昭和二十一年九月
あの地獄の戦争が終わって一年ほどが経った頃だった。
東京のある一角で、復員して間もないであろう人間が、瓦礫の前に立っていた。
残暑がまだ残り、汗がタラタラと体のあちこちから噴き出ていた。
頭からも出ているのだろうか、その男は略帽を脱いで、持っていた手拭いで頭を拭ったのだった。
その頭は頭髪が一切無い、坊主頭だったが、応召の時に剃る前にはそこに先祖代々受け継がれてきた、直毛かつ若干長めの頭髪があった。
産屋敷輝利哉の応召は昭和十五年の事である。
丁度その頃、大陸では大日本帝国と中華民国とが終わりなき斗争を繰り広げていた。
陸軍少尉として出征した産屋敷輝利哉は、そんな斗争真っ只中の華中に送り込まれ、実際に部下の小隊と共に国民革命軍や八路軍との戦闘に従事することとなる。
そして、其処での戦闘にニ年程従事したのち、彼はさらに南の方面に送り込まれることとなる。
場所はビルマ。彼はそこで今までの中国国民党の軍隊と代わってイギリス領インドの英軍と対峙することとなる。
ビルマは地獄であった。
常に物資は不足し続け、さらに日本以上の高温多湿ぶりが産屋敷輝利哉を苦しめたのであった。
しかし、それでも最初こそはどうとでもなった。
一年が経ち、昭和十八年になると英軍を中心とした連合軍の圧迫はドンドンと増大していった。
そしてさらに翌年の昭和十九年になると、その圧迫ぶりは自軍と比べて歴然たる差を痛感させるに至っていた。
この年、日本軍はインドのある地方への攻勢計画を実行に移すこととなる。
後代ではインパール作戦と呼ばれることとなるその作戦にこの産屋敷輝利哉は参加していた。
そして、産屋敷輝利哉は幸運な人間の一人だった。
飢えと病で覆われ、後代では史上最悪の作戦と呼ばれる中で、彼は五体満足のまま生き延びることが出来たのであるから。
が、それでも彼がその地で大いに苦痛を受けたことは間違いなかった。
敵軍と交戦して死ぬかも知れぬ恐怖…飢え…マラリアへの恐怖…そして、次々と惨めに死んでいく戦友をただただ見ることしか出来ぬ事への怒りと不甲斐なさと…その他諸々の感情が闇鍋のようにして煮詰まって発狂寸前にまで追い詰められた事…
輝利哉は地獄の中で、敵軍以外にもそれら多くの我が身に襲いかかってくるものと相対しなければならなかった。
……しかし、彼は生き残った。
泥水を啜り、蛇であろうと、葉っぱであろうと、ナメクジであろうと、カタツムリであろうと、ネズミであろうと…時として戦友がくれた、何の肉か分からない…いや、考えたくも無い肉であろうと…彼は何でも食べた。
そうして、執念の末に生き延びたのである。
インパール作戦後も、彼はビルマにて戦闘に従事した。
戦争の最後の年になって、日本軍がビルマからタイに撤退した時も彼はその只中にいた。
そして、結局、昭和二十年にポツダム宣言を日本政府が受諾すると、彼はタイにて英軍に降伏したのであった。
しばらくの間、捕虜として抑留された後、彼はようやく復員を許され、今、この場に立っているのである。
産屋敷輝利哉の家族には彼の妻子に加えて、かなたとくいなという二人の姉妹がいる。
が、彼はその家族のいずれとも連絡を取れずにいた。
音信不通になったのは去年……昭和二十年の三月の頃からである。
家族に手紙を宛てたものの、いつもはそこまで間を持たずに返信するのが常の筈なのに、待てども待てども返信が来なかったのである。
彼は非常に思い悩んだ。
郵便船が撃沈されたのだろうか……検閲に引っ掛かったのだろうか………
そういう事を考えて、彼はその後も何度も、且つ、慎重に手紙を出した。
しかし、返信は来なかった。
そればかりか、厭な知らせを聞いた。
曰く、音信不通になり出した、三月に東京で大空襲があって、東京の街が焼け野原になったという。
彼の家族は皆、東京に住んでいて、疎開もしないままであったので、巨大な心配が彼に圧し掛かったのであった。
もしかすると……もしかすると……
彼は、その恐ろしい仮定を考えざるには居られなかった。
それもあって、復員後の彼は真っ先に戦前住んでいた自宅に向かった。
そうして、今さっき産屋敷輝利哉は自宅に帰り着いたのだが……そこにあったのは瓦礫のみだった。
家族の「か」の文字も見出すことはできなかった。
産屋敷輝利哉が途方に暮れることとなったのは言うまでもないであろう。
彼は、己が目先に広がっている光景を見つめることしかできず……呆然と立ち尽くした。
小一時間の間、彼はその体勢を保ったのだった。
少々長い時間が過ぎた後、彼はその瓦礫の方向へと歩を進めた。
なるほど、完膚無きにまで焼かれ、破壊されていた。
恐らくは、先述の去年三月の東京への大空襲のせいなのだろう………
産屋敷輝利哉は暫くの間、自分の邸宅の残骸をウロウロとするのだった。
そんな時だった。
彼はある意外なものを見つけたのであった。
それは……彼が生まれるずっと以前からこの邸宅に生えていたものだった。
藤の花は、本来春に咲くものである。
しかし、産屋敷輝利哉の眼前において、奇妙なことにこの藤の木は現在が秋であるにも関わらず、季節外れの満開を迎えていた。
彼がそれを見て思わず、その木に近づいたのは当然の事だった。
彼の胸中には驚きがあった。
大空襲で焼かれてもおかしくなかったこの藤の木が………健在たる様子を前面に出すかの如く、満開で以ってかつて聳え立っていたこの屋敷の主人を出迎えているのである。
産屋敷輝利哉の心にはある種の感動が芽生えた。
彼は、近寄った藤の木の幹に手を添え…じっと、その絢爛たる蒼色で出来た花のカーテンを見つめたのであった。
嗚呼、美しい…
思わず、溜め息が出るのだった。
彼がそうして、その美しさに惚れ込んでいた中、彼の背後には一つの影が近寄っていた。
まだ、日は南中を迎えておらず、影は西の方に向かってにゅうっと伸びていた。
気配を感じた産屋敷輝利哉は直ちに振り返ったのだった。
そこには、1人の男が立っていた。
「あのオ……すいません………。産屋敷家の屋敷はここですか?」
その男は、よれよれの軍服と略帽を着けていて、復員間もないであろうことが容易に推察された。
無精髭も生えていて、略帽で覆っている頭部からは繁茂しているであろう髪の毛がはみ出ていた。
平時であれば、不潔感のあるこの様相は余り好ましいものとして受け取られないであろう。
しかし、産屋敷輝利哉はその容貌に大して不快感を抱くことはなかった、むしろこの姿こそが平常のものだった。
長く、戦地に居たことで、不潔感のある容貌こそが普通になっていたことがその理由である。
「ええ…そうですよ。」
産屋敷輝利哉は、男の質問に対して少々素っ気なく答えた。今の彼にとっては、この男の事よりも、残骸となった屋敷のことや、音信不通の家族の事が大いに重要だったからである。
「ああ…ここが…」
男の方は、それに大して気にも留めず。瓦礫を見回していた。
そして、男は続いて質問した。
「…あの、もう一つ。この屋敷の持ち主の産屋敷輝利哉という人はご存知ですか?」
産屋敷輝利哉は自分の名前が出てきたものだから思わず男の方を振り返った。
「………私の…事ですか」
彼がそう言うと、男は大いに目を見開いた。
「おお…貴方だったんですね!」
男はそう言うと、輝利哉の方に近づいた。
輝利哉は唐突に男が近づいたものだから、思わず一歩後に引いたのだった。
「いや…どうも思っていた容貌と異なったものですから…ああ、そうですか…貴方だったんですね。丁度よく出会えたものです」
男はそう言いながら、輝利哉にペコペコとお辞儀をしたのだった。
輝利哉の方はと言うと、何の面識もない男が突然話しかけてきた上にお辞儀をして遜った態度を取るものだから、困惑していた。
困惑している輝利哉を横目に、男は続けた。
「実はですね…とある人物から…いや、この際ハッキリと言いましょう。貴方の家族…もっと具体的に言えば貴方の姉妹であるかなたさんとですねくいなさんにですね、貴方を探すように言われましてですね…」
輝利哉は男の口から自分の姉妹の名前が出てきたものだから驚くと同時に、男の言葉が終わらない内に食って掛かるように尋ねた。
「何ですって、何ですって。かなたとくいなから…では、2人は生きてるんですか?それでは他の家族も…私の妻子も…で、あるならばどこにいるのです?どこに?どこに?…」
輝利哉は男の肩を掴んで揺さぶるようにして聞いたのだった。
が、男の方はと言うと、驚きもせず、また、慌てるような事もせずに飄々とした態度であった。
「ああ…そんなに急がないで…急がないで…ええ…貴方の家族はみんな五体満足、何ら悪いところなく生きていますよ」
輝利哉はそれを聞くと、安堵の気持ちよりも前に苛立ちが募った。一刻も早く家族と会いたいのだ。
「で、あるならば一刻も早く教えてくれッ!早く‥‥早く!」
輝利哉は苛立ちが募ると同時に、泣き出しそうな気分であった。まだ相見ることの出来ぬ家族の事を思うと、とても自分の中の慕情を抑えることは出来ぬものとなりつつあった‥‥
「‥‥ええ、教えますよ、教えます‥‥然し、貴方には家族に会う前に私からの話を聞いて貰って、ある事をやってもらわなければならないのです。おっと、慌てないで‥‥これは貴方の姉妹からのお願いでもあるのですから‥‥」
昂る輝利哉を傍目に、男は相も変わらず冷静で‥‥飄々とした態度であった。
輝利哉は、焦らす男に対して怒りがこみ上げてくるようだった。
だが、同時に姉妹の願いという言葉が引っ掛かった。
男の言葉の後、暫くの沈黙があった。
(落ち着け‥‥落ち着け‥‥)
男が焦らしてくるのは気に食わなかったが、今ここで無理矢理聞き出そうとしてもどうにもならないであろう。
で、あるならば暫しの間我慢するのが得策だ‥‥
彼の脳裏にはそう云う考えが浮かんだのだった。
「そう‥‥ですか‥‥」
彼はようやく、自分の中の昂る気持ちを抑えてそう応えたのだった‥‥
「そう、そう‥‥ですから、ネ、早速、その話をしてしまいましょう。その方が貴方も早く家族に会えるでしょうからね。まあ、少々長い話になりますが‥‥ああ、そうだ。こう立って話すもなんですから座って話しましょう。貴方はその木の根っこの部分で‥‥私は‥‥ウーン‥‥まあ、私は地べたで良いか‥‥サ、サ、座って、座って‥‥」
男に促されるようにして、輝利哉は座った。
それにしても、この男は誰なんだろう。
輝利哉の脳裏にはその疑問がよぎった。
が、しかし、その疑問を聞く前に、男の方は話を始めたのだった‥‥
「さあ、さて。話の始まりというのは三十年ほど前に遡ります。そう、貴方のお父様が鬼殺隊と云うものを率いていた頃にね‥‥」
鬼殺隊‥‥
輝利哉にとって、その言葉は実に久しぶりに聞くものだった。
既にあの出来事から三十年経っている事や、長い戦争のせいで鬼殺隊の事を知っている家族ともまともに会えなかった事、そして………最近ではめっきり鬼殺隊の面子との音信が途絶えていた事が原因にあった。
同時に男に対して感じる不可解さは大きくなった。
(どうして、この男は鬼殺隊の事を知っているのだろう‥‥)
かつて鬼殺隊の隊士だったのだろうか‥‥
しかし、男の見た目は三十代で、自分と同程度か‥‥もしくはもっと若いように見えた。
三十年前と云えば、輝利哉は僅か八歳である。
この男は三十年前は自分と同じ年頃か、もっと若い年齢であろうから、隊士とは考えにくかった。
と、すれば鬼に家族を殺されたことがあるのだろうか‥‥
親戚が鬼殺隊の隊士だったりするのだろうか‥‥
輝利哉の頭の上には幾つかの仮定が浮かんだがそのどれもが確信できぬものだった。
彼がそうして、考えている内も男の方は話を続けていた。
「さてさて‥‥その頃はと云うと、まだ大正帝が健在で‥‥年は‥‥大正五年の事でしたね‥‥この話はその頃まで遡るのです。まあ、実を言うとこの話はもっと因縁深くて‥‥さらに深い所まで調べると数百年前の出来事も出てくるのですが‥‥まあ、大筋はその頃を端に発しておりますからその年から始めることとします。事は貴方のお父様の産屋敷耀哉さんが自分の病気を医者に診てもらった頃から始まるのです。」
懐かしい匂いがした。
彼は飄々とした男の語り口に乗りながら、三十年前‥‥数々の仲間と共にあの強大な敵と‥‥
鬼舞辻無惨と‥‥戦った事を思い返し始めるのだった‥‥
ある、後ろめたさと共に‥‥