平日のど真ん中の、朝。
「ハンナさん! おっはようございまーす!」
寮のドアが開かれる音と共に、ハンナが聞くのは、いつも通りの恋人の元気な朝の挨拶。
そして、ぱたぱたと音を立てて足音が聞こえたかと思うと、勢いよく部屋の扉が開かれる。
見えてきたのは、いつもの太陽のように眩しい笑顔と、蒼空のように綺麗で、まったく整えられていないぼさぼさの髪。そしていつもの、手を上げた挨拶のポーズ。
隣の寮の部屋からやってきたこの人は、入り口に呼び鈴が付いてるのをすっかり忘れてしまったんじゃないかと思える。ハンナが覚えている限り、これが鳴らされたことはない。
――いいんですけどね、別に。今更ですし。
そしてお茶碗を持ったままのハンナが言葉を返すよりも先に、制服姿のシェリーは部屋の中に入ってきて、そして。
「はいはい、おはようございます、シェリーさん」
「ハンナさん、朝の挨拶は元気に! ですよー?」
「貴女が賑やかすぎるだけですわ。――――で、抱きついてきやがるのはなんなんです?」
「ハンナさんに元気を補充してあげようかと」
「それ、貴女がやりたいだけじゃねーんですの?」
「てへっ」
シェリーがやってることは『ハンナさん成分を補給させてくださーいー』と甘えるような声を出して、後ろから抱きついてくるいつもの行動。今日はやってくるための理由が違うだけで、やってることはまったく同じ。ご飯の匂いが部屋の中に漂っていた中、背後からシェリーの温かくて優しい匂いが香ってくるのを感じて、ハンナはもちろん、平常心のままではいられないわけで。
「…………まったく。朝から元気なことで羨ましいですわー」
シェリー(こいびと)が抱きついてくるのはいつものことと思っていても、シェリーのいつもの声を聞いて、その感触を体に感じて、その匂いを感じて――。嬉しいと思うし、心がほっとするのが分かる。朝から、胸がぽかぽかと温かくなるのが分かる。あとついでに心臓が数分前よりも早く鳴っている実感がある。いつもの行動。いつものやりとり。そのおかげで、――またいつもの朝がやってきたんだな、と思える。
もちろん、いい意味で。
一緒の学校に通い始めてから二月以上が経っているのに、牢屋敷の頃からこの人の朝の行動はまったく変わっていない。そしてこの後は、シェリーを椅子に座らせて、一切手入れがされていない髪の毛を梳かして結ぶ、いつもの作業。
「で、シェリーさん、朝ご飯は食べてきましたの?」
「はい! ばっちりです」
「ならいいですわ。ではわたくしが食べ終わったら鏡の――」
言い切る前に、シェリーはハンナから離れ、鏡の前に置いてある椅子へと座る。
「待ってますね! ハンナさんはごゆっくり!」
そして椅子に座って、足をぷらぷらとさせる。
――わたくし、まだ食べてる途中ですのよ。まぁ、シェリーさんがいいならいいんですが。お待たせしないように、少しだけ急いで食べることにしましょう。
シェリーの方を見ると、にこにことしたシェリーと目が合う。髪を梳かしてもらうのがどれだけ待ち遠しいのか、笑顔のまま頭をゆらゆらと揺らして、ご機嫌そうな姿を見せていた。
朝から賑やかな、気の早い恋人に、自然と笑みが浮かぶ。
少しだけ急いでご飯を食べ、茶碗を流しに置いて水を張って、そして先ほどから『お預け』をされたままの恋人の元へ。
「シェリーさん、お待たせしました。いつもので、いいのですよね?」
「お願いしまーす!」
鏡越しに、恋人の笑顔が弾けるのが見えた。
髪を梳かして、整えて、結んで。そしていつもの姿になったのを見届けて、そのお礼のつもりなのか額に口づけをしてきて――。そしていつものやりとりを終えて、今日も、一緒に学校への通学路を歩き出した。
◇◇◇
「ハンナさんハンナさん。今日は私、数学で当てられちゃう日なんですよ。着いたら写させてもらってもいいですか?」
手を繋ぎながら歩く通学路は、学校までゆっくり歩いて二十分ほど。空は梅雨時期らしくなく、蒼空が見えていた。
――それを言うなら、少しくらい急いで歩いて、写す時間を確保したらいかがですの?
と思わなくもないけれど、自分の体力を
「別にいいですけど。……シェリーさん、当たるって分かってて、どうしてやんねーんですの? 昨日も予習の時間はあったでしょうに」
「ハンナさんが写させてくれるからいいかなぁと。その分、ハンナさんといちゃいちゃしたかったですし」
「…………――――、ほんっと、なんでそれでちゃんと点数が取れるのか、知りてーですわ」
昨日の放課後は、寄り道もせずにまっすぐ帰って、シェリーと寮の部屋の中でずっと過ごしていた。じめじめして変に暑苦しいというのに、この人と言ったら後ろからくっついてきて抱きしめてきて――。しかも晩ご飯を食べ終わっても『もうちょっとだけいいですか?』だとか言って甘えてきた。テレビで映画を見ている間、ずっとその体勢で――。昨日の寮でのことが思い出されて、動揺しかけたけれどなんとか表に出ないようにした。
とは言っても、繋いでいた手に思わず力が入ったせいで、この人にはどうせバレてしまっているんだろうとは思うけれど。
「んー、私がやってることと言えば、毎日授業をちゃんと――――あれ」
シェリーの言葉が止まるのとほぼ同時、鼻の頭にぽつりと、何かが落ちる感覚があった。
隣を歩くシェリーは右の掌を空に向け、何やら首を傾げていた、かと思うと。
ぽつぽつと雨粒が数滴落ちてきたあと、ざぁっと、音を立てて雨が降ってきた。
「――――え」
急に香ってくる、雨の匂い。そして頭には、雨粒の感覚と、濡れる感覚。
「――――――え?」
シェリーと繋いでいる逆の掌を挙げてみる。手が濡れていく。
雨だった。本物の。
「………………ちょっとぉ!?」
頭が動き出すまで、ほんの少しの時間がかかった。でも、仕方ないと思う。空に雨雲なんてものは一切見えなかったし、雨の匂いだって全然しなかったのだから。
左右を見回しても、雨宿りする場所なんてものはない。その間にも頭は、そして肩は、雨で濡れていっているのが分かる。
――空は蒼空が見えてますのに!
そうは思っても、雨が降ってきているのは事実で。せめて頭だけは濡れないようにと、背負っていたカバンを傘代わりにしたところ。
「ハンナさんハンナさんっ!」
前の方から、弾むような声が聞こえてきた。
「これ、狐の嫁入りってやつですよね!」
前を向くと、いつの間にか手を離していたシェリーが、同じくカバンを頭の上に掲げてぱたぱたと駆けているのが見えた。
そして、くるりと振り向いたその顔は――眩しいくらいの、笑顔だった。
光る雨の中で見る恋人の笑顔は、見とれてしまうくらいの、綺麗さだった。
「な――――――」
通学中に雨に降られるなんて、最低最悪の日と言っていいのに。学校に行ったところで、どうせ全身ずぶ濡れ。変に目立ってしまうだろうし、ちゃんと拭かなきゃ風邪を引いてしまうかもしれない。今日はもう散々な日になるのが確定しているというのに。
それでも、貴女は、どうして――――。
「なんっ、でそんなはしゃいでんですの!」
声が出にくかったのはきっと、突然の雨で反応が遅れたんだろうと、思うことにした。
「それよりまずは走りますよハンナさん! ハンナさんが濡れてしまいます!」
「そ、そうですわね!」
前を走り出すシェリーを追って、走り出す。
走るシェリーの足は早く、そのまま走り続けたらすぐに……と胸が重くなる思いがしたかと思うと、急にシェリーの速度が落ちるのが見えた。そしてちらりとこっちを見たかと思うと、何やらにまっと笑って、一言。
「ハンナさんをお姫様抱っこできずですみません!」
「――そんなんいらねーですわよ!」
思わず反射的に言葉が出た。こんな状況なのに、この人は笑わせようとしてるのか、それとも素なのか分からない。もしもここで『ではお願いしますわ』だとか言ったら、この人はするんだろうかと思う。――――するんだろうな、と思う。なんだか笑えてきた。こんな時なのに。まったく。
「シェリーさん、走るときは前向いて走りなさいな!」
「はぁい」
二人で走りながらも、前を走るシェリーが時々振り向いてくるのは、手を繋いでいない分、着いてきているかどうかの確認、ということなのかと思う。わたくしはそこまでやわじゃねーですわよ、と思いはするものの、心配してくれるシェリーの気持ちは、嬉しいと思う。
走り出して、数分。周りが雨音で包まれる中、前の方から「きゃーっ!」とそれはそれは嬉しそうな、楽しそうな声が聞こえてくる。それから何度目かの振り向いたシェリーの顔が、それまでに見たものの中でも、一番の眩しい笑顔に見えた。シェリーは一体、何がそんなに楽しいのかと思う。こんな、突然の天気雨なんて、気が滅入るだけのことなのに――。
「シェリーさんはっ、ほんっと、楽しそうですわねっ!」
ふと、言葉が口から出た。走りながら考えていたからなのだと思う。
――こんな時なのに。という皮肉の言葉は、最後まで出なかったけれど。
「え、だって――――」
数歩先で走っていたシェリーがくるりと振り返り、器用にバック走をし始める。
ぱっちりと目が合った大好きな人は、カバンを頭に掲げながら、太陽を背に、満面の笑みを浮かべていた。
「大好きな人と雨の中で一緒に走るのって――なんだか、青春っぽいじゃないですか!」
笑顔でそう言ったあと、両方の手を左右に広げて、くるくると回り出した。眩しいくらいの笑みを見せて、大好きな人は心の底から楽しそうに、笑い声を上げる。
「――――――、」
――だからシェリーさん、前向きなさいな。とは、出てこなかった。口が開いて、そして、それだけだった。
空は蒼空。雨と太陽の光が降り注ぐ中。シェリーに当たる雨粒が、シェリーの濡れた青い髪が、日光に照らされてきらきらと光って見えて。
その姿に――見とれてしまっているのを、自覚した。
雨音の中で聞こえるシェリーの声が、やけに楽しげで、やけに明るく聞こえて。それがどこか、
――ああもう貴女は。ほんっと貴女は。いつでも変わんねーですわね。
ため息と共に、釣られて笑い声が漏れてしまうのが自分でも分かった。こんな状況でも、笑顔になってしまう自分が分かった。全部全部、
だから、顔がやけに、熱いと思ったのは。心臓がやけに、うるさく思えたのは。
◇◇◇
「はぁぁぁ…………」
結局、学校に着くまで天気雨が止むことはなかった。
カバンで頭は守ったものの、服はものの見事にずぶ濡れ。流石にそのまま教室に入ることはできず、かと言って着替えを持っていない状態ではどうしようもなく、ハンナは廊下に据え付けられているロッカーの前で、ため息を吐いていることしかできなかった。
「ハンナさん、はい。まず拭いてください」
またひとつため息を吐いていると、声と共にスポーツタオルが差し出された。優しげな恋人の声に、ハンナは礼を言おうと、差し出してくるシェリーを見上げ、て。
「ちょ――――――!」
見えたのは、ワイシャツ一枚になったシェリーの姿。濡れたワイシャツが体に張り付いていて、体のラインがはっきりと見えてしまっていて、出そうとした礼の言葉は引っ込んだ。
まったく恥ずかしげもなくそんな姿になっているせいで、ふと
――どーして貴女はそうなんですの?
とは言え、ここは廊下。人の目がある場所。口にするのは、どうしても
「ハンナさん、拭いてあげましょうか?」
言おうとしたことを言えないままでいると、シェリーをずっと見上げていたせいで、何かを求めているように思われてしまったようで。
「……結構ですわ。わたくしでできます」
「そうですかー。はい」
シェリーからタオルを借りて、頭をごしごしと拭く。後で洗って返す約束をして、頭だけでなく服も軽く拭いて――ひとまず、濡れ鼠の状態からは抜け出ることはできた。でも、今着ているもの以外に着る服がない、ということは、変わらないまま。
――どうしましょうね。先生に言って、何かしらをお借りする方が……。
「ハンナさん、服濡れちゃいましたね。ハンナさんのジャージは洗ったばっかりでしたし」
そんな中、シェリーはまるで自分の内心を見透かすような事を言ってくる。
ハンナは、一昨日の体育の授業ですっ転んで、学校指定のジャージを洗う羽目になっていた。今週の残りは体育の授業はないし、例え部屋干しだとしても明日には乾くだろうと思っていたところでの、天気雨。あまりにも巡りが悪い、と思う。
そしてシェリーは、ジャージを部屋に干していたのを、昨日の家の中で見ていたのだと思う。
――あれだけ甘えてきてたのに、よく部屋の中を見る余裕がありましたわね……と思う。
――わたくしの方はそんな余裕全然なかったですのに……とも思う。
なんだか恥ずかしくて、顔の温度が上がる感覚があった。
「……よく、見てますわね」
「てへ。ハンナさんが部屋に干してた下着の色も言えますよ」
「言うな!!!」
余計なことを言わなければこの人を見直していたのだけれど。やっぱり
「はい、ハンナさん」
考えごとをしていたからか、ロッカーの中をごそごそとしているシェリーに気が向いていなかった。だから、手の上にぽすんと載せられたそれを見て、一瞬思考が止まってしまった。
「…………え?」
「え? じゃないですよ。ハンナさん、上着濡れちゃってます。そのままで授業を受けたら、ハンナさんが風邪引いちゃいますよ」
「いや、濡れてるのは貴女も同じでしょうに…………」
「シェリーちゃんは半袖を着るので、平気です!」
ふん、と鼻息を吐くシェリーの手にあったのは、学校指定のジャージ。そして胸には『橘』と書かれているワッペン付き。――なお、これを縫ったのは何を隠そう自分なのだけれど――。
そして正面のシェリーが持っているのは、その半袖のもの。
――つまり。
――ええと。それは。つまり。
「………………ええ、と」
「ハンナさんは身体が小さいので、私のも着れます! よかったですね!」
流れるように親指を立てて、そして満面の笑みで言ってのける。
その前に言ったことは置いておくとして。シェリーが言うのは、つまりは。
「…………
「はい!」
「………………」
笑顔で頷くシェリーに、頭の中に、牢屋敷での事が思い浮かんだ。
一緒にシャワーを浴びて、先に出たシェリーが自分の服を着てしまっていて。その結果、玉突き事故的にシェリーの探偵のような服を着ることになって。着替えるものも、着替える時間もなかったものだから、着てそのまま監房に逃げ帰ることになって。下着になるわけにもいかず、そのまま寝たところ、シェリーの匂いに包まれているせいで妙に心臓がうるさくてたまらなくて――。
あの時のことは、今も記憶としてしっかりと残っている。だからもし、同じような事になってしまうとすれば、授業を受けるなんて状況じゃなくなるのは分かりきっていて――。
手に載せられたものを見て考えていたら、予鈴のチャイムが聞こえた。
ここで自分が我を押し通すことも、きっとできるのだと思う。けれどこの状況、自分が着なければ、きっと――いや、絶対に、シェリーも服を着替えないだろうと思った。シェリーが自分のせいで風邪を引くなんてことになったら――絶対に、自己嫌悪で凹むと思った。
「…………お借りしますわ」
「はい、どうぞ! 私も着替えますね!」
二人でトイレに駆け込み、個室で着替えて出た瞬間に、再びチャイムの音。
ハンナはシェリーと共に、教室へと駆け込んだ。
◇◇◇
起立、礼、着席。一時限目の、数学の授業が始まる。
自分だけ上下ジャージであれば目立ってしまうのだろうけれど、教室には同じような服装の生徒がいる。おそらく同じように天気雨に降られてしまったのだろうと思う。
変に悪目立ちすることがないことには、安心した。なの、だけれど。
「………………」
ハンナはそれ以外の部分で、そわそわとしてしまっていた。
シェリーの身長に合ったジャージを着ているのだから、身体が小さい自分が着てしまえば、ぶかぶかになるのは当然で。袖の部分をいくら肩の方にずらしてもずらしても、すぐずり落ちてくる。机と腕でジャージを挟まないと、手がすぐに袖に隠れてしまう。そしてジャージの裾も、本来は腰の部分で止まるべきものが、そのまま座ったら尻に敷いてしまうほど。更には襟元部分も大きく、シェリーのジャージに顔を埋めているような状態になってしまっていた。
――けれど別に、着ているものが大きいことは問題じゃない。
ジャージのおかげで身体は温かいし、髪の毛も乾いているから、風邪を引く心配はない。
ただ――――着ているジャージが
授業を受け始めて、数分。息を吸った途端、ジャージから、ふわりとシェリーの匂いが香ってくるのを認識してしまったのが、全ての始まりだった。
「………………――――――」
それはまるで、寮の部屋の中でシェリーに後ろから抱きつかれているときのような感覚。それを学校の中でも、しかも常にされているような感覚になってしまって――。ジャージの温かさのせいで、余計にそれを感じてしまって、やけに心臓がドキドキとしてしまっているのが、分かる。胸がそわそわとしてしまうのが、分かる。
「――――――~~~~~~っ!」
身体にシェリーの手の圧力がない分、かえって抱きつかれていた記憶が頭に次々と浮かんできて、匂いと共に、シェリーに耳元で囁かれた言葉も浮かんできて――――。
なんだか鼻がやけにむずむずしてきて、鼻をかこうとして。服の袖から、シェリーの花のような甘くて優しい香りが漂ってきて、余計に心臓がうるさくなる。顔が熱くなってくる。
妙に高ぶる気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吸う。シェリーの匂いが、より身体の中に入ってきて、余計にドキドキが加速した。
――何やってますのわたくしはもう――――――!
頭の中で自分自身に言ったところで、全く意味はなくて。先生が何か説明をしているような声が聞こえるけれど、まったく頭の中には入ってくれない。
思わず、天を仰ぐ。そして大きく息を吐く。頭を前に戻す途中、視界に綺麗な青色の髪が見えた。斜め前の方の席には、シェリーがいる。真面目な顔をして板書をしているのが見えて、さっき以上に心臓がドキリと鳴る。
彼女は黙っていればカッコいいし、整っているし、綺麗だと思う。真剣な顔は、いつも自分に見せる緩んだ顔とのギャップで、余計に凜々しく見えるような気がする。
その顔を後ろからじぃっと見ていると、シェリーはまるでこっちの視線に気づいたのかのように振り返ってくる。さっきの凜々しい顔はどこへやら。人なつっこい顔をして、こっちに向けて手を振ってくる。
『ハンナさん』と。ぱくぱくと開閉する口が、そう言っているのが見えた。
――前を向きなさいな。
シェリーに向けて指を差す。にへら、と笑みを浮かべて、また手を振ってくる。
声を出すわけにはいかないから、もう一度シェリーを指差す。何がおかしいのか胸を撃たれたような演技をする。
「橘シェリーさん」
シェリーを呼ぶ声が教室に響いた。
その声を発したのは、数学の先生。
「説明、聞いてましたか? 次の問3、答えてください」
――だから言いましたのに……。
思わず額に手が伸びてしまう。途中から先生の視線がシェリーに向いていたのが分かっていたから、『前を向きなさいな』と指で示したのだけれど、どうにも伝わらなかったようで。
しかも当てられたのは、シェリーが通学路で言っていた部分。つまり、予習してない箇所。
天気雨のせいで写すことはおろか確認もできなかったものだから、きっとシェリーはそのまま人なつっこい笑みを浮かべて『分かりません!』と堂々と言うのだろうな、と思って、いて。
「はい。ええと。…………Xイコール2です」
「正解です。シェリーさん、授業中は前を向くように」
「はぁい」
すらりと答えたあと、座る。
そして先生が今の問題を解説しようと、途中式をモニターに表示させて、レーザーポインターで式の説明を開始する。
シェリーがくるりと振り返るのが見えた。
『危なかったですね』
笑顔で、口だけで言ってくる。
漂ってくるシェリーの匂いを感じ、口の形だけで本来は聞こえないその声が、頭ではしっかりと再生されて。
ドキリと、またひとつ、心臓が音を立てるのが分かった。
――お昼ご飯を一緒に食べるとき、色々と言ってやらないといけませんわね。
自分が『橘』のジャージを着ているというのにも関わらず、まったく気にもせずにしれっと授業を受けているシェリーを見て、ハンナはそう決意した。
シェリハンの学パロなお話です。
シェリーちゃんとハンナちゃんの身長差は14センチ。シェリーちゃんのジャージを着ちゃったらハンナちゃんのちっちゃい身体ではぶかぶかになるのも当然で――。そんなお話。
シェリーちゃんの彼シャツ概念、いいよね………………。
牢屋敷から戻ったシェリーちゃんとハンナちゃんは、こんな賑やかで騒がしくて楽しくて温かい青春の高校生活を送っていてほしいなって願ってます。