――気まぐれだった。本当に、ほんの気まぐれだった。
「えへ。ハンナさん、ハンナさーん」
お昼にさんざんっぱら甘えまくってきて、それでもしばらくしたら飽きるでしょうと思ったら、夜になってもシェリーさんは変わらなかった。クッションを背にして壁によりかかるわたくしに、シェリーさんは文字通り体をくっつけてくる。
わたくしの胸に頭を載せて、すりすりと頭を擦りつけて。手は背中に回されてぎゅうっと強く抱きしめて。わたくしの名前を、頭のてっぺんから出ているような声で、何度も呼ぶ。――一応言っておくと、別にシェリーさんにアルコールを飲ませただとか、そういうのは決して、ない。シェリーさんは素面なのは、わたくし自身が証明できる。
甘い声で名前を呼ばれる度に。わたくしの体を抱きしめられる度に。シェリーさんの頭がわたくしの胸に擦りつけられる度に。胸の中に、じんわりとした温かさが宿って、それがどんどんと大きくなっていく。ほどよく寒い日のはずなのに、暖房なんていらない。外側も、そして内側も。シェリーさんへの愛おしさでぽかぽかと温かい。
息を吸えばシェリーさんの匂い。手にも身体にもシェリーさんの温かさを感じる。
シェリーさんが甘えてくることは、あった。でもこんなに甘えてくることはなかったから。
嬉しいというかくすぐったいというか。勝手に頬は上がるし口は緩みそうになるし。心臓がドキドキしてるのは、きっとシェリーさんに伝わってるんだろうと思う。実際そこに頭が当たってるわけなのだし。
すりすり。額を擦られる感覚。くすぐったい。でも、気持ちが悪いわけじゃない。むしろ、気持ちがいい、まである。言わないけど。
シェリーさんが愛おしいなって思う、可愛いなって思う。大好きだなって思う。嬉しいが爆発しそうになる。
「ハンナさん」
シェリーさんが今日何十回目かの、わたくしの名前を呼ぶ。にこにことした顔は、貼り付けた笑顔ではなく、温度の通ったもの。また一つとくんと心臓が鳴るのを、きっとシェリーさんは分かったんだと思う。
じぃっとわたくしの顔を見つめるシェリーさんの目は、何かを訴えているような、くりくりとしたもの。――とは言っても、今日散々やったのだから、もうシェリーさんが求めることは分かりきっているのだけれど。
シェリーさんの頭には当然ながら帽子もない。だから手を伸ばせばすぐに頭に手が届く。
シェリーさんの頭に、手を載せる。ぽふ、と温かい温度が手に伝わる。シェリーさんの目がくすぐったそうに細められる。載せたまましばらく、シェリーさんの目が再び開いて、わたくしの方を再び見てくる。『撫でてくれないんですか?』とその目は語る。
吹き出しそうになるのを抑えて、なんとか抑えて、シェリーさんに目で返す。『なんでそう、今日の貴女は甘えんぼうですの?』それと同時に、手を動かし始める。
シェリーさんの髪の毛は、さらさらで、ふわふわ。ずっと触れていたくなる、気持ちのいい髪の毛。これを牢屋敷の頃からずっと、わたくしが独占しているということが、嬉しいような、くすぐったいような、それでもって、誇らしいような、そんな気さえする。
「えへ。ハンナさんに撫でられるの、とっても気持ちいいです」
緩みきった声で、緩みまくった顔で、嬉しいを表現するシェリーさん。嬉しいが伝播して、こっちも顔が緩んでしまうのが分かる。
「ハンナさーん。ほめてくださぁいー」
そして撫で続けてしばらくして、それはそれは甘えまくったシェリーさんの声。
――ほんっと、今日の貴女は甘えんぼうにも程がありますわ。
そう胸では思いつつも、大好きな人に甘えられて、好意を向けられて、嬉しくない人なんていないわけで。つまり今のわたくしは、嬉しいで満たされていっぱいというわけで――。
「はいはい。シェリーちゃん可愛い大好き、えらいね、すごいね、天才」
「――――――えへへへへ」
緩んだ顔を更に緩ませて。口からはもう抑える気も無い『嬉しい』を漏らして。
シェリーさんは、わたくしの体に、もっとくっついてきた。
わたくしはと言えば、そんなシェリーさんに甘えられたまま、右手でスマホを操作。シェリーさんと次の休みにどこへ行こうかと。シェリーさんが今日のままだったら、ちょっと大変だなと、そう思いながら――。
◇◇◇
きっかけは、なんだったろう。
特になかった、かもしれない。
――わたくし、シェリーさんを思った以上に褒めていないのかもしれませんわね……。
食器を洗っている途中に、ふと、そんなことを、思ったのは。
――『ハンナさん、褒めてくださいよー! 「シェリーちゃん可愛い大好き、えらいねすごいね天才」って!』
――『だれが言うか!』
そんなやり取りを、何回繰り返したか分からない。牢屋敷の中ではもちろんのこと、こっちに戻ってからも、シェリーさんは褒めて褒めて! と言ってきた。
果たしてわたくしは、その言葉を言ったことがあったかと言えば。…………一度、あったな、と思う。わたくしが知らない、わたくしの記憶の中で。
――『一度くらい、褒められたかったなぁ……』
シェリーさんの後悔の言葉を、懺悔の言葉を、あっちの世界で聞いた。それまでのシェリーさんの頑張りを見ていたから、『あちらでのわたくし』は、シェリーさんを抱きしめながら、褒めて、頭を撫でて、そしてシェリーさんが満足するまで、褒めた。
それ以外で、シェリーさんをそう言って褒めたことは、とお皿を洗いながら記憶を辿って辿って。結論。
――あら? つまり、わたくしが、シェリーさんを褒めてあげたことは、そんなにない、のでは……?
そう、思ってしまった。
別にシェリーさんとの関係が悪いというわけでもないし、今一緒に暮らしていることに不都合はないし。シェリーさんが一緒にいてくれる生活は、幸せで、楽しい。
だけど。『好きです、ハンナさん』と、きちんと口にしてくれるシェリーさんに対して、わたくしは――それに応えてあげられていないのも、事実。
だから、わたくしは――。
「ハンナさんハンナさん、洗濯物干してきました!」
だなんてことを考えていたら、シェリーさんが部屋に飛び込んできた。シャリーさんには、リビングの先にあるベランダで、洗濯物を干すのをお願いしていた。一方のわたくしはと言えば、家事の分担で食器を洗っているところ。
「破ったりはしてねーですわよね?」
思わず、懐かしさでそんなことを言ってしまった。初めての裁判が終わってからというもの、二人で多くの洗濯物を洗っていたから。シェリーさんは経年劣化でボロボロになったもの以外は綺麗に干していたというのに。
「もちろんでーす!」
にこにことしながら、シェリーさんはキッチンのわたくしの元へと駆けてくる。その様子はさながらわんこのようで。
「ハンナさん」
口元を結びつつ、笑みの形にしたシェリーさん。その目は何かを期待しているかのような、わくわくとしたものになっていて。
――言ってきそうですわね。
直感的に、そう思った。
「見事に洗濯物を干してきたシェリーちゃんに、シェリーちゃんか「わいい大好き、えらいねすごいね天才」
予想できていたものを返すのは、わけないこと。だから重ねて言ってみた、のだけれど。
「………………へ」
当の本人は、その一言を最後に、動きが固まった。
表情も、動きも、全部。まったく動かなくて、時間が止まったかのようにも思える。
「…………シェリーさん?」
呼び掛ける。返事はない。目の前で手を振る。ハッとした動きと共に、シェリーさんの目に再び光が宿った。マジで放心していたようで。
「あ、ああ、すみません、ハンナさん。ちょっと言われたのが信じられなくて」
「はぁ……貴女が言ってんですのよ? 『褒めてくださーい』って。そんで褒めたら固まるとか、貴女なんなんですの?」
思わず出たため息は、どちらかと言えば、やれやれ感というか。
――シェリーさん、飄々としているようで、以外と押しに弱いというか、予想外のことをされるとフリーズするんですよね……。
なかなか見ない姿なだけに、以外だな、と思う。
てっきり、シェリーさんのことだから。満面の笑みになって『褒めてくれたんですね!』と抱きついてきたりするかと思ったのに。
「…………ええと、夢かなぁ、と。ハンナさん、ほっぺ引っ張ってもらっていいですか?」
「マジで言ってますの貴女……」
冗談かと思ったら、本当に顔を向けてきた。手を出さないでいると『さぁ』と催促してきたから、少し強めに引っ張ってみる。
「ひひゃひ、へふへぇ…………」
引っ張った状態でしゃべったものだから、変な声になって聞こえた。
シェリーさんはやっと夢じゃないことが分かったようで、頬に触れながら、その顔がじわじわと笑みの形になっていくのが見えた。
「……ハンナさん」
先ほど聞いた呼ぶ声よりも、どこか弾んだようなその声。いつものシェリーさんの声だな、と思う。呼ばれるだけで胸がときめく、大好きな人の、大好きな声。
「もう一回褒めてください」
くりくりとした目で、まっすぐに見つめて、言ってくる。
好奇心を刺激されたときの、大好きな人の目が、まっすぐにわたくしに向く。
わたくしはその顔に――どうしても、弱いのだと、思う。
「えー? 同じ言葉で褒めても意味ねーですわよ」
「お願いします」
「しゃーねーですわねー。シェリーさん、可愛い大好き、えらいね、すごいね、天才」
その後に何か付け足そうと思ったけれど、たぶん今のシェリーさんには蛇足だと思った。
「…………えへ」
くすぐったそうにはにかむ
「好きな人に褒められるのって、嬉しいんですね。…………でも、どうしてでしょう。ハンナさん、今まで頑なに言ってくれなかったのに」
嬉しさを抑えきれない顔のまま、シェリーさんは首を傾げる。器用ですわね、と思う。わたくしなら嬉しいに溢れて、その後のことをまともに考えられなくなるというのに。
思考の切り替えが上手なのが、名探偵の由縁なんでしょうか、と考える、けれど。シェリーさんが名探偵かどうかは、今のところは置いておくことにする。
ひとまず、今は、シェリーさんの疑問に答えることを最優先。
「たまには、シェリーさんを褒めてやってもいいと思っただけですわ」
――いつも、思ってることではありますもの。
後ろの言葉は、どうしても出てこなかった。
褒めるとシェリーさんがつけあがるとか、そういうのでは決して、ない。
――改めて口にするのが、恥ずかしい。
そんな子どもっぽい理由がずっと続いていることが、恥ずかしかった。それだけ。
実際、今。すっごく、ドキドキしてる。シェリーさんに悟らせないようにしているけれど、内心、どっきどき。顔に力を入れてるし、声が上ずらないようにするのも頑張っている。
これまでは、これまで。
でも、もう、それは解消。
やっぱり、思ったことは、口にしないと。そして何より――褒められて嬉しそうなシェリーさんを見ると、こっちまで幸せな気持ちになるから。
これからは、積極的に、褒めてあげよう、と。そう思った。
――そういえば。
ふと、スマホの漫画アプリでココさんからのお勧めのものを見ていたとき。『夫婦円満の秘訣はお互いをちゃんと褒めること』だとか書いてあった気がする。
「………………」
それは、たぶん意識の外だったんだと思う。
でも実際の、それは正しかったのかも知れないと、今も照れが抜け切れていないシェリーさんを見て思う。
「えへ」
シェリーさんが照れるのを見て、釣られて、こっちも、嬉しいが伝わって、照れてしまう。胸のドキドキが、余計に大きくなってしまう。
表に出ないように、表に出ないように。
シェリーさんが照れているうちに、食器を全部拭いてしまおう、と布巾を取ったところ、背後からシェリーさんの気配。
振り返ると、ほんの少し屈んだシェリーさんが、私の方をうずうずとした目で見上げていた。
『褒めてくれたついでに、頭も撫でてください』
シェリーさんは何も言わない。でもその目は、はっきりと、一次一句間違いなく、そう言っていた。
シェリーさんに尻尾があったのなら、ぶんぶんと左右に振れているだろうなということが、はっきりと分かった。
シェリーさんはどれだけ頑張ったのか、洗濯物を干し終わっている。
その一方でわたくしは――シェリーさんを褒めてないですわね、という思考が少しばかり手が止まってしまい、まだ皿洗いの途中。
そんな中で、わたくしは――。
「…………ったく」
ため息一つ。
シェリーさんには、それだけで伝わったのだろう、頭をよりわたくしの方へと向けてくる。
濡れた手でシェリーさんの頭を撫でるわけにはいかないから、手を拭く用のふきんで手を拭いて、そして。
――言葉で褒めてやって、こっちで何もやらないのも不公平ですわよね。
そう、自分の中で言い訳をして。
両手で思い切り、シェリーさんの頭をわしゃわしゃと撫でる。髪の毛が乱れることは気にしない。どうせ整えているのはわたくし。髪が乱れたのならその後で直せばいい。
だから思い切り、わしゃわしゃ。
シェリーさんはわたくしの手の動きに身を委ねて、前後左右に頭が動く。そしてしばらくして、『きゃーっ』と嬉しそうな声を上げた。
――犬か何かですの? まったく。
今日のシェリーさんのわんこ化が著しいと思う。褒めてやったら、本当にぶんぶんと尻尾を振ってきて。
でも。これまで褒めてやらなかったのは、わたくし自身。
しょーもない理由で褒めてこなかったのは、わたくし自身。
だから、これからは、思いっきり、無制限で、遠慮無く――あとついでに夫婦円満のために――思い切り、シェリーさんを褒めてやりましょう、と思った。
◇◇◇
そして今も、現在進行系でシェリーさんはわたくしに甘えまくっている。
愛おしいと思うし、シェリーさんが可愛らしいと思う。可愛いと思う。大好きと思う。偉いかすごいか天才かと言われたら、この緩みきった様子を見るとそれは言えるか分からない。
「ハンナさん、このまま一緒に寝ちゃいましょうか。今ならいい夢が見られそうです」
「なにおバカなこと言ってますの。布団に入りますわよ」
「一緒に寝てくれるんですか?」
「…………」
失言だったと思う。流されて出てしまった言葉だと思う。
シェリーさんの疑問形の言葉は、疑問じゃないことが多い。今回はそっちの方。確認の意味合いで聞いてくる。『何か、間違ってますか?』が『間違ってないですよね』の意味であることと同じように。
まぁつまり今のわたくしは。『布団に入る』をシェリーさんと一緒に寝てもいいというニュアンスが含まれる言葉で言ってしまったわけで。
――シェリーさんと一緒に寝たくないか、と言われたら。寝てやってもいい、と思う。
毎日一緒に寝ている訳じゃないのだし、
……とはいえ。それはそうとして。シェリーさんのうずうずとした顔を前にして、それを口にできるかと言ったら、別問題で。
「………………ばか。…………言わせんじゃねー、ですわよ」
「――――――えへ」
シェリーさんはわたくしの身体を抱きしめる力を強く強くする。痛くはないけど割と苦しい。でもこれがシェリーさんが全力で甘えてくれる証拠だから。少しくらいは我慢してやることもやぶさかじゃねーですわね、と思――。
「よっ、と」
かと思ったら、シェリーさんがその態勢のまま、わたくしを持ち上げた。ほんの一瞬、足元の支えがなくて不安定だな、と思った途端に膝裏に手が回される感覚。
――この態勢は。…………その。お姫様抱っこというものではなくって?
シェリーさんの顔がすぐ近くに見える。かと思いきや、シェリーさんはわたくしに顔を近づけてきて、額に、口づけを落としてきた。
ちゅっと音がして、柔らかい感触が離れて行く。にこーっとしたシェリーさんが見える。
「……なにすんですの」
「おやすみのキスですね」
「まだはえーですわよ」
「もっとやっていいってことですか」
「…………ばか。へんたい。キス魔」
「誉め言葉ですね。ありがとうございまーす」
軽口を叩きながら、シェリーさんはわたくしの部屋へと入り、そして優しくベッドへと下ろす。寝かせた態勢になったと思った途端、シェリーさんの体が、わたくしの隣へ。
ギシ、とスプリングが軋む音がしたのと同時、わたくしの身体が温かいもので包まれる。――前の方限定で。
つまりは。――いつもの態勢、ということで。
「ハンナさんの身体、ぽかぽかです」
「だからわたくしを抱き枕にすんなー、ですわ」
「だってぇ」
シェリーさんの声は相変わらずふわふわとして、甘いもの。耳から入る優しい声の姓で、指摘の声すらも笑みが浮かんでしまう。
「ハンナさんをぎゅーするの、気持ちがいいんですもん」
「シェリーさんがするんなら、わたくしもやってもいいんですわよね?」
シェリーさんの体を抱きしめ返す。身体に感じていたぽかぽかが、より温かく感じる。シェリーさんから漂う匂いで、余計に落ち着いてくるのが分かる。
寝る時の抱き枕は睡眠に丁度いい。
そう聞いたことがあるけれど。――確かだな、と思った。
今日のシェリーさんは、いつも以上に甘えたがりだった。
今日が休みの日でよかったと思う。学校の日だったら――色々と大変だったろうから。
「んー」
シェリーさんが私の頭にあごを載せている感覚がある。見えないけど、頭のてっぺんに感じる圧力からすると、きっと、そう。
明日もそうなら、シェリーさんに『待て』と言わなきゃいけないと思う。
シェリーさんというわんこの手綱を握るのは、生半可なことじゃない。
顔が熱いし心臓はうるさいし。
でも。どうしようもなく、落ち着くな、と思えてしまった。
ハンナちゃんに思い切り甘えるシェリーちゃんが見たかったので書きました。
ふにゃふにゃ甘えモードのシェリーちゃんと、甘えられるのもまんざらではないハンナちゃんの光景を部屋の壁になってずっと眺めていたい。