佐藤はチューバの重い響きをホールに響かせながら、内心でため息をついていた。
北宇治高校吹奏楽部の練習は、コンクールが近づくにつれ、日に日に厳しさを増していた。
顧問の滝先生の指導は容赦なく、パートの先輩たちもピリピリしていた。そんな中、佐藤はチューバパートの後輩として、ただひたすらに音を重ねることしかできなかった。
「佐藤君、もっと低音の支えを意識して下さい」
「はい、すみませんでした!」
何度目かの注意を受け、佐藤は唇を噛んだ。緊張感に押しつぶされそうだった。
練習の合間、ようやく訪れた短い休憩時間。
佐藤はチューバを構えたまま、ふと軽い気持ちで息抜きを思いついた。
「まぁ、ちょっとくらいなら…」誰も見ていないのを確認し、佐藤はコンクール曲とはまるで関係ない、軽快なアニメの主題歌を小さく吹き始めた。
チューバの低音で奏でるには不釣り合いなメロディが、ホールの隅にこっそり響く。少しだけ心が軽くなった気がした。
「佐藤くん。何してるの?」
背筋が凍った。振り返ると、そこには傘木希美が立っていた。
フルートパートの先輩で、部のムードメーカーとして知られる彼女。普段は笑顔が絶えないが、今、その目は異様に冷たく、佐藤を射抜いていた。
「や、傘木先輩! これは、えっと…」佐藤は慌ててチューバを下ろし、言葉を探した。
だが、希美の視線はまるで逃がさないとでも言うように、じっと佐藤を捉えていた。
「コンクール曲じゃないよね? 何、ふざけてるの?」希美の声は穏やかだが、どこか鋭い刃物のような響きがあった。
彼女は一歩近づき、佐藤の周りをゆっくり歩き始めた。まるで獲物を追い詰める獣のようだ。
「いや、ふざけてるわけじゃなくて! ちょっと息抜きで…練習の合間に、ほんの少しだけ…」佐藤は必死に言い訳を並べたが、言葉は空回りするばかりだった。希美は立ち止まり、首を少し傾けて佐藤を見下ろした。
「息抜き?」彼女の唇がわずかに歪む。
「佐藤くん、知ってるよね? 私たちの目標。全国金賞。あの舞台で、最高の演奏をするために、みんな必死で練習してる。なのに、君は…こんなところで、ふざけた曲を吹いてるんだ?」
「ち、違います! ただ、ちょっと緊張してて、リラックスしたくて…」佐藤は汗が滲むのを感じた。希美の目は、まるで心の奥まで見透かすようだった。
「リラックス?」希美は一歩踏み出し、佐藤との距離をさらに縮めた。彼女の声は低く、抑揚が消えていた。
「佐藤くん、君のチューバの音は、部の土台なんだよ。低音がブレたら、全体が崩れる。それくらい大事な役割、わかってるよね?」
「は、はい、わかってます!」佐藤は必死に頷いた。だが、希美はさらに詰め寄る。
「じゃあ、なんで? なんでこんな大事な時期に、ふざけた曲を吹くの? 君、部の足引っ張るつもり?」
希美の言葉は鋭く、佐藤の胸に突き刺さった。彼女の目は、まるで佐藤の言い訳をすべて見抜いているかのようだった。
「そんなつもりは…本当に、ただの気まぐれで…」
佐藤は声を絞り出したが、希美は首を振った。
「気まぐれ? 佐藤くん、気まぐれで全国に行けると思う?」彼女はさらに一歩近づき、佐藤の顔が間近に感じる距離まで迫った。フルートのケースを握る手が、わずかに震えているように見えた。
「君の音が、みんなの努力を無駄にするかもしれないって、考えたことある?」
佐藤は言葉を失った。希美の声は静かだったが、その奥に潜む感情は、まるで嵐のように激しかった。彼女の目は、怒りとも悲しみともつかない複雑な光をたたえていた。
「ご、ごめんなさい…もう、絶対にしません…」
佐藤は頭を下げ、声が震えた。希美はしばらく無言で佐藤を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「…いいよ。信じるよ、佐藤くん。」彼女の声は少し柔らかくなったが、目はまだ佐藤を離さなかった。「でも、もしまたこんなことしたら…私、許さないから。わかった?」
「佐藤君、チューバの追加された演奏部分について少し確認したいことがあります。お時間頂けますか?」
滝先生の声だった。
佐藤は思わず安堵の息を漏らし、顔が緩んだ。助かった――そう思った瞬間、希美の目が一瞬鋭く光った。彼女は佐藤の安堵した表情をしっかりと捉えていた。
「滝先生、ちょっと待ってください!」
希美は振り返り、驚くほど冷静な声で先生を静止した。そして、ゆっくりと佐藤に顔を近づけ、耳元で囁いた。彼女の声は低く、氷のように冷たく、どこか執拗な響きを帯びていた。
「佐藤くん…逃げられると思ってる?」
「先生に呼ばれたって、私から逃げられると思わないでね。」
その言葉は、まるで鎖が心に絡みつくような恐怖を佐藤に植え付けた。希美の息が耳に触れ、佐藤は身動き一つ取れなかった。彼女は一瞬だけ微笑むと、すっと身を引いた。
「…佐藤くん、行ってきなよ。」
希美は小さく微笑んだが、その目はまだ佐藤を離さなかった。
佐藤は先生の後ろについていきながら、胸を撫で下ろした。だが、希美の囁きが耳の奥で冷たく響き続け、まるで彼女の視線が背中に絡みついているようだった。