「ハンナさん、好きです」
いつものように、少しだけ狭いベッドの中。
シェリーさんの声が、小さく、静かに、聞こえて来た。
◇◇◇
四月一日。春休み真っ只中。
本来であれば次の学年の準備やらに使うであろうこの時間を、わたくしたちは相変わらずこれまでと同じように過ごしていた。
朝一番に、シェリーさんに『ここに行きたいんですがどうでしょうかハンナさん!』と飛びつかれながら言われて、答えを返す前からシェリーさんの中では行くことに決まっていて、結局は一緒に遊びに行く。というだけの、これまでと同じような休みの日。
外歩きを――そして人が多い所は、歩いているだけで疲れるけれど、シェリーさんも気遣ってくれるのか、休憩する時間を作ってくれるし、「ハンナさん、疲れてませんか?」だとか『疲れたらいつでも言ってくださいね。お姫様抱っこで運びますから』だとか声をかけてくれる。――後ろのは余計だけれど、シェリーさんはいつでも本気らしい。本当に止めてほしい。
そしてほどよく遊び回った日の夜。ご飯を食べて、シャワーを浴びて。さぁ寝る準備をしましょう、と思っていると、シェリーさんが部屋にやってきた。
さぁ寝ましょうハンナさん! と言いたいのではないということは、手に持ったもので、一目で分かった。
にっこにこの顔をしたシェリーさんが、むふん、と息を吐いて。
「ハンナさん。一緒に映画見ませんか?」
そう言ってわたくしに見せてきたのは、DVDのパッケージ。タイトル文字は全部見れなかったけれど、アニメだったりドラマだったりと種類は豊富なようだった。
「映画ぁ…………?」
「はい、映画です。ハンナさんと見たくなっちゃいまして」
今日の外歩きで、シェリーさんの好奇心が何かに引っかかったんでしょうか、と思う。
いつでもシェリーさんの提案は突然。でもそれは、決して不快じゃないし。シェリーさんとなら――と思えてしまう所も、ある。
とは、言え。
ちらりと時計を見る。十時を少し過ぎた辺り。
当たり前だけれど、映画というのは三十分で終わる番組などとは違うわけで――。
「これから見たら、深夜になりますわよ」
「えー? リビングにポテチも飲み物も準備しましたからー。見ましょうよー!」
「だぁっ! くっついてくんなー!」
シェリーさんは子どもみたいに甘えてくるしくっついてくる。あといじけたような声も出してくる。どうしてもわたくしが『はい』と言うまで放さないというのは、一年間一緒にいる中で嫌ってほどに分かってる。
つまりは。わたくしの返せる返事は。
『はい』か『YES』のどちらか、ということで。
「ハーンーナーさーん」
「ああもう分かりました! 分かりましたから!」
「わぁい! ハンナさん――」
『はい』の方の返事をすると、途端にシェリーさんの拘束は解ける。いじけた声はもうどこにもない。子どものような、にっこりとした笑顔を見せるシェリーさんが見えた。
そして何かを言おうとしたのか口を開いて、そして――口からは続きは何も出なかった。
「…………ハンナさん、ありがとうございます! で、何見ます? コ○ンにします? 金○一にします? それとも相○にします?」
「分かってましたが、マジでブレねぇですわね…………」
嬉々としてパッケージを見せてきて、お勧めポイントやネタバレにならない範囲の解説をしてくれるシェリーさんに、ほんの少し見えた違和感は気づけばどこかに飛んで行っていた。
◇◇◇
「どうでした? ハンナさん」
――途中で止めて『また明日見ましょう』ともできたのに。
結局、最後まで見てしまった。今テレビ画面には、エンドロールが流れている。
頭の上から、シェリーさんの声が降ってくる。後頭部には、シェリーさんの体が当たる感覚がある。お腹の前には、シェリーさんの手の感覚。――つまり、そういう体勢、ということで。
途中まではクッションに座って、並んで見ていたはずなのに。シェリーさんが突然身体を引き寄せてきて、抵抗できないままに身体の前に座らされて。前に抱きかかえられながら映画を見ることになって。
――そりゃあ回る頭も回りませんわよ。
そう言いたかった、ものの。
「お話自体は、面白かったですわ。謎の部分はさっぱりでしたけど」
「そうですかー。楽しんでくれてたらよかったです」
どこか不安げな声をしていたシェリーさんの声は、途端に弾むものになる。かと思えば、シェリーさんは立ち上がって、テーブルの上を片づけ始めた。
「それじゃー私はお菓子とかを片づけておくので、ハンナさんは寝る準備しちゃってください」
「わたくしも手伝いますわよ」
「私がわがまま言ってハンナさんに付き合って貰ったので! このくらいやりますよー」
だとかの声と共に、ぱたぱたとキッチンの方へ。そしてすぐに水が流れる音。コップを洗ってくれているようだった。
「じゃあ、お願いしますわ。…………ふぁ」
シェリーさんのお言葉に甘えて、歯みがきをして、ベッドに入って。
その後、当たり前のように、シェリーさんがベッドに潜り込んできた。
――もう今更なのでいいんですけどね。ええ。
時計を見る。蓄光式で、時計の針だけは薄ぼんやりと光って見える。
二つの針が、もうすぐ真上で重なろうとしていた。
「もう日付跨ぐじゃないの……」
「いいじゃないですかー、たまには。折角の春休みなんですし」
思わず出てしまった声に、頭の後ろからシェリーさんの声が返ってくる。シェリーさんを悪く言うつもりは全然無いのだけれど、そう聞こえてしまったら嫌だな、と思っていたから、普段通りの返事が来て、胸がほっと落ち着く思いがした。
「別に明日も早起きしなきゃいけないわけじゃねーですけどね? 私たち春休み中の高校生ですのよ? もうちょっと節度のある生活を――」
「ヒロさんみたいに言わないでくださーいー」
いじけるような声をして、それからふふっと笑う声。続いて、背中から回される手が、きゅっと抱きしめられる感覚。
声でも、仕草でも。シェリーさんが甘えてきているのが、全身で分かった。
「あ」
すり、と後頭部でシェリーさんの頭が動く音がしたかと思うと、微かな鳴き声が聞こえて。
「ハンナさん、好きです」
そして突然、愛の告白が聞こえて来た。
「なん、ですの。急に」
「言いたくなっちゃいまして。ハンナさん、大好きです。ずっと一緒にいてください」
「――――…………なん、なんですの」
学校の中ではともかくとして、家の中では息をするように、好きです、だの愛してます、だのキスしていいですか? だの言ってくるシェリーさんだから。一緒に寝る時に言うのはそんなに違和感も――と、思って。
「………………」
いや、違和感。今日を思い返したら、すごく、違和感。
――今日、シェリーさんから、言われてない。
わたくしがシェリーさんに愛されてないだとか自惚れるつもりはないし、言われてないからといって悲しんだり怒ったりするほど面倒くさい女でもない――と思ってる。
問題は、言われてないことよりも。今日家に帰ってからのシェリーさん。
映画を見ると決めたときに、シェリーさんが何かを言いかけた。ほんの少しの言葉のつっかかりでしかなかったけれど、思い返せば大きな違和感。
そして今は、これまでの鬱憤を晴らすかのように言ってくる。
シェリーさんが小さく『あ』と鳴いたとき。時間はどうだったか。
そして昨日は、何の日だったか。
……もしか、して。
――色々と考えるようになったのは。絶対に、間違いなく、この人のせいなんだろうなぁ、と思う。シェリーさんに勧められて推理小説を読んだ冊数は、もう両手両足の指の数じゃきかなくなってるから。
映画を見るとき、いつもは流れるように好きだと言ってきたシェリーさんが、言ってこなかった。
「シェリーさん」
ちょっと、鎌を掛けてやりましょうか、と思った。
「今日は何日でしたっけ? ああ、日付が過ぎる前のことですわ」
「四月一日、年度が変わる日、ですねー。私たちも春休みが終われば二年生ですよ。月日が経つのは早いですねぇ」
「おばあちゃんみたいなこと言わないでくださいまし。――あと、何かあるのではなくって?」
「ああ、そっちですか。エイプリルフールですね。嘘を吐いても許される日、ですね」
自覚はあり、と。
クリスマスや大晦日はポスターでイベントのことを知るけれど、エイプリルフールはそうもいかなくて。話題にも出なかったから、思い出したのもさっきのことで。
「シェリーさん、何も言わなかったですね」
「私、ハンナさんに嘘ついたことありましたっけ?」
「ふざけたことならいくらでも」
「そういうことじゃなく~」
分かってますとも、シェリーさんが一度たりとも、わたくしに嘘を吐いたことはないということは。
シェリーさんが嘘をつける人ではない。
のなら、今日のシェリーさんの違和感は、逆の意味で――――。
身体を半回転。シェリーさんと向かい合う。
シェリーさんはほんの一瞬目を丸くして、それから嬉しそうな顔になる。
「ハンナさん、キスしていいってことですか?」
「ちげーですわよ。後でやんなさいな」
――キスするのは嫌じゃないけど、今はちげーんですわよ!
言ったら話が変なところに行くから、言わないでおく。
シェリーさんの方を向いたのは、表情をしっかりと見るため。シェリーさんの目は、口以上に語ってくれるから。
「んで。なんで今更わたくしに好きだのなんだの言い始めたんですの? シェリーさん」
「私がハンナさんを大好きってことはいつ言ってもいいと思うんですけどねー」
にへ、と笑うシェリーさん。その直前に、瞳が揺れたのを見逃さない。
「正直に言いなさいな。――言わないと、わたくし、キスしないで寝ますわよ」
「…………」
シェリーさんの顔が、しゅん、としたものになったのがはっきりと見えた。シェリーさんに耳や尻尾があったのなら、ぺたんと垂れてしまうのでしょうと思えるくらいに。
「それは、困ります。…………分かりました。言います、言いますから。――ハンナさん、鋭くなりましたね」
「誉め言葉として受け取っておきますわ。で、なんなんですの? 今日の貴女、思えば思うほど違和感の塊でしたわ。朝から、晩まで」
んー、と鳴き声を上げて、そして頬を掻いて。何回か目を合わせては逸らして。言いにくい事を思っているシェリーさんの仕草を一通りこなして。
言いにくそうに、言う。どこか、笑顔を貼り付けた顔で。
「今日、正確に言えば昨日ですけど、エイプリルフールじゃないですか。シェリーちゃんはいい子なので、嘘を吐こうとしても嘘を吐けないんです。
声の調子はいつものシェリーさん。でも視線は、意識は、どこか遠くを見て言ってるように思えた。
「なんか、やだなぁって、思っちゃったんです」
「なにを、ですの?」
「シェリーさんは、嘘を吐きません。……けど、この日って、そういう日ですから、言ったことが嘘か真か、分からないじゃないですか。ハンナさんに言ったことも嘘みたいになっちゃうのが、なんか、やだなぁ、って思っちゃいまして」
そう言ったあとに、『えへ』と、儚げに笑って、そしてシェリーさんは告白を終える。
「…………」
――ほんっと貴女、しょーもねーことを気にする人ですわねー。
脳内のわたくしじゃなく、わたくし本人が、そう思った。
煽ろうとしてる訳じゃなくて、どっちかと言うと、何というか。……シェリーさんも大概ですわね、と思う。そういうのは、わたくしが気にする側だと思うんですけどね、と。
「貴女が嘘をつけない人だってのは、わたくしが、そりゃもう
「…………」
シェリーさんの目の動きが止まって、少しまん丸なものになって。
「ま、もう過ぎちゃいましたけど。――来年は気にせずに言いなさいな。わたくしが全部、受け止めますから。……ああ、本当に嘘言ったら、怒りますわよ」
「…………、――――分かりました!」
そして、笑顔になって、頷いて見せた。
――シェリーさんは、一体何を『分かった』んでしょうね、と思っていたら。
シェリーさんの手が、わたくしの後頭部に触れる感覚があって。その手に力が入る感覚があって。額に、柔らかい物が、触れて。
「ハンナさん、大好きです」
――どうせそっちでしょうね、と思った。
――やっぱりそっちなんですのね、と思った。
――シェリーさんらしいですわね、と思った。
額に、鼻の頭に、頬に、手を取って指先に。
一日言わなかった分を、言葉以外で、してくる。
鬱憤を腫らすように、といえばいいのか、我慢した分の反動、といえばいいのか。
どっちか、と言えば、きっとどっちもなんだろうと思う。
そして。
シェリーさんのこれは、もう少し続くんでしょうね、とも思った。
「ハンナさん」
静かに、わたくしの名前を呼ぶ。
ゆっくりと目を細めて、自らの唇に、人差し指を当てる。
――私には、してくれないんですか?
一日、言葉にして言わなかっただけで、相当甘えんぼになったシェリーさんに。
わたくしは――――。
4月1日はエイプリルフール。
でも、シェリーちゃんはハンナちゃんに嘘を吐けないし、ハンナちゃんも同じくだと思っています。
そんな能動的に嘘は吐けない二人のエイプリルフールの模様を想像したら、こんなお話ができました。