バレンタイン。
世の中的には、好きな人にチョコレートを贈るものとされている日。
わたくしは今まで生きてきた中で、そういったことはやったことがなかった。――まぁ、色々な事情で。
だから、学校では、クラスメイトが誰に渡しただとか、他のクラスの誰が誰からもらっただとか、そんな話が聞こえてくるのを耳にするだけで。
わたくしはずっと、部外者だった。
――だった。
なぜ、過去形なのかと言われたら。
「………………」
今のわたくしが、生まれて初めて、その当事者になっている、ということで。
ただ、その状況が、状況で。
贈るのはわたくし。貰うのはシェリーさん。
わたくしがいるのは、寮に備え付けのキッチン。その隣にはシェリーさん。
――――つまり、そういうことで。
ざくざくと板チョコを刻む音だけがキッチンに響く。
隣からはシェリーさんの視線がずっと突き刺さり続けている。きらきらした目でわたくしが調理しているところを、まじまじと、じぃっと、見られている。
「…………ネタバレもいいとこですわね」
「私はネタバレをまったく気にしないので大丈夫です!」
恋人は笑顔で流れるように親指を立ててみせる。
――そういうことじゃねーんですわよ、まったく。
ため息は、表に出さずに飲み込む。
わたくしがチョコレートを贈ろうとしたのは。そしてせっかく贈るなら、買ったものをそのまま渡すのではなく、作ることにしたのは。大好きなシェリーさんに、日頃のお礼を伝えたいと思った。ただそれだけのこと。
牢屋敷に行く前の状況であればまだしも、あちらから戻って、様々な事が解決して――どうにもならない部分は残っているけれど、ヒロさんが頑張ってくれているらしい――そういうこともできるようになった今。世の流れに便乗して、シェリーさんに初めてあのチョコレートを渡そうとしている。本当にただ、それだけのこと。
やることは分かっていて、そしてシンプルな筈なのに。
それでもやっぱり、緊張してしまうし、変に胸は高鳴ってしまうし。キッチンの中は暑くもないのに、顔が妙に熱く感じてしまう。
チョコを作る時点でこうなのだから、渡す段階になったらわたくしはどうなってしまうんでしょう? と思わなくもないのだけれど、先のことを考えていても仕方はないし、その時はその時で腹をくくるしかない。
今やることは、目の前の工程に集中するだけ。
「………………」
シェリーさんは相変わらず、じぃっとわたくしの方を見ている。
「見ても面白みも何もねーですわよ、本当に。なんなら部屋で推理小説でも読んでたらいかがですの? 何かあったら呼びますし」
「いえ!」
視界の隅で分かりやすいくらいに首を振るのが見えた。
「面白いーって言っちゃうと語弊がありますけどね。ハンナさんの魔法の手で料理ができていくのを見るのは、面白いですし、ずっと見ていたいんです」
シェリーさんのことだから。きっとわたくしを一人にしたくないだとか、そっちの方の考えもあるんでしょうね、と思う。
シェリーさんは遠回しにそういうことをやってくる。言ったところではぐらかすだろうから言わないけれど。そんなシェリーさんの気持ちに触れると。どうも、胸がくすぐったくて仕方がないし、シェリーさんへの思いが溢れそうになる。
嬉しくて顔が緩みそうになる。シェリーさんに喜んで貰いたいという気持ちがないわけではない
ネタバレだとかを気にする前に、このままシェリーさんのペースにさせてたらわたくしの心臓が持たなくなりそうな気がした。
「シェリーさんが見たいなら追い出しもしませんけど…………。つまみ食いとかすんじゃねーですわよ」
「分かってまーす!」
弾む声と共に、大きく頷くのが見えた。
◇◇◇
『わたくしはこれからキッチンに立ちますけど。シェリーさんはできれば立ち入り禁止でお願いしますわ』
学校から一緒に帰ってすぐ。背負っていたカバンを部屋に置いて、隣の部屋にいたシェリーさんに声をかけた。
今日は金曜日。そして二月十三日。
察しがいい――本当に、無駄に――シェリーさんなら、どうせわたくしの意図なんてすぐに分かるんでしょうけれど、と思いつつ、声をかけた。
別に隠しごとをするつもりもなかったし、聞かれれば正直に答えるつもりだった。
『何するんですか?』
そう聞かれれば、正直に答えるつもりだったのだけれど。シェリーさんの好奇心が刺激されたのなら、きっとそう聞かれるんだと思ったのだけれど。
『…………私、何かハンナさんにしてしまいましたか………………?』
だなんて、急にしゅんとした顔をされたものだから、一から十まで全部白状することになって。
全部言い終えるやいなや、この恋人は『では私は、ハンナさんが作るのを隣で見てますね!』だとか言い出しやがりまして。表情をころっと変えて。元気な声になって。
ほんの少し、言い方がマズかったかもしれませんわね、だとか。シェリーさんがいつも元気いっぱいだとは限らないのだから、わたくしもシェリーさんに甘えてばかりではいられませんわね、だとか。自らを省みていたのだけれど。
――だから貴女はノンデリって言われるんですわよ。という言葉は、頑張って出ないようにした。
で、今に至って。
シェリーさんへのチョコを作るところを、その本人に見られているという、なんとも妙な光景になってしまっていた。
――まぁ、こうなることも薄々分かってましたから、いいんですけど。
そんな光景だとしても、シェリーさんは好奇心を刺激された、きらきらとした目でわたくしの方を――正確には手元の方を――見続ける。なんともくすぐったく感じるし、むずむずするし、恥ずかしいけど、我慢、我慢。
「チョコを溶かすのって、火で炙るんじゃないんですねー」
集中していた筈の手が、ぴたりと止まるのが分かった。ついでに思考も止まった。
隣を見る。『なんですか?』とでも言いたげに首を傾げる恋人が見えた。イタズラっ子が浮かべるようなそれじゃなく、純粋な疑問の顔。――マジですの?
「…………シェリーさん、冗談、で言ってますのよね?」
「え? チョコを、熱で、溶かすんですよね?」
今度は首を逆方向に。こてんと。シェリーさんはマジで言ってるらしい。――――マジですの?
「…………いいから黙って見てろですわ。んなことやったら大変なことになりますわよ……」
今がチョコを刻む途中じゃなくて本当によかったと思う。
シェリーさんはどうにも知識が偏っていて、すごく深いことを知っているかと思ったら、割ととんでもないことを言ってのけたりする。今とか。
推理小説の中で得た知識がたくさんあるのなら、もう少しわたくしのことだったり様々なこう駆け引きだとかロマンスだとかそこら辺の方にも知識が向いていて欲しいのだけれど。
この人は。この人といったら。
まったくもってそんなことはなくて。
どれだけわたくしが――――などなどと怨みつらみをチョコを刻む推進力に変えて、ざくざくと刻むこと、少し。細かくなったチョコができあがる。
それらをボウルに移して、湯煎で溶かして――シェリーさんは文字通り目を丸くしていた――それから少しの手を加えて、そして百均で買った型に流し込む。
何が面白いのか、結局シェリーさんは最後まで部屋に戻ることなく、ずっとわたくしの作業を見守っていた。
冷蔵庫に型ごとチョコレートを入れて、ひとまずの作業は終わり。
「はい、あとは冷やすだけですわ」
「ハンナさんのチョコ、楽しみですね!」
冷蔵庫の扉を閉めた途端、後ろからうきうきとした声が聞こえてくる。
「つまみ食いは厳禁、ですわよ」
「しませんよぅ」
唇を尖らせて不満げな声を上げる恋人は。すぐさまその表情を明るい物にして、言う。
「ところでハンナさん、お買い物に行きませんか? 折角の金曜日ですし」
明日は休み、ということもあって、特に寄り道もせずに帰ってきた。そのおかげでチョコを作る時間も取れたのだけれど。
「明日は家でゆっくりごろごろしましょう。ハンナさんのチョコも食べたいですし」
「後ろの方が一番の目的じゃねーんですの?」
「それはどうでしょうねー?」
そんなやりとりをしつつも、二人で外行きの格好になる。薄着だとシェリーさんが無理矢理厚着にさせてくるから、自分でしっかり防寒対策をして。
――このタイミングで買い物ってことは。……そういうこと、なんでしょうか。
薄々とそんなことを考えながら。
「さ、行きましょうか、ハンナさん!」
肩掛けの鞄を持ったシェリーさんが、玄関でいつものようにわたくしの方へと手を差し伸べてくる。その手を掴む。指を絡める。隣を見ると、人なつっこそうな笑みを浮かべた恋人の顔がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
◇◇◇
歩いて十分のいつものスーパーは、時間を過ぎていたせいかそこまで混んではいなかった。
シェリーさんにカートを押してもらいながら、あれこれと買い物をして。てっきりお菓子コーナーかバレンタインの特設コーナーに足を向けるかと思いきや、まったくそんな気配は見せず。シェリーさんが食べたいと言った無水カレーの材料と、土日に引きこもる――シェリーさん談――用意をして、そのままレジへ。
その間、シェリーさんはずっと一緒に居てくれた。
てっきり、どこかで突然行方をくらますか、『おおっと! ちょっと用事を思い出しました!』だとか下手な嘘を吐いてチョコを買いに行くものかと思いきや、まったくもってそんなことはなくて。
――別に、わたくしはスーパーの中で独りになったからって、泣きわめく子どもじゃねーんですのよ?
シェリーさんがわたくしのことを気遣ってくれているのかどうかは、分からないけれど。
一応聞いておいた方がいいと思った。
「シェリーさん、あと買う物はありまして?」
「んー、特にないですかね」
「荷物の重さが気になるなら、わたくしも持ちますわよ?」
「このくらいなら私が持ちますので!」
「なら、いいですが……」
「はい!」
シェリーさん曰く、買う物は無いらしい。
そのままセルフレジに並んで、一緒にレジに通して。マイバッグに買った物を入れて、お店の外へ。シェリーさんが追加で物を買うような気配は、見えない。
歩き出すこと、少し。隣から機嫌のよさそうな鼻歌が聞こえてきた。
「やけに、ご機嫌ですわね」
「かもしれませんねー」
シェリーさんの右手には買った物を全部入れた袋。バランスが悪くなるでしょうに、と思うのだけれど、シェリーさんはいつもこの形を取っている。
そしてもう片方の手はと言えば。
わたくしの手と繋がれている。嬉しそうな鳴き声のような鼻歌のような何かが隣から聞こえ続けるのは、時々こつんと肩にシェリーさんの頭が乗ってくるのは、頬にしてくるのは、今日の晩ご飯がシェリーさんの食べたい物なのが決まってるからなんでしょうか、と思う。
絡めた指に感じる温かさのおかげで、この時期でも手袋いらず。むしろきっちり防寒対策をしてきたせいで、身体の中からの熱が外に逃げていかなくて。手からの熱が全身に巡っているせいで、顔だけが妙に涼しく感じられた。
それからは、普段とさほど変わらない金曜日の夜。
手を繋いで歩いて帰って。冷蔵庫に食材を入れてから、シェリーさんが食べたいと言った無水カレーを作って、一緒に食べて。
洗い物を終えてから、スマホを片手にラッピングを――その途中もシェリーさんからはずっと好奇心旺盛な目で見られた――して。最初から最後までネタバレもいいところのチョコ作りを終えて、再び冷蔵庫に入れる。
一応、
◇◇◇
「さ、ハンナさん、寝ましょう」
シャワーを浴びてから部屋に戻ると、シェリーさんがわたくしのベッドの中に入っていた。
――いえ、もういつもの事なので別に今更何という事は無いんですけど。ええ。
「あったかいですよ」
ぽんぽんと布団を叩いてわたくしの方を呼ぶ。
シェリーさんの部屋にもベッドはあるでしょうに、今となっては完全に物置になってるのは果たしてどうなんでしょうね、と思う。別にシェリーさんがいいならいいのですけれど。
「ハンナさーん」
ぽんぽん。
やってることは飼い犬のそれ。無視し続けたら今度はシェリーさんが力づくでベッドに運ぶことになるから、結局結果は同じこと。だったら自分で入る。
既に寝間着には着替えているし、歯も磨いてる。明日は休みだから予習の必要も無い。
「はいはい。言わなくても入ってやりますわー」
ベッドに近づくにつれて、シェリーさんのにんまりとした顔がより深くなるのが分かる。
シェリーさんが上げてくれた布団の中に潜り込むと、先にシェリーさんが入ってくれていた
シェリーさんのせいで布団の中が温かくて。更にはシェリーさんが抱きしめてくるせいで無駄に体温が上がってしまって。シェリーさんのせいで心臓がうるさくて交感神経の方が働いてしまっている。
どれもこれもシェリーさんのせいなのだけれど、心も身体も落ち着かないのも、初めのうちだけ。シェリーさんの体の柔らかさや体温を背中に感じているうちに、次第に心臓の音も気分も落ち着いてくるのが分かる。
――慣れってのは、怖えーもんですわね。
――…………でも、温かいのは。…………落ち着きますね。
そう、思いながら、今日も静かに目を閉じて。
「おやすみなさい、ハンナさん」
大好きな人の囁く声を、聞いて。
意識はゆっくりと、閉じられていった。
◇◇◇
「ん…………ぅ…………」
目が覚める。カーテンは薄ぼんやりと明るくなっていて、朝になっているのが分かる。
背中にはいつも通り大好きな人の温度を感じて、お腹にはいつも通り恋人の手の感触があって。また抱き枕にされてんですのね、わたくし……といつもの感覚を覚えながら、枕元に置いたスマホを取ろうと、して。
――あら?
何やら指に別の感触があった。いつもの感じ方とは違う、少し硬い感覚、が――。
頭を向ける。四角い箱がスマホの上に置かれているのが見えて。
「ハンナさん。好きです」
「――――――」
それを認識した瞬間、囁くような声が聞こえてきて、心臓が跳ねた。
「世の中には義理チョコだとか友チョコだとかそういうのもあるらしいですが。シェリーちゃんのはまごうことなき本命、ですよ」
「…………――――――」
頭を向けるまでもなく、頭の後ろにはしたり顔をした恋人がそこにいるんだろうな、と思う。
そこまで言うのだから、指の先にある箱がなんなのかは、言うまでもないと思う。
この人は、今週どころか先週もまったく何も準備だとかをしてるようには見えなかったのに。昨日の買い物だって、何かを買っているようには思えなかったのに――。
「世の中には、通信販売という便利なものがありまして」
心の中を読んだような声が聞こえてくる。
「私はハンナさんみたいに器用じゃありませんし、自分でチョコを作れもしません。でも、私もハンナさんにチョコを贈りたかったんです」
だとか言い終わった後、シェリーさんは抱きしめる手に力を込める。
痛くもなくて、抜けだそうと思えばできるくらいの、心地いい強さ。後頭部に感じる擦られる感覚と、何やら鳴き声のような何かは、シェリーさんが背後で何をしているのかというのがはっきりと分かった。やってることは、やっぱり犬のそれ。
シェリーさんにすりすりと額を擦りつけられながら、考える。
――先を越されてしまいましたわね、と。
わたくしがチョコを作ったのは、昨日。昨日の間で準備している様子が見えなかったとすれば――わたくしが準備するより前に、既にこの人は準備していた、ということで。
こんなことなら、日付を跨いだ直後に――とも思ったけれど、シェリーさんがわたくしをベッドに連れ込んだのは十一時前。ベッドの中でいちゃいちゃしてたにしても、日付を過ぎた頃にはもう既に夢の中だった。
それも含めてこの人の作戦のうちだったのかと思うと。――――この自称名探偵に、してやられたと思う。ちょっとだけ悔しい。
冷蔵庫にある物をただあげるわけじゃなく、机の引き出しの中にある、シェリーさんへのあれこれをしたためた手紙も渡すつもりだったのだけれど――。先を越されてしまったら、どうあっても後出しでしかない。
とはいえ、手紙の方はネタバレしていない方だから、チョコと一緒に封筒も渡したら――この人は、どんな顔をして驚くんだろうな、と思う。
目を丸くするんでしょうか。思考がフリーズして硬直するんでしょうか。それとも、珍しく照れた顔をしてくれるんでしょうか――。
「…………はぁ、そうやって先手を取るの、ズルですわよ」
「えへ。ハンナさんよりも先に渡したくって。ハンナさんが大好きっていう私からの気持ちです!」
まっすぐに好意を伝えてくる貴女に。
大好きな人にやられっぱなしのわたくしではいられないから。
「ちょっと、待っててくださいまし」
お腹の前で組まれている手を撫でて、解放されてから、ベッドから降りる。
振り返る。
わたくしの恋人は、シェリーさんは、まるで。
――さぁ、ハンナさんは何をしてくれますか?
そう言いたげな顔をして、目をきらきらとさせて、お預けをされた犬みたいにベッドの上に正座している。
――さて、この人にはなんて言って渡しましょうか。
――そのままそっくり返すのがいいんでしょうかね。
――シェリーさん、好きです。って。
わたくしの初めてのバレンタインのチョコを、大好きな人にどうやって渡そうか。
それを考えていたら。勝手に口元がゆるむ気がした。