天下の大宰相・呉鳳明伝 作:後世の歴史家
秋も深まり、人々が本格的な冬支度をはじめる時季でした。
温暖な気候に恵まれた魏国は冬でもさほど寒くなく、街道が埋もれるほどの豪雪は滅多にあるものではありませんが、ひとたび商人の往来が途絶えれば物資の欠乏が暮らしを直撃します。
その時になって苦労するのは御免なのでしょう。
各地の農村や城邑は自給できない作物や、塩や砂糖といった調味料の他にも、薪や油などの燃料や、衣類の元となる布などの確保に追われ、忙しなく動きまわっています。
その辺りの事情はこの開封も変わらず。
こちらは黄河の中継点であるため商人の往来が途絶えることはありませんが、新年の三が日ともなれば休業する店舗がほとんどです。
よってこの時季になると、餅や乾麺といった長期保存の利く食糧が飛ぶように売れることになりますが……今年の開封市民は他のことに気を取られているのか、街中で話し込む姿はどこか不安げです。
……それも当然。
鄭和の使節団を
中華の内外から多くの移民や商人の集まるこの街には、エウメネスに代表される
そのため、使節団の連れ帰った人々の風体に今さら驚くことはありませんでしたが、一つの街区を埋め尽くすほどの数が一度に訪れるとなると、さすがに無心ではいられませんでした。
──こんなに大規模な移民は初めてだぞ。鳳明様はこの事をご存知なのか?
そうした声が囁かれるのも無理なからぬことでしたが、それも鄭和らの帰国当日に限ってのこと。
翌日には新設された鳳明新聞社を通して、朝廷の発行した広報が市民の不安を払拭しました。
内容は、ゆうに数万の人々が呉鳳明に拝跪する『ふぐぅ』の写真と、彼らが遥か西方から交流を求めてきた善良な人々であることを紹介する記事でした。
「なるほどなぁ。ようするに鳳明様のご活躍を聞き及んで居ても立ってもいられず、慌てて駆けつけてきた連中ってワケだ」
「ああ。こっちに地図も載ってるが、こんな遠くから馳せ参じるとは見上げた奴らだぜ。ろくでもない事しかしでかさない楚や燕の連中にも見習ってほしいね」
「まあ、そういうコトなら話は簡単だ。俺たちだって元をただせば似たようなものだったんだ。ここは鳳明様や義両親を見習って優しくしてやろうや」
この記事により開封市民は鄭和の使節団に同行した人々を当たり前のように受け入れ、街中で少しでも困っていそうな姿を見かければこぞって親切にしたものですが、そんな微笑ましい対応を選べたのは彼らぐらいのものです。
鄭和らの帰国とそれを報せる新聞の発行は、魏国以外の中華全土を震撼させたといっても過言ではありません。
中華を単一の国家と考えるのならば、この春秋戦国時代は内乱の真っ最中も同然だというのに、数ある諸侯の一つでしかない魏が国外の勢力と手を結ぼうとは──。
趙の藺相如はこれを愉快と称しましたが、そのように捉えたのは彼の他に斉の王建王と、秦の昭王や蔡沢ぐらいのもので、他の者はこれに多かれ少なかれ衝撃を受けました。
「この中華の外にある国々が、魏と国交を持つために来訪しただと……こんな事が許されるというのか?」
秦の竭氏、楚の春申君といった魏国に含むところのある人物は、秦魏同一に向けた歴史的な会合を前にさらなる友好国を増やそうとする、呉鳳明の底知れぬ外交手腕に戦慄させられました。
無論、鳳明自身にそんな気はまるでなく、これはよくある過大評価の一例となりますが、彼らはこの件によってさらなる外交方針の変更を強いられたのです。
……そして、対応に苦慮することになったのはこちらも同じ。
秦魏同一の交渉がいよいよ大詰めとなったこの大事な時期に、西方の大国である
「フッ、上等だ。我ら魏国の文官を嘗めるなよ」
「オオッ! 今年こそせめて元旦くらいは家族とともに過ごすぞ」
「うむ。せめて元旦くらいはそうありたいものだな」
「ん? ああ、それなら安心してくれ」
そんな部下たちの悲壮な強がりに気づいたのでしょう。
カフェインで無敵になった信陵君がニコニコと上機嫌に告げたものです。
「鳳明の計らいでな。そちらの交渉は昭王との会合が終わるまで待ってもらえることになったから、年末年始はゆっくりしてくれ。……そうだな、蕭何?」
「はい、信陵君。そちらの交渉は鳳明様にお任せしましたが、あちらさんも国交交渉の前に開封の街をよく知りたいそうですから、皆さんがこちらに布団を敷くことにはならないと思いますよ」
「……そうか」
そのとき、李斯に代表される能吏たちが覚えたのは紛れもない安堵でした。
しかしながら次の仕事が保留になったことを残念に思う気持ちもあったために、その声はどこか気落ちしてるように響きました。
「……まあ、そういった事情ならば、珈琲の件もある。鳳明が公務なんぞ知らぬとばかりに街へ降りても叱言は勘弁してやろう」
「まぁ遊んでいるように見えて、仕事はきっちりこなしますからね。鳳明様も」
「ああ。今日も玲凛と龍譚……それと桓騎を連れて使節団の屯所だったな。鳳明は鳳明にしかできない仕事を、我々は我々にしかできない仕事をする。その先に中華のみならず、世界全土の輝かしい未来が保障される。実に善いことではないか」
信陵君の言い草に、物は言いようだなと蕭何は
「ところで信陵君。使節団の持ち帰った
「うむ。奴を頼るのは業腹だが、そうしてくれ。……鳳明の話によると、そちらの作物は魏国の気候ではよく育たぬらしいのでな」
「ああ、どれも赤道近くの産物でしたっけ? そういうコトなら仕方ないけど、ちょっと惜しいなぁ……鳳明様の言う
蕭何の何気ない呟きに場が騒然となる前に、信陵君が笑って否定する。
「ははは、心配いらん。どちらも宮廷内で消化する分は十分に残してある。少なくとも我々が珈琲に困ることにはならんさ」
信陵君の言葉に今度こそ安堵100%の顔になる李斯たちでしたが、彼らは知りません。
魏国の文官御用達の珈琲は昭王との会合の席で各国の目にとまり、国益そっち除けの熾烈な争奪戦が繰り広げられることになるなど──。
……それはさておき。
今や中華全土のみならず、はるか西方の人類社会からも熱い視線を注がれることになった鳳明ですが、彼は信陵君の言うようにまたぞろ開封市内を散策中でした。
この国の宰相にして、次期大王たる太子が簡素な平伏に身を包んで街に降りるなど、隣国の斉以外ではあまり考えられませんが……そこは旧王都・安邑の頃から鳳明の奇行を知る開封市民。対応はお手のもので、今日は家族連れの平服ということもあって知らん顔に徹しています。
もちろん、護衛の方も抜かりありません。
数人の市民が頭を巡らせれば、そう遠くない物陰の向こうに頼もしい姿はすぐに見つかりました。
信陵君の食客であり、開封市民からは「木こりの煖さん」と呼ばれる気難しいながらも一本の筋が通った好漢です。
人々は彼の仕事も邪魔すまいと、こちらに関しても知らんぷりに徹してくれましたが、何事にも例外はあります。
この日は煖さんを苛立たせるのも承知で、とある人物が愉快そうに話しかけてきました。
「ンフフ。今日も見事な忠犬ぶりですねェ、龐煖サン。誰に言われたわけでもないのにご苦労なことです」
「……何の用だ王騎。貴様と話すことなどないぞ?」
「王騎? 誰ですか、それはァ?」
そこで黒い外套を脱ぎ捨てたアロハシャツの怪人が堂々と名乗りを挙げます。
「我が名は王翦! 王騎が前に羽ばたくと書いて王翦と読みます。そうですね騰ォオオ!?」
「ハッ、間違いありません殿。蒙驁将軍の配下にいる同姓同名の人物は、きっと偽者ですな」
「そしてわたしは楊端和よ! 来年には鳳明くんの第三夫人になる予定だけど、気軽に端和ちゃんって呼んでね」
「……いいから貴様は鳳明の離殿に戻れ。長平で病没したことになっておるのに、あんな姿を撮らせおって。いい加減気軽に街中をうろついてくれるな」
これに主君と同じ服装の謎のフランス人(?)が嬉々として応じて、この古代中華にあるまじきミニスカートから覗く太ももが眩しい美姫が決めポーズで微笑み、最後に疲れきった中年男がゲンナリと諌める、そんないつもの漫才が煖さんの目の前で繰り広げられました。
これに対して煖さんは一言もなく、黙殺する構えに見えましたが……。
「おやァ? 随分と気難しい方に思えましたが、
その言葉に煖さんは口元を引き締め、アロハシャツの怪人をジロリと睨みましたが、不思議なことに彼のまとう空気は拒絶ではなく、容認のように感じられました。
「……戯言に興味はない。我に用があるならさっさと済ませるがいい」
「ンフフ。用というほどではありませんが、我が最愛の昭王に鳳明サンをお護りするように命じられた身としては、
「我に二心があって鳳明の傍にあると抜かすか?」
「いえいえ、とんでもない。龐煖サンと実際にお話しするのは初めてになりますが、知人から聞かされた貴男の働きぶりを疑問に思ったことは一度もありませんよォ」
その言葉に今度こそ煖さんは笑顔をみせました。
なんとも不思議な光景です。少なくとも彼をよく知る信陵君や、彼をいまだに警戒する霊鳳が見ればさぞかし驚いたことでしょう。
楊端和と名乗った娘もその顔にはドキリとさせられました。
寡黙で意図の掴めぬ人物と密かに警戒していただけに含みのない微笑を見て、彼は王騎のことが好きなのではと邪推してしまったのでしょうか。
彼女はこのとき初めて煖さんに得体の知れないものを覚えたようです。
「ただ誰に命じられたわけでもなく、自発的に鳳明サンをお護りするのは何故なのかお話いただけるのでしたら、ぜひ聞きたいと思いましてね。こうしてお声掛けした次第なんですよねェエエ」
なるほど。鳳明の護衛を命じられた者からしたら、出自はおろか現在の立ち位置さえ不明な煖さんの存在は看過できないでしょう。
いかに信陵君から一定の信用を得ていたとしても、少なくとも鳳明の護衛を一任するという発想にはなりません。
「ま、そんなワケでお尋ねしますが、龐煖サン……貴男が鳳明サンをお護りするのは何故ですかね?」
……もっとも、彼にその手の詮索に応える義務もまたありません。
仮に、煖さんの真意を糾すとしても、それは彼の身柄を預かる信陵君の役目。
それが道理であると最初から弁えていたので、王騎らに無理やり聞き出す意思はなく、煖さんもその問いに答えないかと思われました。
そう思われても仕方ないほどの短くない沈黙──しかし彼のまとう空気はやはり拒絶ではなく、煖さんはやがて根負けしたように渋々と口開きました。
「……聞いたところで理解できるとは思えんが、それでもか?」
「はい。不明なところはあちらの昌文君に解説を頼みますよォ」
「儂かっ!?」
昌文君の合いの手をどこか愉快そうに眺めた煖さんが視線を外し、なぜか晴天の空に流れる雲を睨んで厳かに語り出しました。
「この
他者の物を自己の物にしては何故いけないのかも理解できず、時に道端に落ちている金子を、時に遠出した際に見かけた美しい娘を、時に気にくわない誰かの生命を、誰もが平然と手をつけて省みることがない。
法令はおろか道徳すら知らず、さんざん他者を痛ぶってきた身でありながら、いざ己がその立場になると、途端に被害者ぶって恨言を吐く……そんな厚かましい獣の巣窟がこの中華だ。この理は未来永劫変わることはない」
「未来永劫はちょっと言い過ぎじゃありませんかァ? 少なくともその現状を是認せず、改めようと力を尽くしている方々が存在することは貴男もご存知でしょうに……」
「そうだ。だが、それでも変わらぬのがこの地の救い難いところだ。変えるには、獣の変革が前提となる。猿からヒトへの進化以上の奇跡が、な」
そこで煖さんの口から語られたのは、この時代に生きる人々への強烈な侮蔑と、ある種の絶望でした。
しかし、彼のまとう空気はいまだに清涼であり、憎悪や嫌悪といった負の情念が滲み出すことはありませんでした。
「我はかつて真の武神となることでそれを成し遂げようとしたが、すぐに不可能であると悟った。気功術などの不可思議な力があるこの世界ならばもしやとも思ったが、やはり李牧の言うようなことにはならかった。……だから鳳明は貴重なのだ」
「貴男には不可能なことを、鳳明サンは現在進行形で推進してらっしゃる。それがあの子のことを気にかける理由ですか?」
「そうだ。奴のような存在は、この我としても完全に予想外であった。この地に我と同じ天の常識を持ち込み、根付かせ、獣の世を終わらせる……奴を死なせるのはあまりに惜しい。それが理由だ。
王騎、騰、摎、そして昌文君よ。お前たちも奴とともに生きるがいい。それがお前たちにとっての最善となろう。
所詮はこの世界もある種の異聞やもしれんが、それが誰にっても幸福な物語となるならば、あえて原典にこだわる必要などあるまいよ……」
その言葉を最後に、煖さんは視界の彼方にある鳳明を追いかけて立ち去りました。
あまりにも常軌を逸した理解不能な言説に、彼を狂人と決めつけられたらどんなに楽かと思ったのでしょうか。昌文君が額に汗を滲ませて吐き捨てます。
「何者なのだ、奴は……まるで見てきたような口ぶりで、我らを獣などと」
「ンフ。愉快ではありませんが、彼の辛辣な評価が厭世から出たものならば、私もこの時代を創り上げた人間の一人として責任を感じますね」
「……しかし殿のことは奴も認めているのでは? そうでなければ獣の一匹として果てろではなく、呉鳳明とともに生きろと言うはずがありません」
「そうね。でもわたしはもっと別のことが気になるわ。今日が初対面だというのに、彼はどうして私たちの名前を知っていたの……?」
「それは儂らが奴の存在を聞かされたように、奴も信陵君から儂らのことを聞かされていたのではないのか?」
「いつもと同じ格好の昌文君はともかく、わたしたちは風聞と大きく異なる服装をしているのに、あんな一目で判るものかしら」
「むっ……」
「それに彼からは、鳳明くんと同じ視点を感じるわ。……彼自身も、鳳明くんと同じところからやって来たように言ってたけど、まさか本当に武神っていう神様?」
「さすがにそれはあるまい。おそらく、思わせぶりな言動で気取っているだけだろうよ」
「ううん。他にも気になることがあるのよ。彼は、わたしたちにとても好意的だった。彼の王騎様を見る目は、まるでもう会うない家族にでも向けるような……」
ここで、さすがの昌文君もギブアップ。
女性の直感が侮れぬものであることを知る彼をもってしても、摎の推察はあまりにも飛躍しすぎているように思えたです。
「……ふぅむ。興味深い推察でしたが、まあいいでしょう。どちらにしろ私たちの目的は龐煖サンの正体を明らかにすることではなく、鳳明サンの護衛です。彼が私たちの敵ではないと判明しただけで今は十分ですよォ」
「ハッ。ここは毒にも薬にもならない傍観者として放置するのが適切でしょう」
「そうだな。ところで摎。お前とはこちらに戻ってきてあまり話せておらんから、暇なら今日は儂らに付き合え。色々と話したいことがある」
「あ、うん。ごめんね爺や。色々と迷惑かけて……」
いずれにしろ、煖さんの真意がどうあれ、この街の治安は万全。
国際都市の名に恥じることなく、多くの人々が暮らしながらも民族や宗教の違いによる抗争がまるで存在せず、比較的気性の荒い男たちが力仕事に従事する港湾地区においても、せいぜい些細な喧嘩程度しか発生しないが……それとて「鳳明様にご迷惑をお掛けする気か」と野次られたら、両者とも赤面して引き下がるしかない。開封はそんな街だ。
ましてや鳳明の向かう使節団の屯所は、軍が警備する第二郭にあるのだ。間違いなど起きるはずもなく、摎も近くの茶屋で王騎らに近況報告をする頃になると、煖さんに覚えた奇妙な違和感を忘れてしまいました。
そして、ほぼ同時刻。開封の宮廷では──。
「ヨシ、カメラオッケー。脚立オッケー。次の出番はいつかなぁ?」
宰相府の、あまり使われない鳳明の私室にて、蕭何が貴重な機材の点検をしていました。
「そうそう。出番と言えば、そろそろ鳳明様が設計図を描いた水力発電機を実用化するのもいいかもれませんね。電力さえ供給できれば死蔵された設計図の大半も生き返りますしね。うん、昭王との会合が終わったら手隙の技師たちに声を掛けてみましょう」
信陵君も含めて宰相府の大半は、蕭何の奇妙な言動を鳳明との付き合いの長さから来るものだと思っていますが、本当にそうでしょうか……?
「しかしさすがは鳳明様。今もネットとWi-Fiで繋がってるんじゃなければ、前世はよほどの機械好きで、理系確定ですね。ホント、元素比率表とか、合金比率とか、よく覚えてるもんだと感心しちゃうよ。
他にも建築とか、農業とか、医学やワクチンの知識とか、なんだろう。やっぱり前世は理系確定で、他学部の友人に恵まれたのかな?
他に行き場のない理系のオタクたちが、饒舌に専門知識を語り合ってるうちに……地獄かな。少なくとも合コンでは肩身が狭かったでしょうね」
「──おぉーい、蕭何! 機材を片付けるのにいつまで掛かっている!? 終わったらこっちに戻って草案を仕上げるのに参加してくれ!!」
「あ、はいはぁーい! すぐに戻ります!!」
そこでペロリと舌を出して、鳳明の設計図を鍵の掛かる机の引き出しに戻した蕭何は、最後に……。
「まあ、こちらに転生したと知ったときは割と絶望したけど、鳳明様のおかげでかなり快適になりましたしね。今後も恩返しといきますか」
そう言って、いつもの屈託のない笑みを浮かべてから文官たちの戦場に舞い戻るのでした。