……ってお前それ言ってみたかっただけやろ。
原作は『小説』というタイトルの小説(作・野﨑まど、2025年本屋大賞第3位)です。
原作から三年後の春、内海集司が本好きの少年と出会う話です。
こちらの名刺の写真から着想を頂いています。
https://x.com/Kino_Yokohama/status/1922826175782555853
同じく野﨑まど先生脚本の映画『HELLO WORLD』のクロスオーバーとして読むことも可能な作りですが、未見でも全く問題ありません。あえて映画のタグはつけませんでした。
実在の人物や団体などとは一切関係ありません。
小説の最後の一行を味わうように反芻し、腹の底から深く長い息を吐き出して、
列車が駅に滑り込む。ドアが開くと春の冷たい雨の匂いが車内に流れ込んだ。スーツケースや土産物の紙袋、濡れた傘を持った乗客が入れ替わりに続々と乗ってくる。内海集司の前の空席もすぐに埋まり、平日昼下がりの横浜線としてはそこそこの混雑具合になった。幼児を二人抱えた男女が内海の右隣を陣取った。一家揃って虚無の表情に内海集司はご苦労様な事だと思った。一日の大半を読書に費やせる身分はありがたくもあり、また少々後ろめたくもあった。読み終えた本を鞄にしまう。別の本を取り出して読み始めようかと考えてやめた。目的地の横浜駅まではあと一〇分程だし、今日はこのまま余韻に浸っていたい気分だった。
漫然と目の前の席を眺める。先刻まで年配の男性が舟を漕いでいた席には、新横浜から乗ってきた一人の少年が座っている。年の頃は十四、五といったところか。少年は抱えた黒いリュックから一冊の文庫本を取り出すと、栞を挟んだページを開いて貪るように読み始めた。内海集司は書店員である。それも文芸と文庫の担当である。職業柄、他人が読んでいる本は気になるもので、それとなく観察する。
見るなり小さく声を上げそうになるのを内海集司はこらえた。文春文庫、
続けて少年は興奮冷めやらぬ顔でリュックを漁り始め、五巻を出すのだろうと内海は思ったが代わりに現れたのは大学ノートと緑色のボールペンだった。ペンを片手に少年がノートを開く。最初のページには大きく「読書帳 2027」の文字。少年がページを
少年は意気揚々と「四巻目。読むのが止まらない。ついに」まで書いて、そこでペンを止めた。無意識に内海集司は顔を顰める。寸止めされた気分だった。ついに何だ。ついに軍艦か。ついにさな
それともついに、
内海集司は待つ。だが少年は動かない。右手にペン、左手に文庫本を持ったまま化石したように座っている。少年の瞳は焦点を結んでいない。どこも見ていない。少年の精神は内に内に向かっている。言葉を探している。心の内に増えた新しい意味をつらまえようとしている。表情はぼんやりしているが、脳髄では非常な奮闘を行っている。現れては消える
そのまま少年は五分以上も硬直していた。だから列車が東神奈川駅に到着し、立ち上がった隣の乗客の大きな荷物が少年の左手から文庫本を弾き飛ばした瞬間もただ茫洋としていた。当の乗客も何も気づかずに、あるいは気づかぬふりをしたまま、人波に紛れて消えた。『竜馬がゆく』四巻は見開きのまま低く飛び、ドア前の床に落下した一秒後にはもうスーツケースに轢かれた。蹴飛ばされ、踏まれ、濡れた傘に引き摺られた。大量の乗客と荷物が降り、すぐさま大量の乗換客が乗ってくる。本に気づき
内海集司からは全てが見えていた。わずか数秒のうちに、嵐に舞う葉のように本が翻弄され蹂躙されるのが見えた。咄嗟に体が動く。車外に飛ばされることだけは避けねばと思った。乗り込んでくる客の合間を縫って手を伸ばし本を拾い上げて少年の前に戻る。少年はようやく本が手元に無いことに気づき半ばパニックになっている。必死に周囲を見回し、腰を浮かしてあわあわと本の行方を捜している。ドアが閉まり、列車が再び動き出した。
拾った本を少年に差し出す。
突き出された本を前に少年はしばらく凝然としていた。やがて事態が飲み込めたのか、やっとのことで内海を見上げて「あ……ありがとう、ござ…………」と消え入るような声で言い、語尾は実際ほとんど聞き取れなかった。おずおずと本を受け取る少年の目に動揺の色が見える。改めて本に目を落とすと予想以上の惨状で、内海集司は自分の行為が果たして正しかったのか急に不安を覚えた。カバーは破れて表紙の一部が剥き出しになり、ページはぐしゃぐしゃと幾重にも折れ、
「四巻……」
衝き動かされるように内海集司は口に出していた。そして自分の発言に驚いた。独り言なのか、それとも少年への問い掛けなのか、そもそもなぜそんな言葉が自分の中から発せられたのかすら、判然としなかった。得体の知れないわだかまりが心の中でとぐろを巻いている。少年はただ「え」とだけ言った。
「あ、いや、その」内海集司は焦る。反射的に短期記憶から単語が転がり出る。「武市半平太の」
言葉に思考が追いついて内海は顔を歪めた。何を言ってるんだ俺は。
少年は目を丸くしている。本と内海を交互に見比べながら、なぜこの人はこの本の中身を知っているのだろう、という顔をする。
「え、は、はい。半平太の」
「………………」
「………………」
続く言葉が思いつかず内海は黙り込む。少年も押し黙る。
気まずい沈黙の裏で、列車の走行音が緩やかにトーンを落としてゆく。横浜駅が迫っていた。内海集司は降りねばならない。今日もシフトに入り本を売って路銀を稼がねばならない。内海の中で何かが組み上がる。わだかまっていたものの正体が躊躇だと気づく。このまま少年と無残な姿の本を残して立ち去って良いものだろうか。大丈夫だろうか。本が傷つく辛さはよく知っている。だが、と内海集司は自問した。俺に何ができる。
逡巡する間に列車が完全に停止する。乗客が一斉に席を立った。まだぼんやりとしていた少年も慌てて立ち上がる。「わ、お、降り」ドアを見て、再びちらと内海を見た。どうやら同じく横浜で降りるらしい。話を繋ぐ好機なのは確かだった。むしろ話を繋がなければ完全に変な人と思われて終わる。自らもドアに向かう人波に乗りながら、内海集司は小声で少年に話しかける。
「あ……ちょっと時間あるかな」
「え」露骨に訝しげな顔をする少年。
「その本」言い淀んでから、発車メロディが鳴り始めた車外を一瞥する。「……まあ、まずは降りよう」
そのままホームに出た内海は人の流れを避け、階段と逆方向に進みながら次の手を急いで考える。少年も右手に本とノートとボールペン、左手に開いたままのリュックをぶら下げたまま、よたよたと降りてくる。また何か落とすんじゃないかとひやひやしながら、内海集司はホームの柱の陰に少年を手招きして尋ねた。
「時間、大丈夫か」
「はあ、大丈夫、ですけど……」
答える少年は全身から最大限の警戒心を放っている。内海集司は鞄からポケットティッシュを取り出して少年に差し出した。こういう
「濡れたページに挟むといい」
「あ」
「応急処置だが、このまま放置するとページがくっついて剥がせなくなる。紙もゴワゴワになるし、早いほうがいい」
ティッシュを挟んでも濡れた本は元通りにはならないが、乾く前に処置すれば事態の悪化は防げる。小説と共に生きてきた内海集司は本の扱い方をよく心得ていた。特に外崎真と一緒だった頃、本の損傷は日常茶飯事だった。外崎が本に飲み物を盛大にぶち撒ける。雨の日に外崎が鞄から本を出すと雨染みができている。外崎のランドセルの奥からページが屏風のようになった本が発見される。そんな時、内海集司は黙って対処してやる係だった。外崎本人はズボンの泥はねもシャツのカレーの染みもさして気にしていなかったが、本が濡れた時だけは「内海君……」と
内海の言葉に少年は目を見開き、うわっと小さく声に出してから、驚愕と納得と感激を顔いっぱいに広げる。いいんですかすいませんありがとうございますありがとうございますと周囲が振り返るほどの勢いで礼を連呼しながらティッシュを受け取ると、必要な物以外をリュックにしまい、作業を開始する。本の汚れをそっと拭き取り、折れた部分の皺を伸ばし、水を吸ってたわんだページにティッシュを挟んでいく。手際の良い動作に内海集司は少し驚いた。これならお節介を焼かずとも早晩適切な処置を施していたかもしれない。一方で早めに家を出てきて良かったとも痛感した。今日は出勤前にルミネ横浜のGUで制服代わりの白シャツの替えを買う予定だったが、別に今日でなくても良いしシフトまでの時間の余裕は充分にある。でもまあそろそろ行くか、もうこいつも大丈夫だろう、と考えて声を掛けようとした矢先、ホームに立ったまま静かに作業していた少年が不意に小さく言葉を発した。
「父の……本だったんです」
「え」
「だから、本当に助かりました」
内海の方を見るでもなく、作業の手を止めずに少年はそう呟いた。
「……そうか」
気の利いた返しは出てこない。だが内海集司は腑に落ちる。選書の渋さ、年季の入ったカバー、そして本が汚れてあれほど狼狽し意気消沈していたのもそれが理由だろう。もしかして、と内海集司は少年の境遇に勝手に思いを巡らせる。父親と上手くやれていないのか。かつての俺のように。根拠の無い邪推と理解しつつも止められなかった。過去の記憶が呼び覚まされる。まだ
だが今なら、と内海集司は思う。
今の俺なら、差し替えられる。同じ本を買って、少年に渡してやることができる。
何しろ自分は書店員で、職場はここから徒歩五分で、書店員は社割で本が買える。
普段の内海はそんな発想に至る性分ではない。完全に親切の押し売りという自覚はあった。あるいはあの日の幼い絶望を精算したいという身勝手な欲望なのかも知れなかった。そもそも差し替えが利くようなものなのか。電子書籍と違って紙の本はデータ以上の情報を宿す。あれが初版本だったりしたら目も当てられない。だが相手があの頃の外崎に近い年格好の少年で、読書ノートを付けるほどの熱心な読書家で、読んでいたのが『竜馬がゆく』の四巻しかも父親の蔵書で、とここまでピースが揃ってしまうともう後には引けなかった。もちろん無理強いはするまい、と自分自身に釘を刺す。
鞄をまさぐり勤務先である大型書店の名刺を取り出す。内海君ベテランなんだし少しは版元さんの営業も受けてもらえないかなと店長から支給されているものだった。代々の店長が自分を社員並に評価してくれていることは肌で感じていて、ありがたく思いつつもかつての内海はレジ打ち、品出し、問い合わせ対応以外の業務を固辞していた。だが最近は他の業務も引き受けることが増えている。内海自身の心の変化によるところが大きいがその契機は三年前、二〇二四年晩秋に発売された髭先生の新刊まで遡る。特設した陳列スペースが評価されて文芸・文庫の担当を割り当てられた。社員の手伝いから始まり発注や返品を覚え、やがて生来の商品知識を買われて棚ごと任せられるようになり現在に至る。とはいえフルタイム勤務はよほどの事情が無い限り頑なに拒み、一日四時間のシフトを変則的に守り続ける内海集司の生活は今でもかつかつだった。
取り出したクリーム色の名刺を眺める。店名の下に印刷された「横浜店 内海集司」という文字。これまでは版元営業との慣れないやり取りの記憶を呼び起こすアイテムでしかなかった。だが内海集司は初めて、この小さな紙片に誇りと矜持を感じた。
俺は書店員だ。
その肩書に、三年の歳月はいつしか単なる糊口以上の意味を与えていた。
あの日、髭先生が、外崎が、教えてくれたこと。それが内海集司の中で有機的に結びついてゆく。
星は小説と同じで。人も小説と同じで。
そして小説を読み手に直接届けるのが書店員だ。
作家、版元、取次、書店。人が作り出した嘘がまっすぐに向かう一本の矢印の最終工程。人の心の意味を増やすためのラストワンマイル。
果てなく生み出される人間精神の昇華体である小説を版元に発注し、開梱して棚に並べ、カバーを掛けてお客様に手渡す。
それが、俺の仕事だ。
文庫担当として『竜馬がゆく』四巻の在庫が店内にあることは確信していた。司馬遼 太郎のロングセラーは一通り棚差しされている。シリーズ物だから欠本しても気づきやすいし補充もこまめにかかる。新年度を迎えるこの時期にはそれなりに動く類の本だが、今年は
内海集司は、覚悟を決めた。
「その、こういう……者で」
名刺を差し出す。
「四巻ならうちに在庫あると思う。……差し替えて済む話じゃないかもしれないが、もし新品が必要なら」
少年が作業の手を止める。名刺の角に燦然と青く輝く書店ロゴを見た途端、少年の顔に僅かに残っていた警戒の色が完全にかき消えた。小さく息を呑む音が内海の耳にも届く。まるで魔法のカードだった。忘れていた初心が内海集司の中に蘇る。そうなのだ。巨大書店はどんなテーマパークも敵わない夢の王国で、そうでなければ内海も家から片道四〇分かかるこの店舗をわざわざバイト先に選ばない。
「ここから五分くらい歩くが、良かったら出勤がてら、案内もしてやれるから」
買ってあげようなどと言えばかえって断られるだろう、と内海は言葉を濁す。だが少年の中で何かが勝手に繋がったらしい。
「いっ、行きます。買いに。今から、あの」すっかり魔法にあてられた少年の目に星が踊っている。「ありがとうございます、あの、ほんとに、何から何まで」ぴょこぴょこと小動物じみたお辞儀を繰り返しながら、少年は何度も礼を言った。予想以上の食いつきの良さに拍子抜けする。
少年は本をティッシュで包んでリュックにしまい込む。その間に内海はこっそりスマホで四巻の店内在庫状況を確認した。僅少だが欠本はしていない。安堵しつつ、内海集司は少年を連れてホームの階段を降りる。改札口から中央通路に出て雑踏を東に進む。大壁画が出迎えるエスカレーターを下り、賑やかな地下街をひたすら直進する。道中は互いにほぼ無言だったが、不思議と居心地は悪くなかった。一度だけ少年が辺りを見回しながら、
「あの、横浜駅って……もっと工事ばかりしてるのかと思ってました」
と話しかけてきた。
「え? ……ああ、昔はよく工事してたな。数年前に全部終わったよ」
「そうなんですね。……あ、えっと」訝しげな視線に気づいた少年が慌てて弁解する。「最近『横浜駅SF』って本読んで、気になって」
少年が挙げたのは横浜駅を舞台とする
「ああ、あれか」十年ほど前に読んだきりだった内海集司は断片しか覚えておらず、自動改札には気をつけなよ、と精一杯の冗談を繰り出すと少年は「え!」と瞠目し、ですよね、ここ横浜駅の中ですもんね、あの、あれですよね、構造遺伝界とか、などと早口で喋りだした。内海はその単語を完全に忘れていて、そうそう、などと情報量ゼロの返答をしてしまい、コアな談義への期待に目を輝かせる少年に応えられないことを心の中で詫びた。少年も色々と察したのか、興奮をやや恥じ入るように口をつぐんで会話は終わった。少年の舞い上がり方は、ずっと一人で本を読んできた人間が同類を見つけた時のそれだった。これまであのノートが感想の唯一のはけ口だったのだろう、と再び根拠無い想像を広げる。読書は本質的に孤独な行為だ。
地下街を突き当たるとデパート地下二階の華やかなエントランスに辿り着く。七階には内海が働く書店がある。いつもなら左手の従業員用入口に向かうところだが、今は少年を連れているのであくまで客としての入店になる。エレベーターで七階に上り、巨大な雑貨店を突っ切って書店の前に出る。雨のせいか春休みにしては客はまばらで、奥のフェア台でバイト仲間が本を補充しているのが見えた。シフトまではまだかなり時間があった。内海集司は店の前に少年を待たせて店内に入り、社割を利用して『竜馬がゆく』四巻を自腹で買った。幸いレジに他の客はおらず、レジ係の後輩は怪訝な顔をしながらもレジ打ちとカバー掛けをやってくれた。内海が戻ると、少年は催事ワゴンの前で平積みの新刊本を眺めているところだった。入口脇の柱の陰に少年を呼び寄せ、そっと本を差し出す。反射的に本を受け取った少年は訝しげにカバーを外してみて、それが新品の四巻であることに気づいてひとしきり
「え、あの、なんでカバー」
「不要なら外してくれていい」
「いえあの、そうじゃなくて……これって、もしかしてお会計って」
「ああ、済んでる」
「いや、そんな」
「社割、利くから」
「しゃわり……」
「書店員は割引で本が買えるんだ」
少年はぱあっと顔を輝かせた。将来のバイト先を心に決めたらしかった。だが所詮、割引は割引でしかないと気づいて、
「あ、でも、やっぱり、せめて実費分くらいは」
と再び慌てた。
「いいって、いいって」
手をひらひらさせながら内海集司は、大人の余裕をひけらかすような自分の言動が妙に気恥ずかしくなった。一人っ子で甥も姪もいない内海は、子供との接し方がよくわからない。だが十代なら文庫一冊でも大きな出費だろうと思えた。
「でっ、でも」
子供扱いされたことにムッとしたのか少年が反論しようとする。
「俺も」非番とはいえ一応店先なので、一瞬悩んでから言い直す。「……自分も昔そうしてもらった」
幼少時、本は父親に買ってもらうものだった。中学以降はもっぱらモジャ屋敷の蔵書が頼りで、実質的に髭先生に買ってもらっていたのに等しかった。実際、読みたいと言った新刊がいつの間にか書庫の隅に追加されていたことも何度かあった。もっともそれは髭先生も強く興味を示した本に限られてはいた。
そんな、と少年は言いかけたが、目の前の大人を説得できる材料を持ち合わせていないことを早々に悟り言葉を呑み込む。
「……わかり、ました。じゃあ、ありがたく頂戴します。でも参ったな」潔く諦めたはずがまだ逡巡している。「……そうだ。ならせめて、他の本も買います」
「え、いやいや」今度は内海が狼狽する。
「ちょうど欲しい本、いっぱいあるんで。今月のハヤカワ文庫のラインナップ、ちょっとすごいですし」
「そんな気を遣わなくていいって」
「いえっ、買います。買いたいんです。お願いします」少年は勢いよく頭を下げた。「買わせて、ください」
「そこまで言うならまあ……。でも無理はするなよ」内海集司は申し訳なく思いながらも、この少年はきっと欣喜雀躍して本を選ぶだろうなと想像した。確かにお互いにとって最良の選択かもしれない。同時に、外崎ならここまで頭が回っただろうかとも考える。あの頃の外崎真と比べると、少年はよほどしっかりしておりいかにも
「大丈夫です! 今年のお年玉、全額持ってき」
「そういう話は大声でしないほうがいい」
「あっ……」少年は赤面して小声になった。「そう、ですよね……すみません。でも、あの、夢だったんです。大型書店で予算一万円、制限時間一時間ってやつ」
この歳で豪遊しすぎだろと内海は思ったが、まあ自分の金をどう使おうと自由だしなと思い直す。本読みにとって夢の企画なのは間違いない。
少年はリュックを開けて新しい四巻をしまうと思いきや、逆に傷んだほうの四巻を取り出した。ひたすらティッシュが挟まれミルフィーユのようになった本と真新しい本を両手に持って並べ、ふふふと何やらにやけている。古い本の破れたカバーにはbook palという見慣れないロゴが見えたが、どこの書店のものなのか内海集司には心当たりがなかった。
少年が二冊を大事そうに見比べて再び礼を言う。
「改めて、本当にありがとうございました。父の本も、今日買って頂いた本も……一生、大事にします」
それを聞いて初めて内海は、〝父親の本〟についての推測が間違っていたかもしれないことに気づいた。父親から借り、返さねばならぬ本ではなく、父親から譲り受けた本、あるいは受け継いだ本だったのかもしれない。そんな内海の推量を察したのか、少年は穏やかに続ける。
「その、父は……僕が小さい時にいなくなって、だからほとんど覚えてないんですけど、うちに本が少し残ってて」
少年の言葉はからりとしていて、父親に対する鬱屈のようなものは全く感じられなかった。
父親が不在なら自分の行為はかえって迷惑だっただろうか。ふと内海集司の心にそんな思いがよぎる。だが目の前の屈託無い笑顔を見るにつけ、まあ良いかと思い直す。少年が喜んでいるなら、それでいい。自然と内海集司は思い出していた。自分の幼い頃のこと。父親のこと。父親に褒められた遠い日のこと。父親から電話があった日のこと。父親はどんな人間だったのか、何を考え、どうやって生きてきたのか。それを知りたいと思うようになったのは父親から遠く距離を置き、三十を過ぎてからのことだった。幼少時に父親の書棚からこっそり読んだ
「そうか。うん」内海は何か大人らしいことを言おうとしたがまるで思いつかなかった。「良い本が残ってたな」
「はい、僕、歴史小説って初めてで……父の本がなかったら、ずっと敬遠してたんじゃないかなって」
少年は愛おしそうに二冊の文庫本に目を落とすと、新品のカバー背表紙にある紺色の書店ロゴをしげしげと眺めて、
「きのくにや……」
と呟き、続いて店の前の青い看板を見上げ、もう一度本に目を戻して、
「うへへ、
と陶然とした表情で言った。続く会話で少年は、京都在住であること、大阪の紀伊國屋書店は未攻略であること、先週末に中学の卒業式を迎えたばかりで、春休みを利用して〝東京のおばさん〟の所に遊びに来ていること、東京のおばさんは最近
会話が途切れた。ちょっと話しすぎた、という顔をして少年は手中の二冊をリュックにしまった。リュックの奥に、何冊もの文庫本が見えた。丸善、ジュンク堂、くまざわ書店のカバーは見るなりわかったが、どれも色褪せている。もしかすると少年の父親が集めた『竜馬がゆく』全巻で、少年はこの旅の間に読破する計画なのかもしれないと内海は楽しく妄想した。
じゃあ他の本見てきます、本当にありがとうございました、と少年は再三礼を述べて一人で店内に入っていき、左側に進みかけて立ち止まり周囲を見回している。おい、そっちはビジネス書だ、と見守っていた内海集司は顔を顰める。店内は環状構造になっており、入店した客は右に進むか左に進むかの選択を迫られる。左側はビジネス書、奥には県内有数の規模を誇る専門書コーナーも控えている。もちろん新学期に向けて自己啓発本や専門書という選択肢も十分にありなのだが、少年がハヤカワ文庫に言及していたのを内海集司は覚えていた。少年は案の定きょろきょろしている。本の森で迷う楽しさも知ってはいるが、大股で少年に追いついて尋ねる。
「文庫?」
「え」別れて十秒後の再会に少年は戸惑いつつも、その目はそうです図星ですと語っている。
「文庫はあっちの奥」
内海は逆方向を指差すが、文庫の棚は直接見えない。手招きして、そのまま流れで店内を先導する。同僚に見られると気まずいのでレジ前を避け、雑誌や実用書の棚の間を通り抜けて奥の文庫本のコーナーに向かう。通りがかりの平積みの乱れをつい手癖で軽く整えながら歩く。少年はあちこちに目移りしながら、興奮の面持ちで内海の後をついてくる。小躍りするような足取りに、内海集司は再び外崎真のことを考えた。生来の本好きというものは、本屋に連れて行って放せば大抵わかる。まあ書店に来るような人間は高確率で本が好きであり、本好きにも色々なタイプの人間がいることを内海集司は長年の接客業を通じて痛感していたが、少年とは不思議と気が合いそうな予感があった。
「あ」
小さな声を少年が漏らす。内海集司は足を止めて少年の視線の先を辿る。文庫コーナーのエンド台に
知らず知らず詮索の目つきになっていたのかもしれなかった。内海の射るような視線に気づいた少年は、ばつの悪そうにはにかんだ。
「いえ、あの、文庫になってたんですね、これ」
そう言って少年は、台手前の角に積まれた本を一冊手に取る。よりによって、と内海は思った。見慣れた表紙に、言葉にならない感情が胸に去来した。
「髭……先生」
無意識に内海集司は口の中で呟いていた。
かつて内海がモジャ屋敷で発見して講談社の担当編集者に渡した原稿、その文庫版だった。三年前の十一月に発売されたハードカバー版は翌年本屋大賞で三位を獲り、その快挙のせいか二年余りでめでたく文庫化されてそろそろ一ヶ月が経つ。破格の陳列にしたのは内海だった。帯に輝く「二〇二五年本屋大賞第三位」の文字、陳列の横には後輩に書いてもらったPOP、さらに著者本人の手によると思われる、書店のロゴを擬人化した薄気味悪いというかキモ可愛い絵が描かれたサイン色紙まで飾られて、エンド台に異様な雰囲気の一角を形成している。二〇二四年六月のあの日、髭先生は若返ってニアム・シンオールと一緒に向こう側に旅立ったはずで、それきり内海も会っていないが、なぜかこうして文庫版は出るし増刷は掛かるしサイン色紙は送られてくる。税理士の
事情を何も知らない少年は「本屋大賞の時から気になってました。なんか本読みへの挑戦状みたいなタイトルだなぁって」と屈託なく笑った。そしてサイン色紙の怪異を見てうひぃと呟き、怯えた顔で目を逸らした。
非番とはいえ職場での世間話はどこか憚られる気がして内海は素っ気ない返事をしたが、面白いよ、と付け加えて、少年に向かってそっと親指を立ててみせた。心から薦められる本なのは確かだった。少年も妙に安心したような顔でサムズアップを返す。
「よしっ、これ、読んでみます。えっと、あとはハヤカワの……」
少年は隣の棚に向かおうとする。だが何かに呼ばれたかのごとく立ち止まる。踵を返し、吸い寄せられるように講談社文庫の奥の棚に向かう。カラフルな背表紙が棚一面に並んでいる。少年は無言で棚の下段に目を留め、棚に差された一冊に手を伸ばすと、すっと抜き取った。その流れるような所作には一切の迷いがなかった。取り出した本の表紙を少年は無言で眺めている。内海集司は書影を一瞥した。地味な装丁に比べて派手な色の帯には大きく「第二〇回小説世界長編新人賞受賞作」、その下に少し小さな字で「待望の文庫化」「
内海は動揺した。
広い額に脂汗が滲み、顔が熱を帯び、眼鏡が曇るのを感じた。平常心を逸していることに気づき、その反応に自分でひどく驚いた。
なぜ。
なぜ、その本を。
少年は本をひっくり返して裏表紙のあらすじに目を走らせ、再度表紙を見返してから軽く首を
「と…………のざき……? ま……」
と小さく口にした。あれほど迷うことなく本を抜き出したというのに、知らない作家の名を唱えるような口ぶりだった。だが実際知らなくても当然だろう。こちらももう三年になる。二〇二四年春、第二〇回小説世界長編新人賞を満場一致で受賞した新人作家、外崎真は、授賞式の直後に行方不明になった。もっとも知っているのは内海のほかには外崎の両親と新しい担当編集くらいのもので、講談社は失踪の件を公にしていない。外崎は授賞決定の電話の直後に出版契約書を講談社と締結しており、失踪発覚の時点では単行本化作業がかなり進んでいて、どういう判断があったかは知らないがほどなく出版され、当時はそこそこ売れた。だが昨年末の文庫化は内海にとって青天の霹靂だった。かつて内海は外崎に頼まれて出版契約の条項に一通り目を通したことがあるが、文庫化については講談社の優先権以外は何も決まっていなかったはずだった。受賞作といえども文庫化されないケースは多い。外崎の作品をどうしても出版したいと息巻いていた
その割り切りが今、内海集司の足元でぐらりと揺らぐ。
少年が髭先生の小説を選んだのはわかる。本屋大賞三位の話題作で実際よく売れている。髭先生の最高傑作なのは間違いないが、客の目に留まるよう内海自身があの手この手で陳列を仕掛けたからこそでもある。
外崎の小説も、もちろん細々と売れはしたし、本来もっと読まれるべき逸品という認識は揺らがない。だから少年が手に取ったのも決して訝しむべきことではない。
けれど。
よりによってこの二冊を、この二冊だけを、
内海集司は混乱する。現実に思考が追いつかない。溺れてもがく指先に何かが触れる。
選ぶ。
本を選ぶ。
何万、何十万という本の中から、相関が無いはずの二冊の本を選び出す。
天文学的な確率で。
どこかで聞いた気がする。
指先をかすめたそれを必死に引き寄せて掴む。長らく忘れていた記憶だった。
三年前、消えた外崎と髭先生の手がかりを求めて、東大
「宇宙は散逸して拡散する。けれどそれとは逆の〝集合して秩序化する〟そんな流れがあるのかもしれない。あるように見える」
「…………」
「あれ伝わってる? 伝わってるかなあ。ついてこれた? ちょっと、リアクションくらいしてよ。無反応って心折れるよ」
「はあ……なんかまだ頭の中グチャグチャですが」
「伝わってない? シャノン限界? 伝われってば。駄目か、わかったよ、じゃあもう一度最初から行くよ。シラードエンジンを仮定すると1ビットの情報を非可逆に消去する時に熱浴に対して」
「いや、あの、ええと、集合して秩序化する流れ? があるらしいってところまでは」
「なんだ伝わってるじゃん。言ってよう」
「……わかった気になってるだけのような」
「そりゃ一〇〇パーセント理解してもらうのは無理筋ってもんよ。こっちもだいぶ噛み砕いて話したし。でも雰囲気だけでもわかってもらえたんなら、あたしも説明した甲斐あったよ。ていうか、そうだ、それだ。まさにそれが宇宙でも起きてるって話をこれまで延々としてたわけ。何かがわかるってことこそ、宇宙の自然な流れそのものなの。グチャグチャだったのが整理された。わからなかったものがわかった。混沌が秩序になった。内海君の頭の中で起きたこと、それとおんなじことが宇宙で起きてる。あたしの話が内海君に伝わったのは、この宇宙がそういう風に出来てるから」
「えぇ……さすがに飛躍しすぎでは」
「あー、もしかして、もしかしなくてもだけど、比喩だと思ってるでしょ。違うから。比喩じゃないよこれ」
(比喩じゃない。どこかで聞いた気がする。ああ、そうだ、髭先生だ。小説は星と同じって話をした時)
「比喩じゃないってのはぁ、さっき話したエントロピーね。あれ、情報量と密接に結びついてる。何かがわかるとエントロピーが減る。ほんとだってば。そんな不信の目で見ないでよ。情報熱力学っていう分野がちゃんとあってね。まあいいや、ええとね、エントロピーってぇ、乱雑さ、無秩序さを表すってさっき説明したけど、これって言い換えると〝わからなさ〟でもある。不確かさと言ってもいいよ。何もわからない状態って混沌としてるでしょ。ああかもしれないけどこうかもしれない、みたいな。取りうる可能性がたくさんあって、どれなのかわかんないっていう。そんでぇ、なんかわかったとするよ。答えが一つに定まる。そうするとわからなさが取り除かれる。この時エントロピーは減ってるの。わかるかなあ」
「いえ、ちょっと全然わからないです」
「なんか悔しいなあもう」
「すみません……」
「待って。違くて。自分の説明が伝わらないのが悔しいのよ。自分で自分が悔しい。ああもう緑小であんなに鍛えたのにさ。ごめん内海君もっかいチャレンジさせて。いい寄合則世、ここは緑小の理科室、目の前に小学生がいると思って」
「……はあ」
「よしじゃあ具体的な例で説明するよ。たとえばサイコロね。サイコロ振ります。振ってさ、奇数が出たか偶数が出たか教えてもらったとする。この奇数か偶数かっていう情報の量がちょうど1ビットなの。1ビットってそういう定義。AかBか、有りか無しか、そういう二択のどっちかがわかった時の情報量。でぇ、1ビットの情報量を得たってことは、〝わからなさ〟が1ビット減ったことになる。エントロピーが1ビット減った。情報理論ではそういう風に考える。ここまではOK?」
「ええと……多分」
「よし。なら今度はサイコロ振ってぇ、一の目が出たとする。確率は六分の一。この時の情報量は6の対数なの。えー、んんー、ごめん電卓使う。対数の
「小学校で対数は習わないですよ」
「くそ、わかったよ、細かい導出はスルーしていいから。ともかくなんか、数字出たって思っててくれれば充分。話戻すよ。サイコロの場合は2.585ビットだった。そんじゃ次。一気に選択肢増えます。百万本のくじ。千万本にするか? 百万本でいっか。くじが百万本あって一本だけ当たりが入ってる。この当たりくじの情報量は、百万の対数。ええと、なんと19.93ビットだ。19.93ビットの情報量が得られた。エントロピーどうなった。一気に19.93ビット減った。はい、どちゃくそ減りました。すごい。どうよ」
「……すごいんですかそれって」
「すごいよ。ほら、さっきエントロピーはどんどん増えるものだって言ったじゃん。それに
「えっ……。なんでって……髭先生の取材で出た話をされてたんじゃ」
「あー、そうだったわ。そうだったっけ? んー、いや、やっぱここまでは話してなかったかもしれない。何しろ二〇年も前だから記憶怪しいのよ。確か髭先生に話したのは、宇宙には集合して秩序化する流れがある、ように見える、って辺りまでだった気がするよ。あたしもあの頃はまだブラックホールの熱力学界隈あんまやってなかったし。ホログラフィック原理とか盛り上がる前だったからさ」
(真面目に聞くんじゃなかった……)
「いや待って、でも髭先生、なんか自力でこの辺に辿り着いてた気もするのよね。あたしの取材受けた後に出た小説、こういうことも書かれてた気がする。うっすらとだけど」
「こういうことって……宝くじに当たったらエントロピーが減る、とかいう」
「んー、まあ合ってる。合ってるよ大体ね。起こりえない話ほど、情報量を最大化してエントロピーを減少させる。でもね、んんー、惜しい。あたし的にはちょっとニュアンス違うかなあ。あくまであたしの印象、雰囲気でしかないけど、当たったらっていう受動的な感じとはちょっと違う気がすんだよね。当たったらというより当てたら? なんだろ、待って、もっといい言葉あった。知る、わかる、区別する、選ぶ。それだ。選ぶ」
「選ぶ……」
「結局、サイコロもくじも、〝選んでる〟ってことなんだよね。それって宇宙の自然な在り方なのよ。集まって整って、単純なものからどんどん複雑になってく、素粒子から星へ、銀河へ、そういう全宇宙の潮流が確かにある。何かを選び出すって行為はそういう宇宙の秩序化の振る舞いそのものなのよ。コインの表か裏かを選ぶ。一〇〇万のくじから当たりを選ぶ。カフェオレをコーヒーと牛乳に分ける。あ、これできちゃったら結構やばいよ。悪魔の所業ってやつです。マクスウェルの悪魔。けどそれに近しいことは現実に起こってる。ように見える。だって原子や分子、ほっといたらカフェオレみたいに混ざってグチャグチャになりそうなのに、いつの間にか集まって星や銀河っていうすさまじく複雑なものが出来上がっちゃうんだから。それは、無数の配置の中からそういう配置が
とまあそこまで思い出したところで内海集司は戻ってくる。ここは本が集まる場所で、そこで自分は働いていて、目の前には少年がいて、自ら選んだ二冊の文庫本を手にしている。
少年は選び取った。
数十万の書籍の中から髭先生の小説を選んだ。
数十万の書籍の中から外崎真の小説を選んだ。
その両者をこの少年は、同時にやってのけた。
そんな
あったっていいのかもしれない、と内海集司は思った。
原子や分子が集まって星や銀河を作り出せるのならば。
人の飽くなき心が小説という奇跡を生み出せるのならば。
少年が成したこともきっと同じだ。
この宇宙に通底する、万物が集まって秩序化する潮流、拡散に逆らってエントロピーを減らし世界の意味を増やし続けようとする流れの、一つの自然な現れでしかない。
少年はまだ表紙を見ながら押し黙っている。知られざる作家の作品だから迷うのも無理もない。最近の講談社文庫はシュリンクが掛けられているから試し読みは不可能で、もし少年が困った素振りでこちらの表情を窺ってきたり意見を求められたりしたら、シンプルに薦めようと内海は考えた。「これ面白いですか?」は客からよく訊かれる質問の一つで、書店員として無難なセオリーのようなものはあるにはあるが、それを少年に返すのも躊躇われた。とはいえ滔々と語るのも違う気がして、とにかくとても面白い小説であることは素直に伝えたいと思った。
だが少年は内海を一切見なかった。ただ本を見て、瞼を閉じ少し思案して、再び見開いた時にはすでに瞳に決意の色があった。フィクションに身を委ね、虚構に深く潜ることを決心したひとりの冒険者の顔だった。少年が何を思ったのかはわからない。けれど覚悟を決めた少年に対して内海集司が言うべきことはもはや何も無い。
この二冊の組み合わせには、内海集司だけが知る特別な意味が内包されている。少年がそこに辿り着くのは時間の問題だろうと思えた。もしかすると髭先生と外崎の関係に勘づくこともあるかも知れない。あるいはもう気づいているのかも知れない。だがこの少年となら、世界の秘密を共有しても良いと内海集司は思った。何しろ寄合則世の話に従うなら、少年はとんでもないことをやってのけたことになる。何十ビットもの情報を、新たな秩序と意味を作り出した。有り得ない、嘘みたいな、だけれどもほんとうの話。
この少年には、強い力がある。
情報を生み出し、宇宙の意味を増やす力が。
内側で作り出したものを外に出し、いつか世界を書き換えていく力。外崎真と同じ種類の力。その片鱗は少年の読書帳にすでに現れている。
だからもしかしたら、少年もいつか。
開闢のティル・ナ・ノーグの、さらにその先の地に。
そんな気がした。
二冊を大事そうに抱えた少年はここでようやく内海の視線に気づくと、顔を見上げて無言で頷いた。選択に満足し、納得した表情だった。内海も力強く頷き返す。大丈夫だ、彼に委ねよう、と思った。
邂逅の終わりは近づいている。そろそろシフトに入る時間だった。といってもこのままバックヤードに直行するわけにはいかない。一旦地下に降りて、改めて従業員用入口から入館する必要がある。腕時計に目をやる内海の仕草にハッとする少年。
「あ、お仕事ですよね。すみません、お時間頂いてしまって」
「ああ、そろそろシフトだから。……ハヤカワはあっちの棚で、レジは向こう」
内海はレジの方向を指差したが、バイトの後輩がこちらを睨んでいる気がして慌てて目を逸らした。
「はい、何から何までお世話になりっぱなしで、なんてお礼を言ったらいいか」
少年の口調にもはや臆病風は微塵も感じられない。才気溢れる、堅実で実直な好青年の姿がそこにあった。
「いや、むしろ無理やり連れてきて悪かった。……本当に無理に買う必要ないからな」
「とんでもないです、絶対買いますから。この二冊はもう決定ですよ」
髭先生の本と外崎真の本、二冊を見せびらかすように少年は反駁してから、満面の笑みで言った。
「ていうか、なんかすごい楽しいです、旅先の本屋さんって」
内海もその気持ちは非常に共感できたし、自分の勤務先をそんな風に思ってもらえることが何より嬉しかった。
「なら良かったが……そうだ、帰り道、わかるか。このあと
「はい、京急本線です。金沢文庫駅まで」
「まずはエレベーターで地下二階だ。そこから地下街に出られるから、直進してエスカレーターを昇ったら右に改札がある」
「行きとちょうど逆ですよね」少年はドヤ顔で親指を立ててみせた。「大丈夫です。バッチリですよ。『横浜駅SF』で予習しましたから」
「それ一番予習にならないやつだろ」
「あの超絶難易度で予習したからこそ、現実世界が楽勝になるんです」
「チートアイテムみたいな読み方をするなよ……」
「……です、よね」
急に少年が神妙な顔をした。
内海の言葉の何かが少年の中で引っかかったらしかった。まずい事を口走ったかと内海集司は身を固くする。それを感じ取ったのか、少年は心の内を吐露し始める。
「や、なんか、ちょうど気にしてたこと、言い当てられたっていうのかな。ちょっと……びっくりしました。わかってはいるんです。小説は人生のマニュアルなんかじゃないんだって。でも最近、ちょっともやもやしてて」
内海集司にはまだ話が見えない。少年は続ける。
「僕、その、物語の登場人物がいつもうらやましくて……竜馬も、半平太も、性格正反対ですけど二人とも本当にカッコよくて、こんな風になれたらなって」
少し眩しそうに少年は遥か先を見つめる。あの有名な
「せいぜい僕なんてただのエキストラですけど、せめて高校入ったら変わりたくて。優柔不断なところとか、一歩を踏み出せないところとか、なんとかしたくて」
そうだろうか、と内海は訝しむ。あんな風に迷いなく本を選び出せる時点で、自分よりよほど決断力があるように思えた。自身が本来持つ力に少年はまだ気づいていない。だが誰しもそうなのかもしれなかった。
「そういうことのために小説を読むのは、なんか違うよなって気もするんです。チートアイテムでもマニュアルでもない。……けど、僕、これまで小説に何度も救われてきたのも確かで、だからどうしてもなんか救いとかヒントみたいなものを、小説に求めようとしてしまう自分もいて。むしろ小説と現実を比べてかえって落ち込んだりして。それってどうなんだろうっていう」
その煩悶を内海集司はとてもよく知っていた。
「だから、その……いえ、本を読んでる最中はすごく楽しいんですけど、ええと、どう言えばいいですかね……」
少年は言葉を探している。だが内海集司にはわかる。少年の言いたいことが、自分のことのように心に浸透する。そして少年の鋭い思索を眩しく思う。外崎と内海がようやく到達した答えに、この少年はすでに自力で手をかけようとしている。あと少しのところまで来ている。ここまで辿り着けているのなら、あの二冊を読みさえすれば、あとはもう。
「全部、その二冊に書いてある」
「え」
「無理に読めとは言わない。今でなくてもいい。けど、
「それって……どういう」
「まあ、読めばわかる」
「そんなぁ」
「ネタバレしろと?」
「それだけは勘弁して下さい。……うーん」
釈然としない顔で少年は二冊をじっと見ていたが、やがて顔を上げて「読み、ます」と言った。少年の遠い視線の先を内海集司は想像しようとしたが、そこには無数の小説が整然と並ぶいつもの書店の風景が見えるだけだった。同時にレジ係の視線がいよいよ臨界に達しつつあるのに気づいてしまい、じゃあなと言って内海は少年と別れた。何度も礼を連呼する少年を尻目にそそくさと店を出て、急いで地下に降りる。
従業員用入口から改めて入館する。バックヤードでエプロンをかけ気を引き締める。引き継ぎを行いハンディターミナルを手に売り場に出る。遠目に見渡すとちくま文庫の棚の前にまだ少年がいた。すでに五、六冊の文庫本を手に、書店の創業百周年の記念グッズまで小脇に抱えている。そのままふらふらと新書棚の方に消えるのを見て、大いに悩めと思いながら内海は文庫棚の見回りを開始した。講談社文庫の棚の前に立つ。
棚の一角にぽっかりと一冊分の隙間が空いている。
つい先刻、少年が外崎真の小説を抜き取った跡だった。穴は塞がなければならない。欠本は補充せねばならない。書店員の本能が疼く。棚下のストッカーを引き出して、返本できずにいた在庫を棚に差す。あるべき姿を取り戻した棚に満足する。同時に、内海集司の中に新たな平台展開のイメージがぼんやりと湧き上がる。外崎の小説を追加発注して、あえて髭先生の小説の隣に並べてはどうか。外崎が好きだった作家の本、外崎の小説にインスピレーションを与えた作品、髭先生が嬉々として感想を語っていた長編。それらの本達も近くに置いたらどうだろうか。幸せな日々の思い出が蘇り、書影が脳裏に次々と浮かぶ。想像の本棚は次第に明確な輪郭を帯び、選書のイメージが有機的に膨らんでいく。それはどこかモジャ屋敷の書庫にとてもよく似ていたが、決定的に異なる点があった。三十年間本を読んで生きてきた内海集司の内面が陳列に顕れていた。内海にとって外崎と髭先生が内包する意味そのものだった。もちろん外崎と髭先生の関係を明かすつもりはないし、客に気づいて欲しいわけでもない。売り上げが伸びる確証もない。だが、一度くらいやってみても良いかもしれないと内海は思った。この二冊の組み合わせの可能性に気づかせてくれたのは少年で、第二、第三の奇跡を内海は見てみたかった。外崎真のことを、内海集司は誰よりもよく理解している。だからこそ、やれることがあるのではないか。外崎の本を店頭から絶やさないためにも。
広げたイメージが収束し、飛ばした思考が戻ってくる。夢の終わりにも似た感覚は、小説を読み終え浮上した時のあの
そんな結晶体たる小説の、
いつかの髭先生の言葉を思い出す。
小説が星と同じであるなら。
書棚は銀河と同じで。
書店は宇宙と同じで。
きっとそれは比喩ではない、ただの事実だった。
小説が集まって整然と並べられたこの空間は宇宙の自然な在り方で、空間は書店と呼ばれており内海集司は空間を司る書店員だった。
本棚に配架する本の選び方、平台への陳列の仕方。たった一つの配置を選び出す時エントロピーは大きく減り、宇宙の意味が増す。それが書店員・内海集司の仕事であり、棚に本を並べることは書店を訪れる人の内面に意味を送る行為そのものだった。
書けないと思っていた。書きたくないと思っていた。外崎真には天賦の才がある。詩情豊かな物語を生み出す能力、内側の意味を外に出して伝える能力がある。内海集司にはそれが無い。ずっと、そう思っていた。
だが棚を作り本を並べるだけで、
そこに豊かな意味が生まれる。
それは内海集司が生み出す、
一つの〝物語〟であった。
外崎、と内海集司は今、
心の中で問い掛ける。
答えは、返らない。
外崎は旅立った。
幽寂の向こう、
時の果てに。
それでも。
内海は、
続ける。
外崎、俺は。
お前の書いた小説を読む。
そして新たな読み手に届け続ける。
小説を集め、選び、並べ、カバーをかけ、手渡しする。
それが書店員である俺の仕事で。お前のために、俺ができる全てで。
「あ、虹」
児童書コーナーの辺りで子供の叫ぶ声がして内海集司は我に返る。壁際に並ぶ児童書棚の背後には横浜港に面した大きな窓がある。背の低い棚の上に広がる横長の空間からは
内海ははっとして作業の手を止めた。その声には聞き覚えがあった。この世のものを超えて美しい声だったが、氷のような侮蔑と同時にどこか屈辱のひびきを孕んでいた。耳をすますとさらに「あがれきすむねかこむかすおしじち」と聞こえたような気がしたが、それきり声は途切れた。首を伸ばして児童書売場の方を見遣るが声の主はわからない。幾重にも連なる棚の向こうに、窓枠に四角く切り取られた、薄闇のたれそめる空がただ見えるばかりだった。内海はただ口の中で「あがれきすむ」と小さく二度繰り返した。だがそれは、もはや内海集司とは何の関係もないことだった。自分に向けられた言葉ではないことを本能的に理解し安堵すると、外崎、ちゃんと見張っとけよ、と思いながら内海集司は大好きな本に満ち溢れた、最高の世界へと戻っていった。
平積みの台の横を通りかかった一人が表紙に目を留め、逡巡することなく速攻で購入した。我慢できず日曜夜の二五時に本を開く。それはとある読者が主人公の物語で、その中にはいくつかの、妙に的確なことが書いてあった。
小説は。
読むだけでいい。
それは宇宙の法則、この世の摂理であり、主人公が幽寂の旅路の果てに辿り着いた、ただの事実だった。
にもかかわらず、それを潔しとしない不埒な精神がここに存在した。
読むだけでいい、意味を外界から取り込めばいいと言われているのに、内側からも作り出してあわよくば外に出したいなどと、傲慢にも見果てぬ夢を抱き始める。しかも易きに流れ、外から取り込んだ意味の一部を傍若無人に使い回し欲望のままに改変するという暴虐の限りを尽くす。世界の
それは編み上がった答え、冒さざるべき原初の理に対して刃向かう
コメント・感想・批評、ブクマ/すき、いいね、マシュマロ、SNSシェアなど、頂けるとうれしいです! 本当に励みになります。
簡単な無記名アンケート・感想フォーム作りました。全問任意なのでご協力頂けるとうれしいです。https://forms.gle/E3GM8VYDLGAJNznb8
書店描写がありますが書店勤務経験は皆無です。客が完全に想像で書いたファンタジーであり、現実は恐らく色々な意味で異なるのだろうと思います。ただ原作読了後に書店の風景が違って見えた実体験、出版業界を調べるほどに募る関係者の方々への敬意が高じてこんな話になりました。非礼がありましたらお許し下さい。事実誤認等があればご指摘頂ければ幸いです。
横書きだと著しく読みにくいですが、縦書きにすると一部の数字の縦中横の表示が変ですね…。
Pixivにも同時投稿しています:
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本作ネタバレありの「あとがき」を以下に書きました。
https://fusetter.com/tw/FEK0eskl
八月休希さんとはおこっこさんから大変ありがたい書評を頂きました。精進します。
https://artistic-linseed-289.notion.site/a-2766de87b616805ab6abfa24ea37132a
https://x.com/haoblackj/status/1970301622728433748