朝六時。
監房の電子ロックが外れる音がした瞬間、鉄格子が開けられる音と同時に廊下をぱたぱたと走る音がする。そしてその声は、いつもと同じ時間に飛び込んできた。
「ハンナさん! おっはようございまーす!」
「はい、おはようございます。……朝から元気ですわね」
「そりゃー、探偵は体が資本なので! ハンナさんは眠そうですね?」
「あなたが寝かせてくれなかったからですわ……。自覚持ってくださいまし」
「えー? ハンナさんもノリノリだったじゃないですか。私のせいだけじゃないと思うんですが」
「はいはい。声が地下通路に響くのでとっとと入りなさいな。寝てる人があなたの声で起こされたりしたら、逆恨みで背中を刺されますわよ」
シェリーの声は地下通路の中に反響していて、微かに山彦のように反射して聞こえる。つまり、この声は地下通路全体に響いてしまっているということで――。決してやましい会話をしているわけではないのだけれど、ハンナは右手で口元に人差し指を立て、広げた左手を上から下に下げるジェスチャーをする。
――つまり。静かにしなさいな。ということで。
「それではおじゃましまーす!」
元気な声と共にハンナとココの二人
――ま、いいのですけれど。
ハンナは胸の中だけでため息を吐いてから、朝のいつもの場所――ハンナのベッドの縁に座るシェリーを見る。
その髪の毛は結われておらず、いつも通りの様子だった。
「いつもの、でいいのですわよね?」
「お願いしまーす!」
にこにことした顔で言われて、ハンナも悪い気はしない。シャワー室の中で偶然見つけた櫛を持ち出して、ベッドの上に正座で座る。
「さぁ、ハンナさん、遠慮はいりません。ひと思いに、願いします」
シェリーはいつも被っている帽子を膝の上に載せて、準備万端だ。
「あなたを介錯するつもりはありませんわ」
そして、ぼさぼさのままになっているシェリーの髪の毛に、櫛を通していく。
「……相変わらず、あなたの髪の毛はあなたらしいですわね」
「お褒め頂き光栄ですっ!」
櫛を通した空色の髪の毛は、地下通路から差し込む淡い光に反射して、きらめいて見えた。
「あっちこっちにとっちらかって、素直な状態かと思ったらすぐに引っかかって、でもふわふわしていて手触りは気持ちがよくて」
「褒めてますよね?」
「さぁ、どっちでしょう」
そんな軽口を叩きながら、ハンナはシェリーの髪の毛を静かに梳いていく。
「一緒にシャワーを浴びて、同じシャンプーを使ってるのに、シェリーさんの髪の毛はなんでこうなるのでしょうね……」
「んー、なんででしょうねー? こっちに来てからはずっとこうな気がします。ハンナさんのまっすぐですべすべな髪の毛が羨ましいです!」
紙を梳かしているうちに、ハンナの髪の毛がシェリーの方に行ってしまっていたのだろう。その髪の毛をさらさらと手の中で弄ぶのが見えた。
髪を梳かすことの邪魔にならなければいい、と思いながらも、自分の髪の毛を弄られていることについてはくすぐったく思うハンナだった。
シェリーの髪の毛が櫛に引っかかって痛い思いをしないよう、優しく丁寧に梳いていく。朝の地下監房は物音も話し声も少なく、櫛が髪を通す音だけが静かに聞こえる。
「シェリーさん、頭を動かさないでくださいまし」
「えー、動かしてませんよー」
ハンナからシェリーの顔は見えない。けれど、目を細めて子どものような顔をしているのだろうな、というのはありありと分かった。そう言いながら、わざとらしく頭を前後に揺らしているのだから。
「そう言いながら動かさないでくださいまし。引っ張られて痛くなりますわよ」
「ハンナさんになら痛くされても大丈夫でーす」
本当に子どもみたいなことを言う。けれどそれも毎度のこと。子どものような邪魔をされながらも、ハンナは丁寧にシェリーの髪を梳いていく。
髪の毛を梳き終わったら、今度は編み込みだ。
シェリーは自分の髪の毛を三つ編みにし、それで輪を作っている。今それをやっているのは何を隠そう、ハンナだった。
あるとき、看守に追いかけられて思いっきり走った後、編み込みが解けているのに気づき、ハンナがシェリーの髪の毛を整えてやったところ。
――ハンナさん、手先が器用なんですね!
だなんて、きらきらとした目をして言われて。
ずい、と顔を間近に近づけられたハンナが、『ま、まぁこのくらいは? 姉妹の髪の毛を整えるのもやってきましたし?』と照れ隠しに言ったところ。
――じゃあ明日、部屋にお邪魔しますね!
だなんて言い出して――そして、今に至る。
髪を整えるということは、ハンナとしては嫌いではない。そして相手がシェリーだから、なおさら。
誰かが殺人を犯すかもしれないというこの牢屋敷の中で、髪の毛を、更に言うならば、背中を、無防備に晒すことを許している相手がいる、ということが。シェリーにとっては少なくとも、自分だけは信用できると、安心できると、そう思ってくれていることの証拠だったから。元々、一緒に行動していることもあり、信用はしている。それがこのような形で、行動で示してくれるシェリーには、ある意味で感謝している。――絶対に、言わないけれど。
だから、もしもハンナの髪の毛を整えられるとすれば、シェリーだと思っている。けれど毎朝のこの様子を見ると、それが叶うことはないだろうな、と思う。
髪を梳くのと同じくらいの時間をかけて、左右に三つ編みを作り、そして輪を作る。
「はい、できましたわ」
髪型を整え、そして前に回り込んでシェリーの全体を見る。
膝の上で帽子を持って、うきうききらきらとしているシェリーの視線をひとまず無視して、髪型と服装を確認する。ひとまず変なところはなく、いつものシェリーの姿を整えられて安堵したハンナは、帽子が無いシェリーの頭をぽん、と叩く。
「はい、動いていいですわよ。……さっきから動いてましたが」
「えへへへ。ありがとうございます」
帽子で口元を隠し、目を細めて笑顔になるシェリーを見て。ハンナは胸がぽかぽかと温かくなる感覚がある。髪を整えているのは決して、何か見返りを求める物ではなく、ただ単純に、シェリーに言われたから、やってあげている、それだけのこと。
それなのに、ハンナは何かを貰っているような、そんな気がしてならない。
それは温かさだとか、愛おしさだとか、嬉しさだとか、安らぎだとか、そういう類いのものなのだと、ハンナ自身はまだ気づいては居ないのだけれど――。
スマホを取り出し、自分の姿を見て、再びへにゃりと笑みを見せたシェリーを見て、胸が高鳴るのを覚えていたハンナは。
「やっぱり、ハンナさんはすごいですね」
不意打ち気味に褒められたシェリーに対応できずに、変な声を上げてしまう。
「そ――――そそのくらい、当然、でですわよ? 毎日やってることですし? もう慣れたものですし?」
「それでは、明日もお願いしにきますね」
帽子を頭に載せて、しれっと、『明日もお願いします』の宣言をしてくる。
「…………」
――相変わらずこの人は遠慮という物を知らないんですから、という自分と。
――明日もシェリーさんの髪の毛を結ってあげられる、という自分と。
呆れと嬉しいが同時に来て。でもどっちが優勢かだなんてのは、言うまでもなくて――。
「…………シェリーさんは、自分でやることを覚えてほしいのですけれど」
「一応、私でもできなくもないんですけどね?」
――じゃあなんで、という言葉を挟む前に。力の無い笑みを浮かべて、シェリーは言う。
「ハンナさんにやってもらうと、なんかほっとするので」
落ち着けるからお願いするのだと、照れる様子も無く、自分の気も知らないで、そんなことを言ってくる。
ああもう、だからこの人は――。
このため息がどんな温度なのかは、言うまでもなく。そしてそんな間にシェリーは立ち上がり、手を伸ばしてくる。
「さ、行きましょうか、ハンナさん。ご飯を食べたら、また外に行きましょう!」
有無を言わさず、手を掴んで。【怪力】の魔法なんて一切無いように、優しく、手を引く。暗い地下監房から、明るい地下通路へと、導いてくれる。
地下通路に一歩踏み出した瞬間、射してくる光のせいで、振り向くシェリーの姿が眩しく見えた。
「ほら、行きますよー」
ぱちくりとして、その姿を見上げていたハンナは、一言。
「…………仕方ねーですわね。今日も付き合ってあげますわ」
そう照れ隠しを込めた悪態を吐いて。
ハンナは今日も、シェリーと手を取りあって、歩き出した。
シェリーちゃんの髪型は、ハンナちゃんが結ってたら尊い。
そしてシェリーちゃん自身でもできなくはないことを、ハンナちゃんにお願いする何かの理由があったらより尊い。
そう思ってたらこんなお話ができました。
シェリーちゃんとハンナちゃんは朝からずっといちゃいちゃしててほしいと思います。