬉しそうに笑った。それから、俺に向き直る。
「のどかちゃん、大事にするのよ?」
「……はい」
前と同じ言葉だった。
卯月を振って、のどかを選んだ俺に。この人は、いつも通りに接してくれる。
「何かあったら、遠慮なく頼ってね」
「……ありがとうございます」
そう答えると、卯月のお母さんは満足そうに頷いた。
何も変わっていない。
少なくとも、ここまでは。
やがて、ライブが始まった。
照明が落ち、歓声が上がる。
ステージに現れたのは、五人のスイートバレット。
センターには卯月。その隣に、のどか。
安濃さんも、中郷さんも、岡崎さんも。
みんな、俺が知っている姿だった。
『ミューズになっちゃう』
イントロが流れ、会場が一気に盛り上がる。
卯月が客席を煽る。安濃さんが、落ち着いた表情でステージを支える。
そして、のどか。
ライトを浴びて踊る金色の髪に、自然と目が向いた。
一昨日、電話で話したばかりだった。
三月十四日。もう一度、水族館へ行こうと。
前と同じ場所へ。
けれど、今度は二人とも前の三月を覚えている。
ステージの上で笑うのどかも、そのことを知っている。
それでも、いつも通りに歌っていた。
「……」
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
そんなことを考えているうちに、曲が終わった。
「ねえねえ、今日どかちゃんさー!」
MCに入るなり、卯月が声を上げる。
「なによ」
「開演前から、ずっと入口の方見てたよね?」
「……卯月?」
のどかの声が低くなる。
「今日、き」
「はいストーップ!」
安濃さんが慌てて割って入った。
客席から笑いが起きる。
中郷さんも、すかさず別の話題へ逸らしていた。
「……ほんと、卯月らしい」
思わず呟く。
ここも同じだった。
一度目も。二度目も。卯月は俺の名前を出しかけて、安濃さんに止められた。
まるで、何も起きていないみたいだった。
卯月も。安濃さんも。
何も知らずに、今日という日を過ごしている。
そのことに、少しだけ安心する。
けれど。もし、次の三月があったら。
今度は、卯月まで前の三月を覚えるようになったら。
「……」
嫌な想像だった。
のどかが記憶を保持するようになった理由すら、まだ分かっていない。
だったら、卯月にも同じことが起きないとは言い切れない。
あいつは、ようやく自分の気持ちに折り合いをつけて、前へ進もうとしている。
それなのに。俺の思春期症候群で、その日常まで変わってしまったら。
「……巻き込みたくないな」
小さく呟いた。
もちろん、俺に防げることなのかも分からない。
それでもこれ以上、誰かが同じ三月を繰り返すことにならなければいい。
そう思った。
ライブ終了後。卯月のお母さんの案内で、控室へ顔を出した。
「あ、きっしー!」
卯月が真っ先に駆け寄ってくる。
「どうだった!?今日のライブ!」
「……良かったよ」
「ほんと!?」
「ああ」
「やったー!」
卯月は、いつものように笑った。
その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
「……蓮真」
今度は、のどかだった。
「ん?」
「ちゃんと見てた?」
「見てた」
「あたしのこと?」
「……ああ」
のどかは、少しだけ満足そうに笑った。
それから、小さな声で続ける。
「……大丈夫?」
「……うん」
「また、なんか考えてたでしょ」
「……ちょっとな」
のどかは呆れたように笑った。
「ほんと、考えすぎなんだから」
否定できなかった。
「……そういえば」
俺は、声を落とした。
「帰りに古賀と、少し話してみようと思う」
「思春期症候群のこと?」
「ああ」
「そっか」
のどかは頷いた。
「俺たちのことも、話していいか?」
「いいよ」
少しだけ考えてから、のどかは続けた。
「何か分かったら、あたしにも教えてね」
「……分かった」
「約束だからね」
「ああ」
そう答えると、のどかは控室の奥へ戻っていった。
入れ替わるように、安濃さんが近づいてくる。
「きっしーくん」
「……はい」
「何その反応。まだ私のこと怖い?」
「……いや」
安濃さんは小さく笑った。
「まあ、色々あったけどさ」
少しだけ、卯月の方を見る。
「卯月も、ちゃんと前に進もうとしてるから」
「……うん」
「だから、きっしーくんもちゃんとしなよ?」
「……分かってる」
「のどかを大事にするんだよ」
前と同じ言葉だった。
「……ありがとう、安濃さん」
そう答えると、安濃さんは満足そうに頷いた。
「ならよし」
卯月も。のどかも。安濃さんも。
今日も、いつも通りだった。
そのことが、今は何より嬉しかった。
帰り道。歌舞伎町を抜け、新宿駅へ向かっていると、花楓ちゃんがふと思い出したように言った。
「私、今日は横浜に寄ってから帰ろうと思ってるんです」
「横浜?」
古賀が聞き返す。
「はい。お父さんとお母さんに、ちょっと顔を見せに行きたくて」
「いいじゃん!」
古賀が笑う。
「……そっか」
そう返した。
花楓ちゃんにも、花楓ちゃんの予定がある。
当然のことだけど。
少し前までの俺なら、そんな当たり前のことすら、あまり意識していなかった気がする。
新宿駅で、花楓ちゃんとは別れることになった。
「蓮真さん、朋絵さん。今日はありがとうございました」
「うん!また一緒にライブ行こうね!」
「はい!」
花楓ちゃんは丁寧に頭を下げると、JRの改札へ向かっていった。
その後ろ姿を見送る。
「じゃ、あたしたちは小田急だね」
古賀が言った。
「……そうだな」
俺たちは、小田急線の改札へ向かった。
新宿始発の快速急行。
藤沢へ向かう電車に乗る。
日曜日の夕方。車内にはそれなりに人がいたが、二人並んで座ることはできた。
「いやぁ、今日は楽しかったねきっしー先輩」
古賀がスマホの写真を眺めながら言った。
「……そうだな」
「づっきー、ほんとすごいよね」
「ああ」
「豊浜さんも、めっちゃかっこよかったし」
「……うん」
古賀は、少しだけこちらを見た。
「きっしー先輩、豊浜さんのことずっと見てたでしょ」
「……見てたよ」
「素直!」
「なんだよ」
「いや、別に?」
古賀が笑う。
俺も、少しだけ笑った。
電車が、新宿駅を離れていく。
窓の外には、夕方の東京。
しばらく、他愛ない話をしていた。
町田を過ぎた頃には、車内も少し落ち着いていた。
隣では、古賀が今日撮った写真を眺めている。
ライブ会場の看板。花楓ちゃんとの写真。卯月たちと撮った写真。
どれも、楽しそうだった。
「……なあ、古賀」
「ん?」
「ちょっと、聞いてもいいか?」
「何を?」
「……昔の思春期症候群のことなんだけど」
古賀の手が止まった。
「……あたしの?」
「ああ」
少しだけ、言葉を探す。
「咲太と一緒に、同じ時間を繰り返してたことがあっただろ」
「……うん」
「どうして、咲太まで覚えてたんだ?」
「……え?」
古賀は、少しだけ目を丸くした。
それから。
「……うーん」
何やら考え込む。
「正直、あたしもよく分かんないんだよね」
「……そうなのか」
「うん。先輩から色々説明はされたけど」
古賀は、小さく肩をすくめた。
「でも、思い当たることが一つだけあって」
「……何?」
「……お尻」
「…………は?」
思わず、聞き返した。
「……お尻?」
「うん」
古賀は、少しだけ気まずそうに笑った。
「先輩と、お尻を蹴り合ったんだよね」
「……」
何を言っているんだ、こいつは。
「……悪い。話が見えない」
「だよねぇ……」
古賀は苦笑した。
「最初に先輩と会ったときさ、あたし、勘違いしちゃって」
「勘違い?」
「うん。先輩が迷子の女の子に声かけてたんだけど」
「……ああ」
「それを、変質者だと思っちゃったんだよね」
「……」
「で、ロリコン変質者って言いながら、思いっきりお尻蹴っちゃった」
「……お前なぁ」
思わず呆れる。
古賀は、少しだけ頬を膨らませた。
「だって、そう見えたんだもん!」
「……まあ、咲太だからな」
「でしょ!?」
「いや、だからって蹴るなよ」
「分かってるって!」
古賀は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「ちゃんと誤解は解けたんだけどさ」
「……うん」
「悪いことしちゃったなって思って」
「……それで?」
「今度は、あたしのお尻も蹴ってって頼んだの」
「…………」
「そしたら、先輩、本当に蹴ったんだよね」
「……」
思わず、額に手を当てた。
「……お前ら、何やってんだよ」
「いや、ほんとそうなんだけど!」
古賀が笑う。
「でもさ、それがあったから、先輩とあたしって、何かつながっちゃったのかなって」
「……尻を蹴り合ったから?」
「うん」
「……」
量子もつれ。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
以前、双葉から聞いたことがある。
離れた二つの粒子の状態が、互いに関連し合う現象。
もちろん、尻を蹴り合っただけで、人間同士が量子もつれを起こすなんて話は聞いたことがない。
けれど。古賀が繰り返していた時間を、咲太も覚えていた。
そして今は。俺が繰り返している三月を、のどかも覚えている。
もし、俺とのどかの間に何らかのつながりが生まれていたのだとしたら。
「……」
いや。それだけで説明できるとは思えなかった。
そもそも、古賀の思春期症候群と、俺の思春期症候群が同じ仕組みなのかも分からない。
それでも、少しだけ気になった。
「……それが原因だと思うのか?」
「分かんないよ」
古賀は、あっさり答えた。
「ただ、あたしと先輩が同じことを経験した理由って、それくらいしか思いつかなくて」
「……そっか」
「そもそも、あたしが時間を繰り返してたのは、別の理由だしね」
「……ああ」
友人関係のことで悩んでいた。
香芝さんが憧れていた前沢先輩に告白されて、どうすればいいのか分からなくなった。
そう聞いている。
「……まあ、参考にはなった」
「ほんと?」
「ああ」
「……お尻の話が?」
「……そこは微妙だけど」
「ひどいっ!」
古賀が笑った。
俺も、少しだけ笑う。
けれど知りたかったのは、その先だった。
「……実はさ」
「ん?」
「今、似たようなことが起きてるんだ」
「……え?」
古賀が、こちらを見る。
「三月が、繰り返されてる」
「…………は?」
「今が、三回目の三月五日なんだ」
「……」
古賀は、しばらく何も言わなかった。
それから。
「……きっしー先輩、何かの冗談?」
「……俺も、そう思いたい」
「いや、ちょっと待って」
古賀は、こちらへ身体を向けた。
「じゃあ、今日のライブも?」
「ああ。三回目」
「……ほんと?」
「うん」
「……づっきーが、豊浜さんのこと喋りかけたのも?」
「三回とも」
「…………」
古賀は、何とも言えない顔をした。
「……それは、三回ともやりそうだけど」
「……まあな」
二人で、少しだけ笑った。けれど、古賀はすぐに真面目な顔へ戻った。
「……きっしー先輩」
「ん?」
「それ、ずっと一人で覚えてたの?」
「……最初はな」
「最初?」
「ああ」
少しだけ、言葉を探す。
「今は、のどかも覚えてる」
「……え?」
「前の三月を」
古賀は、目を丸くした。
「……豊浜さんも?」
「ああ」
「……なんで?」
「それが、分からない」
小さく息を吐く。
「だから、古賀に聞いてみたかったんだ」
「……そっか」
古賀は、少しだけ考え込んだ。
「……あたしの場合はさ」
「うん」
「先輩が一緒に覚えててくれたの、結構安心したんだよね」
「……安心?」
「うん」
古賀は頷いた。
「だって、あたし一人だったら、絶対怖かったと思うもん」
「……」
「同じことが起きてるのに、誰にも分かってもらえないって、きついじゃん」
その言葉が、胸に残った。
中学時代。何度も繰り返した三月。俺は、誰にも相談できなかった。
ただ一人、ノートに記録を残していた。
でも今は、違う。
「……豊浜さんは?」
古賀が尋ねる。
「……ん?」
「どう思ってるの?」
「……前と同じように過ごしたいって」
「うん」
「十四日も、また水族館に行きたいって言ってた」
「……いいじゃん」
古賀は、あっさり答えた。
「……そうか?」
「豊浜さんがそう言ってるんでしょ?」
「……ああ」
「なら、信じてあげなよ」
「……」
昨日も、似たようなことを言われた気がする。
古賀が続ける。
「一緒に覚えてることが、悪いことばっかじゃないじゃん」
「……え?」
「だって、きっしー先輩、一人じゃなくなったんでしょ?」
「…………」
考えたことがなかった。
のどかが巻き込まれた。そのことばかり、気にしていた。
けれどのどかが、俺と同じ三月を覚えていることを。
どう思っているのか。
俺は、まだちゃんと聞けていなかった。
「……古賀」
「何?」
「ありがとう」
「……え?」
古賀が目を丸くした。
「いや、参考になった」
「……お尻の話が?」
「……そっちじゃない」
「なんだぁ」
古賀が笑った。俺も、思わず笑ってしまった。
「でもさ、きっしー先輩」
「ん?」
「ほんとに原因を知りたいなら、先輩にも聞いてみたら?」
「……咲太に?」
「うん」
古賀は頷いた。
「だって、先輩も覚えてたんだし」
「……そうだな」
咲太なら、古賀とは違うことを覚えているかもしれない。
それに、双葉へ相談することもできる。
「……今度、聞いてみるよ」
「うん」
古賀は、満足そうに笑った。
それから、ふと思い出したように言った。
「……でも、きっしー先輩」
「何?」
「原因調べるために、誰かのお尻蹴ったりしないでよ?」
「……するわけないだろ」
「ほんと?」
「当たり前だろ」
「なら、OK!」
古賀が笑う。
……本当に、何なんだ。
けれど。古賀と、こんな話をしたことはなかった。
一度目の三月五日にも。二度目の三月五日にも。
同じライブを見て。同じ電車に乗って。
それでも、今日は少しだけ違う。
知らなかったことを、知ることができた。
それが、思っていたよりも嬉しかった。
やがて、車内アナウンスが流れた。
間もなく、藤沢。
電車がゆっくり減速を始める。
「……きっしー先輩」
「ん?」
「ほんとに、困ったらまた聞いてね」
古賀が、少しだけ真面目な顔で言った。
「……ああ」
「先輩にも、ちゃんと相談するんだよ?」
「分かってる」
古賀は、いつものように笑った。
俺も、少しだけ笑う。
扉が開き、藤沢駅のホームへ降りる。
いつもの駅だった。
何度も見た景色。何度も歩いた場所。
「じゃあ、きっしー先輩。またね!」
「ああ。またな」
古賀が手を振って、歩いていく。
その後ろ姿を見送ってから、スマホを取り出した。
のどかへ、メッセージを送る。
《古賀と話せた》
少しして、既読がついた。
《どうだった?》
少しだけ考える。
《まだ分からないことは多い》
《でも、話してよかった》
すぐに返事が届いた。
《そっか》
《よかったじゃん》
「……うん」
小さく呟く。
それから、もう一通。
《今度、咲太にも聞いてみる》
《いいと思う》
《一人で抱え込まないようにね》
「……」
また、それか。
思わず笑ってしまった。
《分かってる》
そう返してから、少しだけ考える。
そして。
《十四日、楽しみにしてる》
送信する。
少しして、返事が届いた。
《あたしも》
たった四文字。
けれど、それを見て。
少しだけ、胸の奥が温かくなった。
俺はスマホをしまい、改札へ向かって歩き出した。
三月五日。三度目の、三月五日。
今日も、ほとんど同じ一日だった。
卯月も、安濃さんも、花楓ちゃんも。
俺の知っているままだった。
それでも古賀と、こんな話をしたことはなかった。
思春期症候群を終わらせる方法が分かったわけじゃない。
のどかが前の三月を覚えている理由も。
これから何が起きるのかも、まだ、何も分からない。
けれど今まで知らなかったことを、一つだけ知ることができた。
同じ時間を繰り返していても、誰かと話すことで、少しだけ違う一日になる。
そして。知らないことを、全部俺一人で考える必要もない。
「……そっか」
小さく呟く。
ふと、もう一つ思い出した。
「……双葉」
そういえば、明後日。
三月七日。
夕方から塾のアルバイトが入っている。
あの日は、双葉も同じ時間に来るはずだった。
一度目の三月七日。
俺は双葉へ、霧島透子について相談した。
授業が終わってから、ファミレスへ行って。
中学時代の記録や、俺の記憶に残っていない感情について、色々と話した。
そして二度目の三月七日。
今度は、相談しなかった。
あの時は、牧之原さんが一度目とは違う行動を取っていたことが気になっていた。
まず本人に確かめてから、双葉に相談しようと思った。
その結果、三月七日には何も話さなかった。
けれど、今回は違う。
牧之原さんが前の三月を覚えていることは、もう分かっている。
のどかも、覚えている。
そして今日、古賀から新しい話を聞いた。
「……量子もつれ、か」
口にしてみる。
古賀と咲太。
俺とのどか。
二組の間に、何らかの共通点があるのかもしれない。
誰かの思春期症候群を、別の人間が一緒に経験する。
その仕組みについてなら、双葉は何か知っているかもしれない。
少なくとも、俺よりは詳しい。
「……七日、聞いてみるか」
今度は、話そう。
一度目と同じように。
でも、話す内容は違う。
霧島透子についてではなく。
今の俺とのどかについて。
それから、少し考えてスマホを開いた。
のどかとのトーク画面。
《七日、塾で双葉と会うんだけど》
《量子もつれについて聞いてみようと思う》
少しして、既読がついた。
《双葉さんって、蓮真と咲太の同級生の?》
《うん》
《あたしたちのことも話すの?》
《そのつもり》
少しだけ間が空いた。
《いいよ》
続けて。
《何か分かったら教えてね》
「……うん」
小さく頷く。
《分かった》
送信する。
まだ、何も解決していない。
けれど明後日には、双葉に話せる。
それだけで、少しだけ気が楽になった。
三度目の三月。
俺は、前の二回とは違うことをしようとしている。
それが、正しい選択なのかは分からない。
でも少なくとも、今度は一人で考え続ける必要はなかった。
三月七日
夕方。五時からの授業に間に合うように、塾へ向かった。
受付を済ませて奥へ進むと、見覚えのある姿があった。
双葉だった。
「……双葉」
声をかけると、双葉がこちらを見る。
「岸和田。お疲れ」
「お疲れ」
机の上に教材を置く。
一度目の三月七日。俺は、双葉へ霧島透子について相談した。
中学時代のノート。記録に残っている、名前の分からない女の子。
どうして、霧島透子という名前だけが引っかかるのか。
そんなことを、授業が終わってからファミレスで話した。
二度目の三月七日。
今度は、相談しなかった。
牧之原さんが一度目とは違う行動を取っていたことが気になっていて。まずは本人に確かめてからにしようと思った。
そして、三度目。
今の俺には、一度目にも二度目にもなかった情報がある。
のどかが、前の三月を覚えていること。
牧之原さんも、覚えていること。
そして、古賀から聞いた話。
「……なあ、双葉」
「なに?」
「授業終わったあと、時間あるか?」
双葉が、少しだけ眉を上げた。
「内容によるけど」
「思春期症候群について、相談したい」
「……岸和田が?」
「ああ」
双葉は、少しだけ考えた。
「分かった。授業のあとでいい?」
「助かる」
「今度は何があったの?」
「……色々」
「色々、ね」
それだけ言うと、双葉は小さく息を吐いた。
「まあ、聞いてから考えるよ」
「……ありがとう」
俺は頷いた。
今度は、話そう。
一度目とは違うことを。二度目には話せなかったことを。
そして、今の俺自身が何を考えているのかを。
授業が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
双葉と塾を出て、ファミレスへ向かう。
姫路さんに席に案内され、向かい合って座った。
双葉はコーヒーを注文する。俺も同じものを頼んだ。
「それで?」
双葉が口を開く。
「思春期症候群のことだったよね」
「……ああ」
少しだけ息を吐く。
どこから話せばいいのだろう。
中学時代のこと。今の三月のこと。
牧之原さんから聞いた話。
全部を説明しようとすれば、相当な時間がかかる。
それに今の双葉が、牧之原さんについてどこまで知っているのかも分からない。
三月二日。
のどかは、牧之原さんの名前しか知らなかった。
麻衣先輩宛ての手紙に書かれていた名前。
それ以上ではなかった。
双葉も、そうなのかもしれない。
俺は、高校二年の文化祭で出会った中学生くらいの少女について、以前双葉に相談したことがある。
ただそれは、牧之原さんが世界を再構成する前の出来事だ。
今の双葉が、同じことを覚えている保証はない。
だから、名前は出さないことにした。
「……実はさ」
「うん」
「今、三月を繰り返してるんだ」
双葉の手が止まった。
「……は?」
「今日が、三回目の三月七日なんだ」
「……」
双葉は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりカップを置く。
「詳しく聞かせて」
「……ああ」
俺は、一つずつ説明した。
三月三十一日の翌日が、三月一日になったこと。
二度目の三月を過ごしても、四月一日には進めなかったこと。
そして、三度目の三月でも、今のところほとんど同じ出来事が起きていること。
双葉は、途中で何度か質問した。
持ち物は変わっていたのか。周囲の人間の記憶はどうなっていたのか。
同じ出来事を、違う選択によって変えることはできたのか。
答えられる範囲で、一つずつ答えた。
「……なるほどね」
話を聞き終えると、双葉は小さく頷いた。
「つまり、岸和田は三月三十一日まで進めるけど、その先へ行こうとすると三月一日に戻ってしまう」
「そう」
「しかも、毎回ほぼ同じ出来事が起きている」
「ああ」
「でも、全く同じじゃない」
「……うん」
二度目の三月。
俺は、一度目とは違う行動を取った。
それによって、のどかとの関係も少しずつ変わった。
それでも、三月三十一日の翌日には、また三月一日が来た。
双葉は、しばらく考えていた。
「……一つ、考えられることがあるけど」
「何?」
「量子ゼノ効果って、知ってる?」
「……量子ゼノ効果?」
聞いたことのない言葉だった。
「いや」
「簡単に言えば、量子状態を非常に短い間隔で繰り返し測定すると、本来起こるはずの状態の変化が抑えられる現象」
「……変化が、抑えられる?」
「そう」
双葉は、テーブルの上に指を置いた。
「例えば、ある状態をAとする」
指先を、少し右へ動かす。
「時間が経てば、普通は別の状態Bへ変わっていく可能性がある」
「……うん」
「でも、その状態を非常に短い間隔で測定し続けると、AからBへの遷移が抑制されることがある」
「……つまり?」
双葉は、スマホを取り出した。
メモアプリを開き、短い文字列を入力する。
A → B
「普通なら、こう」
その下に、もう一つ書く。
A → A → A
「でも、量子ゼノ効果を思春期症候群のモデルとして考えるなら、こういう状態なのかもしれない」
「……同じところに、留まり続ける?」
「そういうこと」
双葉は、俺を見る。
「岸和田は、今の生活をどう思ってる?」
「……今の生活?」
「大学に入って、豊浜さんと付き合って」
少しだけ間を置く。
「幸せ?」
「……」
不意の質問だった。
でも、答えに迷う必要はなかった。
「……幸せだよ」
「そう」
「少なくとも、今までの人生の中では」
双葉は頷いた。
「じゃあ、その幸せが終わることは?」
「……え?」
「怖くない?」
胸の奥が、少しだけ冷たくなった。
思い当たることがあった。
のどかと付き合い始めたこと。卯月との関係に、一つの区切りがついたこと。
少しずつ、自分の居場所ができてきたこと。
それらが、いつか終わってしまうかもしれない。
そう考えたことは、何度もあった。
「……怖いよ」
正直に答えた。
双葉は、小さく頷いた。
「だったら、こういう考え方もできる」
「……何?」
「岸和田は、今の幸せを失いたくないと思っている」
「……うん」
「だから、その幸せな状態を何度も確かめようとしている」
「……」
「もし、その観測が思春期症候群として作用しているなら」
双葉は、さっきの文字列を指で示した。
「岸和田自身が、状態を変えさせていないんじゃない?」
「……俺が?」
「そう」
「三月を、終わらせないように?」
「その可能性はある」
少しだけ、息が詰まった。
俺は、三月を終わらせたいと思っている。
四月一日へ進みたい。のどかと一緒に、次の季節を迎えたい。
それなのに自分自身が、その変化を止めているのだとしたら。
「……でも」
「うん?」
「俺、四月一日へ行きたいと思ってるぞ」
「それは分かるよ」
双葉は、あっさり答えた。
「意識していることと、無意識に願っていることが同じとは限らないでしょ」
「……」
「それに、これはあくまで仮説」
双葉は続けた。
「物理学の量子ゼノ効果と、人間が同じ一ヶ月を繰り返す現象は違う」
「……うん」
「だから、岸和田が本当に何かを止めているのかは分からない」
「……そっか」
「ただ」
「何だよ?」
「時間が戻っているというより、状態が次へ移れなくなっていると考えると、説明しやすい部分はある」
双葉は、スマホの画面を伏せた。
「三月三十一日までは進む。でも、四月一日という新しい状態には移れない」
「……」
「だから、また三月一日から同じ状態を繰り返す」
「……なるほど」
それなら。少しだけ、分かる気がした。
俺はずっと、どうして時間が戻るのかを考えていた。
けれど戻っているのではなく、進めなくなっている。
そう考えたことはなかった。
「……双葉」
「なに?」
「もし、それが本当だったら」
少しだけ迷う。
「俺が、今の幸せを失いたくないと思わなくなれば、終わるのか?」
「それは違うと思う」
即答だった。
「……違う?」
「幸せを失いたくないと思うこと自体は、別に悪いことじゃないでしょ」
「………」
「それに、仮説が正しいかも分からない段階で、岸和田が自分の気持ちを変えなきゃいけないと決める必要はないしね」
「……そっか」
双葉は、コーヒーを一口飲んだ。
「仮にこの仮説が正しいとしても」
「うん」
「今の幸せを大切にすることと、次の未来へ進むことは、両立できるんじゃないの」
「……」
その言葉に、少しだけ考え込んだ。
三月三日。牧之原さんから言われたこと。
「明日へ行きたいと思ってください」
その言葉を、思い出していた。
「……そうだな」
小さく答えた。
小さく答えた。
「……それと、双葉」
「まだあるの?」
「ああ」
「今日は随分、相談することが多いね」
「……悪い」
「別にいいけど」
双葉は、少しだけ笑った。
「今度は何?」
「……記憶のことなんだ」
「記憶?」
「ああ」
俺は、少しだけ息を吐いた。
「三度目の三月では、俺以外にも前の三月を覚えている人がいる」
双葉の表情が変わった。
「……誰?」
「のどか」
「……豊浜さんが?」
「ああ」
「前の三月を?」
「三月三十一日まで、ちゃんと覚えてる」
双葉は黙った。
「……それは、いつから?」
「三度目の三月一日から」
「……一度目から二度目に戻ったときは?」
「覚えてなかった」
「なるほど」
双葉は、しばらく考え込んだ。
「だったら、二度目の三月で何かが起きた可能性があるね」
「……そう思う」
「ほかには?」
その問いに、少しだけ迷った。
「……もう一人、いる」
「誰?」
「……」
言葉が止まる。双葉が、こちらを見る。
「岸和田?」
「言えない?」
「……ああ」
双葉は、少しだけ眉を寄せた。
「それだと、判断材料が減るんだけど」
「……分かってる」
「理由は?」
少し考える。
「……この世界で、その人がどういう立場なのか、まだよく分からないんだ」
「……どういう意味?」
「別の可能性世界を経験したその人から、別世界の俺について聞いたんだ」
双葉の手が止まった。
「……別の世界の岸和田?」
「ああ」
「どういうこと?」
「その世界では、今とは違う人生を送っていたらしい」
「……」
「俺自身は覚えてない。でも、その人は覚えてる」
双葉は、何も言わなかった。
「……だから、今は名前を出さないでおきたい」
「……そう」
意外にも、双葉はそれ以上聞いてこなかった。
ただ、少しだけ考えるように、目を伏せた。
「……岸和田」
「何?」
「その人とは、前から知り合いだったの?」
「……会ったことはある」
「最近?」
「高校二年の頃から、何度か」
「……そう」
双葉は、小さく頷いた。
何かを思い出しているようだった。
文化祭。階段の踊り場。
中学生くらいの少女。
以前、俺が双葉へ話したこと。
もしかすると、双葉も同じことを考えているのかもしれない。
けれど。
「……分かった」
双葉は、それ以上何も聞かなかった。
「今は、その人のことは置いておく」
「……いいのか?」
「名前を言いたくないんでしょ」
「……うん」
「だったら、今ある情報だけで考えるから」
そう言って、双葉はスマホを手に取った。
「豊浜さんの話に戻るけど」
「……ああ」
「古賀さんの思春期症候群、覚えてる?」
「……ああ」
「梓川も、同じ時間を経験していたでしょ」
「ああ」
「今回も、似たようなことが起きているのかもしれない」
「……それなんだけど」
「なに?」
「一昨日、古賀に聞いてみたんだ」
「本人に?」
「ああ」
「それで?」
少しだけ、言いにくかった。
「……尻を蹴り合ったのが、原因かもしれないって」
「……ああ、あの話ね」
双葉は、あっさり答えた。
「……知ってるのか?」
「知ってるよ。梓川から聞いた」
「……咲太から?」
「うん」
双葉は、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「梓川に聞いたことがあるんだよ。古賀さんとの間で、何か衝撃を与え合うようなことがなかったかって」
「……それで?」
「尻を蹴り合ったって」
「……」
思わず、額に手を当てた。
「……お前も知ってたのかよ」
「まあね」
双葉は、小さく笑った。
「最初に聞いたときは、何を言ってるのかと思ったけど」
「……俺もそう思った」
「梓川らしいと言えば、梓川らしいけど」
「……そうだな」
「で」
双葉が、こちらを見る。
「岸和田と豊浜さんには、似たようなことがあった?」
「……似たようなこと?」
「身体的な接触とか。強い感情が伴う出来事」
「……」
少しだけ考える。
のどかと、俺。
付き合い始めてから、色々なことがあった。
手を繋いだこと。抱きしめたこと。
……いや違う。
双葉が聞いているのは、そういうことじゃない。
「……あ」
思い出した。
三月十四日。
のどかの誕生日。稚児ヶ淵。
「……あった」
「何?」
「三月十四日」
双葉が、少しだけ眉を上げた。
「稚児ヶ淵で、のどかが転びそうになったんだ」
「……それで?」
「一度目にも、同じことがあった」
「うん」
「あのときは、手首を掴んで助けた」
双葉は頷いた。
「二度目は?」
少しだけ、言葉を探す。
「……同じように転びそうになって」
「うん」
「今度は、少し違う助け方をした」
「どうやって助けたの?」
「……抱き止めた」
双葉が、少しだけ目を細めた。
「……身体ごと?」
「……ああ」
「なるほどね」
その返事は、妙にあっさりしていた。
「……何が?」
「古賀さんと梓川の話に、似てると思って」
「……尻を蹴り合った話と?」
「そこは忘れて」
「……はい」
双葉はそれから、真面目な表情へ戻る。
「同じ出来事を経験していても、接触の仕方が違ったわけでしょ」
「……うん」
「一度目は手首を掴んだだけ」
「ああ」
「二度目は、身体ごと抱き止めた」
「……そう」
「そのとき、岸和田と豊浜さんの間に、何らかの強い相関が生まれた可能性はある」
「……相関?」
「量子もつれみたいなものかも」
「……量子もつれ」
以前にも、聞いた言葉だった。
「……それって」
「うん?」
「二人の記憶が、つながったってこと?」
「可能性としてはね」
双葉は頷いた。
「ただし、物理学の量子もつれが、人間の記憶を共有する現象を起こすわけじゃない」
「……うん」
「思春期症候群を説明するための比喩みたいなもの」
「……なるほど」
「もし、豊浜さんが二度目の三月十四日を境に、岸和田の現象と何らかの形で結びついたのだとしたら」
少しだけ間を置く。
「三度目の三月で、記憶を一緒に保持していることにも、説明がつくかもしれない」
「……」
それなら一応は、辻褄が合う。
二度目の三月十四日。
あの時、俺はのどかを抱き止めた。
そして三月三十一日。また、三月一日へ戻った。
でも、今回はのどかも、前の三月を覚えていた。
「……じゃあ」
「うん」
「俺が、のどかを抱き止めたから」
言いかけて、少しだけ止まる。
「……巻き込んだのかな」
双葉は、小さく息を吐いた。
「岸和田」
「まだ原因が決まったわけじゃないでしょ」
「……うん」
「仮に量子もつれみたいなものが起きていたとしても、それが一方的に岸和田から豊浜さんへ作用したとは限らない」
「……どういうこと?」
「関係性って、一人だけで成立するものじゃないから」
「……」
「豊浜さんだって、岸和田と一緒にいたかったかもしれない」
「……ああ」
双葉は、頷いた。
「だったら、今の段階で岸和田だけが責任を感じる理由はないよ」
「……そっか」
のどか。古賀。そして双葉。
ここ数日で、何度も同じようなことを言われている。
俺は、どうしても自分が原因だと考えてしまう。
誰かが苦しんでいると。自分の選択が、その人の未来を変えてしまったのではないかと。
でものどかは、俺と一緒にいたいと言ってくれている。
もう一度、水族館へ行きたいとも。それを、俺が勝手に否定していいわけじゃない。
「……双葉」
「なに?」
「ありがとう」
「まだ何も解決してないけど」
「……うん」
「量子ゼノ効果も、量子もつれも、今のところは仮説だからね」
「ああ」
「その二つで、全部説明できるとも限らない」
「……そうだな」
双葉は、少しだけ考えた。
「それに」
「まだある?」
「豊浜さんと、もう一人の記憶を保持している人」
「……」
「同じ理由で覚えているとは限らないから」
その言葉に、少しだけ息が止まった。
「……どういうこと?」
「豊浜さんの場合は、岸和田との関係によって記憶が共有された可能性がある」
「……うん」
「でも、もう一人は?」
「……」
「その人は、元から別の可能性世界について知っているんでしょ」
「……ああ」
「だったら、最初から違う仕組みで記憶を保持していたのかもしれない」
「……なるほど」
双葉は、コーヒーを一口飲んだ。
「……岸和田」
「何だよ?」
「その人と、以前にも似たようなことがあったんじゃない?」
「……似たようなこと?」
「量子もつれ」
「……」
双葉は、俺を見ていた。
「文化祭のあと、相談してきたことがあったよね」
「……ああ」
「階段の踊り場で、中学生くらいの女の子を助けたって話」
「……覚えてるのか?」
「覚えてるよ」
少しだけ、安心した。
少なくとも、その出来事は今の双葉の記憶にも残っている。
「……うん」
「そのときも、同じような可能性を考えたことがあった」
「……量子もつれ?」
「そう」
双葉は頷いた。
「もし、あのときの接触が岸和田とその子を結びつけていたなら、別の可能性世界の記憶が岸和田に残ったこととも、何か関係があるかもしれない」
「……」
胸の奥が、少しだけざわついた。
あの時、助けた少女。牧之原さん。そして、別の未来の俺。
その三つが、頭の中で並んだ。
「……双葉」
「なに?」
「その話も、今のところは仮説なんだよな」
双葉は、あっさり答えた。
「そう。証明できるものはないから」
「……そっか」
「それに」
少しだけ間を置く。
「その人が誰なのか、岸和田が話したくないなら、今は聞かないよ」
「……ありがとう」
双葉は、小さく笑った。
「でも、何か分かったら教えて」
「……うん」
「推測と事実は、ちゃんと分けたいから」
「……双葉らしいな」
「そうかな?」
「ああ」
俺も、少しだけ笑った。
双葉は、それ以上聞かなかった。
でもたぶん、分かっている。
俺が話している相手が、誰なのか。
高校二年の文化祭で出会った少女。
咲太の過去にいた、心臓病の少女。
そして、俺が知らない可能性世界の話をしてくれた人。
牧之原翔子。
双葉は、その名前を口にしなかった。
俺も、言わなかった。
ただ今は、それでいいと思った。
「……それで、岸和田」
双葉が、ふと思い出したように言った。
「一つ聞いていい?」
「何?」
「岸和田は、四月一日へ行きたいの?」
「……」
少しだけ、言葉が止まった。
三月三日。
牧之原さんから、似たようなことを言われた。
明日へ行きたいと思ってください。
あの時はよく分からなかったし、今も全部分かったわけではない。
けれど……
「……行きたいよ」
答えた。
「のどかと、四月を迎えたい」
双葉は、黙って聞いていた。
「大学二年にもなりたいし」
「……うん」
「大津と浜松さんたちの大会も見たい」
「……そう」
「卯月も。咲太も。麻衣先輩も」
少しだけ考える。
「……みんなが、これからどうなるのかも知りたい」
双葉は、小さく頷いた。
「だったら」
「……うん?」
「今の幸せを失うことと、未来へ進むことを、同じものだと思わなくてもいいんじゃない」
「……」
その言葉が、胸の奥に残った。
今の幸せ。これからの未来。
俺は、ずっと別のものだと思っていた。
今が幸せだから、これ以上、変わってほしくない。
変わってしまえば、いつか失ってしまうかもしれない。
だから、終わらせたくない。
でも……
「……岸和田」
双葉が、静かに口を開いた。
「何?」
「私も、幸せなのが怖いと思う時はあるから」
「……双葉も?」
「うん」
双葉は、少しだけ目を伏せた。
「幸せだと思えることがあると、それがいつかなくなってしまうかもしれないって、考えることはある」
「……」
「だから、今の幸せを失いたくないって思う気持ちは、分からなくもないよ」
少しだけ間を置いて。
「でも、それで未来まで怖がる必要はないんじゃない」
「……そっか」
双葉は、俺を見る。
「少なくとも、私はそう思う」
「……うん」
のどかや卯月と過ごす、四月。
大学二年生になって。
また、新しい一年を過ごすこと。
それらも、今の俺が望んでいる未来だった。
「……そっか」
小さく呟く。
双葉は、コーヒーを飲み干した。
「まあ、何が原因なのかは、まだ分からないけどね」
「……ああ」
「でも、少なくとも今日は、二つの仮説ができた」
「量子ゼノ効果と、量子もつれ」
「……ああ」
「それだけでも、相談した意味はあったんじゃない」
「……そうだな」
双葉は、少しだけ笑った。
俺も、笑った。
三度目の三月七日。
一度目は、霧島透子について相談した。
二度目は、相談することをやめた。
そして、三度目。今度は、自分自身の思春期症候群について、双葉と話した。
答えが見つかったわけじゃない。
量子ゼノ効果が原因なのかも。のどかとの間に、量子もつれが起きているのかも。まだ、分からない。
でも一人で考えていた時には、思いつかなかったことがある。
それを、今日、知ることができた。
「……ありがとう、双葉」
もう一度言う。
双葉は、少しだけ呆れたような顔をした。
「だから、まだ何も解決してないでしょ」
「分かってるよ」
「ならいいけど」
そう言って、双葉は鞄を手に取った。
俺も、席を立つ。
店を出ると、三月の夜風が頬に触れた。
まだ、少し冷たい。
「じゃあ、また塾で」
双葉が言った。
「ああ。またな」
手を振って、別れる。
駅へ向かいながら、スマホを取り出した。
のどかとのトーク画面を開く。
《双葉と話せた》
少しして、既読がついた。
《どうだった?》
少しだけ考える。
《仮説は二つ。でも、まだ原因は分からない》
《そっか》
続けて、もう一通。
《また会った時に話してよ》
「……うん」
小さく頷く。
《分かった》
送信する。少しして、返信が届いた。
《じゃあ、十四日楽しみにしてる》
思わず、笑った。
《俺も》
短く返す。
俺は、スマホをしまった。
量子ゼノ効果。量子もつれ。
どちらも、仮説だ。
それでも四月一日へ行きたい。
のどかと、また水族館へ行きたい。
そして、その先の未来も。
今は、そう思っていた。
「……そっか」
小さく呟く。
少なくとも俺は、前の二回とは違う三月七日を過ごした。
知らないことを、誰かと一緒に考えた。
そのことが今は、少しだけ嬉しかった。
三月九日
横浜そごうへ向かった。
ホワイトデーのお返しを買うためだ。
地下二階のえの木てい。
大津と浜松さんには横濱レモン。
赤城と上里には横濱チェリー。
そして卯月には、ジュエリーBOXクッキー。
一度目も二度目も、同じものを選んだ。
今回も、結局は同じだった。
「……これでいいな」
会計を済ませ、紙袋を受け取る。
中身を確認してから、鞄の中へしまった。
三度目の三月九日。
同じ店で、同じものを買う。
それだけなら、前の二回と何も変わっていない。
でも同じものを選んだからといって、意味まで同じになるわけじゃない。
少なくとも、今はそう思えた。
藤沢へ戻ると、改札の近くで聞き覚えのある声がした。
「岸和田ー!」
大津だった。
隣には浜松さんもいる。
二人とも、スポーツバッグを肩に提げていた。
「……二人とも、練習帰り?」
「そう!」
大津が笑う。
「鹿児島あるしね!」
「……そうだったな」
浜松さんも頷いた。
「四月一日から、全日本だから」
四月一日。その言葉に、少しだけ胸が鳴った。
俺が、まだ辿り着けていない日。
けれど二人にとっては、当たり前に来るはずの日だった。
「そうだ、岸和田くん」
浜松さんがスマホを取り出す。
「新しいユニフォーム、見てくれる?」
画面には、見覚えのある写真が映っていた。
青と白。そこに加わった、赤。
一度目にも、二度目にも見た。
「……いいな」
「でしょ!」
大津が嬉しそうに笑う。
「今回は絶対、勝ちに行くから!」
「……うん」
浜松さんも、静かに頷いていた。
「二人なら、きっと大丈夫だよ」
そう答える。
もちろん、勝てると決まったわけじゃない。
俺が知っているのは、三月三十一日までだ。
四月一日以降の二人については、何も知らない。
けれどそれは、二人が負けるという意味でもなかった。
まだ、何も決まっていない。
「……なあ、大津」
「ん?」
「今回の鹿児島は、ちょっと行くの難しいけど」
「……うん?」
「いつか、二人が出る全国大会を見に行きたいな」
大津が、少しだけ目を丸くした。
「……え?」
「いや、せっかくだし」
言葉を探す。
「いつも大会の話は聞いてるけど、実際に試合してるところは、大学入ってからは見れてないし。だからまた、ちゃんと応援しに行きたい」
大津は、数秒黙った。それから。
「え、なにそれ!嬉しいんだけど!」
「……そんなにか?」
「そりゃそうでしょ!」
大津が笑う。
「岸和田が全国大会まで応援に来てくれるんだよ?」
「……まあ、予定が合えばだけど」
「そこは合わせてよ!」
「無茶言うな」
浜松さんが、小さく笑った。
「でも、本当に来てくれたら嬉しいな」
「……うん」
「次に出る大会が決まったら、教えるね」
「ああ。頼む」
そう答えてから、ふと気づく。
俺は今、四月以降の予定を話している。
まだ、四月一日にさえ辿り着けていないのに。
しかも、いつになるか分からない全国大会の話だ。
今の俺には、その日がいつなのかも分からない。
それでも。
「……楽しみにしてるよ」
自然と、そう言っていた。
大津が嬉しそうに頷く。
「任せといて!」
その笑顔を見て、少しだけ胸の奥が温かくなった。
「そうだ、岸和田」
大津が続ける。
「大会終わったら、輪行しようよ!」
「……伊豆?」
「そう!」
大津が目を丸くした。
「なんで分かったの?」
「……前に話してた気がして」
「あっ、そっか」
浜松さんが、小さく笑った。
「でも、行きたいね」
「海沿いとか、絶対気持ちいいと思うんだよね!」
「……そうだな」
伊豆。
何度も走ったことのある場所もあれば、まだ行ったことのない場所もある。
自転車を電車に積んで。
三人で、どこかの駅から走り始める。
海を見ながら走って。
途中で休憩して。
大津が先に行きすぎて、浜松さんに怒られる。
……そんな光景が、何となく想像できた。
「……行こう」
俺は答えた。
「俺も、行きたい」
大津が満足そうに笑う。
「じゃあ決まり!」
「……まだ日程も決まってないだろ」
「それはあとで考えればいいじゃん!」
「……お前なぁ」
浜松さんも笑っていた。
「大会が終わったら、三人で予定合わせようか」
「……うん」
頷く。いつか。
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
「……あ、そうだ」
鞄から紙袋を取り出す。
「これ、二人に」
「え?」
大津が受け取る。
「横濱レモン?」
「ホワイトデーのお返し」
「あー!そうだった!」
大津が笑った。
「ありがと、岸和田!」
「ありがとう、岸和田くん」
浜松さんも、小さく頭を下げた。
「……どういたしまして」
これも、一度目と二度目に経験したやり取りだった。
でも、今は何度目だろうと、二人が喜んでくれることが嬉しかった。
しばらくして、二人と別れる。
「じゃあ、またね!」
「ああ。またな」
大津と浜松さんが手を振って、改札の向こうへ歩いていく。
その後ろ姿を見送った。
四月一日。
鹿児島での全日本。
いつか見に行く、二人の全国大会。
そして、伊豆への輪行。
俺の知らない未来に、また予定ができた。
一度目の三月も。二度目の三月も。
同じように、二人から未来の話を聞いていた。
でも、あの時の俺はその未来を、どこか遠いものとして考えていた気がする。
四月一日に行けるかどうかも分からない。
まして、その先なんて。
考えても仕方がないと思っていた。
けれど。
「……見に行きたいな」
小さく呟く。
全国大会。そして、伊豆。
まだ何も決まっていない。
それでも、自分から望んだ未来だった。
俺は、まだ知らない四月へ行きたい。
その先にある、五月も。六月も。
のどかと過ごして。大津や浜松さんと自転車に乗って。
みんなが、それぞれの人生を進めていく姿を見ていたい。
「……そっか」
少しだけ笑った。
未来を望むというのは案外、こういうことなのかもしれなかった。
三月十一日
六本木。
東京ミッドタウンで、のどかのバースデーライブが開かれる。
会場へ向かう途中から、黄色が目についた。
のどかのメンバーカラー。
Tシャツ。タオル。うちわ。
そのどれもが、今日のために集まった人たちのものだった。
一度目も、二度目も見た景色。
そして、三度目。
俺は、またここに来ている。
ロビーでは、花楓ちゃんと鹿野さんに会った。
「蓮真さん」
「……花楓ちゃん」
「こんにちは」
隣の鹿野さんも、小さく頭を下げる。
「こんにちは、岸和田さん」
「……こんにちは」
二人とも、のどかのライブを楽しみにしているらしい。
少し話してから別れ、指定された席へ向かった。
そこで、見覚えのある女性が目に入った。
のどかのお母さんだった。
「……お久しぶりです」
声をかけると、こちらを向いた。
「あら、蓮真さん」
少しだけ笑う。
「今日も来てくれたのね」
「……はい」
隣に座り、ステージへ目を向ける。
まだ、開演前だった。
会場には、のどかの名前が入ったうちわやペンライトが見える。
何人もの人が、開演を待っていた。
「……すごいですね」
思わず呟く。
のどかのお母さんが、こちらを見る。
「何がかしら?」
「こんなに、たくさんの人が」
会場を見渡す。
「のどかのために来てるんだなって」
のどかのお母さんは、小さく笑った。
「そうね」
それから、ステージへ目を向ける。
「あの子も、あの子なりに頑張ってるから」
「……はい」
知っている。
ライブのために、何度もレッスンを重ねていること。
仕事が終わっても、歌や振り付けのことを考えていること。
そして、ステージに立つことを楽しみにしていること。
もちろん、俺が知っているのは、その一部だけだ。
のどかが過ごしてきた時間の、全部ではない。
それでもあいつが頑張っていることは、知っていた。
のどかのお母さんが、ふと口を開いた。
「最近のどかから、よく蓮真さんの話を聞くの」
「……そうですか」
「ええ」
少しだけ、嬉しそうに笑う。
「前より、ずっと楽しそうに話すようになって」
「……」
その言葉に、少しだけ安心した。
俺の知らないところでのどかは、お母さんに俺のことを話している。
何を話しているのかは分からない。
けれど、楽しそうに話してくれているのなら。
それは、嬉しいことだった。
ただ今ののどかは、前の三月を覚えている。
この人は、知らない。
娘が同じ一ヶ月をもう一度過ごしていることも。
四月一日へ進めずにいることも。
そして、その原因が俺にあるかもしれないことも。
「……蓮真さん?」
声をかけられ、顔を上げる。
「……はい」
「どうかしたかしら?」
「……いえ」
少しだけ、言葉を探す。
「のどか、最近も元気そうですか?」
すぐには答えられなかった。
のどかが三月を覚えていること。
それを、この人へ話すべきなのだろうか。
でも、今はまだ、何が起きているのかも分かっていない。
「元気だと思います」
そう答えると、のどかのお母さんは小さく頷いた。
「そう」
少しだけ間があった。それから。
「蓮真さん」
「……はい」
「のどかのこと、よろしくお願いします」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
一度目も。二度目も。聞いた言葉だった。
でも、今は簡単に頷いていいのか、少しだけ迷った。
俺が、のどかまで巻き込んでしまったのかもしれない。
この先、また三月が繰り返されたら。
のどかに、何が起きるのだろう。
同じ時間を、何度も過ごさせることになるのだろうか。
あいつの仕事も。卯月たちとの時間も。
これから先にあるはずだった人生も。
俺のせいで、変わってしまうのだろうか。
「……」
返事が、少しだけ遅れた。
けれど三月二日。のどかに言われたことを思い出す。
勝手に全部背負おうとしていないか。
そして、三月七日。双葉から聞いたこと。
関係性は、一人だけで成立するものじゃない。
のどかは、もう一度水族館へ行きたいと言ってくれた。
十四日を、楽しみにしているとも。
俺は、まだその言葉を疑ってしまうことがある。
気を遣っているんじゃないか。無理をしているんじゃないか。
でもそれを決めるのは、俺じゃない。
「……はい」
俺は答えた。
「のどかと、ちゃんと話しながらやっていきたいと思います」
のどかのお母さんは、少しだけ目を細めた。
「……そう」
「……」
「二人で、ちゃんと話し合うのは大事なことね」
「……はい」
それから、静かに笑った。
「よろしくお願いしますね」
「……はい」
今度は、少しだけはっきりと答えた。
まだ、不安は消えていない。
のどかが前の三月を覚えていることも、心配だった。
それでも俺が一人で、のどかの未来を決めるわけにはいかない。
それに俺自身も、のどかと先へ進みたい。
そう思っていた。
やがて、会場の照明が落ちる。
歓声が上がった。
ライブが始まった。
ステージの上には、のどかがいた。
金色の髪。ライトに照らされた衣装。
客席へ向けられた笑顔。
俺が知っているのどかだった。
歌っている。踊っている。
何度も練習したはずの振り付けを、迷いなくこなしている。
一度目も、二度目も。
同じように見ていた。
けれど、今はのどかも、前の三月を覚えている。
このライブが二度目であることを、知っている。
客席にいる俺も、そのことを知っている。
それでものどかは、今日のステージに立っている。
今の自分の意思で。
「……」
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
のどかが、この三月をどう思っているのか。
まだ、全部は聞けていない。
嫌じゃないのか。怖くないのか。
同じライブをもう一度やることに、何を感じているのか。
分からないことは、いくらでもある。
でも今、目の前で歌っているのどかが、楽しそうに見える。
それを、俺が勝手に嘘だと決める必要はない。
大サビで、ほんの一瞬だけ目が合った気がした。
一度目も。二度目も。
同じことを思った。
でも今度は。俺も、少しだけ笑ってみた。
「……頑張れよ、のどか」
聞こえるはずもない声で、呟く。
そのあとも、ステージから目を離さなかった。
ライブが終わり、会場を出る。
夜の六本木には、まだ多くの人がいた。
スマホが震えた。
《来てくれてありがと》
のどかだった。
《お疲れ。すごく良かった》
送信する。
少し考えてから、もう一通。
《今日も、目が合った気がした》
少しして、返信が来た。
《そうかもね》
続けて。
《前も同じこと言ってたよね》
思わず笑った。
《覚えてたのか》
《当たり前じゃん》
《蓮真とのことだし》
「……」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
のどかは、前の三月を覚えている。
それがいいことなのか、悪いことなのか。まだ、分からない。
でも、少なくとものどか自身は、俺と過ごした時間を大切にしてくれている。
だったら俺も。
その気持ちを、信じてみたい。
《十四日も、楽しみにしてる》
送信する。
《あたしも》
すぐに返事が届いた。それから、もう一通。
《今度もちゃんと楽しもうね》
「……」
今度も。
前の三月を覚えている、のどかだからこその言葉だった。
俺は、少しだけ考えてから返事を打った。
《俺も、ちゃんと楽しみたい》
送信する。少しして、既読がついた。
《なら決まりね!》
思わず、笑った。
三月十四日。三度目の、のどかの誕生日。
今度は二人とも、前の三月を覚えている。
だから、同じ景色を見ても。
同じ水族館へ行っても。
前と全く同じ一日になるわけじゃない。
俺たちは、もう一度その日を選んだのだから。
四月一日へ行けるかどうかは、まだ分からない。
でも三月十四日には、のどかともう一度水族館へ行く。
そして、できることなら。
その先の四月も、五月も、のどかと一緒に過ごしていきたかった。
三月十二日
横浜市立大学のYCUスクエアへ向かった。
来年度のボランティア活動に向けた打ち合わせがある。
スチューデントオフィスの打ち合わせスペースには、赤城と上里、それから友部さんがいた。
「岸和田くん、お疲れ」
「……お疲れ」
席に着き、配られた資料へ目を通す。
新しく入る学生の受け入れ方。子どもたちへの学習支援。
保護者への説明と、学校との連携。
一度目も。二度目も。
同じ話を聞いた。
けれど、今日は少しだけ違う気がした。
「支援する側が、子どもの問題を全部背負い込まないこと」
友部さんが言った。
「でも、見ないふりもしない。その線引きを大切にしたいと思います」
「……」
その言葉に、少しだけ手が止まった。
全部を背負わない。
この三月に入って、何度も聞いたような言葉だった。
のどかにも。古賀にも。双葉にも。似たようなことを言われた。
自分一人で、誰かの人生を背負おうとしないこと。
「……岸和田くん?」
赤城に声をかけられ、顔を上げる。
「……ああ、何?」
「そこの資料、確認できた?」
「ああ。大丈夫」
慌ててペンを動かす。
今は、目の前のことを考えよう。
そう思った。
打ち合わせが終わったのは、一時間ほど後だった。
資料を片づけてから、鞄の中へ手を伸ばす。
「……赤城、上里さん」
「ん?」
「何?」
二人がこちらを見る。
「これ」
横濱チェリーの箱を、それぞれに差し出した。
「バレンタインのお返し」
上里が、少しだけ目を丸くする。
「あ、ちゃんと覚えてたんだ」
「……忘れるわけないだろ」
「ありがと、岸和田くん」
赤城も、小さく笑った。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
一度目も。二度目も。同じように渡した。
でも、二人にとっては今日が初めてだ。
そのことを、今は素直に受け止められた。
YCUスクエアを出る。
昼過ぎの日差しは、思っていたより暖かかった。
「岸和田くん、このあとどうするの?」
上里が聞いてきた。
「横浜へ行く」
「また横浜?」
「……まあな」
赤城が、少しだけこちらを見る。
「プレゼント?」
「……ああ」
「豊浜さんの?」
「そう」
赤城は、小さく頷いた。それから。
「よかったね」
「……」
その言葉も、三度目だった。
一度目は、少しだけ返事に困った。
二度目は、前にも聞いたことのある言葉として受け止めた。
そして今は。
「……ありがとう」
自然と、そう答えられた。
赤城は、少しだけ笑って、それ以上、何も言わなかった。
横浜まで一緒に向かい、駅で赤城と別れる。
「じゃあ、また」
「ああ」
「プレゼント、いいの見つかるといいね」
「……うん」
俺は頷いた。
「ちゃんと選んでくるよ」
赤城が、少しだけ目を細めた。
「そう」
それから、小さく手を振って歩いていった。
俺も、みなとみらい方面へ向かう。
赤レンガ倉庫へ着いた頃には、空が少しだけ白く霞んでいた。
海からの風が、建物の間を抜けていく。
目当ての店は、Kardia。
ここも三度目だった。
店内へ入る。
並んでいるアクセサリーは、記憶にあるものとほとんど変わらなかった。
リング。ネックレス。ピアス。そして、イヤーカフ。
「……」
小さな棚の前で、足を止める。
淡い黄色の石。
シトリン。
一度目も。二度目も。
ここで、このイヤーカフを選んだ。
のどかのメンバーカラーに近い黄色。
派手すぎず、普段使いもできそうなもの。そして、少しだけ特別なもの。
「……やっぱり、これだな」
小さく呟く。
また同じものを選ぶ。
けれど、それでいいと思った。
のどかは、一度目に受け取ったことを覚えている。
前の三月十四日。七里ヶ浜で、俺からイヤーカフを受け取ったことも。
そのあと、嬉しそうに笑ってくれたことも。
少なくとも、俺は覚えている。
今度は、その記憶を二人とも持っている。
だから、同じものを渡しても驚かないかもしれない。
それでも。もう一度、贈りたかった。
「……すみません」
店員に声をかけて、イヤーカフを見せてもらう。
手のひらに乗せる。
小さな黄色の石が、店内の照明を受けて光った。
これでいい。
そう思って、会計へ向かおうとした。
そのときふと、隣の棚に目が留まった。
「……あれ?」
ヘアアクセサリー。
その中に、見覚えのある色があった。
小さなシトリンをあしらった、ヘアクリップ。
金具の色も、さっきのイヤーカフによく似ている。
派手すぎない、細身のデザイン。
「……これも、シトリンか」
店員に確認すると、同じ石を使ったものだという。
手に取ってみる。
金色の髪。耳元で光るイヤーカフ。
そして、髪を留めるヘアクリップ。
のどかが身につけている姿を、何となく想像した。
「……似合いそうだな」
思わず、口にしていた。
前の二回では、選ばなかったもの。
いや正確には、選ぼうとすら思わなかったものだった。
どうして今になって、気になったのだろう。
少しだけ考える。
のどかは、前と同じ水族館へ行きたいと言ってくれた。
同じ誕生日を、もう一度楽しみたいと。
俺も、また行きたいと答えた。
だからといって何もかも、前と同じにする必要はない。
前と同じものを大切にしながら、新しいものを一つだけ加えてもいい。
「……これも、お願いします」
気づけば、そう言っていた。
イヤーカフと、ヘアクリップ。
二つを並べてみると、思っていた以上によく合っていた。
「……ほんと。似合いそうだな」
少しだけ、笑う。
前より豪華にしたいわけじゃない。
前より喜ばせなければいけない、と思ったわけでもない。
ただ今の俺が、のどかに似合うと思った。
それだけだった。
会計を済ませ、小さな包みを受け取る。
店を出ると、海からの風が頬に当たった。
まだ、少し冷たい。
それでも、冬の終わりが近づいていることは分かった。
赤レンガ倉庫の広場を歩きながら、鞄の中へ目を向ける。
シトリンのイヤーカフ。
そして、同じ石を使ったヘアクリップ。
三度目の三月十二日。
同じ場所で、同じものを選んだ。
それにもう一つ、新しいものを加えた。
「……十四日、か」
明後日。三月十四日。
のどかの誕生日。
新江ノ島水族館へ行って。
江の島を歩いて。
夕方には、七里ヶ浜へ向かう。
そして、プレゼントを渡す。
一度目も。二度目も。そうした。
今度も、そうするつもりだった。
けれど。
「……」
少しだけ、胸の奥が重くなった。
二度目の三月十四日。
稚児ヶ淵。
のどかが転びそうになったとき。俺は、あいつを抱き止めた。
双葉は、その出来事が量子もつれに似た現象を引き起こした可能性があると言っていた。
もし、それが本当なら。
また同じ場所へ行くことで、何かが起きるのだろうか。
のどかに、これ以上の影響が出たりしないだろうか。
「……」
分からない。
何が起きるのかも。何も起きないのかも。
まだ、分からない。
それでも三月三日。
のどかは、前と同じ場所へ行きたいと言った。
三月十一日。もう一度、ちゃんと楽しもうとも言ってくれた。
俺も、そうしたいと思った。
だったら……
「……楽しみにしてても、いいよな」
小さく呟く。
誰に聞かせるつもりもなかった。
それでも、その言葉は思っていたより自然に出てきた。
スマホを取り出す。
のどかとのトーク画面を開いた。
《十四日、予定通りで大丈夫?》
少しして、既読がつく。
《大丈夫だよ》
《蓮真こそ、ちゃんと空けてる?》
思わず笑う。
《空けてるって》
《ならいいけど》
続けて。
《楽しみにしてるからね》
「……」
何度も聞いた言葉だった。
でも、何度聞いても、その言葉が嬉しいことに、変わりはなかった。
《俺も楽しみにしてる》
送信する。
今度は、少しだけ迷わずに。
《うん!》
短い返信が届いた。
スマホをしまう。
鞄の中には、のどかへの誕生日プレゼント。
二つの小さなアクセサリー。
三月十四日になれば、あいつへ渡す。
どんな顔をするのだろう。
イヤーカフを見て、前と同じだと笑うだろうか。
ヘアクリップを見て、少しだけ驚くだろうか。
それとも、俺の考えていない反応をするのだろうか。
今度は、分からなかった。
分からないことが、少しだけ嬉しかった。
もちろん、不安もある。
三月が終わらないことも、のどかが前の三月を覚えていることも。
まだ、何一つ解決していない。
それでも明後日、のどかに会いたい。
もう一度、一緒に水族館へ行きたい。
同じ景色を見て、前とは違う話をして。
また、あいつが笑うところを見たい。
「……十四日、か」
小さく呟く。
三度目の三月十四日。
のどかにとっては、二度目の三月十四日。
その日が、少しだけ怖かった。
また何かが起きるかもしれないから。
でもそれ以上に。
「……楽しみだな」
今度は、ちゃんと声に出した。
赤レンガ倉庫の向こうには、海が広がっていた。
春は、もうすぐそこまで来ている。
まだ、四月一日には辿り着けていない。
それでも俺は今、二日後の未来を楽しみにしていた。