響け!八幡~北宇治での青春ラブコメはまちがっているのか?~ 作:碧河 蒼空
俺と川島が伏見稲荷駅に着いた頃には、見上げればすっかり夜空が広がっていた。
川島の周りには、既に重たい空気は漂っていない。世間話に興じる彼女は生気に満ちた瞳を取り戻し、いつもの屈託の無い明るい笑顔を見せていた。
「さっきはありがとうございました」
俺と川島が別れる十字路で、ピタリと足を止めた川島が頭を下げる。
「何でお前が礼を言うんだよ」
「久美子ちゃんの為に比企谷君がしてくれた事が嬉しいんです。何よりも、助けてくれたのが比企谷君だったのが、緑はとても嬉しかったんです」
聞いていて恥ずかしくなりそうな台詞を、川島は照れる様子も無く言った。
「まだ黄前が府大会であそこを吹けるとは限らないからな」
俺がしたのは猶予を伸ばしただけ。結局の所、黄前があそこを吹けるかどうかは黄前次第なのだ。
「分かっています。でも、比企谷君なら何とかしちゃうんだろうなって思います」
「••••••どうしてお前はそうも俺を持ち上げるんだよ」
「だって、比企谷君は私にとってヒーローですから。最初に出会った時は琥珀を救ってくれました。今日だって久美子ちゃんを救ったのは、誰がなんと言おうと比企谷君です」
川島との出会いは本当に偶然だった。
たまたま琥珀ちゃんの危機に出くわしただけで、もしも俺があの事故現場に居合わせなければ、川島が俺の事を認知することすら無かっただろう。
それが何の因果かヒーローとはな。
「何かお力になれる事がありましたら仰ってください」
「だったら、三日月の舞の154小節目からのとこ、楽譜貸してもらえるか?」
俺の頼みを聞いた川島は頭に疑問符を浮かべる。
「それは良いですが、どうされるのですか?」
「••••••実際に音を出した方が教えるのもやりやすいんだよ」
滝先生に大見得を切ったんだ。今までと同じ様にとはいかないよな。
俺の言葉の意味を理解した川島は、蕾が花を咲かせるように表情を変えていった。
「それはつまり、そういう事だと考えて良いんですよね!」
「いや、どう言うことだよ••••••。まあ、朝早い内に音出しを済ませておくから、川島が学校に来る頃には返せる。迷惑は掛けないつもりだ」
「迷惑なんてとんでもない!そうです、他の楽器とも音を合わせた方が良いですよね?明日の朝は緑もお供させてください!」
「別にわざわざお前が付き合う必要はないぞ。これは俺が蒔いた種なんだ」
「比企谷君と一緒に演奏できる機会なんてそう無いんです。むしろ、ご一緒させてください!」
俺は押しきられる形で川島の提案を受け入れる事となった。
川島から三日月の舞の楽譜を一枚受け取り、鞄にしまう。
「それではまた明日」
川島は会釈をして、自らの帰路についた。
街灯の光の中に小さくなっていく背中を見送った後、俺も川島とは別の道を進む。
誰かと音を合わせるのは部活を引退して以来か。
俺への誹謗や嘲笑う言葉で埋め尽くされた黒板がフラッシュバックする。
••••••大丈夫だ。俺はもう誰にも裏切られたりはしない。何故なら、俺はぼっちを選んだのだから。
翌日。普段よりもだいぶ早く、俺に新しい朝を告げるスマホのアラームによって起こされた。
希望の朝だ、喜びに胸を開けとラジオ体操の歌では歌われているが、大体において朝というのは眠気を噛み殺し、本日の労働を前に憂鬱な想いを胸に抱く時間なのだ。大空を仰ぐのは神へ救いを乞うからだろうか。
上司の声に息の詰まる胸を、エナドリで流せよ。
そーれ1っ・2っ・3っ。
さて、今日も一日の奉仕活動に向け、朝食を摂るとしよう。
食パンにハムとチーズを乗せてトーストした簡単な朝食を済ませ、部屋からユーフォを玄関へと運ぶ。
少し騒がしかったのか、出掛ける準備をしていると、まだ早朝にも関わらず小町が起きてきた。
「••••••お兄ちゃん?どしたの、こんな朝早くから」
小町は幼い子供のように、目を擦った後、大きく欠伸をする。
「悪い、うるさかったか?」
「大丈夫••••••ユーフォ持ってくの?」
ユーフォに目を留めキョトンとした小町が聞いてきた。
「ああ」
「どうして?吹部に入る訳じゃないよね?」
「入らねぇよ。吹部に顔出すのもあと九日だ」
「ふーん。最近、いつも三日月の舞を吹いてたのと関係あるの?」
「••••••まあな。こいつに関しては想定外だったけどな」
「そっか」
普段ならばこの時間に鳴る事の無いLINEの通知音がピンポン!とスマホから流れる。
川島『いま比企谷君の家の前にいるのですが、ご準備はいかがでしょうか?』
••••••は?あいつはメリーさんか何かか?
俺は玄関の扉を開けると、LINEに書いてあった通り、制服姿の川島が満面の笑みで立っていた。
「おはようございます。折角なので一緒に行こうと思い来ちゃいました」
「••••••おう」
後ろからこちらの様子をうかがっていた小町が川島の姿を視界に収めるや否や、俺を押し退けて前へ出た。
「緑さん、おはようございます。わざわざ兄の為にすいません」
「小町ちゃん、おはようございます。いえ、むしろ私達が比企谷君に助けられてるんですよ」
「••••••ほー」
川島の言葉を聞いて、小町が意外そうに俺を見てくる。
「でも緑さん気を付けてくださいね。お兄ちゃんが人助けの為にこんな朝早くから、ユーフォを持って学校に行くなんて、天気予報が外れて大雨が降るかもしれませんよ」
この妹は兄の事を何だと思ってるんだ。
失礼なことを言う小町に文句の一つでも言ってやろうと思ったのだが、それよりも先に川島が口を開いた。
「いえ。きっと予報通り晴れますよ」
「••••••ほー、ほー」
迷い無く川島が即答すると、小町が再び俺の事を見て意味深に呟く。
小町はホーホーにでもなったのか?そのうちヨルノズクに進化しちゃう訳?
「••••••そうですね。では緑さん、お兄ちゃんをよろしくお願いします!」
お前は俺の保護者か何かか。
小町に見送られる形となった俺と川島は、静まり返った早朝の通学路を二人並んで歩きだした。