森の中を、一体の鬼が駆け抜けていく。両耳を手でふさぎ、恐怖に打ち震える表情で、急斜面を意に介さず走っていた。
その視界に、ひとりの鬼殺隊員の姿が飛び込んだ。隊服は着ているが、刀を抜く様子もなく、まるで呆けているかのように立ち尽くしている。
鬼は一瞬も迷わず、血鬼術を発動させた。
――血鬼術 溶解の繭
(よし、一匹!)
ニタリと嗤った鬼だったが、その目論見は見事に外れた。
先ほどまで動きもせずにいたはずの隊士が、まるでそれを予期していたかのように、あっさりと術を躱したのだ。
(嘘⁉ こんな、柱でもなさそうな雑魚が⁉)
だが次の瞬間、鬼は目の前の隊士に対する評価を改めることになる。
「……どうなってるのかは、よくわからないけど!
『今』より、柱との稽古の方がよっぽどキツかった! 無惨との戦いの方が、ずっと辛かった!」
叫びながら、鬼が繰り出す糸を次々と斬り落としていく隊士。その動きには迷いも、戸惑いもない。
(こいつ……もしかして、継子?)
鬼はそう思った。しかしそれは誤解だった。
この隊士は継子ではない。柱から直接、稽古を受けたこともない――『今世』では。だが、それを説明してやる義理も、情も、余裕も彼にはなかった。
その後の戦いは、もはや流れ作業だった。
すべての神経を戦闘に集中させた隊士は、鬼に反撃の隙さえ与えなかった。
――水の呼吸 壱ノ型 水面斬り
水しぶきのような一閃がほんの一瞬見えた後、鬼の頸と胴は、静かに離れていた。
(……『今回は』、切れた……)
安堵とともに、隊士は地面にへなへなと座り込み、崩れゆく鬼の姿をじっと見つめた。
(体がボロボロだ……また鍛え直さなきゃな)
そう静かに決意する隊士の名は――村田。
彼こそが、鬼殺隊最強のモブ隊士である。
☀ ☀ ☀
冨岡義勇に『記憶』が流れ込んできたのは、不意打ちのようなものだった。那田蜘蛛山を走っていた最中、気づけばそれは、まるで水が染み込むように入り込んできた。
任務中の義勇は、最初こそ無視を決め込もうとした。だが、『記憶』は頭から離れず、粘りつくように意識にこびりついていた。
(今、炭治郎は下弦と戦っているはず。死にかけていなければいいが……)
記憶と鬼の気配を頼りに、義勇は累と炭治郎の戦場へ向かった。
☀ ☀ ☀
現場に到着したとき、既に戦いは決していた。
炭治郎は血を流し、地面に倒れている。累は、いくつかの欠片を残して、寂しげに消え去っていた。
「炭治郎!」
義勇は駆け寄ると、炭治郎の胸に手を当てる。胸は微かに上下し、体も温かかった。まだ、生きている。禰豆子もまた、炭治郎の傍で眠っていた。
(下弦とはいえ、十二鬼月を……炭治郎が倒したのか? かつては自分が倒した相手。
だが『今回』は、炭治郎が自力で倒した可能性が高い。
もしや、炭治郎も『前』の記憶を持っているのか?)
義勇の胸に疑念がよぎるが、そのことを深く考える暇はなかった。
(いや、今はそれよりも……この時期、鬼殺隊は禰豆子の存在をまだ認めていない。
ならば、事情を知る俺が、この二人を近くの藤の家まで連れて行かねば)
素早く判断し、炭治郎と禰豆子を抱え上げようとした、その瞬間。
キイィィン!
刀同士がぶつかり合う、高く澄んだ音が辺りに響いた。
義勇は即座に反応し、二人を庇うように立ちふさがる。
「冨岡さん、その鬼……どうしてすぐに頸を切らなかったんです?」
冷ややかな声と共に現れたのは、胡蝶しのぶだった。刀を真っ直ぐに禰豆子へ向け、笑顔のまま、怒りを滲ませていた。
「鬼とは仲良くできないって、あなた自身が言っていたじゃないですか。
そんなだから、みんなに嫌われるんですよ」