とある弓使いの英雄ウィリアム・テルに関する伝承と、獅子心王ことリチャード一世の身代金騒動の伝承について、ある城に潜入した獅子心王の友の視点からの『ご存知の物語とは違う?』お話。
*
奥深い山中の、さらに崖や川で囲まれた城がある。この日は中庭の訓練場では厳しい教練の代わりに、朝から楽しい余興の催しが行われていた。天然の砦に囲まれるゆえの閉塞感を晴らすささやかな会だ。芸人たちも山を降りたところにある街から集められた地元民が主であり、訛りの混じった低い笑い声が飛び交っていた。はるばる山奥まで来ないとならないので、見る側もする側も男の割合が多いのが特徴的だ。その男たちの腹と舌を満足させるだけの料理も大皿たっぷりに盛られて用意されている。
中央に設けられたステージでは滑稽な寸劇ややけに雄大で壮大な武勇伝の語り芸、ステージの外でもささやかな掛け金や景品をやりとりする模擬格闘戦、カラフルに染めた玉を投げる大道芸などなど。こんな日でも規律は守らせるため警備の兵は仕事をしていたが、酔っぱらいの仲裁やでかすぎる賭け金の統制くらいで、模擬戦を想定した柵に腰掛け歌や踊りの方を働きながら眺めたりとリラックスした雰囲気が漂う。こういう日でも出回っている酒の量が少ないのは、本来の仕事に差し障りを出さないための駆け引きの結果なのだろう。上官への嫌味や税金への不満などの内輪ネタも取り込まれている。
気心知れた者同士がほとんどであるこの集いに、見慣れぬ金髪の吟遊詩人もいた。足元に転がってきた玉を落とし主に投げ返すも「あれは誰なんだ?」「知らないな」と囁かれている。この催しでは大道芸人でも無害なカラフルな玉程度しか外から持ちこみを許されず、ナイフや火吹きのような芸は許可されていない。その吟遊詩人もまた、リュートなど持たない丸腰だった。
踊り子が壁際のスペースで披露しているのに倣い、彼も空いた空間を選んで立った。顔見知りはおらず誰も足を止めない。
たとえここにいる誰ひとり興味がなくても、この吟遊詩人が求める『観客』は別にいるから構わない。
(ここでなら)
おのれの喉と腹を楽器代わりにして、塀で囲まれた空へ向かって歌う。壁に反射してよく響き、訓練場全体の空気を変えた。
――豊かな森、鹿の駆け足、すべて自由の証。
――可憐なる赤き花は気高く。
――焦がれども焦がれども、なお求め、見つけるまで捜そう。
兵士たちがどよめいて、ステージの上の即興劇も戸惑って、そして。
*
「はいお兄さん、ストップストップ」
止められた。他の兵と少し出で立ちの異なる金髪の男で、年は一回りほど上に見える。くすんだ色合いの、適当に長さだけ短く切った金髪。
「歌とか劇はね、順番守ってステージでやるって説明したでしょうよ」
「すみません、しっかりと聴き取れてなくて」
最初にあれこれ言われたが、訛りが強くて内容の聞き落としもかなりあった。言われてみればステージに乗らずやるのは大道芸とか簡単な手品とかで、朗々と声を出すような演し物はみな並んでいる。
「まーいい歌だったけど、仕事でさ。名前は?」
「ブロンデルと呼んでください」
偽名だ。本当の名前を使うと、獅子心王の身内だと勘付かれる。かといってかけ離れすぎてもいざ呼ばれたときに自分のことだと気付けない。だから安直でも〝金髪〟、ブロンド、ブロンデル――もじった名がロビン・シャーウッドなりの落とし所だ。
また名前が増えてるけど仕方ない。これも果たすべき使命のため。
同じ歌をあちこち渡って違う場所で吟じているが、評判はそこそこ。いくらか才能があったかもしれない。楽器は持っていないのはこの城では持ちこみを制限されていたのもあるが、そもそもハープやリュートの才はさっぱりで人に笑われたせいだ。オカリナも試したが肝心の声が出せなくなって本末転倒だった。
注意してきた金髪の兵士から解放してもらい、改めて催しの場となっている訓練場を見渡すも尋ね人はこの中にいない、いたら絶対に見通すわけのない大きな体躯と目立つたてがみ、獣の頭が特徴だからだ。その人物は今、高価な人質として行方知れずである。
改めて目を凝らして観察。今度は本人を探すのではなく、ここがその人物を閉じ込めるのに適した場所なのかを精査するのだ。
衛兵の数は多い。しかしそれだけでは高価な人質がここにいるゆえなのかは判別しかねる。余興役として現れた『旅の吟遊詩人ブロンデル』すら通さない厳重な警備だったらむしろ確信を持てるというのに。
どこかもっと、喧騒に呑まれないような場所がほしい。しかし催しに開放されているのは訓練場に限定されており、さてどうしたものか。考えごとのため壁際に寄る。賭け事として下級兵同士で殴り合っていたり、こんな山奥まで登ってくる根性あるわずかな女芸人に男たちが鼻の下を伸ばしていたり、若い熱気と砂埃が立ち上っていた。
ふと、さっき注意した金髪の兵士が目に入った。
(彼は……弓使いですか)
特に興味を引いたのは彼がいじっていたクロスボウ。ロビンが扱うものより太くていかつい印象を与えるが、よくよく見れば鳥の羽のような繊細な細工も施されている。シンプルな弓と違って腕の力だけで弦を張ることもできなさそうだが、そのぶんどんな手応えがすることだろう。気持ちよく風を切る一矢が放つことができるだろうか。
兵士たちに共通した腕章を巻いているからこの彼も職務にあたっている最中のはずだが、つまらなさそうな表情をしつつも真剣に手入れをしている。細かい布切れで矢溝を拭き取ったり、弦の張り具合を指先の感覚で確かめたりだ。
目が合う。まばたきをして、またクロスボウの整備に意識を戻していた。何となく受け入れられた感じがして、すぐ横まで近づかせてもらう。
ふたりの間だけ沈黙が漂う。名前も知らない他人との無言の時間といえば、普通は居心地が悪いことだろう。しかし不思議と穏やかな気分になれた。そのうちにぽつり、と金髪の兵が口を開く。
「これの良さが分かるか」
ロビンは胸の奥の興奮を飲み込んで抑えて抑えて、でも何かは言いたい衝動と折り合いをつけてようやく一言だけ返す。
「いい弓ですね。どれくらい飛ぶのです?」
できるだけ素人が興味をもった風に装う。寡黙な男の口元が緩んで、ほのかな喜びの感情が滲んだ。
「息子代わりみたいなものさ。そして、狙って当てるなら百五十歩だ」
「なるほど」
彼の言い方に引っかかるものがあった。ロビンの意識には、射手の鍛錬と集中力次第でどこまでも遠くへどこまでも正確に飛ばせる可能性があるものだという若い、無邪気な考えがあって、今それを自覚させられたのだ。だが彼の言葉には無理を承知で踏み越える若さの代わりに、線を引く大人の渋みがあった。
そして百五十歩、頭の中で自分が歩くシミュレート。彼は年上のようだが――ロビンには父親くらいしか身近なイメージがない――体格はそこまで変わらない。城で務める弓兵と森の狩人では狙うターゲットの性質は変わってくるが、狙って当てるにはなかなかの距離だ。
言葉のやりとりはそれ以上続かず、彼もまた黙々とクロスボウ磨きを再開した。
しばらくその時間が続き、そして彼がふと沈黙を破る。
「警備は副業のつもり。……あんたは?」
あくまで吟遊詩人ブロンデルとして潜入しているロビンに対して探るような物言い――緊張が走ったところで、ひとりの男がこちらに近づいてきた。調べておいた情報によればあの人物は城主だ。ずいぶん前に絡まれたノッティンガム州長と印象が似ていて、できるなら関わりたくないという寒気が走った。
できるだけ自然に、ロビンはそっと一歩下がった。
「テル、せっかくの慰労会が盛り下がっている。誰を使ってもいいから場を盛り上げてこい。お前からの頼みなら、どいつでも聞くだろう」
手元でグラスを揺らしているが酒臭くはない。中身は水だろう。周りに目を配る目敏さのある人物だ。
あのクロスボウを整備していた男、テルはあるじからの命令にもかかわらずやれやれと気だるげな口調で返す。
「そりゃあ汗と税金を搾った雑巾汁で振る舞われてますからねぇ。辛気臭くて当然でしょう」
「減らず口を叩くな、やれ」
「はいはい、こんな手品じゃダメで?」
城主の胸元で光っていたはずのエーデルワイスの胸章がテルの手から出てきた。こんな態度は日常茶飯事なのだろう、青筋を立てて奪い返したらそのまま離れていってしまった。ただ命令は命令らしく、テルがこちらに向き直って頼んでくる。
「吟遊詩人なんだろ? さっきはちゃんと聴いてなかったんで、また歌ってくれよ」
「いいでしょう」
――勇敢なる王、剣のきらめき、すべて正義のしるし。
――帰りを待つ乙女は愛おしく。
――焦がれども焦がれども、なお求め、見つけるまで捜そう。
*
【女芸人による証言】
歌が上手いだけなら他にいくらでもいるけど、あの華がある容姿も備えているとなると希少でしたわね。
とりあえず壁際のカカシにしても人気になりますの。
*
二回目は一回目よりも気持ちよく歌えた。そして終わり次第、「どうもすみません、次の旅に出ますので」と退席する。そしていざ外へ出ると「どうもすみません、気分が悪く……部屋を貸してくれると聞きまして」と言うことを変えた。
会場の喧騒は遠く、休憩に使える客室もある廊下まで来た。汗と砂の臭いから、古い木と上品な花の香りに変わる。
――焦がれども焦がれども、なお求め。
歌うとガラスが細かく振動する。
ロビンが仕える獅子心王は、捕まって囚われているのだ。
――なお求め、見つけるまで捜そう。
国王でありながら勇敢で腕の立つ武人である獅子心王だったが、その豪快な性格や獣人という出自を面白く思わない者たちも数多くいる。諸侯との揉め事に巻きこまれてどこかで幽閉されているのが現状。どこにいるかは不明なくせに、国には身代金を払えという連絡だけ矢のように送られてくるのだ。厄介なことに獅子心王のことが気に入らない連中同士でやたらに結束が固い。
手がかりを掴んでも、気取られるとまた別の場所へ移送。いたちごっこが続いている。
山奥にあって人の出入りが少なく、周囲を穿つ崖が特徴のここは候補のひとつとして取り上げられた。市街地と近いような立地だと、あのじっとしていられない性格の獅子心王がひと吠え上げただけで噂になってしまう。だから孤立した立地というのは必須条件で、ゆえに捜索する側も一箇所巡るのにも一苦労だった。
幸いにもまだ新顔にあたるロビンはせいぜい「弓矢の腕が立つヤツ」程度にしか外では情報が渡っていないそうで、いざ潜入する役として重宝されている。屈強な男集団だとからかわれがちの線が細く優美な雰囲気というのも潜入では長所になり、今回だって吟遊詩人のフリで堂々と正面から入った。
――見つけるまで捜そう。
そのとき、厚い石壁すらも震わせる猛獣の叫び声がした。もっと奥、外壁に突き出した塔の上層からだ。その塔の窓に見える兵士のシルエットは慌ただしく走り回り、『猛獣』が黙らされていた。この城ででかいペットを飼っていないことは事前の情報収集で調べはついている。
探していた『観客』に声が届いたのだ。
(見つけた!)
あれはまさしく獅子心王。ベストはこの場で救出すること、ベターな成果はすぐにでも情報を持ち帰ること。ちんたらとしていたらまた別の場所に王が移されてしまう。救出目標の本人が暴れているところなら、ロビンも吟遊詩人らしさをかなぐり捨てて全力で走る。
細かな居場所まで特定できなかったが、他では点在する程度だった警備兵たちが集まって慌ただしくしていること自体が目印になってくれる。
しかし、たくさんいる警備兵たちは数の力で職務をきちんと果たした。外からの侵入者をあっという間に制圧したのだ。
*
鍛鉄の環でできた手錠を後ろ手に付けられ、両脇を兵士で固められて抵抗を封じられる。わずかな人数だけ残して「こちらは囮で別働隊がいるかもしれない」と散らばっていったが、何の慰めにもならない。
なんとか蝶番や鎖の繋ぎ目を強引に壊せないか身じろぎするも、活きのよい若衆に靴で蹴られてそれどころでなかった。せめて指は傷つけられないように握りこぶしを作るのが精一杯だ。
怪しい人物を拘束したということでさっきの城主と、そしてテルが駆けつけた。若い兵が畏まって敬礼する。
「テル殿……! いや、ウィリアム・テル殿!」
「あーそういうの要らんって。で、侵入者はこれ?」
ちょっと前に言葉少なながらも話をしたあの声で、だが最初にロビンを注意してきたときと似た堅い雰囲気で応対している。埃で汚くなった背中でなく、かがんでこちらの顔を確認してきた。
「マジか、無茶をしたのやっぱお前かよブロンデル」
やっぱ、という反応、やはりロビンがただの吟遊詩人でないと最初から見抜いていた。
そしてテルの後ろに立つ城主と目が合う。獅子心王を捜索する関係者とばれた? かなり状況が悪い。何とかならないか手首を動かしたところ、鉄靴で今度は手のひらごと踏まれる。
「…………すぐに処分する」
城主の一声でシステマティックに連行させられた。
*
「おいおい、公明正大な城主サンがどうしたっていうんですか」
「こいつは駄目だ」
「俺の息子は裁判なしに牢獄ぶちこまれたっていうのに、同じ目に遭うやつをスルーできなくてね」
「チッ、貴様の任期が終われば解放するという誓約が信じられぬか」
「俺を縛り付けたいからって人質にしてるってのにさあ。じゃあちゃんと手続き踏むところ、見せてくださいよ。そしたら残りもちゃんとやりますって」
「……ならば妥協してやろう。最後に盛り上げる余興をもって判決とする。そうだな……言い出した貴様が、あやつの頭に乗せたりんごを射抜ければ、鍵をくれてやる」
*
次に行き着くのは処刑台かと腹をくくっていたロビンだったが、何故か訓練場へと連れ出されていた。何か始まりそうだと見物に兵士や召使らが続々と集まっている。もう太陽が一番高い時間も過ぎて、影が長くなりはじめていた。
(歌わせてもらえるわけでもなく)
今はひとりであのステージの真ん中に座らされていた。さっきから逃げようと試みるたびに暴力でねじ伏せられてきたが、いざいなくなってしまうと孤独感が際立つ。兵士が大きく厚い板をかきあつめてきて、ロビンの後ろに壁として立てていた。
城主がもったいぶって登場したと思うと、こちらに向かって堂々と歩いてきた。その手には一個のりんご。
(剣かロープなら納得だが、りんご?)
食べたら死ぬ毒でも仕込まれているのか。そのりんごは「落とすなよ。落としたらその場で処刑だ」と低く脅しながら、無造作にロビンの頭に置かれた。
そして芝居じみた佇まいで、ロビンからまっすぐに歩いて離れていく。十、二十……百……百五十……二百歩。ずいぶんと歩いた。先刻にテルと交わした会話が――狙って当てるなら百五十歩だ――ふと頭をよぎる。
この、ロビンには何を意味するのか分からない空白の時間のうちに今まさしく連想した相手であるテルが現れていた。訓練場で立ち話したとき、捕まったロビンを見たとき、そのどちらとも違う強張った表情をしている。
「やあやあ、皆今日は息抜きになったかな。締めくくりとなるのはご存知、ウィリアム・テルに任せよう。あの不届き者を的に仕留めて、今日の締めくくりとするのだ」
「矢は二本くれよ」
テルが割って入って、城主の眉に怪訝そうにシワが入った。すぐに隠して、兵士たちにも気を回す優しい上司としての顔に戻される。
「……とのこと、たった二本で必中を披露してくれるという」
このときロビンは、自分の心の臓が『的』だと、素直にそう受け取った。後ろで兵士が立てていた厚板は矢が逸れたときに受け止める用途。前にテルが狙って当てるなら百五十歩と述べて、一方で城主が二百歩歩いた意味を分析できるほど心の余裕がなかった。
捕縛されたときほどではないが、テル以外の兵士も多い。動いてりんごを頭から落とせば、いや落とさなくても城主の一声さえあれば丸腰のロビンに手を下すのは容易い。
どうやったら即座に処刑命令は出させないようにしつつ躱せるかろうかとか、恋人に会えずして死ぬものかとか様々な考えで頭がいっぱいだった。そして数多の思考のすべてを取り払うようなものを、ロビンはその優れた視力で見つけてしまった。獅子心王を訪ねるため身につけた歌声に勝るとも劣らないくらいの声が腹から出たのだ。
「テル、そのクロスボウには……!」
このときのロビンの心情は、命乞いではなかった。ただ弓矢を愛する男の一発が、そんな小細工で乱されることが許しがたかった。
テルが警告に手を止める。得物を確かめると、巻取り部に異物が挟み込まれていた。このまま撃てば絶対に狙いが狂う。
「……こりゃあ、俺の整備不良ですねぇ」
それは料理として振る舞われた肉の破片だ。脂が滴っている。テルは無言で掻き出し、無造作に捨てた。
整備不良のはずはない。クロスボウを見せてもらったときは完璧に手入れされていた。息子代わりと呼んで大事にしていたテルが、そんな食べカスが挟まるなんて粗雑な扱いをするはずもない。曲芸を成功されると困る者が仕込んだのだ。
(どうにか……)
手錠さえ外せたらどうとでもなるのに、城主は「早くやれ」とテルを急かしている。どうにかなる前にロビンの頭が砕けたらおしまいだ。
そんなつもりはないのに縋るような思いがこみあげてきて、敵であるはずのテルと目が合った。その表情は驚くほど優しかった。
「じっとしてな。そんな顔するなって」
やたらに動くと、頭の上のりんごも動いてしまうから。
いつもと使い心地が変わってしまったであろうクロスボウから一射。迷いなく頭の上のリンゴを砕いた。果汁がロビンを中心に飛び散って酸っぱい匂いが立ち昇る。
かなり難しいことを成し遂げているはずなのに、なんとも思っていなさそうな態度で城主に促す。
「ほら、約束守ってくださいよ」
「ふん」
大変に不愉快そうな態度で小袋をテルに渡すと、城主は退席してしまった。
仕える相手の背中を最後まで見送らないままにテルが袋から中身を取り出す。鍵だ。それを持ってロビンの後ろに回ってくれた。これで外してもらえるのか。
ロビンからは一体どういうやりとりがあって、りんごを射抜いたら鍵の入った小袋が渡される約束になったのかは分からない。だが助けようとしてくれているのは確かだ。最初に会ったときからロビンの正体がただの吟遊詩人でないとも察していた様子だったのに。
手錠が一向に外れなくて鍵穴で擦れる音ばかり。「はぁ」と演技しているみたいなため息が後ろからする。こちらの手のひらに鍵を握らされた。
「違う鍵だわ。なら、こっちの〝矢〟はあんたのもんだ」
どういうやりとりがあったのかは分からない――だが手錠の鍵ではないと。本来ならもらえるはずだったと。
痛めつけられた鬱屈と、テルが味方をしてくれていたことによる勇気と、そしてその誠実さが裏切られた義憤とでロビンは猛り立った。
ステージの上に上げられて監視の目が少なくなった貴重な時間でずっと、手錠を壊せないか試行し続けてきた。手首は錆がまとわりついている。その過程を経て今、ここ一番で全力をこめてついに接合部が壊れた。
(彼の意思を踏みにじった者が許しがたい)
テルがロビンに対して好意的であり、解放するまでは観客たちの想像の内であったろう。しかし怒りを燃え上がらせたロビンがそのまま傍らにあったクロスボウを奪うように手にして、たった一本だけだが余っていた矢を構えだしたのは予定外だった。
流れ弾が当たらないよう距離をとっていた兵士も武器に手を掛け、城と城主を守るべく陣形を整える。しかしロビンの最も近くで立つテルが『武器をとった賊』に何もしないのを見て困惑していた。
そのテルがようやく動く。そっと耳打ちをした。中身は観客にも兵士にもまったく聞こえない。
ロビンは目の色を変えて飛び出した。矢が一本だけ装填されたテルのクロスボウもそのままロビンの手の中だ。城主へ危害を加えさせまいと兵士たちが盾になろうとしたが、そちらには向かわなかった。
ウィリアム・テルは、おのれの信念を果たすために走っていく背中は最後まで見送る。
「よかったな、命拾いして」
処刑を免れた青年と、『武器をとった賊』のターゲットにならずに済んだ城主に対して、両方へ。
*
【非公式記録】
あやつ、鍵をすり替えておった! それもマスターキーの方に!
これなら手錠の鍵を渡して満足させてから、あとで秘密裏に処刑した方がマシだった!
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城の一室、獅子心王はうなだれていた。
外から聞こえてきたあの歌は間違いなくおのれの臣下のもので、応えようとした、逃げ出そうと試みたのだ。しかしこの幽閉生活もすっかり長くなり、かつてならば一息で薙ぎ倒せていたであろう木っ端兵士たちにもあっけなく抑えつけられてしまった。豆や麦ばかりの食事は彼のエネルギー源として足りない。王侯貴族のたしなみだの人間の理屈をつけられて爪も丸く短く切られてしまった。戦場では風にそよぐ立派なたてがみもすっかり艶を無くしている。
「いつまでも続いたりはせぬ」
屈辱的な軟禁を耐えたのは、いつか訪れるチャンスを逃さないため。毛艶は衰えても、眼光はずっと鋭いままだ。
扉の内側は鉄格子により檻になっていたが、獅子心王により無惨に曲げられていた。何度も格子を折ってはそのたびより太く頑強に、あるいは折れない柔らかさへと調整が繰り返されている。今日もまた、閉じ込められた頃よりは細くなったはずの腕で曲げられた。後日に修理と調整がされることだろう。そして先の騒ぎで壁も少しばかり崩れている。また暴れないよういつもより多くの兵士が見張っているが、目つきには恐れの色が見え隠れしていた。
挫こうとしても挫かれぬプライドは健在なのだ。
*
テルが受けた不義に頭に血が昇って目的を見失いかけたロビンだったが、今度こそ獅子心王救出という目的のために走っていた。
一般兵士の多くは『城主に激昂し武器を持った賊』が城主へ危害を加えないよう、そちらの警護へ集中している。この城に最重要人物が軟禁されている情報が外に漏れ出ないよう、獅子心王に付けられた兵士や世話係とそれ以外が交わらないよう味方の間でも徹底した情報統制が敷かれていたのも偏りの一因となっていた。
ゆえにまばらにしか配備されていない兵士との一対一なら負けない。皮肉にもまだぶら下がっている手錠が硬い打撃武器代わりにもなってくれた。矢が一本しかないのでクロスボウは使わない。
「リチャード! 参りました!」
もう捜していない。見つけたから。
今度こそ力強い吠え声が応えてくれる。久方ぶりにすぐ近いところで聞こえる彼の吠え声は心身を奮い立ててくれると改めて実感した。しかしまだ、厚い壁で阻まれくぐもった声だ。
テルに握らされた鍵を錠前へ差しこむ。開いた。しかし外扉の向こうにも多重に檻、その向こうにまた内扉が重なる特別な構造になっていて、まだ解錠しなければならない。部屋の中から格闘する音と振動がする。また解錠。急がねば。
「くっ、折れた……」
逸る気持ちで一気に回したら鍵が壊れてしまった。これが最後の解錠ならよいが――
冷や汗をかきながら内扉を開けると、高貴な人物が過ごすのに見合った内装が見えた。しかし最悪なことにまた太い格子が間に立っていた。そして壁際で複数人に囲まれている、間違えようもない獅子の頭。盾を持った兵士によって壁に押さえつけられている。
「ロビン! 入ってこい!」
「入るって…………」
人の出入りを阻むための檻だというのに無茶な、と言いかけたところで折れ曲がった箇所に気付いた。獅子心王の体躯が通るには狭すぎるが、軽装のロビンなら何とか抜けられる程度の隙間になっている。無理やりに腰、胴、と捻っていく。ばらばらと錆が落ちて服には赤茶色の汚れが付いた。
ロビンも獅子心王も、どちらも先刻では数の差で抑えつけられてしまっている。しかし対象が増えて敵の手が分散、さらには互いに信頼しあって鼓舞しあえば気力が奮い立つ。何より、常に複数ある監視の目、多重の扉と格子、わざと不足させた食事量、対策をいくつも重ねて施さなければならないのは、そこまでしなければ仲間無しにひとりででも脱走してしまいかねないと警戒されているからだ。
盾と、人質を傷つけないための棍棒しか支給されてない兵士たちはあっさりと昏倒させた。しかし勝負はここからだ。
「慌ただしくて申し訳ありません。城から脱出さえできれば本陣へ帰れます。今しばらくの辛抱を」
「なに、この生活は退屈すぎてな。慌ただしくてちょうどよい。……お前は兵士としてもらしくなってきたな」
「慣れないことだらけですよ。リチャードがいないと息苦しいです」
絢爛な王冠よりも戦場の鎧が似合うお方だ。一言冗談を交わし、改めて気を引き締める。
「最後の最後に鍵が折れてしまいました。リチャードも通れるくらいに、隙間をもっと広げることはできませんか」
「それは難しい。出ようとするたびにどんどん頑丈にされてな」
ロビンの頭に、何度も脱出しようとひと暴れするのを日課とする獅子心王の姿がありありと浮かんで苦笑いをした。
他の脱出ルートを求めて採光窓の方を見上げる。足場なしには届かない高さにあるが、敵の兵士たちを転がした今なら堂々とテーブルを動かして届きそうだ。お行儀悪く、テーブルに靴ごと乗っかった。
もちろん窓にも格子が嵌められている。黒ずんで汚らしく、ところどころ継ぎ目が盛り上がっていた。しかし脱走未遂のたびに改修、強化されている扉側のと違い、獅子心王のでかい拳で掴むだけでも不安定にガタガタと鳴ってくれた。幽閉生活で筋力が衰えた彼の背中は全体的に一回りスリムになってしまったが、力を込めると筋肉が膨張し全盛期の面影を宿す。ここからならいけそうだ。
ロビンの方も居ても立ってもいられなくなった。倒した兵士から盾を拝借して、窓枠の隙間にねじこむ。テコの原理で助太刀すると、耳障りながらも希望につながる、金属が歪む悲鳴が大きくなっていった。
「いくぞ」
「せえのぉ!」
歯を食いしばって、ついに窓枠が外れた。そして盾の方も無惨に曲がっていた。
出る前にこれから役に立ちそうな武器や、テルのクロスボウで撃てる矢を補充できないか改めて探ったものの無さそうだ。盾は窓から抜けるには大きすぎ――獅子心王を押しつぶし制圧するという用途に堪えるサイズゆえ――だし、矢があればロビンとしては大助かりだったが、彼らは狙撃兵ではく広くない部屋の監視兵であり、遠距離の得物は持ちあわせていない。棍棒についても、獅子心王にとってはおのれの剛腕の方が頼りになり、ロビンにとっても矢が一本しかなかろうとクロスボウの方が優先度は上だ。
これらを手早くチェックするロビンの姿に獅子心王は改めて感心する。
「いつになく気合が入っておるな」
「身代金のことで貴族たちが揉めていますから。……それこそ、エルフを攫って売りとばせばいいという者も」
シャーウッドの森に手出しはさせるまいと。
多くは語らず、ロビンが先行して窓から抜けた。続いて獅子心王も通り抜けられるか、もしも窓の大きさが足りなかったら――ヒヤヒヤしたが、肩まで抜けたのを見て安心した。
ここは屋根の上だ。北側にある正門は騒がしくなっており、崖と水源で外部と絶たれた南側には細くてボロの吊り橋が一本だけかかっていてる。渡りきってから落とせば追手を断てる点も魅力的だ。
以上の行動方針を降りてきた獅子心王に伝えた。
「なるほど。余はここがどこなのかすら知らされずじまいで、久方ぶりの外の空気を吸っているところだ。任せる」
食事係の女中すら訛りが一切ないよう躾けられてて不気味だったわ、と付け足しながら、獅子心王はまさに機を待つ獣のよう屋根に伏せた。ロビンの金髪も獅子心王の毛並みも隠密には向かない。せめて風に煽られないようロビンは髪の毛を手で押さえた。
「フードでもあればよかったのですけどね」
シャーウッドの森で番人をする分には、外から来た人物におのれの存在を示してこそ意味があるから顔や髪の毛を隠す習慣がなかった。むしろ金髪は目立つ特徴として好ましいくらいだ。吟遊詩人ブロンデルとして振るまう際にも美形の顔立ちを活かしていくなら無用で、ちょっと目立つくらいの方が初めて訪れた場所でも「ああ噂の。ぜひ歌ってくれ」と通してもらいやすいのだ。
後悔しても仕方なく、なるべく早く屋根から地上へ移るべく急ぐくらいしかできることがなかった。獅子心王もやや息が上がっているがここまで体力を温存して付いてこられている。
しばし走り続け、幸いにも吊り橋まで誰とも出くわさずに辿り着けた。城からある程度離れたが、一刻も早く脱出しなければという焦燥が実際よりも大きく錯覚させてくる。深呼吸して心身をクールダウンさせた。なんとなく、城の見え方が元の大きさに戻った気がする。
(今のところ気配は、ない)
城に外敵が入っていて、正門の他に外と繋がる道を警戒しないなんてことはないはずだ。
この吊り橋には蜘蛛の巣もまとわりついていてほとんど使われていない様子だから、ここに脱出経路があること自体を見落としているのかもしれないと都合の良い説明は付けられる。周囲は開けていて、見通しがよい。決行すれば遮蔽物もなく無防備になるということを意味する。
ロビンは万全を期すべく《シャーウッドアイ》の力を用いた。人間離れした視覚聴覚、また空間把握力の強化を得られるが、もっと重要なのは、それで得た情報を瞬時に処理して立ち回れるかどうかだ。ゆえに熟知したシャーウッドの森以外の場所では真価を発揮できない。しかし開けた場所ならその難点もましになる。
軽い頭痛はするが、大丈夫。影響はない程度だ。改めて見渡すが、近くに敵が潜んでいる気配はない。
吊り橋に一歩踏み込んで、縄や板の軋み具合を身体で感じとる。ロビンひとりなら大丈夫でも、遥かに体格のいい獅子心王も同時に通れるかは検証しなければならなかった。
行ける、と獅子心王を呼ぶため、振り向かず手を挙げる最小限の動きで合図しようとして――
「来る……!?」
遥か後方からの矢。まるで後ろにまで視界があるような今のロビンには迫る矢を認識できた。
(こっちを狙ってない)
そして、ターゲットがロビン以外であることも。
ロビンの後方からこちらに向かい飛来する矢、その着弾箇所は非常に分かりやすかった。
橋を支えていた縄が落とされる。
*
【ウィリアム・テルの偉業を称える記録より】
彼はまさしく英雄です。
人を救うためなら、無茶といえる距離でも一発で成功させる人なんですよ。
腹立たしい話ではありますが、彼の息子を人質にし働かせている策は賢い。実力以上の成果を出させている。
*
「他のルートはどうだ、ロビン!」
慈悲なく橋が落ちていく様子は獅子心王にも当然見えている。
城の関係者ならば地下通路など他の経路もあるだろうが、外部からの侵入者であるロビンたちには使えるはずもない。
「正門を突破するしかないようです。小細工は通らないでしょう」
ここの警護が薄かったのは、ロビンらが来てからでも橋を落とせるからだった。来る前にあらかじめ落とさなかったのは、まず第一候補として吊り橋を選ぶと読んでいたからこそ泳がせるためだ。まんまと時間を稼がれてしまった。今頃もう正門や城内はしっかりと固められているに違いない。
大きなミスはしてこなかったつもりだ。だが着実に追い込まれている感触。冷たい。獅子心王は金づるになる人質だから殺されることはないだろうが、一端の部下である自分は故郷に帰れない可能性すらある。
いつの間にか目の前に仁王立ちになっていた――それに気づかないくらいに心が乱れていたのだ――獅子心王がでかい拳で背中を叩いた。
「力押しなら任せろ。戦で名を轟かせたこの獅子心王がついているのだぞ」
叩かれた背中を中心に、手足へ血が巡る。もう指は冷たくない。吐息も言葉も熱くなる。
「ええ。無事に連れ帰らせていただきます!」
「余から離れるな。誤射を恐れぬ無鉄砲以外には効く」
ロビンを捨て石にすれば、例えば囮作戦としてバラバラに動くなどもっと選択肢が増える。しかし共にこの窮地を乗り越えようと言ってくれている。
獅子心王を傷つけないよう命令されているだろうから、一緒にいればロビンへの攻撃も抑えられるという読みそのものは妥当だと思う。だが――
「敵方に優れた射手がいます。向こうに私がいるようなものだと思ってください」
彼から〝借りた〟クロスボウを握りしめる。傍から見れば奪った、盗んだと言われかねないが、鍵を渡してくれたときのやりとりは確かに〝貸した〟ものだと思っている。りんごを射抜いたあの場に獅子心王は居なかったし、居合わせていた他の誰にもロビンとテルの間に通じた思いは分からない。なんならテルはいまだ『ブロンデル』と思っているし、ロビンもテルの人となりをちゃんと知っているかといえば何も知らない。
一本しか矢がないのだから捨てて身軽にするという考え方もあるだろうが、ロビンはその選択を取らなかった。
*
行儀悪く、庭職人がきっと丹精込めて整えたであろうトピアリーも雑にかき分けて順路、通路などお構いなしに突破していく。秩序を象徴するような球や円錐型の刈り込みも、すっかり野生の獣道と化していた。
抜け道をこじ開けると門が見えるところまで出た。高い壁と深い壕が合わさっており、外からの侵入はもちろん、中からの離脱も阻む。使える物は使うため、わざと西寄りから侵入して北にある正門の兵士に対して太陽を背にするようにしていた。投擲、狙撃の狙いを付けにくくさせる代わりに影が伸びるから、今いる茂みから少しでも身体を出せば見つかる。
その門を閉じるべく跳ね橋がゆっくりあがりはじめていた。完全に閉じたらおしまいだ。潜んで機会を待つとか言っていられない。閉じたら二度と出られない。
「閉じてしまう!」
「それがなんだ、行こうじゃないか」
仮に、不敬ながらも獅子心王の背中に乗せてもらって、そして獅子心王が全盛期の体力を備えて全力疾走しても間に合うか怪しい。まして幽閉生活で筋力体力が弱った状態では。
獅子心王は迷いなく駆け出す態勢に入っている。その頼もしい背中が精神的な支柱になってくれる。ロビンも続いて駆け出した。脇道からいきなりショートカットして現れたふたりに対し、敵兵たちは堅牢な壁を以て待ち受けている。獅子心王に遅れずしっかり付いていくことで飛来物は全然来なかった。何よりも、跳ね橋が上がればあとはじっくり捕らえられるという考えの表れでもある。
直感で、ここでこそ一本の矢が使えると思った。誰かに導いてもらえはしない、自分でポイントを探さねば。
城門の上部と跳ね橋そのもの繋ぐ鎖? 吊り橋の縄と違って、いくらなんでも金属は一発で断ち切るのは無理だ。巻き上げ機を操作している兵士? 一発で予備の人員も含めて無力化するのも無理。
自分の腕を信じろ、と目に入ったのはやぐらに据えられた滑車。あれに鎖と一緒に矢を巻きこませれば回転が止まる――そんな画が浮かんだ。しかし唸りを上げて回っている一点を狙う自信はあるが、現在進行系で回転しているとたとえ狙いは正確でも矢が入らない。川の急流に枝を挿してもまっすぐ入らずに流されてしまうのと同じだ。
「難しい顔をしておるな、どうした」
「それが……」
走りながら懸念を伝えると、すぐに状況を飲みこんでくれた。
「そうか。動いているからできないというのなら、」
もう跳ね橋の手前まで着いた。もう坂とは言えるかもしれないが地獄坂と呼ばれそうな、そんな角度まで上がっている。その厚板に獅子心王はなんと真正面から挑みかかった。壁の上の兵士たちがどよめく。
「これでどうだ!」
続いて音が変わって、これまで規則正しく冷酷に巻き上がっていた音から、擦れあい相反する方向に引っ張られ緊張する音に変わる。止まった。「全員ウインチを回せ!」と怒号が飛び交っている。そう、獅子心王は一騎当千の強者だが、それでも巻き上げ機につく兵士が増やされていくにつれ、拮抗が崩れていった。
ロビンにはそれで十分だった。回転が遅くなった滑車の隙間に向けて、テルが手入れしていたクロスボウから一本を撃ち出す。試し打ちすらする余裕はなかったが、狙い通りの一点へ飛んだ。本当にいい弓だ。
火花が散り、力と力の膠着でなく機構の故障で跳ね橋が止まった。外へ抜ける道がかろうじて繋がる。
敵にしたら突然に跳ね橋が故障したように見えた。鎖がちぎれたわけではないし、まさか矢の一本で滑車を壊す芸当――ロビンだって当初はこの方法は現実的でないと却下した――を成したなんて想像もつかない。
いよいよ脱出が現実的になり、敵もなりふり構わなくなってきた。獅子心王が人力で跳ね橋に抵抗するというイレギュラーを受けて巻き上げ機に人手を向かわせてしまっているから、彼らを元の配置に戻すだけでも混乱が起きる。極力傷つけてはいけないという命令に忠実に従おうとする兵士はそのへんの中途半端な石や砂を投げるも、頭や胴を狙っているわけでないから効果が乏しい。警戒しなくていい。
この場で気をつけるべきものがあるとしたら――
(来る!)
自分で避けようとしたところ、同じく気付いた獅子心王が「ロビン、こっちだ!」と自分を盾にしようと抱き寄せた。ちょうどロビンがいた位置、それも胸か肩を狙った矢が厚板に突き立つ。誤射を恐れぬ射手の一発だ。
裏手の吊り橋を射抜ける場所から、ロビンたちが正門へ移動する時間で同じく移動してきたのだ。ロビンの自然の光を吸ったような金髪よりはくすんだ、使い込まれた道具に似た色合いの金髪が見えた。あちらもロビンの方を見据えていて、この争乱の中で目が合う。ちょうど百五十歩の距離。
(ありがとう)
今のは容赦ない一撃だった。もし今ロビンが捕まってもテルは庇ってくれないことだろう。彼はこの城の兵士だ。それが正しい。
でもロビンの手の中でずしりと重みを主張しているこのクロスボウは、彼の正しくない行為の象徴で、そして確かにロビンたちを窮地から救ってくれた。流れ弾に当たって壊れてしまわないよう、できるだけ目立たない隅に息子代わりだという――ロビンは代官とテルの間にある事情は知らない――クロスボウを〝返す〟。
「余の背に掴まれ!」
「はいっ」
感傷に浸る暇などない。獅子心王の指示に従う。失敬ながらたてがみを掴ませてもらった。何をするか予想できて、そしてそれは振り落とされれば命はない行為。
その獅子心王はあたかも猛獣が草食動物に飛びかかるよう、身を沈める。そして次の瞬間に四つ脚で地を蹴った。半端に止められた跳ね橋はきつい地獄坂の様相だが、敢えて坂に対して斜めに角度をとったルート取りで駆け上っていく。岩肌で暮らす山羊のようだ。
頂点に達して、一気に踏み切った。壕を越えて突き放す。勢いの強さに厚板が歪んで沈み、故障している滑車がさらに複雑な壊れ方をしたのは余談。
地平線と、地上に落ちる影。宙で揺れるたてがみと金髪が夕暮れどきによく映える。
向こう岸まで着地したあと、高らかな吠え声と共に城を背にした。
*
【数百年後の観光案内】
やあ、こんな山奥までよく来られましたね。
こちらは当時から保存している跳ね橋。この肉球型の汚れね、かの獅子心王が飛び越えたときに付いたと言われています。
*
取り残された城の方は大騒ぎだった。鐘の音と叫び声が飛び交い、連絡の伝令は休憩なしに走り回っている。
他国の有力者とも協力してやっとこさ囚えて身代金も山分けする予定だった人質に逃げられるわ、そもそも外部に繋がる吊り橋、跳ね橋とともに機能不全となってまず外界との接続が絶たれてしまうわ。せめて伝書鳩は飛ばされたが、鳩では獅子を捕らえられない。
後始末に城中が走り回っている中、ウィリアム・テルは跳ね橋を修理する職人頭に半ば押しつけられていた。地元から人気のあるテルはしばし権力だけで動かせない民草をなだめる役割も見込んで今の役職につけられている。橋を早く直さないことには城の備蓄が尽きてしまいかねない。こればかりはテルも真面目に従うしかない。
「よく逃げ切ったな、ブロンデル」
自分のクロスボウを見つけた。置き方は丁寧で、できるだけ踏まれたりしないようにした配慮が見られる。
まさか獅子心王の部下だとは思わなかったが、テルですらそんな大それた人物を囚えていたと知らされてなかったんだから仕方ないことにする。教えられていたらさすがにもっと真面目に警備していたと思う。無理矢理の処刑に反対していたかは――考えないでおこう。起こらなかったことだ。
(ま、いい歌だったし。いいか)
息子が無事に戻ってきたなら――いや、必ず出させるのだから、帰ってきたあとには、面白い弓使いの話をしてやりたい。お前に雰囲気がちょっと似ていた、とも添えて。
*
後世においては、吟遊詩人ブロンデルが各地を歌って回ることでリチャード一世の居所を発見した逸話として伝わる。
――弓使いとして伝わらなかったのは、それを知る者が口を噤んだゆえだろう。