――なんかすごいことが起こっているのを感じます! 高まっちゃいますよね~!
遠野ハンナは。
初めて橘シェリーを見たとき。
――変な人ですわね、と、思った。
それは、間違いなく、確かだった。
あと、もうひとつ。
――青い髪が綺麗ですわね、と、思った。
苛ついた自己紹介の時間が終わるや否や、突然の惨劇が起こって。
なんとか団結しようと声を上げた人物が居たものの、ハンナはエマの側に付くことにした。理由は単純で明快。旗振りをする
そしてエマの周りに集まって、視界の隅に青色が見えてようやく気づく。
――ああ、この
◇◇◇
あちら側の面々がラウンジから出て行くのを見守っていると。
「みっ、……皆さん、もうすぐ、自由時間が終わってしまいます。このままここにいると、懲罰対象になってしまいます……!」
頑張って声を絞り出した、というような声色で話すのは、同じくエマ側に付いたメルル。両方の手をぎゅと握りしめて、危機を伝えてくれているのだけれど、ふわふわとした声色と今にも目から涙をこぼしてしまいそうな表情で、どこか慰めてあげたくなる。
「懲罰対象になってしまうと、あの看守に連れて行かれて――」
どこかほんわかとした空気がラウンジに満ちていたのが、『看守』という言葉で急に空気がぴしりと固まる感覚があった。それは周りのシェリーやエマも同様なようで、目配せをするのとほぼ同時、全員が慌ててラウンジを出て行く。
監房に戻り、手持ち無沙汰のハンナは、ベッドに寝転がりスマホで魔女図鑑を確認する。長々と続く文章を眺めているうち、ハンナは気がつけばうとうととしていて――。
「ハンナさんハンナさんっ! 自由時間ですよ、自由時間!」
騒がしい声がして、ハンナは飛び起きた。心臓が口から飛び出るかと思った。
「な――――――っ!」
口から出たのは、それだけ。視線を鉄格子の方に向ける、鈍色の格子の向こうに、青色が見えた。
「自由時間であり、ご飯の時間ですっ! ほら、行きますよ!」
鉄格子の向こうで手を振っていたかと思えば、その人は鉄格子を押し開けて勝手に入ってくる。そして有無を言わさず手を取って、そして暗い監房から、ほどよく明るい地下通路へと、引っ張って行く。
「い、いきなりなんなんですの! あなたはっ!」
声をかけて、初めて彼女は足を止める。
振り返ったその顔は、不思議そうな色を帯びていて。
――何を言うんでしょう、この人は?
だとでも言いそうな顔をしていた。
「魔女図鑑を一通り眺めました! この時間は自由時間でありご飯の時間、そしてシャワーの時間です! そして数時間前の通り、私はエマさん、メルルさん、そしてハンナさんと一緒に行動することに決めました! だからハンナさんをお連れしたんです! ――何か間違ってますか?」
自信満々に『間違ってますか?』と聞くのは、それは裏返しとして、『何も間違ってないですよね?』とでも言うかのようだった。
実際、間違ってはいない、のかもしれない。
けれどそれはそうとして、急というか乱暴というかこっちのことを考えないというか、一言で言えば、雑だと思う。
ハンナは頭の中でシェリーへの評価を変な人、から妙な人へと改める。
けれどハンナにはそれを覆す何かがあるわけでもなく――ひとまず、シェリーに手を引かれるまま、歩き出すことにした。
階段を上りながら、シェリーが何回か振り向いてくる。それはまるで、散歩中の犬が飼い主を定期的に振り向く仕草のような、そんなものを感じた。手を握る強さが時々変わるのは、しっかり握っているかどうか確かめる――というよりも、手を繋いで引いていることへの色々な部分があるのかも、と感じられた。
勝手に引っ張って行くようで、どこか繊細なところもあるのかもしれない――と、ハンナは思ったのだけれど、あえて口にすることはなかった。
「………………なん、ですの? …………これ…………」
食堂と言われて、少しだけ。ほんの少しだけ、何かを期待してしまった自分を、ぶん殴ってやりたいと思った。
ラウンジがあれだけ豪華で、調度品一つとってもハンナの家にある物とは明らかに違うのだと分かった。ならば食堂の中も、そして夕食と言われて出てくる物も、少なくとも、ハンナが食べていたものよりはよっぽどまともな物だろうと。そう思ってしまった自分を、改めてぶん殴りたいと思う。
「…………………………なんですの、これ………………?」
「二回も言わなくても分かりますよー」
「いえ、あなたに言ったわけでは。…………これは、食事、ですの……?」
「他になければ、そうですね」
何やら百円ショップで店員に言われたような事を言われたな、と思った。
ビュッフェ形式――つまるところは食べ放題のお店のような形――でトレーがいくつも並んでは、いる。けれどその中身は、何というか、何と言えばいいのか。……食べ物と形容してよい物かどうか、疑問だった。
言うなればそれは、小学校の授業で見たことがある、宇宙食のような、それ。
全体的にどろりとしたものばかりがトレーの中にあって、色や形が異なる物体が、その液体の中に沈んでいる。そのどれもが茶色くて、鮮やかさのカケラも無い。見るだけで食欲が減っていくのを感じていた。
更には、匂い。食べ物の匂いというのは、基本的に、それを感じれば勝手にお腹が鳴ったりするものだ。しかしこれらには、それが無い。妙に生暖かくて、妙に生臭い匂いが、どの料理からも発せられていた。この匂いを嗅いで、お腹が減るだなんて思えませんわ……と、隣の人もきっと、同じような顔をしているのだろうな、と見ると。
ひょいひょいと、おたまで器用にその料理と言えないような何かを掬っては手に持ったトレーの器の中に入れていっていた。
「…………マジですの? あなた……」
「食べてみたら、意外といけるかもしれませんよ?」
まだ食堂には誰も来ていない。だからシェリーの声は、食堂にやけに響いた。自分の声すらもかき消すような、その明るい声。妙に周りに響く声。その声が食堂に鳴るだけで、何か、空気が変わったような、そんな気配がした。気のせいかも、知れないけれど。
料理といい、部屋の中といい。赤色だったり茶色だったりと、重い色ばかりが見えた。そんな中でシェリーの青色は、やけに目の中に鮮やかに見えた。
「どうしました? ハンナさん」
視線が気になったのか、不思議そうな声を上げて。そしてやがて、にまぁ、と子どもが浮かべるような表情を浮かべる。
「この林檎は、あげませんよ? 私が見つけたものですからねー?」
「誰が取るか!!!」
視線がシェリーの顔ではなく、トレーの中に行っていると取られたのだろう。
そんなに自分は食い意地は張っていない、と主張するも、『ハンナさんは育ち盛りですもんねー』などと子どもに言うような言葉が返ってくる。にこやかに、明るい声で言われるそれは、自己紹介の時に感じた嫌な感じではなく、どこまでも、同級生との会話の延長線上といった感覚で――。
自然と、食べるときも向かい合う形になった。
食べ物を選んでいる時が賑やかであれば、食べている時に賑やかでないわけがなく。
「ああもう、あなたと話してると気が休まりませんわ」
「ハンナさんの気が紛れてるなら何よりです!」
口に食べ物を入れながら、シェリーは親指をびしっと立てる。そういうことを言っているんじゃありませんわ、と反論するも、どうにもこうにも、気が紛れているという事については間違いが無いようにも感じられるから、そこまで強くも言えなかった。
ハンナが控えめによそった食べ物と呼べるかどうか不明なそれは、やっぱり不味かった。とても不味かった。嫌と言うほどに不味かった。
けれど彼女の辞書には、食べ物を残すという文字は無い。もう少し少なくよそうべきでしたわ……と頭の中で後悔しながら、眉をしかめて食べていると。
「後でエマさんも来るでしょうし、エマさんの分も取っておきましょう!」
だとか言うやいなや、立ち上がる。
シェリーの前には、先ほどまで食べ物と呼べるかどうか不明なそれがこんもりと盛られていたはず。けれどそれが今は、綺麗に無くなっていた。
「…………マジですの……?」
ハンナの口から漏れ出た声は聞いていないかのように、シェリーは新しいトレーを持ち出し、器を載せ、再び料理があるところへと駆けていった。
――まるで犬ですわね……。
エマさんの分は何を取りましょうかねー? と選りすぐりしている様子は、腰から尻尾が生えているようにも見えた。
――犬。そしてその中でも、とびきりの大型犬、ですわね。
この人物と会ってから、まだ数時間も経っていない。
けれどその勢いと、うるささ、行動力と、けんかっ早さ。総じて考えるに、この人と一緒に居ると体力を使いそうだ、とハンナは思った。
けれど、それと同じくらいに。
――退屈は、しないんでしょうね。
と、うっすらと、そんな思考になっているのを自覚していた。
◇◇◇
夕食が終わっても、シェリーは元気だった。
その一方、オブラートに包む必要がないくらいに、とてもとても不味い料理を食べさせられ、食事だけで体力を消費してしまったであろうエマは、一人ふらふらと監房の方に向かっていった。
「さて、ハンナさんっ」
そんなエマを見送り、食堂を出たところで、シェリーの声がする。
隣を向く。口元に三日月を作った、その人物は。
「食後の散歩に、牢屋敷の探索でもしましょうか!」
「あなた、体力馬鹿ですの…………?」
「私はか弱い乙女です!」
そのポーズからしてか弱さもへったくれもないのだけれど。自覚は無いんだろうかと思う。
「か弱いー? どこが? あなたは怪力ゴリラじゃないんですの?」
「妖精さんって言ってくださいよー」
不味いご飯を食べて、暗い雰囲気で食べて、気が晴れる要素なんてまったくなかった筈なのに、シェリーと軽口を交わしているだけで、自然と声が大きくなっていくのを感じていた。目の前の人物の声が大きいだけなのかもしれないけれど、どこか、なにか――気が晴れるような、そんな気がした。
「…………まぁ、仕方ねーですわね。あなたが行くというのなら、付き合ってやってもいいですわよ?」
「じゃあ行きましょうか、ハンナさん!」
そうして再び、ハンナはシェリーに手を引かれて、歩き出した。
――手を掴まれた瞬間、目の前で潰された林檎が頭を過ぎって体に力が入ったのだけれど。その手は先ほど監房から連れ出してくれたときと変わらずに、優しい手の感触で――。
ただの怪力ゴリラではないということを。そして、この人も、エマさんも、ここに連れてこられた全員が、魔法というものを持っていても、ただの人なのだということを、身に染みて感じるハンナだった。
「…………」
シェリーと探索を続けるうちに、ふと思う。
ハンナ自信も、疲れている自覚があった。けれどシェリーの牢屋敷の探索を断らなかったのは、なんなんだろう、と。疲れるのは、分かりきってるのに。
きっとそれは。…………誰かと、一緒に居たいと思う、自分の心がそうさせたのかもしれない、と思った。
最後に二人が入ったのは、シャワー室だった。
「そういえばハンナさん。ここ、この時間帯だけは温水が出るらしいんですよ! せっかくだし浴びていきましょうか! 幸い、誰も使ってないようですし!」
「シャワー。…………そう、ですね。体を綺麗にしておくのは大事、ですわよね」
ハンナはどこか不安に感じる部分があった。
先ほどのゴクチョーの説明。『この牢屋敷では、殺人が起こる』と。どこかで、いつ、誰かが自分を狙っているか分からない。そんな状況で裸で悠長にシャワーを浴びていいものか、と頭の中の冷静な自分が言う。
お嬢さまたるもの、体は常に綺麗にしておかねばなりませんわ! と頭の中の空想令嬢が言う。
「じゃ、ハンナさん、入りましょうか!」
「…………脱ぐの早すぎませんこと?」
ハンナが思考に浸っていたのは、そんなに長い時間ではない。けれどその間に、シェリーは服を脱ぎ、そして雑に籠の中に放り投げていた。
「あと、脱いだ服は畳む! 着るときに大変ですわよ!」
「えー?」
「えーじゃないです。そもそもあなたは……」
「え、いえ、そうではなく。服、毎回捨てることになってるんですよ」
「……え?」
首を傾げるのはハンナの番だった。
「魔女図鑑によると――。…………まず、入りましょうか?」
「そう、ですわね」
目の前の相手が裸であることを、やっと認識して。じわじわと、少しずつ、恥ずかしく思えてきた。いそいそと服を脱いで、丁寧にカゴに入れ、そしてハンナもシャワールームの中へ入っていく。
温水が出るというのは本当なようで、シェリーが入っているであろう場所からは、湯気が立ち上っていた。
バスタブの中に入り、シャワーヘッドを持って、おそるおそるコックを回す。音と共に出てきたのは紛れもなく温水。体にかけると、ちょうどいい温度だった。
「………………ふぅ」
思わず、息が漏れる。それまでの張り詰めていた気持ちの糸が、緩んでいくのを感じる。
これがもし一人きりであったなら、背後が気になって時々振り返ったりしていたのだろうけれど、隣からは水音が。そして心地いい鼻歌が聞こえてくる。
ハンナは、シェリーを心の底から信用しているわけではない。けれど、疑っているわけでも、ない。
少なくとも、出会ってから、これまでの間。ハンナにとっては自分を引っ張ってくれる、うるさい人で、無駄に行動力がある人で、無駄に元気な人で――少なくとも、悪い人ではないのだと、思う。気を、許しても、いい人、なんじゃないかと、思え――――。
「ハンナさん、洗い終わりましたー?」
「え!?」
隣から聞こえるのは、そんな声。
「私、洗い終わっちゃったんですけど」
「えぇぇ!?」
思わず、驚きの声が出る。
「早すぎやしませんこと!?」
確かにシェリーは自分よりも早くシャワーを浴び始めた。けれどその時間があるにしても、余りに早すぎるのではないか、と思う。自分はまだ、頭も体も洗いきっていないと言うのに。
「きちんと洗いましたの? 頭も体も?」
「はい。いつものように洗ったんですけどー」
そのいつもの、がどれだけ早いのだろう、と思う。ハンナの頭に『烏の行水』という言葉が過ぎっていく。シェリーの頭にいる鳥は、少なくとも烏じゃないとは思うのだけれど。
「ごめんなさい、わたくしはまだですわ」
「分かりました、ハンナさんが終わるまで待ってますね」
「……別に、いいんですのよ? 先に出ても」
「んー、私ももうちょっとお湯を浴びたいなーって思ってたので!」
それは本当なのだろうか、と思う。
それは自分の事を待つ方便じゃないか、と思う。
それは。…………それは、………………嬉しいな、と思う。
「………………すぐ、終わらせますわ」
「ごゆっくり」
隣から、優しい声がする。
体が温まるのと同時に、胸の奥から、じんわりと温かい温度が染み出してくるのが感じられる。
がしがしと備え付けのシャンプーで頭を洗いながら、考える。
…………この人は。シェリーと言う人は、なんなんだろう、と思う。
自分の事を振り回したかと思えば、自分の事を優しく包むような事を言い出して。そればかりか、自分のことを、何かで知ったかのように…………言われたくないことからは、完全に、遠ざかる。
なんなんだろう、と思う。
けれど、少なくとも。
…………やっぱり、この人は。
悪い人じゃないのだと、思う。
優しい人なのだと、思う。
――――信頼していい人なんじゃないかと、思う。
ハンナは、このとき、初めて。
エマの側について、よかったと思った。
エマの側に、この人がいてくれて、よかったと思った。
顔から、シャワーを浴びる。
温かい温水は、いろんなものを洗い流してくれる気がした。
◇◇◇
「ほら、ここに新しい下着と服一式が置いてあるんですよ」
シェリーと共にシャワールームを出、打ち付けられた木の板に囚人番号が書かれているロッカーを開け、更衣室で新しい服を目の当たりにする。
それはそれまでに着ていた、緑色のドレスのような服がそっくりそのまま、畳まれておかれていた。
ハンナが着ていた――着させられていた、とも言う――ドレスは、ここに連れてこられるまでには碌に着たことが無いような、割と、いいと思われる物。素材も悪くなければ、着心地も、悪くない。所々に無駄に花やフリルといった装飾も付いている。店だとかで買おうものなら、きっと五桁はくだらないと思われる、ドレス。
それが、籠の中にに畳まれているものと、同じものが、ロッカーの中にあって。
同じものがあるならまだ、いい。でもまさか、それまで一日しか着ていない、それを――。
「…………捨てる、んですの? これ、を?」
「だから言ったんですよ。畳まなくてもいいって」
シェリーは最初からここに服があるのだと知っていたようだ。魔女図鑑に書かれていることらしく、隅々まで読んだという彼女の言葉は、信用に足りると思った。
ダストシュートに入れるのだから、畳む必要は無いとシェリーは主張するけれど。ハンナはどうにも、それが許せなかった。
シェリーの服にも触れてみる。手触りは悪くなく、さらさらとした手触りだ。ケープの部分もしっかりと厚さがあり、温かそうだ。スカート部分も布地がしっかりとしていて、安物ではないというものが、はっきりと分かる。
「………………」
「どうしたんです? ハンナさん、私の服をじぃっと見つめて」
様々な事が頭を過ぎりながら、自分が固まっているのに、シェリーの声でやっと我に返る。
「あっ…………。ごめんなさい、少し、考えごとをしていて……」
「考えごとなら仕方ないですね。いつそのまま顔に当てるんじゃないかーって、ちょっと期待しちゃいました」
「誰がするか!!!」
いきなり! この人は! 何を言い出すんですの!
そんな物語の中でしかやらないような事を、やるわけがない。誰がやるか。
シェリーは一体自分を何だと思っているのか。こんないい材質の服を捨てるなんてもったいない、そう思ってただけなのに――。
どうにもこうにも振り回されているような気がする。
でもその空気感は、決して嫌いじゃない、と思った。
「さ、帰りましょうか!」
服を着て、二人で――ハンナは渋々――服をダストシュートに入れて、更衣室から外に出ようとして、ハンナは違和感に気づく。
シェリーの髪が、未だに艶めいているということに。
「シェリーさん。…………、髪は、乾かしましたの?」
「タオルで拭きました!」
などと主張するので、触れてみる。しっとりとした冷たさがあった。
「まだ濡れてますわよ。拭き方が足りてませんわ」
「えー?」
このまま廊下に出ようとしていたのか、と思うと、髪を乾かさないままに更衣室を出ようとするきょうだいが頭を過ぎった。
だからだろうと思う。
「拭きますから、そこの椅子に座ってくださいまし」
――そんなことを、言ってしまったのは。
きょうだいとシェリーはまったく違う。背の高さも違えば、髪の色も違う。けれど、やっていることは同じで。
ごしごしごしごし、とわざと強めに力を入れて髪を拭くと、「きゃーっ」と可愛い悲鳴が上がる。鏡越しに見えるシェリーは、目を細めて、どこか面白がって見えた。
別にこれは、一緒にシャワールームに居てくれた事へのお礼だとか、そういうものじゃない。
ただ、一緒に行動をする者として、風邪とかを引かれたら嫌だという、それだけのこと。
シェリーの髪はほどよく長い。ごしごしと頭付近の部分にはしっかりと力を入れ、毛先の方に行くに従って、丁寧に髪の水分を取っていく。
ハンナの手に持つタオルに、段々と水分が移っていくのが手の感覚で分かった。
やがて。
「はい、できましたわ」
ハンナがシェリーの髪に直に触れて最終確認。問題無く乾いたことを確認して、シェリーを解放する。
「おお、ちゃんと乾いてます」
「おお、じゃねーですわ。あなた、普段どれだけてきとーなんですの。そんなに綺麗な髪してるのに」
鏡越しに自分の姿を見た後。自分の髪に触れて、シェリーは感嘆の声を上げる。
思わず言ってしまった一言に、シェリーはぴたりと、髪に触れる手の動きを止めて。まじまじと鏡越しにハンナの方を見る。
「……私の髪って、綺麗、なんですか?」
「いや、口裂け女みたいに言わないでくださいます?」
「いやぁ、そういったこと言われるの初めてで。…………そっかぁ、私の髪って、綺麗なんですかぁ」
にへらと笑って、シェリーは頭をかく。それまでの作ったような顔と違い、素の姿のように見えた。
思わず言ってしまったその一言は、誉め言葉、よりもおべっかだとかそっちの方だと思う。けれど頭のどこかでは、その青色は存在感があって、綺麗で、この暗い暗い牢屋敷の中に唯一存在する青空みたいな、そんなようにも見えたのは、確かだったから。否定しない。
自分の髪をくるくると指先でいじっていたシェリーは、再び鏡越しにハンナの方を見る。
「ハンナさんハンナさん。私の髪型って、覚えてます?」
「急に変なこと聞きますわね。三つ編みにして、輪っかにしてましたわよね?」
「ですです! ハンナさん、物覚えいいですね!」
「褒められても何もでねーですわよ」
褒められて、ほんの少し、嬉しいと思ってしまったのは。自慢げに思ってしまったのは、否定しない。だからそれが顔に出てしまっていたことに、気づかなかった。
「じゃあじゃあ、ハンナさん。私の髪って、元の髪型にできます?」
「できますわよ? ……でも、今結んでも、寝る時に解けたりしますわよ? それだったら、朝に結んだ方がまだ――」
鏡のむこうで、シェリーの顔がにんまりとするのが、見えた。
「――――」
誘導尋問に引っかかってしまったような、そんな気がした。
「ハンナさん」
どこか、子どもが発する声のような。甘える声のような。そんな声色が、耳に届く。
「結んでくれませんか? 朝」
「…………あなた自身でできるのではなくって?」
「いやぁ、この髪型って時間が掛かるんですよねー。牢屋敷の自由時間って決められてるじゃないですか。なら手早く結んで貰った方が、一緒に長く探索できるんじゃないかーって思いまして」
――結んで貰う気満々ですわね。だとか。
――明日も探索するつもりですの? だとか。
――これまでその髪型はどうしてきたんですの? だとか。
色々な言葉が、喉元まで出ては、引っ込んでいく。
鏡越しに見てくる、きらきらした目。期待に満ちた、丸々とした目。そして目に映る、眩しい青色の髪。膝上できゅっと握られた、手。
彼女の構成する全てが、自分に向けて、主張するのが見えた。
――『結んでくれませんか』と。
彼女といることは、けっして退屈しないのは、この一日で嫌と言うほどに分かった。
本当に、嫌と言うほどに分かった。
そして同時に――連れてこられた時の陰鬱さが、この人と一緒のときだけは、それを吹き飛ばしてくれていると言う事も、分かった。
「…………まったく」
ハンナの答えは、結局のところ、一つしかなかった。
「仕方ねーですわねぇ。わたくしの監房に来てくれるのなら、結んでやるのもやぶさかではなくってよ?」
――いいですわよ。あなたの髪の毛は、綺麗ですし。
頭の中で結んでいた言葉とは、別の言葉として、口から出てきた。
シェリーは、鏡越しに自分の顔をまじまじと見て。
「じゃあ、明日
それは。
嬉しそうに嬉しそうに、シェリーは言う。
振り向いて、鏡越しにではなく、まっすぐに見つめ合った後で。
二人はお互いに、笑みを見せた。
牢屋敷という、閉鎖された、明るい色も無く、先の明るさもまったく見えない環境の中で。
彼女が見せてくれる青色だけが、やけに鮮やかに、見えた気がした。
シェリーちゃんとハンナちゃんの、出会いの物語。
牢屋敷に連れ込まれて一日目、エマちゃんの視点で描かれていた作中で描かれなかった部分では、こんなシェリーちゃんとハンナちゃんのお話があったんじゃないかなぁと想像していました。
一日目からシェリーちゃんの体力馬鹿(誉め言葉)っぷりに振り回されるハンナちゃんの図。これがずっと続くんだなって思うと、すごく温かい気持ちになりました。
あとこちらは私事ですが。
冬コミ、スペースを頂けました。
申し込み時点ではまのさばに落ちてなかったのですが、そこから綺麗に自由落下していって今では立派な共犯者。ということで、シェリハン本を出すべく原稿を頑張っています。
告知などができるようになったら改めてサンプルなどをお出しできればと思うので、今しばらくお待ちください。
幸せなシェリハン本です。よろしくお願いします。
コミックマーケット107 一日目(火)マ-01b 『もちもち和菓子』です。