KPD党内の権力闘争がヴィルヘルム・ピークの勝利で決着が付きつつある中で、RFB分隊長兼KPD古参闘志として活動するヘルマン・ブルクハルトは、今日もまた憂鬱な気持ちで職場へ向かうのだった…
1936年の盛夏。涼しげな夜が終わり、東の空が白んでいく。文明の揺り籠である欧州に朝が来たる。共産主義者も資本主義者も、反動も革命家も、太陽は平等に照らしていく。ヘルマン・ブルクハルトもまた、照らされし数億の欧州人の一人だった。
「うぅ…朝か…」
酒焼け声が部屋に響く。めまいがする中、やっとの思いでカーテンを開けると、眩しい朝日が彼を目覚めさせた。清々しい朝だ。しかしそれはすぐに、鋭い反射光で台無しになる。しかめっ面をしながらその方向を見ると、そこにはヘルマンが昨夜飲み干した酒瓶の山があった。
「ったく…」
不満げな顔をしても仕方が無い。酔い潰れて片付けもせずに眠りこけたのは自分自身なのだから。ヘルマンは酒瓶を手に取り、一つずつ部屋の隅に置いていく。こんなきつい酒、よく飲めたものだなと感心しながら一つずつ、一つずつ、丁寧に片付ける。最後の一つを手に取ると、その瓶はヘルマンの手をすり抜けていった。
『パリンッ!』
割れるな、割れるなというヘルマンの願いとは裏腹に、ガラスが砕ける音はすぐに聞こえた。二日酔いで覚束ない手元に苛立ちながら、彼は塵取りをと箒を探すのだった。
—また、一つの過ち。
三十分後、出勤を目前に控えたヘルマンは仕事着に着替える。1918年以来の古参闘志として、赤色戦線戦士同盟(RFB)の分隊長を務める彼は、淡い白色とも飴色ともつかない独特の色をした制服を身に纏う。党員証を胸ポケットに入れ、RFBバッジ、1918年記念勲章を佩用すると、身支度を終えたヘルマンは玄関に向かう。
不意に、何故かそこに置かれていた家族写真に目が入った。妻と幼い子供、そして若い自分が写っている。革命直後に同志として結ばれた妻は、酒浸りになった彼に失望して随分前に家を出て行った。昨晩に酔っていた自分がここに置いたのであろうが、酒が切れて現実を直視しなければならないシラフの今となっては、それはやり場の無い怒りを生むだけであった。
「畜生…馬鹿にしてんのかこの野郎!」
そう怒鳴りながら、ヘルマンは写真立てごとそれを放り投げた。不快なものは何もかも、目に入らない様にしなければ。そうでなければきっと、消えぬ虚しさと怒りで自分が縊り殺されてしまうから。
…革命もこうやって消し去れれば、俺はやり直せるのか?
—また、一つの過ち。
玄関を開けると、そこにはいつものベルリンの街並みが広がっていた。
大通りに面したそれなりに良い家を得たのは、やはり彼がローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトに呼応した最初期のプロレタリアの一人であったからだ。古参闘志として、ヘルマンは現書記長のヴィルヘルム・ピークにおべっかを使う官僚連中程度には良い生活が保障されている。
「社会主義ドイツの繁栄」を象徴するべく無駄に大きく改装された道路の向こう側を見遣れば、フィッシャー派の若手が街頭でアジっていた。
ルート・フィッシャー…「ルクセンブルクの真の後継者」を謳うかの女史が率いる派閥がもっと前から力を持っていれば、自分も再び精力的に政治活動に身を投じんと決意する日があったのだろうか?
―いいや。そんな日は来ない。有り得ない。
もう20年代の初めには、彼の中にあった革命の灯は失望と空虚と冷笑の中で消え去っていたのだから。どの道、ルート・フィッシャーが遅すぎた事に変わりは無い。
「労働者諸君!同志諸君!今こそ再び起ちあがり、赤旗を取り戻す日が来たのだ!18年の革命に参加出来なかった我々の世代が、『赤き若人』として革命の元勲達を継ぐに相応しいと言う事を、今ここで示そうではないか!」
とは言え、その力強い演説に惹かれ無かったと言えば、それは嘘になる。あの日の自分も、そんな方法で同志を募っていたなと憧憬の眼差しを向けていたヘルマンだが、そんな現実逃避は長く続かず、数分もすれば正気に戻った。
あぁ、そうだ。こうやって作られていく期待が諸悪の根源なのだ。
顧みてみれば、ヘルマンが望んだ「革命」と、実際に為された「革命」とでは雲泥の差があった。ルクセンブルクやリープクネヒトが死んだ後のKPD政権は、ヘルマンが最も嫌う官僚主義と形式主義に満ちたものだった。
どんな理想だって、現世に持って来れば失望しか生まない汚物になる。政治なんてこんなもんなんだなと知るには、余りにも高い勉強代だった。
「…っ!まずい!」
演説を聞き入っていたせいで、遅刻の可能性が迫っている事に気付いたヘルマンはすぐにその場を離れ、走り去っていった。もう錆び切った理想がふとフラッシュバックして勤怠に影響するなんて、笑い話もいいとこだ。そうやって自嘲しながら、ヘルマンは自身が務めるRFB支所へと急いだ。
—また、一つの過ち。
「あの支隊長…!上に良い顔する事しか取り柄の無いガキのくせに!」
分隊長ともあろうヘルマンは、若手隊員のアルベルト・フランクと共にビラ配りとポスターの貼り替えの仕事に駆り出されていた。
「まあまあ、ヘルマンさん…どうせRFBもあと数か月なんですから、そんなやりがいのある仕事なんて振られませんよ。」
「だからって、こんなの党の下っ端の仕事だろう…」
アルベルトの言う通りだった。不信任案を撥ね退け、党内権力闘争でイニシアチブを急速に取り戻しつつあるピーク書記長は、セクト主義とフィッシャー派の温床であるRFBの改組・解散を命じたのだ。邪魔な組織を消し去るという形での解体決定なのだから、重要な仕事が今更振られるはずも無い。
「それに、まだ分隊長は良い方じゃないですか。古参闘志かつRFBでの階級保持者なんですから、党内に転職先が用意されているんでしょう?」
「ハハハ…『古参闘志』か。そんな大仰な肩書なんて、何の訳にも立たないさ。ピークからしたら目の上のたん瘤だろうからな。どうせ閑職に決まってる。」
「ちょっと…止めた方がいいですよ。誰が聞いてるか分かりませんし。」
「いいや。俺はあんなホラ吹きには媚びないぞ。どれ、若いの。一つ教えてやろうか。奴は『ルクセンブルクとリープクネヒトの腹心』みたく振舞ってるがな、両雄の存命中にピークの野郎が採り立てられたことなんて一度たりとも無かったんだ。」
「ヘルマンさん…!」
「二人の衛兵だった俺が言うんだ。疑う余地は無いぞ。執務中も、演説の時も、決裁の時だって控えてたんだからな。」
「いい加減にして下さい!ホントに殺されちゃいますよ!」
肩を揺さぶられてから、ようやくハッとする。そうだ、老兵の俺が幾ら自暴自棄になったって知ったこっちゃないが、目の前にいる若人にはまだ未来があるのだ。
「…すまない。」
「い、いえ…私も大きな声を出してしまって、申し訳ないです。」
「じゃあ、次の場所に行くか。まだ仕事は山積みなんだからな…」
一気に気まずい空気が流れる。
—また、一つの過ち。
「ふう…ようやく半分ってとこか?」
夏の厳しい日差しの中で、ヘルマンは汗を拭う。
「こうやって汗と足で稼いでると、昔を思い出すな。」
「となると、帝国時代ですか?」
「まあそんなとこだな。俺は軍需工場で働いてたんだ。大戦前に弟子入りした師匠が熟練工でな、それで見習いとして徴兵猶予を貰ってたんだ。当時は白い目で見られたから後悔したが、今となっては良かったと思ってるよ。あんな『バカイザー』の為に銃を取って塹壕に…なんて考えただけで反吐が出る。」
昔話に花を咲かせていると、突如として二人の耳に叫び声が入った。
「反動野郎だ!誰か警察を呼んでくれ!」
ヘルマンはすぐに走り出した。アルベルトもそれに続く。
「何処だ!」
叫び声の主に問うと、彼は路地の方を指差す。
「あっちだ!奴は黒白赤の勧誘ビラを配ってたから、それが証拠だ!」
「了解!アルベルト、お前はあっち側で待ち伏せしててくれ!俺が追う!」
相手は極右テロリストだ。小火器くらいは持ち合わせているだろう。となれば、ここは若者ではなく自分が行くしかない。もう何年も見せていなかった覚悟を決めた眼差しでアルベルトに命令すると、ヘルマンは路地へと走り抜けていく。
白昼にも関わらず、厭に暗い路地だった。なるほど、地下組織が好む訳だ。ヘルマンの即決が幸いして、彼の目はすぐにその極右の背中を捉えた。暫く追いかけていると、岐路が見えてきた。右か、左かと進みあぐねて、迷いを見せて一瞬だけ立ち止まった極右活動家に飛び掛かり、ヘルマンは遂にその男を拘束した。
「RFBだ!観念しやがれ極右野郎!」
「…クソ!勘弁してくれ!」
「何を今更!お前みたいな時代遅れの反動なんて、大人しく街頭で吊るされてりゃいいんだ!」
「ふざけんな!このアカ野郎!」
その極右はヘルマンを思いっきり蹴飛ばすと、立ち上がった。おもむろに拳銃を取り出すと、腹を蹴られてうずくまっているヘルマンに向けた。
ふと、帽子を深く被った極右とRFBの古参闘志の目が合う。
両者とも、互いの顔立ちに見覚えがあった。
「エーリヒ…?エーリヒなのか!?」
「父さん…?」
目の前で銃を構えている極右は、間違いなく幼い頃に妻が連れて行ったヘルマンの子供だった。エーリヒは何を話そうかという表情だったが、状況を知っているヘルマンの方に迷いは無かった。
「…行け。」
「え?」
「早く行くんだ。向こうには待ち伏せしてる奴が居るから、反対側から出て行け。」
「…」
「早く!」
「…さよなら」
我が子はそう言って、走り去っていった。ヘルマンは若干の後悔と大いなる安堵と共に胸を撫で下ろす。しかしそれは長く続かず、小心者の彼はすぐに不安に襲われた。誰かにこれを見られていたらどうしよう。そうでなくとも、疑われたら?なんて答えればいいのだろう…だからって、たった一人の息子を売る事なんて出来っこなかったし…
俺はどうすれば良かったんだ?
—また、一つの過ち。
日が沈んでから少しして、ヘルマンは帰宅した。玄関を閉めて鍵をかけると、今日一日の疲れと不安がどっと襲ってくる。如何に自暴自棄気味のヘルマンとは言え、最近になって暗躍している「国家保安省」の不気味な市民監視の影に気付かないほど鈍感では無かった。だから今日起こった「不幸な再開」を誰にも勘付かれぬ様、必死に取り繕ってきたのだ。
「はぁ…」
溜め息と共に酒を開ける。明日はどうしようか。取り敢えず、RFBが解散した後でもやっていける様に、アルベルトの再就職の便宜でも図ってやるか?そう思いながらグラスに酒を注ぐ。
信念を失った空虚な古参闘志にとって、酒は唯一無二の燃料だ。ヘルマンは一杯、また一杯と飲み干していく。間髪入れずにもう一杯…と酒を注いでいると、ドアが蹴破られる音が部屋に響いた。
「誰だこの野郎!強盗なんて容赦しねえからな!」
酒瓶を武器にせんと握りしめて玄関に向かうと、そこには黒服の男が三人居た。真ん中の一人はこちらにルガーP08の銃口を向けている。その引き金を持つ右手の襟に縫い付けられたカフタイトルには、確かに「国家保安省」の文字が見えた。
「ヘルマン…ヘルマン・ブルクハルト本人だな?」
向かって右手の男が「人民法廷」の判決文を見せる。
「ヘルマン・ブルクハルト。ピーク書記長への中傷と反革命容疑、そして極右分子への助力と荷担の嫌疑により、お前には死刑判決が下された。我々は代理執行官として、今ここで判決を執行する。」
「…っ!用済みになったら射殺ってか?ピークの野郎らしい!」
幾ら平静を装っても、手足の震えは止まらなかった。それとは対照的に、右手の男は極めて単調かつ作業的にこう言った。まるで処刑には手慣れているとでも言わんばかりに。
「最期に言い遺す事はあるか?」
ヘルマンは運命を受け入れつつも、最期の足掻きをしようと決心した。少なくとも自分には真実を知る権利くらいはあるだろう。その思いだけが今や原動力だった。
「あぁ…そうだな。全部事実だ。ピークの愚痴を言った事も、奴に関する不都合な情報を言いふらした事も、極右の男をわざと逃がした事も。」
「ほう…死に際になって罪を認めた奴はお前が初めてではないが。何だ?我々に慈悲を期待するだけ無駄だぞ。」
「なぁ。服従する事しか能の無い下劣な処刑人さんよ。一つだけ教えてくれ。何でお前らはその『事実』を知ってるんだ?やっぱり、アルベルトが密告したのか?」
ヘルマンは力なく座り込むと、右手の男を見上げてそう問うた。しかし、次に口を開けたのは中央の男であった。
「…その件については私が答えてやろう。とは言え、この一言だけで十分だと思うがな。」
「…っ!お前!」
中央の男から発される声。その声は間違いなく、アルベルトその人のものであった。
「どういう事だ!」
「どういう事だ…?RFBへの潜入捜査だよ。全く、馬鹿な男だ。解散命令が出される数週間前に入って来た新人なんて、不自然だと思わなかったのか?」
「この下衆!お前達はそうやって疑う事しか能が無いから…!」
「悪いが、おしゃべりはここまでだ。死んでもらうぞ。」
アルベルトは冷徹に引き金を引いた。ルガーの芸術的な機構が作動し、トルグが持ち上がると同時にパラベラム弾が発射される。9mmの鉛は正確に古参闘志の額を撃ち抜いた。
—多くの過ちがあった。
しかし哀れな古参闘志は、悲嘆と懐古、虚無の中で、自らの犯した最大の過ちに最期の最期まで気付けなかった。
後年になって「長いナイフの夜」として知られるピークと国家保安省による大粛清が起きたのは、それから三日後の事だった。