禍福はあざなえる縄のごとし   作:ディエ

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目標

その日は先輩が朝から私の部屋で勉強をしていた。

真面目な受験生である先輩は、夏休みでも遊びにかまけることなく、しっかり受験勉強もする。

本来なら静かで快適な環境の整っている市内の図書館に行きたいところだろうけど、そういった場所は朝からすぐに満席になってしまう。

そこで、この大きな家で一人暮らしの私は、同じくらい快適な環境を整えてあげられますよと、先輩を誘ったのだった。

先輩は快適に受験勉強ができるし、私はいつでも先輩の姿を眺められる。まさにウィンウィンだ。

先輩はローテーブルに数学の教科書、参考書、問題集を広げている。

私は同じ部屋の机で執筆活動の最中だ。

迷路の中でのトラブルがあった後だったので、桧原さんにダメ元で締め切りの相談をしてみたら、きっちりと返事が返ってきたのには驚いた。修復機構としての役割と編集者としての仕事は区別しているらしい。

お陰で私の締め切りは延びることもなく、桧原さんの『とりあえず本数を書け』という要求に応えるべく、奮闘しているところだ。

お互いに特に会話も無く、でも心地いい静かな時間が流れていく。

「ふぅ・・・」

そんな中で先輩が溜息を吐いて伸びをする。

「一休みします?」

「んー、そうする・・・」

先輩は首をコキコキ鳴らして、肩を回す。先輩は動いているよりも勉強の方が疲れるようだ。

「アイス、何味がいいですか?」

「・・・抹茶」

「はーい」

私は一階のキッチンにアイスを取りに行く。おもてなしの準備はバッチリだ。

私は先輩に抹茶のカップアイスを渡すと、その横でチョコチップのアイスを食べ始める。

先輩はさっきから一つの問題に、詰まっているようだ。ふと見ると、先輩は問題と違うグラフを描いて、そこから解こうとしている。

「これ、グラフが間違ってますよ」

「え?」

「ここに絶対値が入ってるんで、ここで折れ曲がるんです」

「あぁ・・・」

「で、前半はここの部分を積分して、こう。同じように、後半はここの部分を積分するから、こう・・・」

私は自分のノートに問題を書き写して、グラフを描き、問題を解いていく。

「で、ここの面積は二つの合計ですから、これ足すこれを計算して、こうなって、こうです」

先輩はふんふんと頷きながら、ノートと問題集の回答を見比べている。

「えぇ~、あーちゃん2年生でしょ? どうしてこんなの分かるの?」

「数学は得意なので」

別に先輩相手に謙遜する必要もない。私は素直に言う。

「ちょっと待ってね・・・」

先輩はアイスのスプーンを咥えながら、同じ問題をもう一度自分で解いてみる。そして同じ正答に到達する。

「はぁ・・・ なるほどねぇ・・・」

「出来ますよね」

「いや、教えてもらえばできるけどさぁ・・・」

「じゃあ、あとは慣れだけですよ」

先輩はアイスを食べながら、次の問題にも挑戦する。

「ここがこうなって、条件があるから、こうなるわけ?」

「そうです」

「じゃあ・・・ こうだ」

「正解。さすが先輩」

「えぇ~、もう私、あーちゃんに教えてもらう~」

そう言って先輩は分厚い参考書をパタンと閉じてしまう。

「先輩はどこの大学受けるんですか?」

「まだはっきりとは決めてないんだけどね。どこか看護学科のあるところかな」

「看護師になるんですか?」

「そ。マジックタッチも生かせるしね」

マジックタッチというのは、集中すれば触れている相手の考えていることが分かる力のことだろう。同種の力を持つ私に使えば双方向になってしまうけど、普通の人に使えば、会話ができる状態ではなくても一方的に相手の思考を読むことができるらしい。しゃべれないほどの重傷患者や、表面的な会話のできない認知症の患者の対応など、職種的には非常に有用な力だろう。

「あーちゃんはもう大学決めてるんでしょ?」

「そうですね」

私は首都圏の国立大学の名前を挙げる。

「そこで理論物理学をやってみようと思ってます」

「理論物理学って?」

「まぁ、SFのネタの宝庫みたいな分野ですね」

「ふ~ん・・・ あ、そこ、看護学科もあるじゃない。私もそこにしよ」

スマホで私の言った大学を調べていた先輩が言う。

「え、そんなに簡単に?」

「大丈夫だよ。数学は苦手だけど、他の教科で点は取れるし。苦手な数学はあーちゃんが教えてくれるでしょ? 同じ大学行って、向こうで同棲しよ」

そう言われ、私の想像は大学生を越えて、社会人にまで飛躍する。

看護師になった先輩と同棲か・・・

 

玄関のドアがガチャリと開き、先輩が「ただいまー」と帰って来る。

私はすぐに玄関まで出て、少し疲れた様子の先輩からバッグを受け取る。

「おかえりなさい。今日も忙しかった? ご飯できてるよ」

私の出迎えに、先輩はにこりと笑う。

「ありがと。丁度お腹空いてたの。さすがあーちゃんだね」

そう言って、ごく自然にキスしてくれる。

そんなさりげない仕草も素敵だ。

私は誇らしい気持ちいっぱいで、先輩とリビングに戻る。

そのテーブルの上には・・・ えーっと、テーブルの上には・・・ とにかく私が作った、とっても豪華なお料理が並んでいる。

「こんなに素敵なお料理を毎日食べられて、私は幸せ者だね。あーちゃんには感謝してるよ」

そう言って先輩は私の手を取って、見つめてくる。それだけで私の心臓が跳ねる。

「そんな・・・ 私はその先輩の笑顔だけで、十分です」

「そう? 私はもっとお礼がしたいな・・・」

先輩は私の手を引いて、隣の寝室へと向かう。

 

うん、いい。すごくいい。

休日が不規則な看護師と、自宅で執筆できるSF作家というのは、好相性ではないだろうか。

思わずにやけそうになる顔を引き締める。

「じゃあ応援してますから、受験勉強、頑張ってくださいね」

「えぇ~、もう休憩終わり?」

先輩はそのままゴロンと仰向けになる。そして動きが止まる。

「・・・ん?」

先輩の視線を辿るまでもなく、何を見つけたのかは分かっている。むしろ、見つけてもらうために、そのまま飾っておいたのだ。

「んん?」

先輩が本棚の上の方に飾ってある額縁を手に取る。

「これ、私のパンツじゃない! なくしたと思ってたのに、どうしてあーちゃんが持ってるの!?」

そう。額縁に入れて飾っていたのは、紛れもなく先輩のおパンツだ。

「そんな、私が取ったみたいに言わないでくださいよ。この前、うちでお泊りしたじゃないですか。その時に洗濯機の中に残ってたんですよ」

つまり先輩の取り忘れであり、私に責任はない。

「・・・だからって、なんでそんなの飾ってるのよ。とにかく返してよ」

「え、嫌ですよ。私の宝物なんですから」

「はぁ?」

真正面からそんな風に断られるとは思っていなかったらしく、先輩が固まる。

呆然とした先輩、かわいい。

ずっと見ていたいくらいだけど、すぐに先輩は気を取り直す。

「・・・じゃあ、それあげる代わりに、あーちゃんのおパンツもちょうだいよ。今、履いてるヤツ」

「え・・・?」

「ほら、自分のパンツ取られて嫌な気持ち分かったでしょ? 返してよ」

そう言われ、私は溜息をつく。

「仕方ありませんね・・・」

先輩は返してくれるのかと思ったのだろうけど、そうではない。

私は隣の部屋に行って、ごそごそと準備をする。

「え・・・?」

そして戻って来ると、先輩に小さな布を手渡す。

「え・・・? これまだ温か・・・ うそ・・・?」

先輩は顔を赤くしながら、手にしたそれをちらちらと見る。

「これで交渉成立ですね。先輩も大事にしてくださいね」

 

そうしていると、私Bが現れる。

「『お勉強中』、悪いんだけど・・・」

私Bが前半を強調して言う。

私Bがどこまで見ているのか分からないけど、不思議と、それほど恥ずかしさはない。でも先輩は違うようだ。

「あ、びーちゃん。 ・・・えと、迷路が出たの? どこ?」

先輩は今のやり取りをごまかすように、尋ねる。

私Bが座標を言ってくれるので、それを入力すると、市内を流れる一級河川の土手が出てくる。

「川の中じゃないから、濡れる心配はないと思うけど」と私Bが補足してくれる。

「よーし、中でいっぱい、ちゅーしてあげるからね」

確かに迷路の中ではいっぱいキスすることになると思うけど、それはあくまで禍との戦闘行為の一環だ。雰囲気も何もあったものではないし、軽い気持ちでしているわけではない。

でもそれは、心配させまいとする先輩なりの気遣いなのかもしれない。

「あの、先輩・・・」

「ん?」

でも私には、一つだけ確認しておかなければならないことがあった。

「迷路の中では先輩に危険が及ぶかもしれません。それでも迷路に入るんですか?」

「うん」

先輩は即答した。

「私には禍福とか分からないけど、あーちゃんが必要としてくれて、役に立てるでしょ? 好きな人のために頑張れるっていいよね」

先輩はそう言って笑ってくれる。

その一言で私の迷いは消える。

「分かりました。一緒に頑張りましょう」

「うん」

私がスマホで地図の縮尺を調節して、経路を確認する。

そこは一級河川の土手沿いを、かなり入った場所だった。時期が良ければ自転車で行けなくもないけど、といった距離で、真夏の今時分に行きたい場所ではない。

「タクシーで行きましょうか」

「えぇ・・・?」

迷路に関する交通費は全て私持ちという約束をしているから、私は簡単に言えるけど、先輩はそんなにお金は使わせたくないのだ。

「こんな暑い中、自転車でって、一時間近くかかりますよ。中で何が起こるか分からないんですから、体力は温存しておかないと」

そう言って私はさっさとタクシーの手配をする。

「飲み物はありますけど、何か買っていきます?」

「う~ん・・・ いいんじゃないかな。前はかなり早く出られたし」

「じゃあ、真っ直ぐ行きましょうか」

私は冷蔵庫から買い置きの飲み物を持ってきて先輩にも渡し、カバンの中身をチェックして、日焼け止めを塗りたくる。

水とジュース、非常食兼おやつ、応急処置セット、タオルなどが入っている。場合によっては折りたたみ傘や懐中電灯も入れるけど、今回は必要ないだろう。

そして私たちは数分後に来たタクシーに乗って、桜並木のある土手の手前へとやって来た。普段は車止めの柵があるので、車は土手の中へは入れない。

私たちはタクシーを見送ってから、まばらな桜並木の日陰を選んで、土手を歩き始める。

 

昔は土手沿いに立派な桜並木があったけど、水害の際に『土手が弱くなる』との理由で全部切り倒したらしい。それを近年になって復活させようとしているのだ。上流にダムも整備されたし、氾濫することもなくなったので、治水よりも観光優先ということなのだろう。

土手の下には広い河川敷があるけど、そこへ降りる道などないため、一面、背の高い草で蔽い尽くされている。年に何回か草刈りが行われるけど、その時でもなければ土手の下がどのようになっているかは伺い知れない。

時折風が吹くと、草いきれの中で、先輩のブラウスが涼し気に揺れる。

今はまだ午前中だし、一応川の近くなのでまだいいけど、これから炎天下の中で迷路を探さなければならなくなったら、どうなるんだろうか。

そうしていると桜の木の陰に、ゆらゆらと揺れる迷路への入り口が見えてくる。以前はすぐ近くまで行かなければ分からなかったけど、今は遠くからでもそれと分かる。

「ありました」

「うん」

先輩は私の手を握り、深呼吸をする。

「「せーのっ」」

そして、タイミングを合わせて、迷路の中へと踏み出した。

外は所々に桜の木がある土手が一本走っているだけだったけど、迷路の中ではその土手が、見渡す限り縦横に走っている。今までと違い、視線を遮るものがないので、その眺めは壮観だ。

先輩の方は、ある程度の負担は覚悟していたのだろうけど、それでも少し苦しそうだ。

「大丈夫ですか?」

「うん、まだ大丈夫。多分、休み休みになっちゃうと思うけど・・・」

先輩は膝に手を置いて呼吸を整えていたが、よしっと気合を入れて体を起こす。

「どっち?」

「先輩のペースで行きますからね」

私は先輩の手を取って、ゆっくりと歩きだす。

止まっていても状況は変化せず、先輩の体力が消耗していくだけだ。

汗ばむ熱気の中、土手は枝分かれと合流を繰り返しながら、地平線まで伸びている。時が止まったかのように静まり返り、風も吹かない迷路をゆっくりとでも歩き続けるしかない。

 

その時、目の前の景色がざあっと横にスライドしたように見えた。それに合わせて、左右の風景も動いたように感じる。

でも、そこに見えるのは相変わらずの土手と、左右に広がる草むらだけだ。

「今、動きました?」

「・・・何が?」

「いえ、目の前の景色がこう、書割みたいに横にずれていったような・・・」

「・・・ごめん。分かんなかった」

前回の迷路の組み換えは先輩にも見えていたようだったけど、今回の組み換えは見えていない。でも私は今回の方が実際に動くものとして認識できている。パズルゲームのように、自分たちのいる地面ごと、スライドしているような感覚だ。

これは、迷路は強化されたけど、私はそれ以上に強くなっている、と思いたいところだけど・・・

その後も中心部への道を示す、引かれるような感覚は、常に正面から感じられる。

そして目玉の現れ方も変わっている。

十メートル程手前に突然現れると、投げつけられたようなスピードで飛んできたのだ。

「危ない!」

咄嗟に先輩を引き寄せて庇うけど、ぶつかった様子はない。恐る恐る見てみると、私の近くでは前回と同じように、スローになっていたのだった。

でも止まっているわけではなく、よく見ればじりじりと私に近付いてはいる。そしてその目玉の視線も、ゆっくりとではあるが、私を捉えようとしている。

そのまま目玉の横を通り抜けて行こうとするけど、私が離れれば目玉のスピードは少しずつ上がっていく。目玉は急速に反転して私へと迫り、また私の近くでスローになる。つまり、壊さなければいつまでも一定の距離で追尾され続けるということだ。

いくつかこの調子で引きつけてからまとめて一気に、とも考えたけど、迷路の中では何が起こるか分からない。不測の事態を避けるためにも、順番に壊していく方がいいだろう。

「先輩、いきますよ」

「うん、ちゅーして」

私がそっと口付けると、二人の思考が入り乱れ、私の右手にハンマーが出現する。

 

『先輩、大丈夫かな』

『あーちゃん大好き』

『できるだけ早く攻略しないと』

『あーちゃん大好き』

『私に出来ることは・・・』

『でも、今は我慢』

 

私は先輩の健気な思いを感じながら、目玉を叩き壊す。

壊すこと自体は簡単なものだ。その間に先輩は息を整えている。

私は試しにもう一度ハンマーを出そうとするけど、それは現れない。

やはり前回とは、状況が変わっている。福の保持が難しくなっている。

 

私たちはペットボトルの水分を補給すると、また手を繋いで歩き始める。

「そういえば先輩、9月に公開されるミステリー映画、知ってます?」

汗ばむ熱気を紛らわせようと、私は先輩に話しかける。

「CMでやってたあれでしょ? 面白そうだったよね」

「あの、公開されたら、学校サボって、観に行きませんか?」

「え? 私はいいけど・・・ あーちゃんは大丈夫?」

先輩は、私が人混みが苦手なのを知っていて、心配そうに言う。

私も今までなら、そんな場所に行こうだなんて考えもしなかった。

でも、今は『先輩と海デート』という高い目標がある。多少無理はしても慣らしていかなければならない。

「平日の昼間だったら、そこまで混まないだろうし、いけると思います」

冷静に映画館がどんなところか考えると、気が滅入ってくるけど、今は意識して考えないようにする。こういうのは勢いが大事なんだ。それに、行くとなれば、私の隣には先輩がいる。先輩はいつだって私に力をくれる。

「それとも、サボりは嫌でしたか?」

私はからかうように言うと、先輩も笑う。

「今更じゃない? あーちゃんから誘ってくれて、うれしい」

先輩は本当に嬉しそうな笑顔を見せる。可愛いなぁ。

「あとで公開日と映画館、チェックしておかないとだね。初日は平日でも混むから、少しずらした方がいいよね」

さすが映画好きの先輩。対応が慣れている。

「私、実は映画館って行ったことないので、お任せしていいですか?」

以前、SF映画を観に、近くまでは行ったんだけど、あまりの人混みに、そのまま帰ってしまったのだ。

「うん、任せて。誰かと映画観に行くなんて久しぶり。楽しみだなぁ」

私はそんな先輩の横顔を眺めながら、自分の胸の中に暖かいものが満ちていくのを感じる。

でも、そんな時間もここでは長くは続かない。

「先輩、目玉が・・・!」

私が言い終わる前に、突然現れた目玉の群れが私たち目掛けて殺到する。

グッと先輩の手を引いて庇おうとするけど、私たちの近くに来た目玉は急激にスピードを落とす。

こうなると分かっていても、現れた瞬間はやはりドキッとする。

「あーちゃん・・・」

先輩がすっと顔を寄せてくる。

私は左手で先輩を抱きかかえるようにしてキスをすると、右手のハンマーで目玉の群れをまとめて叩き落す。

そしてもう一度キスをして、ハンマーを振るい、残りの目玉も叩き落とす。

そうして目玉が残っていないことを確認しようとした時、服の右裾に引きつるような違和感があった。

何気なく目をやると、そこにはあの目玉があった。

まずは先輩のいる左側を警戒、と思っていたため、右下は死角になってしまったのだ。

目玉はゆっくりと、右下から真っ直ぐに私にめり込んでくる。しかも、目標に接触するとそうなるのか、目玉には全周に鋭い棘が生えていて、それが服に絡んでいる。

私は咄嗟に手で払い除けようとするけど、そのフワフワと浮いているような見た目に反して、目玉は空間に固定されているかのように、押し退けることはできなかった。

そうしている間にも目玉の棘は服を突き通し、腰やわき腹にチクリと刺さる。

「・・・!」

突然のことに私は声も出なかった。

それに対して、先輩は一瞬で行動した。

さっと私を引き寄せると、完全同調で福を渡してくれる。

 

『危ない!』

『・・・・・・?』

『右側に目玉が!』

『・・・・・・!?』

『早く!』

『・・・・・・!!』

 

私は福を宿した手で脇腹近くにいた目玉を再度、払い除けると、それは今度は簡単に砕け散った。

「大丈夫!?」

「あ、はい・・・ ありがとうございます・・・」

先輩に抱き寄せられながら、私は呆然としながら応える。

今になってから、心臓がバクバクとして、嫌な汗が吹き出てくる。

「ありがとうございます」

もう一度言うと、私は気を落ち着かせるために、深呼吸を繰り返す。すると今度は脇腹にズキズキとした鋭い痛みが生まれてくる。

「あーちゃん、血が!」

目玉のあった辺りを見ていた先輩がすぐにカバンから応急処置セットを出してくる。

「あちゃぁ・・・」

腰と脇腹の辺りに刺し傷が三か所。それと、払い除けようとした時に右手の小指側にも引っ掻き傷がある。

見た感じ、傷口に異物などは残っていない。先輩は、水で濡らしたガーゼで傷口の周りを拭いた後、ガーゼを重ねて、テープで留めて止血をしてくれる。手の方もガーゼと包帯で止血をしてくれた。

服には穴が開いてしまったけど、ゆったりしたデザインなので、広げなければ分からないというのが救いだろうか。

「大丈夫?」

「大丈夫、そうですね」

そうは答えたけど、先輩は心配そうに私を見ている。

壁に吹き飛ばされて怪我をしたことはあったけど、目玉による怪我はこれが初めてだ。

呼吸のたびに鋭い痛みが走るけど、動けないほどではない。むしろ今は、早く移動して迷路から抜け出なければならない。

「これ、毒とかないですよねぇ」

「え・・・」

私は場を和ませる冗談のつもりだったけど、先輩は真顔になる。

その顔を見て、私はその冗談を否定する材料は何もないことに気付く。

「・・・冗談です。多分大丈夫ですよ。行きましょう」

そう言って、脇腹の傷を押さえながら歩き出す。鋭い痛みは続くけど、苦しいのは先輩も同じだ。それに体力の消耗という問題もある。

 

「最初に会った時も、あーちゃん怪我してたよね」

「そうでしたね。あの時は転んだだけでしたけど」

「あーちゃんはどうして迷路を壊そうとしてるの?」

「どうしてって・・・」

そう尋ねられ、私は言葉に詰まる。

確かにどうしてだろう。

私Bには『修復機構の一部だから』だとか、『口では断っても、結局は行くことになるよ』とかいう言葉で誤魔化されたようになっている。でも、それで実際に迷路を攻略しているのだから、それはそれで真実ということなのだろう。

でも、義務感や使命感とも違う気がする。

「怪我をしてでも、あーちゃんがやらないといけないの?」

「どうなんだろ・・・ でも誰にでもできる事じゃなさそうだし、誰かがやらないといけないんだったら、仕方ないかなって」

私は何とか答えようとするけど、どうも言葉にしようとすると、あやふやになってしまう。

「それに、ほっといたら、世界が酷いことになるらしいんですよ。まぁ、世界なんかどうだっていいんですけど、世界が酷いことになっちゃったら、先輩も大変なことになるかもしれないじゃないですか。それは嫌ですね」

「それだけで?」

「それだけ、ですね。知らない誰かのために怪我してあげるほど、優しくはないですよ。私は自分のことと先輩のことだけで、手一杯ですから」

そう言い切ると、先輩は少し嬉しそうにする。

「そっか・・・ ありがとう、あーちゃん」

先輩が微笑みかけてくれると、私の痛みは少しだけ楽になった気がした。

「だからこんな所、さっさと出ちゃいましょう」

私たちが歩く度に、周りの景色が目まぐるしく入れ替わっていく。そのペースはさっきまでよりもずっと早かった。

そして私たちは唐突に、それまでなかった乳白色の広場に出る。

「ここがゴール?」

「ですね」

中央に浮かぶ大きな目玉の周囲からは、絶え間なく目玉が生み出され、こちらへ飛んでくる。あっという間に私たちは目玉の群れに覆われたようになってしまう。

でも今度は冷静に距離を計る。もう、同じ失敗はしない。

先輩とキスをして周囲の目玉を薙ぎ払う。そしてその隙間から、本体である大きな目玉を見据える。

もう一度先輩とキスをすると、ハンマーを大きく振りかぶる。

「もう、邪魔!!」

その振り下ろす勢いのまま、ハンマーの柄が伸びて、中央の目玉を叩き壊す。

それと同時に周りの小さな目玉は崩れ落ちる。

そして中央の目玉の欠片はどこかに吸い込まれるように流れて行き、迷路はゆっくりと消えていく。

さあっと風が吹き、現実世界に戻ってきたことが意識される。

先輩は大きく深呼吸をしながら息を整えている。

「また最後の目玉の欠片、どこかに飛んで行ったね」

「ですね」

私は地図アプリを開くと、飛んで行った方向を確認する。

この前は植物園の近くで、こっちの方向。今回はこっちの方向だから・・・

そうして引いた二本の直線の交点には、小さなテーマパークがあった。

「多分、ここです。どうします?」

私は先輩に意見を求めた。

禍はより強い禍に引かれると言っていたから、そこには迷路の中心の目玉よりも、さらに強力な禍があるのかもしれない。もしかしたら迷路発生前に対処できるかもしれないし、何か情報が得られるかもしれない。

でも、先輩の体調も心配だ。先輩にとってはフルマラソンを走り切ったような疲労があるだろう。

休んでから行くべきか、禍が集まりきらないうちに行くべきか・・・

「怪我は大丈夫なの?」

先輩は逆に私の心配をしてくれる。

「もう痛みもほとんどありませんから」

「ほんとに・・・?」

「ほんとですよ」

私は思わず苦笑する。私たちは二人とも心を読む力を持っている。だからこそ、そんな力を使うまでもなく、二人の間では常に正直でいたいと思っているし、それは先輩も同じだろう。

「じゃあ、行くだけ行ってみる?」

「はい」

私たちは再びタクシーを呼ぶと、土手の車止めの所まで歩きだす。

 

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