ハンナは、まるで魔法にかかったかのようにベッドの上で正座をしたまま、動けないでいた。
それは決して、囚人の誰かの魔法のせいだとかではない。動こうと思えば動けるし、体の動きを制限されているわけでもなければ、認識を改変されているだとか、思考を奪われているだとか、そういった類いでもない。
ただ。
「はー………………。ハンナさんのお膝って、温かくて柔らかくて、頭を載せるのにちょうどいいですねー」
シェリーがハンナを膝枕にしている。本当にただ、それだけのことだった。
ここでハンナが立ち上がれば、それに合わせてシェリーもハンナの膝上から落ちることになるのだろうけど、ハンナがそれをしない。できない。
「シェリーさん、満足したら降りてくださいまし」
「いやでーす。降りませーん」
――まったく、この人は……。
思わず、ため息も出る。
それは、シェリーに対してでもあり。そして、無理矢理動くこともできるのに、大好きな人が転げ落ちるからなどと理由をつけてそれをしない、甘い自分へのため息でもあった。
監房に突撃してきたシェリーの髪を整える、毎朝のいつもの儀式を終えた後。いつもであればシェリーはハンナの手を引いて監房の外に出るのだけれど、今日は違った。
髪を整え、三つ編みにし、いつものように輪っかを作り。そして『終わりましたわ』の合図でその背中をぽん、と叩く。
シェリーがにんまりとした顔で振り返ったかと思うと、ベッドの縁に座ったまま器用に飛び上がって――そして頭がハンナの膝上に、ぽすんと収まった。
なんでも。
『膝枕ってことをしてみたくなりまして!』
だとか言い出して、今に至る。
シェリーは、ハンナの恋人は、いつも好奇心で動く人で、何をするか分からない人だから。別に今更、その理由を考えたりだとか、そういう野暮なことはしない。考えたところで意味がないということは、とっくに分かっている。――どうせ、文字通り『やってみたかったんですよー』の一言で終わる話だろうから。
だから、細かいことを考えることはしないで、目の前の人が満足するまで付き合ってやりますか、という思考になるのだけれど。
「んー…………。これ、思った以上に…………」
膝の上で頭をごろごろと動かしてくる。ちょっぴりくすぐったいけど、我慢する。
――もしここで寝心地が悪いかも、だとか言ったら突き落としますわ。
そう、胸に決めながら、次の言葉を待つ。
「気持ちいい、ですねぇ。このまま寝ちゃいそうです」
違う方だった。膝枕継続。
それはそうとして、膝枕をし始めてから、もっと言えば、髪を整え始めてから、結構な時間が経っている。それはつまり、ベッドの上で正座をしてからの時間が、それとイコールということで。
「わたくしは、足が痺れてきましたわ」
「それは大変ですねー」
まるで他人事のようにしれっと言う。
いや、他人事かと言えばそうじゃないと思うんですけどね、シェリーさん。
――まったく誰のせいだと思ってますの誰の。
じとーっとした目を向けるも、シェリーはその視線を受けつつ、にへら、と人なつっこい笑みを浮かべるだけ。悪びれた様子は一切ない。
――朝はこのまま『探索』しないで、朝ご飯に行く形でしょうかね。
シェリーが膝から頭を上げる気配はない。「はー…………」と大きく息を吐き出す声だか音だか分からないものを最後に、監房の中は静かになる。
そしてシェリーは、目を瞑る。
そのまま動きを見せないまま、しばらくして。
「…………すぅ」
「マジで寝やがりましたわ…………」
静かな寝息を立て始めた。
額を撫でてみても、目を開ける気配はない。満足げな顔をして、静かな寝顔をハンナに晒していた。
「…………まったく。わたくしの気も察してほしいですわ……」
シェリーの柔らかな髪の毛に触れるのが。シェリーの香りをすぐ近くに感じるのが。整え終わったときにシェリーの柔らかな笑顔を間近で見るのが。胸が揺れ動かない、訳がない。
なんとか、毎日のいつものルーチンだと自分を御しているのだけれど、今回はそれとは違っていて。膝枕という、その人の重さや感覚を体に感じて――それで、心臓がうるさくならない、訳がない。
膝を通じて、
――わたくしはどうしたらいいんですの。ねぇ、シェリーさん。
胸の中で呼び掛けるも、もちろん返事なんて返ってきやしない。
「はぁ………………」
静かなため息を付きながら、ハンナはその整えたばかりの前髪をさらりと手の中で弄ぶだけだった。
――の、だけれど。
カシャリ、と、何か物音が聞こえた気がした。
顔を上げる。ココがスマホを向けているのが見えた。
――今の音は、あれ?
そう、ハンナが思考し始めるのと同時、ハンナのスマホがスポッと音を立てた。メッセージアプリの受信音は、大体夜にしか鳴らないのに――。
スマホをアクティブにする。メッセージの送信者は【沢渡ココ】。
【激写】
と書かれたメッセージに添付された画像は。
どうみても、今しがた撮ったと思われるもので。
「…………ちょっとココさん」
大きな声を上げたり、ここから動こうとしようものなら、大好きな人が膝上から落ちてしまう。だから静かな声でしか 反論できないのだけれど。
そんな状況を分かりきっているかのように、にま、とイタズラを終えた子どものような笑みを浮かべる。
「お嬢がこの時間までここにいるの珍しいしー? あ、大丈夫大丈夫、全体に晒したりしないから。あてぃし、そこらへんはしっかりしてるし」
「隠し撮りすること自体しっかりしてないと思いますけど」
「いいじゃんいいじゃん、同室のよしみでさ。ああ、シェリっちにも送っといたから」
「――ちょっと」
この写真をシェリーさんにも? それはちょっと、困……りは、しないかと思った。
写真をまじまじと見る。シェリーの髪の毛に触れて、愛おしげな顔をしている自分の姿が写っている。――写真としては、悪くな
カシャリ。
音が鳴った。
スポッと音が鳴った。
スマホを眺めて、今にも吹き出しそうな顔をした、自分の姿が――――。
「ココさん」
「お嬢の可愛い顔激写ー」
だなんて、心底面白そうな声を上げたかと思うと、非難の目を向けようとする前に、ひらりと二段ベッドの上に逃げおおせた。
「ほいじゃ、あてぃしは寝るよー。静かにしておくんなら、別にここに居てもいいし」
暗に、今までがうるさいと言われているような気がして、ひとまず膝上で寝息を立てている
――らしいですわよ、シェリーさん。静かにしてください、だそうですわ。
とは、思うものの。
目の前の人が、賑やかでなかったこと自体がそうそうなくて。むしろ、今の静かな状態の方が珍しくて――なんとも、違和感がある。
やっぱりこの人は、賑やかな方が似合っていると思う。自分を無理矢理にでも引っ張っていく方が似合っていると思う。
そっちの方が、いいなって、思う。
そっちの方が、好きだと思う。
「シェリーさん、起きてくださいまし」
声をかける。起きる気配はない。
ふと、子どもの時に読んだ童話が頭に浮かんだ。
「…………」
ぼろぼろの本で読んだお話を見て、ときめいたのはどんなシーンだったか。
眠ったままのお姫様を起こしたのは、なんだったか。
――王子とお姫様の立場が逆だな、と思った。
自分で自分をお姫様だと思っていることについては、頭の中から引っこ抜く。それなら恋人を王子様と呼ぶことになるから、まとめてポイする。
同室のココは、二段ベッドの上にさっき登っていったばかりで、覗き込んでくる様子も、ない。鉄格子の向こうには、誰もいない。
ハンナは――。
下を向いて、僅かに身を屈める。
前髪が垂れるのが見えて、片手で抑えて――。
そして逆の手で、シェリーの前髪をさらりと撫でて。
額に、静かに、口づけを、する。
「………………」
膝枕をしているとき以上に、心臓が高鳴る。顔が、上げられない。
「………………えへへ」
「…………――――」
すぐ近くから、声がした。
さっきよりも、はるかに。どくんっと、心臓が跳ねるのが分かった。
視線をすぐ上にずらせばいいだけなのに、それが、できない。
「目覚めのキスってやつ、ですかね」
「――――――」
今度こそ、体が固まった。その態勢のまま、動けないでいる。
眼球だけが、微かに上に動く。シェリーの閉じられていた目が、開いているのが、見えた。
そして優しく、細められるのが、見えて。
体が、無理矢理起こされる感覚があった。
それは、起き上がったシェリーの顔に押されたものだと分かったのは。
「…………む、ぅ」
唇に、柔らかい物が触れた感覚で、やっと思考が戻ってきた時で。
その時になって初めて、頬に手が当てられているのが分かった。すぐ近くに、大好きな人の顔があるのが分かった。息を吸ってその人の匂いを強く感じるのが分かった。
それは。
今、されたのは、つまり。
「おはようございます、ハンナさん」
ぺろりと舌を出して。
――お返しです。
だとでも言いたげなシェリーが、すぐ目の前に見えた。
今日は11月22日でいい夫婦の日。なのでいちゃいちゃするシェリーちゃんとハンナちゃんのお話を投稿しました。
シェリハンの二人は末永く一生一緒にいちゃいちゃすべき。そうするべき。
冬コミで出す予定の本からの掲載です。
この時点で二人でお付き合いをしているので、そのようなルビになっています。
牢屋敷の囚人たち皆公認で、いちゃついててほしい。そんな弊世界の牢屋敷。